72:Nihil est miserum nisi cum putes.
(……なるほど、やはりそうか)
イグニスは思う。この子を連れてきて正解だったと。
「お疲れ、シルヴァン」
敵将の回復を行いながら、情報を盗み見た。記憶を失った空っぽな男なら、カーネフェル側も殺すのは容易いはず。シャトランジアとしても僕としても……もう双陸に用はない。この荷物は先の話通り、カーネフェルへと送り付けよう。
「思えば貴方も可哀想な人だ。でも、それがタロック人の、性なのかな」
タロックの血を引く僕の部下も、そしてあの王子様も。僕らの常識では理解できない頭と心の構造をしている。話しかけても、もう返事も返らない。そんな男を置いて、カーネフェルの騎士に発破を掛けてきた。
レーヴェさえ引き抜ければ、エルスが。エルスを攻略できたなら双陸も、懐柔できたかもしれない。その可能性を潰したのが他ならぬランス様なのだ。しっかり働いてもらわないと。人としては、彼にも憐憫を覚えるのだけど、生憎僕は人じゃない。この身体だって、普通ではないのだ。早々甘いことも言ってはいられない。
(そう、油断は出来ない)
双陸は、全てを知っていた。知りながら幻影の祖国を守り続けた。心がエルスに傾いたのは、彼が鬼にはなれなかった何よりの証拠。セレスタイン卿からもあの情報は奪っておいた。おそらくそれが表に出ることはない。偶像崇拝を求める民衆というのは、いつの世もいるものだから。本当のことを言ったところで受け入れられるか、理解されるかはまた別の話だものね。虚構の城と今を確かに生きて居る幼子。人は二度、同じ罪を犯せない。罪を罪と知りながら、それでもその愚行を繰り返すもの、それこそが鬼やあやかし、悪魔だろう。それならばこの僕は何なのか。化け物には違いない。
“あの秘密”は抜き取った。確信も得た。
やはり今回のゲームも、彼方は同じように動いている。警戒すべきは道化師の入れ知恵か。だが、此方にもまだカードはある。ああ、時間稼ぎならば僕らは出来る。
まだまだどうしようもないアルドール。未熟な彼が狩られてしまうことがないように、そのために僕は居る。
(僕も、“ギメル”もだ)
「僕はここだよ、アルドール」
一人きりの部屋、イグニスはひっそりと友人の名を呟いた。
自力で歩いているつもり?糸を切ってもまだ解る。まだ君は、こんなにも僕の掌の上。暢気に墓参り?違う。これで彼女との距離がまた縮まるだろう。それは僕が仕組んだことだ。それでも妙な気持ちになるのは、僕ではなくて、あの子の所為だ。
「だけど、僕は誰だと思う?」
君があの子に会いたいように、本当は僕だって彼女に会いたい。今でも思うよ。笑うあの子を、動くあの子を……僕を兄と呼ぶあの声を。思い出すだけ、泣きそうにもなる。
幸せを、取り戻す方法なら知っている。だけど僕はここに居る。その意味が、あの哀れな存在はまだ理解できない。だから僕はそれを、思い出させてやる。例え手札が全て、尽きようと。
*
「アルドール、ここは……?」
「俺の実家。養子に入った家だけど……姉さんの墓参りくらい、したくてさ」
元は立派な屋敷だっただろう。まだ人の息づかいが聞こえてきそうなその場所は……港から一山越えた先にある。里帰りというのに、アルドールが嬉しそうに見えないのは、彼の境遇に依るものだとジャンヌも気付いた。
「息抜きなのに、ごめん。嫌だったら二人は先に帰ってくれても」
「貴方一人では危険です」
「私は、仕事ですが故」
アルドールがここを出て、一ヶ月以上は経ったらしいが?夏の陽射しにも負けず、草木は伸びて荒廃した空気を醸し出す。
アルドールは野山で詰んだ花を使って花輪を作り……それを戸口に掛けた。そして一度祈りを捧げた後、育った場所に背中を向ける。
「中には、入らないんですか?」
「入ったら多分、俺……駄目だと思うから」
「駄目、とは?」
「皆が大変なときに、俺が参ってるわけにはいかない。ここに入ったら……俺、とてもじゃないけど、生きていける自信が無いよ」
ここには、一緒に過ごした人との思い出がある。失った記憶を、奪われた事実を思い知る。それら全てをまだ、この少年は受け止め切れていない。この扉を開ければ、それが真実なのだと今一度突きつけられる。この子がこんなに引きずるのだ。余程惨い殺され方をしたのだろう。
(アルドール……)
そんな辛い顔をするなら、泣きそうな顔をするなら。どうしてここへ来たの?私を連れて来たの?
「なら何故……ここに」
「ジャンヌはさ、俺とは違って強いから」
「私が、ですか?」
この子は何を言っているんだろう。私が情けない顔をしたのを、貴方は見たはずなのに。あれしきのことで、泣いた私を……理由は聞かないままでも、貴方は。
「俺は何て励ませば良いのか解らない。だけど俺がもっと情けないところを見せたら、ジャンヌは自分のことなんか忘れて、俺を気にしてくれるだろ?何の解決にもならないかもしれないけど、立ち直ってくれると思ったんだ」
カーネフェルで私が親友の故郷に立ち寄ったのと同じよう、アルドールも……そうしたかったのだろうか。互いに知らない相手、だけど目の前の人が大切だった人の思い出が眠る場所。私を、新たに現れた人間を拒み続けた彼が……これでも一歩、前へと踏み出そうとしているのかもしれない。そう思えた。
「俺は、本当に弱いよ。ジャンヌを守れないと思う。俺は……もう何人も、親しかった女の子を守れなかった」
それでも付いてきてくれるかと、彼に問いかけられている。
「必要ありません。私が貴方を守ります」
「ありがとう、ジャンヌ」
何度目だろう、こうして彼と手を重ねるのは。何の色気もない握手。それでも手が離れるのが、なんだか少し寂しく感じて私は顔が赤くなる。
「どうやら私は邪魔のようだ」
「り、リオ教官!?そ、そういうあれではありません!こ、これは私と彼の友情的な何かと申しますか……!」
「陛下と奥方が仲睦まじくて何よりではないか」
「や、止めて下さい!」
私が慌てて否定するも、元上司の顔はにやついている。普段は堅い人なのに……
「アルドール様のお心は決まったようだし、私はここで待っていよう。問題があればすぐに駆けつける故、心配しないで下さい陛下」
彼女は私とアルドールを、屋敷の中へと向かわせた。
*
「まったく、あの人も何を考えているのでしょうか!」
「あはは、堅苦しい聖十字かと思ったら意外とお茶目な人だな、リオさん」
「アルドール……貴方という人は、聖十字にそんな偏見を」
「いや、あの……俺の姉さんも、そんな感じだったから」
「アルドールの……お姉さん」
アルドールは養子だと聞いた。この家も、彼の本来の居場所ではない。
(それでも……)
こんなに静まりかえった、廃墟。ほんの数ヶ月前まで人が大勢居た場所なのに……。なんだかぞっとする。それはある意味戦場よりも。部外者の私にとってもそうなのだ。ここで暮らした彼にとっては、ここはどんなに辛い場所なのだろう。だけど彼は笑うのだ。私に向かって、無理矢理に。そんな強さを、そして弱さを。私は強く守りたいと思うのだ。
「ジャンヌに、結構似てたよ。最初の印象は。あ、最初は違うか。聖教会で会ったときは……ジャンヌの髪も長かった」
「髪の長い方だったのですか?」
「アージン姉さんは短いよ。本当の姉さんは……長かった」
彼女たちの話は、何度か私も耳にした。アルドールが“欠けて”いるのは、大事な人を殺され続けたからなのだ。出会った頃の貴方も、十分おかしかったけど……ここまでではなかった。あの頃のアルドールは、やる気のなさに似合わない不遜な目こそしていたが、妙な自信を感じさせる人だった。多分あの日の彼は、失った物を取り戻せると信じていたのだと思う。自分には、その力があるのだと。
(もし、私が……)
このシャトランジアで貴方に出会って。あの瞬間に貴方こそがカーネフェリアと見抜けたら。私は貴方の傍を離れなかっただろうか?私が傍に居たのなら、貴方は何も失わずに済んだだろうか?
「ごめんなさい……アルドール」
「なんだよジャンヌ、いきなり何を」
「いいえ、謝らせて下さい。私がもっと……」
感極まって、近付く私に彼は逃げ腰。だけど私は手を伸ばす。掴んだ腕を、彼は振り払いはしなかった。唯、とても脅えた瞳で私を見ている。
「私が数術使いだったら。……こうしてこの手に触れるだけで、いいえ、貴方の頬を打った時……全てを知れて居たならば」
「ジャン、ヌ……?」
「貴方はそんなにも、悲しい目をしていなかったでしょうに」
「え、えっと」
「アルドール、どうしたら貴方は笑ってくれますか?あの日のように、もう一度」
「強がってただけだよ、あれは」
「いいえ、そんなことはありません。例えそうだったとしても、私を送り出してくれた貴方は……私を救ってくれました」
「それは今の俺が頼りないってこと?」
「いいえ。貴方の素顔を見てみたい、そう思っただけなんです」
「俺は別に、ジャンヌに嘘は」
「そうですね。でも……どうしてか、私は出会った時より……今、貴方を遠くに感じています。何も知らなかった時よりずっと」
「……」
「こんなに遠くで、私は本当に貴方を守れるのでしょうか。不安になります」
「ジャンヌが守りたいのは、カーネフェルだろ」
顔を背けて彼は言う。突き放すような言葉。近付かれるのが、そんなに嫌か。本当に、彼は心を閉ざしているのね。そう、相手が殿方なら……彼は驚くほど無防備なのに。こうして女の私を警戒している。その理由を私は知っているし、彼のそういう所に安堵を覚えた。だけど今、何故か私は苛立った。あの時とは違う。もう一度彼を打ちたいと思った。それは明確な理由ではない、モヤモヤとした私の心で。
「私が、カーネフェルより貴方を選ぶ日が……来て欲しくない。そんな顔ですね、アルドール」
「!?」
「そういう私でいて欲しいのは……貴方の方っ!私をいつも普通の女扱い、口だけではする癖にっ!!貴方はそういう私を誰より否定していませんか!?幾ら鎧を着込んでも、耳を目を塞がなければ……誰も心は守れない。怪我よりも、私は貴方の言葉が痛いのですアルドール!」
何を言っているのだろう。自分を止めようとする気持ちは起こる。だけどそんな制止を聞かず、私の心は転がり回る。
「私に触れない貴方だから、私は貴方にこうして触れたい。触れていたい……」
「俺は何もしていない」
「ええ、貴方は何もしないから。だから私は……こうして貴方の傍に居たくなる」
「俺には、そんな価値は無いっ!!」
「それを決めるのは、貴方ではありません!大体何なんですか貴方は!!私に何もさせない癖に、あんな最低な女とキスするなんて!!」
「お、俺のせいじゃない!あれは」
「言い訳ですか!?」
「な、なんだよいきなり。ジャンヌらしくない」
「いいえ、私です!私は貴方の……、なのに」
「ジャンヌが刹那姫恨んでるのも対抗心あるのも解るよ。だけどこんなことで気が立つ理由にならないだろ」
「貴方は無関係の敵とああいうことをするのに、つ、妻である私には何もしないんですか!?」
「つ、妻って……!?そういうの嫌がってただろジャンヌ!俺達は、友達とか同士として……」
「名義上便宜上立場上であっても、そうなった以上そうなのではないのですか!?貴方は王として責任の一つも果たせない人間なのですか!?」
「せ、責任……?」
ああもう、本当に私何を口にしてるんだ。何これ、こんなの知らない。自分の言葉に自分で驚かされている。まさか私、嫉妬してるの?アルドールとあの女とのことで。気付いて顔が一気に真っ赤になった。
「まさか、ジャンヌにキスしろって言うのかよ」
「……ごめんなさい、忘れて下さい」
慌てて彼の手を離す。これから彼とどう接していけば良いのだろう。恐る恐る視線を戻すと、彼も同じく狼狽えている。どうして良いか解らない。糸の切れた人形のような彼。それはまるで私のようだ。
張りぼてで、作り物めいて。内側にある自分はこんなに脆く、情けない。あるべき物を失った貴方、殺がれた貴方、欠けている。だけどそんな貴方の中には、私が持たない、手に入れたい物が隠されている。支え合い私達は、やっと一人の人間になれるのではないか?
「……アルドール、私は」
「……よくもまぁ、こんなところで盛り上がれるね」
「!?」
響いた声は、私の物でも彼のものでもなく……呆れたようなだけども怒りを宿した声色だ。
「懲りないね、アルドールは」
(そんな!何も聞こえなかった!!気配は感じなかったのに!)
「……また、嗅覚数術か」
「うん、正解。何回同じ手に引っかかるのかなぁ。人が大勢死んで、大掃除されたわけでしょ?昔と変わらない空気を感じるなんてあり得ないのにね」
懐かしい場所の匂い。それを再現した数術?違和感を感じなかったことが違和感。
これまで数術で姿を消していたのか?赤いドレスを身に纏う、混血の少女が現れた。その顔は、私だって忘れる物か。あの女の次に、どうにかしてやりたい相手。
「道化師っ!?」
「噂の聖女様は、随分と残酷な人なんだ?よりにもよって、この部屋でアルドールに迫るなんて」
彼女がパチンと指を鳴らすと、これもまた何かの数術?私の耳におぞましい歌が聞こえた。
「あ、ああああああ!!や、止めて姉さんっ!!逃げてっ!!!」
「アルドールっ!?」
数術反応に気を取られていた。だから私がそれを見たのは彼より後だ。破った視覚数術を後追いし視界を重ねる。血に濡れた床。転がった首。そして……道化師と渡り合う、白服の聖十字兵。
*
この感じ、覚えがある。これは数術で見せられている過去。だから幾ら叫んでも結果は変わらない。アルドールもそれを理解した。無駄な悲鳴を押し殺し、姉の姿をじっとその目に焼き付けようと口を手で覆う。指の腹を噛みながら、ヒューヒュー溢れる脅えた呼吸を押さえ込む。
「へぇ、こんな切り札を序盤で私に見せちゃうなんて。神子様は余裕なの?それともっ、こんな端数のカードがそんなに大事っ!?」
「貴様が我がトリオンフィ家を恨むのは解るっ!だが!!このシャトランジアでこのようなやり方は許されないっ!!」
「無知の知なんてないんだよお嬢様!!あるのは罪だけだ!!綺麗事を言うのなら、殺さずに止めて見せなよ!!」
剣と鎌がぶつかる音。それを聞きながらもじっと目を伏せ続ける少女が居る。数術結界の中祈りを捧げるシスター、あれはイグニスの部下の……ルキフェルさん。あの数値の流れ……彼女は幸福値をアージン姉さんに送り込んでいる。
(イグニス……!)
見殺しにしたんじゃなかった。これを見てやっとわかった。イグニスは姉さんを助けるために、本来使ってはならない部下をここで道化師に知らせてしまった。そんなリスクを冒してまで、姉さんはカードとしての価値は無い。それでも彼女がそうしてくれたのは……俺のため。それ以外の理由がない。
「カードの幸福値を入れ替えるだなんて、本当に凄い切り札を育てたねお兄ちゃんは!ああ、私が拾って来たかったくらい!!本当に残念だなぁっ!!」
弱すぎるカードと幸福値を入れ替えられても渡り合う。執念が道化師にはあった。いや、彼女にも何か切り札が隠されているのかも。
(姉さん……凄い)
結果は知っている。だから涙が止まらない。だけど、あの人は懸命に、こんなにも必死に戦っていたんだ。俺は知っていたのに、知っていて貴女を置いて行ったのに!!どうしてこんなに必死に戦う?考えなくても、解るだろう。俺には、俺だけにはよく分かる。
道化師がわざと隙を作った。あれは挑発だ。
「でも、そう長くは保たない!そこの子が力尽きる前に私を殺せなきゃ、死ぬのはお前だトリオンフィっ!!ああ、でも殺さずに生け捕るんだっけか偽善者さん!!」
「綺麗事は捨てる!私は聖十字を捨てた!我が名はアージン=トリオンフィ!!私はこの家を!私の家族を守る者だ!!」
両耳に光る十字架は触媒。この土壇場で数術を会得した姉さんの剣は、炎を纏い道化師まで届く!フェイントから双剣の一振りを捨て、両手に持ち替え力一杯踏み込んだ。だけど道化師は、空間転移で身体を移し、渾身の一撃すら涼やかにかわしてみせた。ああ、奴の狙いは……時間稼ぎだ!!
「綺麗だね。だけど貴女の足下に、転がる骸を貴女は知らない。刈られる理由は十分だ。例えばそう、あの子を見てご覧?」
「!?」
「貴女がもたもたしてるから、あの子が危ない。あんな貴重なカード、こんな所で失えばどうなるだろう?貴方の大事な弟を、神子は守る力を失うかもね」
「早くっ!そいつを倒してっ!!私のことは良いからっ!!はやくっ!!」
「見た感じ、この子は後天性だね。それでこんな力があるってことは……純血の頃から数術使いだったってことだ。つまり……無理な数術は、脳死する」
「違っ、わたしは」
「流石は貴族のお嬢様。こうしていつも他人を犠牲にしてきたんだろう?大好きな弟のことだって、何も知らずに、救いもせず、助けようともしなかった。そんな物が、本当に愛って言えるのかな?」
結界を保つ力も失った修道女。それをも他の数術に回したのだ。そうすることで自分の身を危険に晒そうとも。自分が殺される前に、姉さんが道化師を仕留められれば……!でもその答えは……はなから自分の犠牲が前提に。
道化師に首を絞められ、言葉も発せられない修道女。あれは人質だ。大いなる人質だ。後々俺を救うことになるかもしれないカード。そしてカードとして無能な自分。姉さんは天秤に掛けられた。そして選ばされたのだ。
「……目の色、か」
姉さんは、最期に小さく笑う。それは、俺が港で奴隷を助けたのと同じ理由。琥珀色の目の少女を俺が見捨てられなかったように、最後の最後で姉さんが見たのは……青い瞳のシスターだ。
握りしめた剣、背中を向けた道化師に……姉さんは斬りかかれなかった。
仕事が忙しくて更新遅れ気味_(:3」∠)_
あああ、小説書きたい。