酒と吉田とお悩み相談
「三浦、みーうーら」
急に声を掛けられて目が覚める。一瞬なぜ声をかけられたのかわからなくて、重い瞼を開けながら声の主を見ると、吉田さんが僕を見下ろしていた。そうだ、昨日あまり眠れなかった僕は昼休みを利用して食堂脇の長椅子で仮眠をとっていたのだった。
「最近どうした?三浦にしては珍しく仕事にも身が入ってないみたいだし」
吉田さんは僕の所属する部署に僕よりも5年早く配属されたベテランで、配属された当初はよく仕事を教わっていた。部署内の女性社員の中では1、2位を争う器量の良さだが、その男勝りの性格とクイズ王顔負けの知識量で無知な人間を嫌うため、32才となった今も独身のままだ。本人は「バカと結婚するくらいなら、広辞苑と結婚したほうがまし」とうそぶいている。吉田さんから見れば、僕もその『バカ』の仲間なのだろうが、僕のことは何かと気にかけてくれている。
「あれ、僕何かミスしました?」
「いや、ミスはしてないよ。今のところ」
僕が起き上がると、吉田さんは横に腰かけた。後ろに束ねた長い髪がふわりと揺れる。
「でも、このままなら絶対ミスするね。あたしが保証する」
一体なんの保証だと言いかけたが、すんでのところで止まった。確かに仕事中も篠原のことが気がかりで身が入っていないのは自分自身がよく知っていた。
「なんか悩み事でもあるの?吉田さんに相談してみなさい」
そう言って胸をたたく仕草をする。こういう姉御肌なところが吉田さんのいい所だ。僕も仕事で悩んだときは必ずと言っていいほど彼女に聞いてもらっている。というか、悩み事があると必ず吉田さんに見破られると言った方がいいか。
仕事の悩みならばすぐに話せるのだけど、今僕が抱えている悩みは簡単に人に話せるものじゃないため、話してもいいものか迷う。しかし篠原から相談を受けてから、すでに1カ月も経っているのに遅々として進展しない状況を、吉田さんならその知識で簡単に打開してくれるような気がして、僕は思い切って話してみることにした。
「実は―――」
「ちょっと待って」話し始めた瞬間に出鼻をくじかれる形で言葉を遮られた。まさか止められるとは思っていなかった僕はわけもわからず開けた口を塞げない。
「その話、長くなる?」吉田さんは真剣な眼差しで僕の目を見る。僕は口を開けたままうなずいた。相当間抜けな顔になっていただろう。
「じゃあさ、仕事終わった後で飲みながら聞こう」
そう言って僕の肩をたたく。こういう自分勝手な所は吉田さんの悪い所だ。
仕事が終わった僕たちは小さなバーに来ていた。吉田さんの行きつけなのか、店内に入るとマスターが気さくに話しかけてくる。吉田さんは軽くあいさつをすると、カウンターの一番奥に腰かけた。僕も続いて隣に座る。
店内はカウンター席が5つと後ろにテーブル席が2つという小さなつくりで、気にならない程度の小さな音量でジャズが流れていた。僕たちのほかに客の姿はなく、相変わらず客が少ないね、と吉田さんがマスターに声をかけたことから、いつも客が少ないのだと簡単に想像できた。
「わたしは元々こういった落ち着いた感じの店を持ちたかったんですよ」とマスターが白い歯を見せる。白髪交じりの髪を後ろにまとめ、ひげを生やした面長の顔は、太い眉と切れのある目も伴って、堅気とは思えない気配をまとっているが、口を開くと一転、その穏やかな口調はマスターの人柄を表しているようだ。聴く者に安心感を与える川のせせらぎのような声に、目に見えるかのような優しさが漂っていた。
吉田さんはドライマティーニを僕の分と2つ注文し、なかなかいい店でしょ?と得意げな顔をする。僕はビールが飲みたかったのだが、逆らうことはせず、そうですねと答えた。
「で、何?三浦の悩み事」差し出されたドライマティーニを持ち上げ、乾杯する感じじゃないよね、と言いながら、吉田さんは本来の目的を切り出した。
「実は、仕事のことじゃないんですよ」
僕は篠原の名前は避けて、あくまで知人の話として、今回のことを話した。篠原から相談を受けてからの1カ月のことを、なるべく忠実に、なるべく客観的に。
「それで、三浦は一体何を悩んでいるわけ?」
話を聞き終えた吉田さんはわけがわからないと言った感じで、手を広げる。
「いや、だって、1カ月も経ってるのに、未だに〈元彼〉の特定も出来てないんですよ。ドアの一件もありますし、あんまり時間をかけるのも恐いじゃないですか」
「そんなの簡単だよ」と、人差し指を顔の前に立て、不敵に笑う。「要はさ、その〈元彼〉がどういうやつか確認出来ればいいんだよね?だったら」そこで吉田さんはドライマティーニを一気に口の中に放り込む。もう5杯目だ。心なしか目が据わってきたような気がする。
「まずは、被害を受けている女の子の家に行くでしょ?そしたら、なるべく大きい声でこういうの『オレと結婚しよう』って」
「なんでそうなるんですか?」あまりに突拍子もないことを言いだすので、もう吉田さんは酔っているのだと思った。だが、吉田さんはまじめな顔でとうとうと続ける。
「いい?なんでその女の子の行動が〈元彼〉に筒抜けなんだと思う?答えは簡単。女の子の家に盗聴器を仕掛けているからよ。だからこっちはそれを逆に利用するの。そしたら〈元彼〉はどうすると思う?」そう言って顔を近づける。まるでクイズを出して楽しんでいるようだ。
「どうって、どうするんですか?」
「〈元彼〉はその女の子をまだ自分の所有物だと思ってるんだから、結婚なんて許すはずないよね?完全に裏切りだもの。自分の女が他の男に取られるくらいなら、いっそ攫うか、殺すか、のどちらかしかないよねぇ。ってことは、近いうちに女の子の家に乗り込んでくるでしょ。その時に部屋にいればいいのよ」
吉田さんはまるで自分の考えに間違いはないと言わんばかりに得意顔を見せた。
「吉田さん、酔ってます?」
「だって、物語的にはこういう流れのほうが面白いじゃん」そう言って子供のような顔で笑った。僕が怪訝な顔を見せると、ごめんとあやまって「でも」と付け加える
「盗聴器は、たぶんあると思う。帰ってくるとすぐ電話があるのに、家の周りにはその姿がないってことは、音で聴いてるってことだよね。」
確かにその通りかもしれない。これまでどんなに張り込んでいても見つけられなかったのは、いなかったからだと考えれば合点がいく。だいぶ目の据わってしまった吉田さんの話をうのみにするわけではないが、その可能性は高かった。
「それと、これはあたしの考えでは五分五分なんだけど、たぶん〈元彼〉はその子の家の近くに住んでると思う。盗聴器って大体が電波を飛ばすタイプなんだけど、その範囲って思ったより狭いのね、だからいつも聴くためには近くにずっといなきゃならないでしょ?誰にも見つからない隠れ場所とかがあるんならいいけど、実際はそんな都合のいいものなんてないし、そしたら近くに住むしかないと思うの。その子の家の近くにアパートとか、マンションとかない?」
その言葉を聞いて息をのんだ。アパートと道を挟んで向かいに背を向ける形で建っている古いマンションがあったのを思い出す。コチラの窓からベランダが見えた、ということはアチラからも見えてるということだ。だいぶ空き部屋の多かったあそこならアパートの見える部屋にも簡単に入居できるのではないだろうか。
「あるんだ?」吉田さんは自分の推理を確かめるように訊く
「吉田さん。当たりかもしれないです」僕は寒気すら覚えていた。
「でしょ?どうよ。吉田さんの推理は。恐れ入ったか」
酔っていても知識量と頭の良さはさすがと言うべきか。吉田さんの言った通りに考えると全てが符合する気がした。
「もしできるんなら、今度盗聴器探してみな。今、盗聴器発見機っていうのも普通に売ってるから」
「はい。そうしてみます」
僕は自分でも驚くほどに快活に返事をして、グラスに残っていた酒を一気に飲み干した。少し気分が軽くなっているのを感じる。それは、吉田さんに相談したからとか、吉田さんの推理をそのまま確信したからとかではなく、一つの可能性を見つけたからだった。
「で――?」吉田さんが口を開けると同時に店のドアが開いた。反射的に振り向くと長身の男がマスターにあいさつをしている。マスターも、ああ、いらっしゃい岩崎くん。と親しげに言葉を交わす。彼もこの店の常連なのだろう。
「で?そのストーカーの被害にあってるのは三浦の彼女?」ぼうっと二人のやり取りを見ていると不意を突かれる格好で核心をつかれた。
「あ、やっぱりばれました?」僕は取り繕うことも出来ずに苦笑いをする。彼女に嘘をつきとおすのは難しいと、感心するしかない。
「でも、彼女じゃないんです」
僕がそう言うと、三浦は奥手だなと吉田さんは笑った。「結局、好きなくせに」