0,5:Fortuna caeca est.
はじめまして。彼はそう言って、私に手を差し伸べた。
けれど幼い私はその手を振り払い、彼に冷たい言葉を浴びせた。
「あんたなんか、私のお兄ちゃんじゃない」
*
(暖かい……)
それは私の見ている夢だろうか。フローリプは今目にしているものが信じられない。
すぐ傍にアルドールが居る。一緒に旅をしたけれど、こんなに側に寄ったのは数える程しかなかった。彼を私が殺そうとした時に一度抱き締めただけ。そうあの時だけ、私が愛しい人に近づけたのは。
でもその人は本当に脳天気な顔で寝ているから、そんなことなかったんじゃないかとさえ思う。辺りを見回すと、部屋はまだ薄暗い。私は見知らぬ場所にいる。ここは何処だろう。トリオンフィの屋敷だろうか。それでも違う。私の部屋はこんなのではない。でもそうならば、どんなに良いか。全部嘘。そう全部嘘。
この部屋を抜ければ父様母様姉様が居る。私の隣で爆睡しているアルドールを見て、あのメイド女が大騒ぎをする。姉様も少し機嫌を悪くする。それでもこれは私の特権。妹の特権だ。女として見られていないからこそ、こうやって誰よりも近くにいられる、守って貰える。そう、傍にはいられないけど。
今見つめ返せば、何処か虚しい。私は何がしたかったのか。私が欲しかったのは、何だったんだろうか。アルドールは私に付きっきりで看病してくれたのだろう。それは私の望んだ気持ちではないかも知れないが、私が大切に思われていることには変わりない。
「ルクリース…………」
あんな女。最初は大嫌いだった。気に入らないところばかり、それなのに……それなのに。私は彼女を死なせた時、とても大きな後悔を知る。もう帰らないのだと知れば、途端に慕わしさが募る。その思いは恋のように突然燃え上がったりはしない。それでも一瞬で冷めて消えることもない炎。じりじりと私の身を内から焦がしていく。私は彼女に恋こそはしないが、私は彼女を愛している。だからこんなに後悔をしている。もしこの場で首を吊れば、腸を引き摺りだしたなら。それで奇跡が起こるのなら、彼女生き返るのならば、私はその苦痛を受け入れる。でもそんなことはあり得ないと定められている。
「……なぁ、アルドール」
小さな震える声を、絞り出して縋ってみるけれど……泥のように眠る兄には、何も聞こえてはいないようだ。或いは彼にもわからないのか。だから何も言わないのか?
「償う相手を失った、私は誰に……何をどう償えばいいのだろう?」
償いとは本来、傷付けた相手に行うもの。復讐とは本来、傷付けられた相手が行うもの。
だけど私が傷付けた人は、私を許して死んだ。その復讐を望んでも、彼女が私を殺す日は来ない。もう終わってしまったことだ。
それと同様。私の償いは、宙に浮いている。何も出来ないままに、唯罪だけが残されるのだ。
夜風に誘われるよう、見知らぬ部屋の窓を見る。星々が散りばめらた空に、船で見た景色を思い出す。私は半ば上の空で、彼女の話を聞いていた。アルドールのことばかり私は考えていたから。もう彼女は私に何も教えてはくれないのだ。
「私は馬鹿だ……私は馬鹿だ」
今ならまだ間に合う。今なら、まだ。
これで終わりにしよう。彼の中では始まりもしていない思いでも。私の一方的な思いでも。
アルドールは優しいから。私を好きになんかなれなくても、なるための努力はしてくれるだろう。
それがどんな意味の好きだとしても、失えば辛いのだ。その好きが大きくなれば、なるほど……なくした時に辛くなる。
(それなら…………)
私に出来ること。最後に出来ること。それは……それは……、これ以上彼に近づかずこれ以上親しくなる前に、私が消えることなんだ。それがアルドールにしてあげられる唯一のこと。この優しいお兄ちゃんが、これ以上傷つかないように……早急に、迅速に私を失わせてあげること。
私の幸福値はもう尽きかけて。常に誰かが傍にいてくれなければ、ならない。それは彼にとってとても負担だし、ずっと続けられることではない。
でも幸福値は減り続ける。生きていること、それは幸運。呼吸をするように幸せは減っていく。だからまもなく私は不幸に見舞われ死んでしまう。この手を放したなら何分後?何時間?それでも私はこの手をもう放すべきなのだ。これは私の物じゃない。この国の物なのだ。
「アルドールは私の、お兄ちゃん……なんかじゃない」
そんな枠に留まっていてはいけないと世界が言う。私のお兄ちゃんは王様になる人だから、みんなのもので私のものじゃない。そんな風には生きられない。欲しがってはいけなかったのだ。
だから手を放そうとする。だけどしっかりと握られていて、力では敵わない。私はその手から抜け出せない。
そんなことを続ける内に、また急速な眠気と目眩。
今私が目覚めたのは、脳への負担を一時的にアルドールが治してくれたのだろうか。でもアルドールは零の数術使い。それをなかったことには出来ない。
チャンスがあるとするなら……この手が離れたその瞬間。私は瀕死の身体に鞭打ってでも、そこで自力で目覚めなければならない。残り僅かなの力と幸せを、振り絞って……意識が途絶える直前に、私は私の脳を癒す。
*
「アルドール、フローリプさんが心配?」
視線が俯きがちになった俺に、イグニスが声を掛けてくる。
「え……?」
「僕の部下に見張りを任せておいたから大丈夫だよ。すぐに何かが起こったりはしない」
今は即位式に集中しろと、叱られている。久々にイグニスに会えたのに、心配なんかさせられない。俺はいつも通りを装って、笑顔を作って笑う。
「そうだよな、ありがとう」
「…………」
そんな俺の虚勢を見透かすような冷たい目で、イグニスが俺を見る。
「これから、忙しくなるんだ。感傷に囚われるなとは言わないけど、君は王なんだ。それを……それだけは心に留めておいて欲しい」
「ああ、わかってる」
俺が深く頷くと、イグニスはそこで話を終わらせる。
「それじゃあ行こうかアルドール?群衆と歴史が君を待っているよ」
バルコニーから見える景色には、沢山の人、人、人。王を待ち望む人の声。それに自分は応えられるのだろうか。
途端に生じる不安に、アルドールの足は竦んだ。
「痛っ!」
「アルドールの癖に何一丁前に緊張してるの?何様?」
それを見かねたらしいイグニスに、足を思いきり踏んづけられた。
「この僕に恥かかせたら承知しないから」
「よ、余計緊張するんだけど!?」
「いいかいアルドール?ここの誰も別に君には期待してない。期待してるのは王に対してだよ。だけど僕は君に期待してる。僕だけが君を期待している。そんな僕の期待を裏切ったら絶交物だからね」
真正面から顔を覗き込まれる。よく見ると睫が長い。本当に綺麗な目だ。作り物みたいに彼は……彼女は綺麗だ。
あれから何も聞けていない。イグニスは何者なんだろう?昔から彼は彼女だったのか?それとも……彼は彼女のなのか?
(いや……イグニスは、イグニスだ)
今まで俺が友達付き合いしてきたのはこの目の前のイグニスだ。喧嘩をして仲直りして……そうやって俺を支えてきてくれたのはイグニスだ。それは彼が彼女であっても揺るがない。揺るがせてはならないものだ。
本当に大切な友達だ。彼が彼女だったと認識しただけで、いきなりそれが崩れてしまう程度の友情だったのか?
ギメルにそっくりの顔で覗き込まれて、心臓の高鳴りが緊張以外の意味を孕む。だけど、それはあってはならない。これは緊張なんだと言い聞かせる。それでも少しだけさっきより、緊張は和らいでいる。当たり前だ。その質が別物にすり替えられたのだから。
「ああ、頑張る。俺はイグニスを裏切りたくはないから」
「よし、言ったね。それじゃあ精々頑張って。その頑張りってものがどの程度か見せてもらおうじゃないか」
すぐ傍で見ていてあげると言われて、安心する心がある。何があってもきっと大丈夫だと思える。イグニスが傍にいてくれたら、きっとなんとかなる。俺は、それだけで大丈夫。
イグニスは間違わない。彼女の言うとおり、そのままの道を進めば……きっと俺は何も間違わない。これ以上……もう何も。