50:ignis aurum probat,miseria fortes viros.
差し出された手。その傷に触れた時、一番最初に見えたのは……
(ここは何処だろう?)
見知らぬ屋敷。調度品は立派な物で、なかなか豪華な佇まい。だから俺にとってはあまり落ち着かない様な場所。ここは都貴族の屋敷か何か?それにしても、見覚えがない家に上がり込んでいるというのは些か妙だ。
使用人達の囁きが、噂するのはこの屋敷の跡継ぎのこと。
「アルドール様が地下室へ」
「混血なんかと親しくしたと、奥様はお怒りに」
「しっ、変な噂を流したら私達も地下室送りよ」
(地下室?地下室?)
メイド達の様子から、彼女たちは此方が見えていない。それもそうか。これは俺がアルドール様に触れて見た傷の記憶なのだ。
それにしてもこの嫌な感じ、妙な既視感。ユーカーが自分の目を傷付けた日のことを思い出す。
噂の向かう方向へと歩いてゆけば、一室の前。その部屋の扉を開けずとも、記憶に引き寄せられるよう、俺の身体は擦り抜ける。その部屋の向こう、暖炉を潜った先の地下室。笑う女の声と鞭の音。
(あ、アルドール様!?)
身動きが取れないよう縛られて、服まで脱がせられている。このような辱め、王族に対して断じて許せる物ではない。女はそれを笑うよう、自分は立派なドレスに身を包む。
高い金で購った、跡取りとして迎え入れた養子奴隷。大事な跡取りのはずなのに、どうしてこんな風に手を上げる?苦しめる?全く意味が分からない。
(酷い……)
傷は、俺が見た腕だけじゃない。肩も背中も尻も足もだ。服から除く、顔と腹以外は何処も傷だらけ。真新しい傷、古い傷。夥しい数の体罰の跡が彼の身体に刻まれていた。思わず駆け寄り、回復数術を……掛けようとして意味がないことに俺は気付いた。
「ねぇアルドール?お母様も貴方を苛めたいわけじゃないのよ?」
アルドール様の傍、猫なで声を吐く女。血の繋がりはあるのだろうから仕方ない、彼女の髪色……眼差しはフローリプ様にも少しばかり似ては居る。それでも見ていて良い気分になるものではない。俺が知るフローリプ様のことはそう多くはないが、アルドール様が大切に思っていたのだということは知っている。昏睡状態の彼女に付きっきりで彼が過ごしていたこと……カルディアでも俺の料理を、今度は妹にも食べさせたいと口にしていた。それが叶えられなかったのは、俺としても後悔だ。だから……俺は彼女にどちらかと言えば良い印象を抱いていたんだ。俺と入れ違いに道化師に攫われたフローリプ様。彼女の死に様しか出会っていないと言えばそれまでなのだが、その状況で相手を憎む事なんて……そう思うのに、今更この女に似ている彼女まで憎くなってくる。……違う、本当に憎いのは主を救えない自分自身。
ユーカーの時とは違う。俺はこの日、ここには居なかった。だからアルドール様を救い出すことが出来ない。それならせめて、その傷を治して差し上げたい。
「一言自分が悪かった。ごめんなさいと私に謝るのなら、これ以上は叩かなくても良いのよ?」
アルドール様は泣いている。それでも憎悪の灯った瞳で女を睨み付けていた。あのお優しいアルドール様が、こんな目をするなんて……思わなかった。彼はどうして、誰のためにこんな目を?俺の知る彼は、自分のためにこんな目をする人ではない。臣下を守るためにでも、自分の身を投げ出すことを厭わない人だ。それがどうして?
アルドール様は謝らない。ずっと眼前の女を責め続けるよう睨み続ける。それに嗜虐心が煽られたのだろう、女は薄ら笑いを浮かべより凶悪な鞭を手に取った。
*
「どうしたのランス?」
主から声を掛けられ、ランスは我に返った。傷の記憶の中の人とは重ならない、普通過ぎるその少年。それでも夏場に不自然なその長袖が、今の記憶が嘘ではないと語りかけてくる。それと同時に遅れて情報処理を始めた記憶が過去へと遡り、他の傷の記憶を俺に見せている。なんとか取り繕って、記憶に意識を飲み込まれないよう俺は懸命に堪えた。
「い、いえ」
「疲れたんなら早く休んでくれよ。ランスが大変なのはみんな解ってるから」
身体の震えに気付かれた?いや誤魔化せた、大丈夫。その場をやり過ごして、主を寝室まで送り届けた。それを終えたところで、急速に力が抜ける。感情の波をやり過ごすまで、通路に腰を下ろしてじっと時を数えた。
「はぁ……」
あんなにはっきり見えるなんて。アルドール様の記憶に同調してしまうなんて思わなかった。
(この触媒は、俺との相性が良すぎるみたいだ)
これまでこんなに見えたことはなかった。感覚が鋭敏になっている。これまで以上に数術の力が研ぎ澄まされたよう。この手で触れた傷は、アルドール様のトラウマの一部に過ぎない。服の上からの回復では知り得なかったこと。
恐怖、苦痛は勿論。それでもそれを上回る抵抗。彼は何故耐えた?昔の傷は感情が抜け落ちたように痛みも鈍い物だった。しかし二年前を境に、痛みは鋭さを取り戻す。
どんな折檻にも歯を食いしばって耐える彼。牢に捕らえられた俺を守ったときもそうだったのだろう。おかしいな、あの時はこんな風に見えなかったはずなのに。
廊下で蹲る俺の前に現れた風と影。見上げれば優しく微笑む少女が見える。
「ランス様?お加減が優れませんか?」
「イグニス、様?」
「それとも、アルドールのことでお悩みですか?」
イグニス様も人が悪い。解らぬはずがないだろうに先の問いかけはまるで不要だ。もしかしたら、今のこともこの方が一枚噛んでいるのかも。いや、それは流石に疑りすぎか。
「此方までどうぞ。肩をお貸ししたいところですが、僕の背では無理ですね。すみません」
「い、いえ」
彼女に導かれるままに、俺は彼女の部屋に招かれる。咽を潤す冷たい水をカップに注ぐ彼女は、席に着くよう俺に言う。言われるがままそうする俺に、彼女が水を差し出した。
「そのご様子では、アルドールが貴方を頼ったんですね」
「支えられた、気がしません」
「ですがこれでやっと僕も貴方に言えることがあります」
「はい?」
「アルドールがそれを話すまで、僕もあなた方に言えないことがありました。アルドールが秘密を託した方に、僕も真実を明かそうと思います」
貴方は選ばれたのだと、イグニス様は言っているよう。俺が選ばれた?ユーカーでもトリシュでもなく俺なんかが?
「イグニス様!それは俺などよりあいつの方が……っ!」
「アルドールが見せたのは貴方にですよ、ランス様」
本当にこの人は、何処まで見えて居るんだ。多少見えるようになっても俺ではやはり太刀打ちできない。
「……ランス様。これまで疑問に思いませんでしたか?僕とアルドールの関係は、普通の友人と言うには些か妙だと。ああ、それは今の僕の性別には関係ないことですと前置きしておきましょう。訳あって今でこそこんな身体ですが、一応僕は歴とした男ですよ。その辺はお間違えなく」
確かにこの二人の友情は、俺とユーカーのそれとも違って、歪である。それは二人が異性だからなのではと思ったが、そうではないと先に釘を刺されてしまった。
「し、しかしそれはアルドール様の脳に問題があるのでは?」
アルドール様は養子奴隷になる際に、数術使いに脳を弄られた。その数式にバグを与えたのがイグニス様の妹。彼女に似たイグニス様を、アルドール様は慕っている。そういう話だと以前は聞いたが。
「それだけではありません」
イグニス様は静かに首を横に振る。
「僕と僕の妹ギメルは、二年前にセネトレアに売り飛ばされました。僕らを売り飛ばしたのはトリオンフィ夫人。アルドールの養母にして、フローリプさんの実母です」
「う、売り飛ばした!?シャトランジアからですか!?」
そんな、あり得ない。目を見開く俺に、彼女は冷ややかな視線を注ぐ。
「今ならさせませんよ、僕と聖十字が絶対に。ですが二年前はそれが出来てしまった」
二年前。それはあの傷の記憶の日付と一致する。それに気付いて、俺の肌に嫌な汗が浮かんだ。
「な、何故そのようなことが」
「友達は選びなさい。貴方も言われた記憶はありませんか?貴族の跡取り息子に、移民の混血なんかが近寄るのは良いことじゃない。純血の血を汚されては困る、家名に傷が付く。理由だけならそんなところですか?」
「それではアルドール様は……」
「ええ。アルドールは僕らに対する罪悪感がある。僕らを救うために何度も家出を試み、この二年間失敗し続けた。過去二年の傷は、教育ではなくそれが原因でしょう」
「アルドールは主である養母を殺せない。そう脳が弄られている。だから復讐は出来ません。逃げ出すしかなかった。あの傷は……もう復讐も出来ない相手に抗った、勝ったと思える唯一の証なんです。それだって本当は……がっ」
「イグニス様?」
急に苦しそうに咳き込んだ彼女に駆け寄るも、彼女は大丈夫と言い水を含んだ。暫く間をおき呼吸を整えた彼女が再び俺に椅子を差し出した。それに座れば彼女がまた話し出す。
「ランス様。僕はアルドールに話せていないことが幾つかあります。今回のエフェトスの件も相まって、アルドールは僕から離れ、自立していくようになるでしょう」
「イグニス様……?」
「僕や妹が奴隷としてどういう風に暮らしたとか生きたとか、どうやって自由になったとか。そんなことは僕は何も彼に教えていません。それを教えたなら、アルドールは何年か何ヶ月か廃人みたいになりますよ。それでは困りますからね」
「それでは、まさか」
暗く笑う彼女の笑みの正体に、俺は気付いてぞっとする。アルドール様がイグニス様の手を離れるのは、この人自身が企んだこと。
「ええ。アルドールは、僕を絶対に恨めない。それだけのことをしたと彼は思っている。そう思われていては僕も困るんです。さっさと僕に幻滅させなければ、彼はあなた方を正しく頼る術も学ぼうとはしないはず」
遠くを見据える目で彼女は言うが、未来を見ているその目は寂し気だ。誰も彼女と同じ景色は今見られない。彼女は辛くはないのだろうか?そう思うとたった今恐ろしいと思ったはずの人が、頼りない少女のようにも見えて酷く哀れだ。
「暫くはアルドールも不安定になると思いますが、どうか支えてあげてくださいね」
「……貴女はそれで、本当に良いんですか?」
親しい友にわざと冷たくし、自分から離れていくよう策を練る。大局を見据えての判断とは言え、彼女はまだ幼い少女なのだ。それも相手を、嫌っては居ない。好ましいとさえ思っているはずなのに、自ら遠ざけようだなんて。
「ランス様。それは僕ではなく、他の方に言うべきなのでは?」
まだ年若い少女が、恋も知らずに生き急ぐ。好ましいという思いさえ国を盾に隠してしまう。そんな姿に誰と誰を重ねたのだと俺は嗤われている。或いは彼女と自分は違うのだと、同じように語られたことに不満を感じているのか。イグニス様はアルドール様との友情を、邪推されるのが嫌なのだろう。確かに聖職者の彼女にとって、俺の言い方は語弊と偏見に満ちていた。だからといって、そこまで毒を吐かなくてもと乾いた笑いが口を出る。
俺の様子にイグニス様は、嫌味が過ぎましたかと可愛らしく小首を傾げてみせるが……それは勿論、とんでもなく大きな精神攻撃を食らわせられた。
アルドール様とイグニス様が上手く行けば、ジャンヌ様と俺もまだ……そんな風に考えた訳じゃないのに、そう思われても仕方ない言い方だった。相手を気遣うつもりが自分のエゴと醜態を晒したようで、惨めだ。
「なんてね。冗談が過ぎました。すみませんランス様」
くすと笑ったイグニス様が席を立つ。話は終わりだという合図のようだ。別れ際、最後に付け加えるよう彼女が俺に言ったのは……
「今の貴方と同じ気持ちを、アルドールは抱えています。人のために良かれと思ったことが、全部自分のために思えて聞こえて仕方ない。彼も貴方も自分を信じられない場所にいる」
「俺と、アルドール様が?」
「ええ。ですからアルドールは貴方を信じたくなった。信じて欲しくなった。貴方はどうなのでしょうね、ランス様?」
「お、俺は……」
「あ、そうそう。たった今食堂で残りの催し物が終わったようですよ?結果も出たようですので、不在の者の代わりに祝辞を言いに行かれては如何ですか?料理勝負の決着も、セレスタイン卿がいなくとも貴方の勝ちのようですし」
「え、あ、はい」
あれよあれよという間に俺は部屋から追い出され、扉の前に立ち往生。食堂に戻らなければとも思うのだが、疑問符で頭がいっぱいだ。
そう言えばユーカー何処に行ったんだ?勝負を投げ出して、結果発表にも顔を出さないなんてあまりに無礼だ。ジャンヌ様は王妃になられる方なのだから、臣下としてその辺りはしっかりしておかなければ。
「ユーカー?何処に行ったんだ?」
ユーカーの居そうな方向に向かって俺は進み、気配を探って見るも見当たらない。おかしいな。いつもなら勘で大体分かるのに。触媒で感覚を研ぎ澄ましても駄目だ。
(あいつ、もう寝てるのか?)
気配が小さいのは気でも失ってるか眠ってるかか。あいつならどちらもありそうな気がした。結構ドジな所あるからなぁと微笑ましく思いながら、階段を下りた。
「あ、ランス様!」
「ジャンヌ様!」
笑顔のジャンヌ様が俺を名で呼んでくれる。僅かな幸せを噛み締めながら近付くと、何だか彼女も落ち着きがない。
「あら?お一人でしたか?」
「そんな、俺が何時もユーカーとセットみたいな言い方をなさらないで下さい」
「あ、ごめんなさい」
「い、いえ」
何を必死になって否定して居るんだろう俺は。俺は俺とユーカーの関係がトリシュのあれみたいなものだとジャンヌ様に誤解されるのが嫌だからと、友人を軽んじるような言い方になってしまった。ごめんユーカー。そういうわけじゃないんだよ。でもほら、ええと……お前なら解ってくれるよな?
(変なこと言うんじゃなかった……)
折角ジャンヌ様と一緒なのに、この気まずい空気は何なんだ。今すぐここから逃げ出したい。けれども無礼だからそれは出来ない。誰か今すぐ俺をここから攫ってくれないものか。現実逃避を始める俺に、ジャンヌ様の方から一歩近付いて、本来の用件を告げて来る。流石ジャンヌ様。俺のような男とは違い、確かな社交性もお持ちなんですね。流石ジャンヌ様です。
「ええと、あの……ご一緒だと思ったのですが、アルドール以外はどうなさったんですか?」
「え?彼方にいませんか?」
「ええ」
賑やかな食堂までやって来て、俺はもう一つの違和感に気付く。
「そう言えば、トリシュ……?」
「トリシュ様もあれから見かけないんです。胡弓弾きが言うには、チェスター卿の所にもいないとか」
どうしてだろう。何だか、嫌な予感しかしないのは。
「まさかあの二人、決闘でもしてたりしませんよね?」
心配そうなジャンヌ様に俺は何と言えば良いのか。しかしもう夜も遅い。彼女に心配事を持たせて眠りを妨げるわけには参りません。
「大丈夫ですよジャンヌ様」
何の保証もないが、俺は力強く頷いた。うん、大丈夫大丈夫。だってユーカーだから。あの子頑丈だけが取り柄だから。そんな含みで頷くも、何も知らない彼女は納得してくれる。
「ランスが言うのでしたら間違いありませんね」
ほっと安堵の息を吐く彼女が、敬称を意図し外して俺を呼ぶ。信頼されている、と言えば聞こえは良いが。これは……いい人ぶったツケなのか?嘘の俺をそのままジャンヌ様は信じてしまっている。彼女のくったくない笑顔が眩しく、そして苦しい。アルドール様を前にしている時とは、また違う苦しさだ。その痛みに、イグニス様の言葉が俺の脳裏に甦る。
相手のためが、自分のために思えて堪らない。昼間の俺はジャンヌ様の力になれればそれで良いとあんなに浮かれていたのに、こんな半日の内に……また思い悩んでしまっている。諦めたつもりで諦めきれない。名前を呼ばれれば、それで満足出来る?違う。それだけじゃ、満足できない欲が出る。
「じ、ジャンヌ様っ!」
「はい?」
「や、やはり俺などを呼び捨てなさるのはよろしくありません!俺は臣下ですのでっ!他の者に示しが付きません!」
そう、それならば呼ばれない方が良い。もっと壁を隔てて貰わなければ、それが越え易しと思えば俺も、何時か父のような最低な男になってしまうようで恐ろしいっ!
「では、私頑張ります。トリシュ様もセレスタイン卿も呼び捨て出来る位の友人になれるよう、認められるよう頑張ります!」
そう言う意味じゃないんです。否定の言葉も言い出せないほど、前向きな彼女の微笑みに、俺は屈して項垂れた。久々の変装イベントにジャンヌ様、フルパワー。精神的に充填された模様。食堂に視線をやれば、弄られまくったらしい胡弓弾き達が涙目になっていた。男二人はまだ女性軍人達に絡まれているし、妹の方は他の二人をからかう側に荷担している。彼女も男装なんて初めてだったのか、何とも楽しそうだ。でも他の二人だって、純血相手にこんなにちやほやされているんだから、悪い気もしていないのかもしれない。実際混血だし美形だし、もて囃されているのも事実。親睦会という意味では、成功……だったのか?
「そう言えば男装の部はジャンヌ様が優勝ですか?」
「いえ、私ではありませんよ?私もランス様同様、皆さんを捜しに行きましたので」
その発言から、俺も不参加にカウントされていたようだ。
「優勝はあの胡弓弾きの子達です」
「なるほど……」
ジャンヌ様は、敵だったあの三人を打ち解けさせるために花を持たせたのだな。負けず嫌いの俺やユーカーには出来ない芸当。この柔軟さ、確かにカーネフェル軍には必要な時もきっとある。
(いや、待て。何かを俺は忘れていないか?)
納得しかけたが、何かとんでもないことを忘れているような気がして引っかかる。手掛かりはないかと食堂内を見回して、背筋に冷や汗が流れた。
「優勝者のぉー……ひっく、胡弓弾き君には賞品としてお姉さんを一晩あげちゃううう!ひっく!寝室にゴーよ!ゴー!ひゃはははは!」
「た、助けてキール兄さん!」
「あーもう!暑いぃい!こんな服着てらんなーい!あはははは!」
「ち、ちょっと!貴女方に慎みという物はないんですか!?コルチェットまでっ!!服を脱ぐのは、駄目ですって!」
どうしよう。食堂内が荒れている。酔っぱらいの女兵士達に絡まれた胡弓弾き兄弟は、今にも寝室に連れ込まれて大変なことになりそうだ。元々ブランシュ領に居た兵士達も変な気になっているのか、場のカオス化への歯止めが効かない。
「あー駄目!キール様は私が狙ってたんらからぁ!」
「カミュル君はこっちね!今日こそ君の性別をはっきりさせましょうねあひゃひゃひゃ!」
この際助けてくれるなら誰でも良いと、胡弓弾きらが俺へ縋り付くような目を向けるがどうしたものか。ここを助けに飛び込んだなら、あの女性陣の興味は一気に此方にやって来る。それも困った。
「まぁ!一体何事ですか!?」
俺に続いて食堂に入ったジャンヌ様も、その異変に気付いたようだ。彼女が慌てることで平静を取り戻した俺は、この場の解決策を練る。
「ジャンヌ様!彼らの楽器は何処に!?」
「ええ、それでしたら彼方に」
部屋の隅に転がっていた楽器を俺は彼らに放り投げてやる。上手い具合にそれをキャッチしたキールは急いで曲を奏で始める。
眠気を誘う旋律を、間近で聞いた兵士達は次々床に倒れ、胡弓弾き達は解放された。赤ら顔の妹、コルチェットに駆け寄ったキールは早速、彼女の乱れた服を直し、彼女に煩わしがられていた。
「暑いー」
「我慢しなさい。お前はそんなはしたない姿を見られて平気なのか?」
「平気って?」
「そこの戸口に、カーネフェル一の美形騎士と名高いランス様がいるのだけど。そうかお前は平気なのか」
酔っぱらった少女が俺へと視線を向けて、はっと我に返ったように絶句。そそくさと佇まいを整えて、廊下へと走り去る。
「助かりました、不本意ながら。でも僕の妹に手を出したら唯じゃおきませんからね」
妹のあの反応は満更でもないのだろうと、勝手にこの少年は俺への敵意を募らせる。そんなことを言われても、此方としては対処のしようがないのだけれど。
「そういう君たちこそ、随分と人気だったみたいじゃないか」
軽く嫌味を返してみるも、胡弓弾き兄弟はふて腐れる。
「僕らの力じゃありませんよ。元凶はあの……」
キールの視線を追いかけて、俺はとんでもない物を見つけてしまう。
その料理は……俺のでもユーカーの物でもない、ジャンヌ様のスープが何故か食堂に配置されている。あれは味は確かだが、父の様子を見るに問題がありそうだと、とりあえず近場にいたユーカーに味見をさせてみた。
その結果、やはり問題があるようで……あのスープは何かの菌でも入っているのか、高熱を出す作用があったよう。しばらくユーカーが床に蹲って震えて痙攣するわ、突然の高熱で大汗かくわ、治療を施そうとするもこっち来るなと怒鳴られて散々だった。症状の詳細を訊ねようにも、父はろくでもないことばかりを言うし、ユーカーは父に猿轡を噛ませて縛り上げるわ、真実は闇の中に葬られた……と思ったのだが。
処分するにもジャンヌ様の手料理。一言もなく処分するわけにも行かず配膳から隠していたはずなのに。誰がこんな所に持って来た?いいや、それ以前に……
「あの、ジャンヌ様」
「はい、何か?」
「そう言えばあのスープに、……何を入れました?」
変装で浮かれる前に、俺はそれを聞いておくべきだった。その上で彼女に処分の許可を願うべきだった。このランス、一生の不覚!何たる失態!
「隠し味に、調理場にあった酒を少々……」
「そうですか、ありがとうございます」
俺は大急ぎで厨房まで走り、俺達が使った覚えのない酒瓶を見つける。その成分を確かめると、何だか聞き覚えのある材料が。コップに酒を注いでみると、フルーティーな香りに反して見覚えのあるどぎつい濃桃色。
「こ、これは……そうだ、確かトリシュが持っていた?」
昔、トリシュから聞いたような気もする。自分の地元に伝わる秘薬があるとか何とか、彼は自慢げに。
それを王都で再現するのは出来なかったとのことで、彼が持ち歩いていたのは買ったという物とか材料が足りないまま作った手作りの薬。これはそれを混ぜたような代物のようだが……一応これが完成品?
急に変態行為を働いた父。服を脱ぎだしたのは相手が変態だからと思って気にしていなかったが……兵士達の反応を見るに、あれが正常な反応だったのだろう。
(つ、つまりこれって……本物の、媚薬?)
こんな物が出回ったら大変だ。さっさと割って処分……いや、類似品が見つかったときに比較するため残しておくべき?それにしたってアルドール様の采配を……
「でも、これが本物……」
抱えた瓶にはまだ半分近く液体が残っている。捨てるのが勿体ないと、僅かでも思った。
そんな俺の心を笑うよう、流し台の下からぬっと現れた男。
「ふぅむ、悪魔の囁きに耳を傾けるか息子よ」
「と、父さんっ!?」
もうこの男が何処から出て来ても俺は驚かないぞ。それでもこれが父の手に渡っては大変だ。さっさと割ってしまおうと振り上げた手を、父が優しく触れてくる。
「な、何のつもりですか!?」
「まぁ、そう睨むなランス。流石の私も息子の淡い恋心まで邪魔しようとは思わんよ」
「手を、離して下さい」
「お前がこれを割らないと誓うならそうしてやろうかな?」
「……何を、企んでいるんですか?」
質問には答えずに、父はにやけ面を晒した。
「これの効き目は見ただろう?しかしセレス君も可愛らしいことだなまったく。お前が純朴に育ちすぎたのは半分あの子の所為だろう、はっはっは。お前には人間の汚い側面は見せないようにと思っているのかねぇ、お前も人間だと言うのに」
この薬の意味するところ。それを気付いていないとは言わせないと父が嗤った。確かにあそこまであからさまに暴走した父を思い出せば、否応なしにも。
だけどあいつは……俺の前ではこの変態と同じような姿は見せられないと、堪えたのだろう。いや、俺だってそれとかあれくらいは流石に知ってるけど。本当にあいつは俺を神聖視し過ぎだ。そういう馬鹿な気遣いは確かに可愛いが、どちらかと言うといつもの癖であいつを犠牲にしてしまった俺の無神経さに嫌気が差した。早く謝りに行かないと。そう思うのに父が邪魔する。
「それとも、お前にあれは何か、これは何だといちいち聞かれるのが嫌だったか。ああ、其方もあり得る」
「そ、そんなことより!父さんっ!ユーカーかトリシュを見ませんでしたか!?」
「名は体を表す。言霊の鎖は栄光の祝福。されど時に呪いの呪縛にも成り得る……と」
「突然何を?」
話題逸らしかと父を睨めば、そうではないよと父はにやつく。
「しかし名に縛られぬ人間と……その子の道が交われば、そこには未曾有の未知なる道が現れる。要は神の采配を逃れると言うことさ」
「父さん……?」
「追いかけるも捨て置くも、お前の自由だよランス。唯、そうだな。それが偶然か、必然か。因果という物を知るには良い機会だ。セレス君は上の階で絶賛大ピンチだ」
「上の、階?」
それなら先程まで俺もいた。どうして気付かなかった?今の俺があいつの気配に気付かないなんて、そんなはずは……
(あ!)
そうだ。自分で気付いていたじゃないか。あいつの気配が感じられないならばそれは、その数値が低くなっているということ。気を失っているか、眠っているか……死んでいるか。
「ユーカーっ!?」
微かな数値の痕跡に意識を集中させる。カーネフェルにとってあいつは大事なカード。この騒ぎの中、道化師があいつを狙いに来た可能性だってある。あいつの数値を居った先は空っぽの会議室。誰もいない。そのことに愕然とする俺の背後でパチパチと響いた拍手。
その先には、長い青髪の少年。この前の虚ろな瞳に、今は確かに感情が見て取れる。
「お見事ですね、ランス様」
「き、君は……ジャック、君?」
いや、この口調は……
「イグニス、様?」
解けていく視覚数術。
「流石はランス様。僕の情報遮断数式の中、彼の気配を完璧に探るとは。ここに来て数術の才が格段に上昇しましたね」
「まさか、俺が話していたのは……」
「ええ。先程貴方が会っていたのは僕が操るエフェトスです」
あんなにそっくり、イグニス様そのものだったのに、視覚数術だったなんて。驚愕よりも落胆が大きい。自力でイグニス様の視覚数術を破るだけの力は俺には無かった。其方も試されていたようだが、俺では駄目だった。しかしそのことに落胆せず、イグニス様は俺の嗅覚を褒めてくれる優しさを見せた。
「僕はこれよりシャトランジアに帰還します。その前に貴方の力を知っておきたかった。試したことを許して下さい」
「い、いえ……」
「貴方の力ならば、例え道化師が攻めて来ようとも、違和感を感じることは出来るはず。北部の守りには、元聖十字の者達に教会兵器を与えておきました。それから明日までには守りのカードが届きます。それは僕のカードではなくアルドールのカードです」
自分が疑われていることを良く理解した彼女の口ぶり。否定したいがやはり出来ない。沈黙がせめてもの誠実だった。
それでも、最後に握手をと……求められたら拒めない。アルドール様に会って行かないのですか?そう訊ねることも出来ないまま、俺は彼女の手を握る。
「お元気で」
「はい、貴女もお気を付けて」
応じた俺にイグニス様が微笑んだ。その刹那……脳内に流れ込んでくる情報群。これからの指揮のための情報であり、彼女にはそれを拘束する力はない。一つの提案としてそれは俺に託された。
「これは……」
「アルドールは最弱。前線には向かない。故にジャンヌ様を軸に据えた一つの策です。南部では有名なランス様も、北部の民を率いるには失礼ですが、役不足。彼女の力で持って行くのが一番でしょう。他の案があるならば、それでも僕は構いません」
「……」
そう言っておきながら、ユーカーがいない。現実的に考えて、今取れる策はそれしかなかった。それでも彼女は敢えて俺に託す。俺がその選択をしたのだと、俺自身に教えるために。
「後の采配は貴方が決めて下さい。それから僕の部下は一端返却させていただきます。僕の部下の支援で勝ったところでそれはあなた方、カーネフェルの勝利にはならない」
「イグニス様、ユーカーは……」
「彼は何時だって、貴方のために動いていますよ。お忘れですか?何とも可愛らしいことですね」
「そ、それではトリシュは!?」
「神子様、転移の仕度が調いました!」
イグニス様に詰め寄ったところで、部屋に青髪のシスターが飛び込んで来る。
「きゃあ!」
悲鳴を上げたかと思えば、彼女は鬼の形相で俺に体当たり。
「な、何ですか!?」
「貴方こそ何なんです!?ちょっと顔が綺麗だからって神子様に対して頭が高いです!大丈夫ですか神子様!?襲われませんでしたか!?」
「え?」
俺を突き飛ばし、イグニス様を庇ったシスターは、病原菌を見るような目で俺を睨んだ。
普段俺が父を見るような蔑みの視線だ。こんなことは初めてだったので、かなり傷付いた。外見に対する自尊心って俺にもあったんだなぁ。知って余計に自分が嫌いになりそうだ。
「すみませんランス様。ルキフェルは男性恐怖症なんです。特に口先ばかりの男や、顔の良い男ほど信用できないトラウマ持ちでして」
「は、はぁ……そ、そうですか」
「神子様、こんな男ばかりの場所、空気が淀んでいて駄目です!女兵士が多いから大丈夫かと思って油断してました!カーネフェルの女なんてみんな低俗で尻軽な腐れビッ●ばかりなんですよ!酸素が毒されています!カーネフェルの男だって信用できません!こんな顔だけの男!大勢の女侍らせて遊んでるに決まってます!空気から孕ませられたら大変です!早く教会に帰りましょう!」
騒がしいシスターに手を引かれ、イグニス様は退室された。廊下の方で手を掴んだことに気付いたシスターが慌てふためく声がしたが、今はそれがとても遠くのことのよう。
(なんか、急に疲れた……)
イグニス様は明日までに守りのカードが来ると言ったのだから、今日はもうふて寝をしても良いんじゃないかな。どさくさで持って来てしまった酒瓶……映る自分の顔がとても情けなく見えていた。
意味は「火は黄金を試し、苦難が勇者を試す」……だそうです。
うちのイグニス、名前は火なのにカードとしては水属性っていう(笑)
引き続きランス回。ランスも苦労しているけど、多分今回の裏で相方はもっと苦労している気がします。