42:Nihil agere delectat.
「ランス。お前は教皇をどう思う?」
そう問うたのは従弟のユーカー。俺の質問に質問で返して来るなんて、最近言葉が巧みになってきた物だ。そんな従弟の成長を喜ぶ間もなく、ランスはその真意を探った。
「どう……って?」
「信用できるか出来ないか」
「イグニス様は……」
都の第二聖教会で言われた言葉。意外な励まし。それはカルディアの砦でも。イグニス様は俺には優しく接し、常に正論と思しき言葉を送ってくれる。しかし彼女は、この従弟相手では態度を急変してしまう。俺への言葉全てを疑うわけではないが、彼への言葉に対する容赦のなさが、彼女の素に思えてならない時もある。そうなれば、俺が聞かされている言葉はすべて、……策の一環なのだろうか?
(今は味方とは言え……そもそもイグニス様はカーネフェルの人間ではない。シャトランジアを任せられている方……)
先を見通す目を持つ彼女……国家機密を抱えている彼女はどうしても秘密が多い。仲間とは言え全てを話して貰うことは出来ない。アルドール様はそれを疑うことはないけれど、この従弟の不安も解るのだ。
(あの方に付いて行って、本当に大丈夫なのか?)
アルドール様の全面的な信頼を利用して、傀儡政治を望んでいるのではないか。そんな風に思う疑念もある。それでもイグニス様が、他に素を見せるのはアルドール様相手に。少なくとも彼女個人としてはアルドール様を親友であることには違いない。少なくとも悪いようにはしないだろう、アルドール様については。
しかし、ジャンヌ様はどうだ?彼女が道化師を押さえ込んだ時、俺は躊躇った。それでもイグニス様は躊躇わなかった。それは教会兵器という武器があったからだが、そんなことを知らない俺は……あの時、心臓が凍ると思ったのだ。
「彼方には彼方の事情があるのは知っている。……それでもああまでして、手の内を隠されると……俺だって不安にもなるよ」
「ランス……?」
「別に俺のことは良いんだ。俺が手札扱いされるのは。元々俺もそれを望んでいたんだし」
その先にカーネフェルの安寧があるのなら、礎として使い捨てられる命となっても構わない。その心に嘘偽りはない。
(それでも……ジャンヌ様)
彼女は、祖国のためにシャトランジアを裏切った。帰る場所はこのカーネフェルしかない。まだ戦いは続く。カーネフェルで最も強いカードはジャンヌ様。どうしても彼女の幸福を軸にした策を練らなければならない。当然イグニス様は、彼女を……駒として見ているはずだ。それは何も間違ってはいない。そう自分に言い聞かせても、納得できない点が多々見受けられる。
「イグニス様の言うことは正しいんだとは思う。それでも狂王をあそこまで追い詰めていながら、見逃そうとする。道化師にしたってそうだ。……イグニス様はアルドール様のために、カードの消耗を望んでいるように思えてならない」
俺がそう溢した時、ユーカーは大きく目を見開いていた。それが不安そうに見えて来て、彼を安心させる風に笑い、首を振る。
「いや……おかしなことを言ったな。忘れてくれ」
イグニス様は、癖の強い精霊を使ってでも、トリシュを助けてくれたのだ。カードの消費を望むなら、そんな手は使わない。敵に知られるような形で手の内を明かすことだって。
「残念だけど綺麗事だけでこの国は救えない。そのための荒療治……そういうことだ、きっと」
「……あの青髪のガキ。あいつパー坊より年下だろ?」
ユーカーは何を言いたいのだろう?先程から俺を探るような問いかけばかり。確かに開戦の時、南部に赴いたのは俺だ。あの少年はその時に奴隷になった子だという。アルドール様に救われイグニス様が保護したという話だったが、カードが発現したためイグニス様の部下になったとか。
「俺が気にしてると思ってるのか?」
「誰だって気にするだろ。お前みたいな奴なら尚更」
「そうか、心配してくれてたのか」
彼の心配をして飛び出したはずが、いつの間にか質問攻めにしていた。それが今度は彼に心配されている。
(何をして居るんだろうな、俺は)
何とも無しに、そんな言葉が胸に浮かんだ。
「…でも、そうでもないよ。俺は結構薄情だから」
「どうだかな」
「生憎ね……俺が動いた時点であの村はもう助からなかった。助けるためには予め、カーネフェルという国を立て直す必要があった。それが俺に出来たとは言わないし、彼を守れなかったことが俺だけの責任だとか自惚れるつもりもない。開戦の地を守れなかった原因はここに暮らす全ての人々だ。そんな抱え込めないことまで俺が悩むだけ無駄だ。そんな暇があったらこれからのこの国をどうしていくかを考える方が余程有意義じゃないか?」
「へいへい……そうだな、お前らしくねぇけどそいつはそれで立派なもんだ」
「俺、らしくない……?」
「お前が今更俺なんか追っかけてくるのがお前らしくねぇんだよ」
追いかけてきたんじゃない。逃げ出してきたんだと、彼に責められる。俺が逃げる?一体誰から?
「予め言って置いてやる。お前は絶対気にするぜ」
「どうしてそう思う?」
「あの馬鹿とかあの女とかが、おまえが気にしてると思い込むから」
「アルドール様と、ジャンヌ様……が?」
確かにあの二人ならば、そうなるかもしれない。そう気を使われたなら、俺も意識してしまうだろう。俺の手に負えなかった犠牲まで。背負い込み苦悩する様を求められているのなら、そうならざるを得なくなる。
トリシュのことから話題を変えたくなった二人は、退室の後きっとその話題に移る。その際反応に困ることを理解していた。だからこれ幸いと俺は逃げ出したのだとユーカーは言う。
「違う……違うよユーカー。俺は本当にお前が心配で……」
「なぁランス。お前って何がしたいんだ?」
「え?」
「自分でもよくわかんねーことすんなよ。心配してくれるのはその、あれなんだが。俺は俺で大丈夫だし、トリシュのことも解ってる。解ってて俺なりに最善を選んだんだ。だからあれで良かったんだ」
「ユーカー?」
「これであいつから解放されるかと思うと清々するぜ」
また心にもないことを。お前は何だかんだ言っても構われるのが好きだから、内心寂しがってるだろうに。どうしてそんな突き放すような言い方……俺にまで。
「……俺が言いたいのはだな。教皇の野郎はまだ手の内を隠してる。アルドールはあの様で、ジャンヌも信仰心が厚いしほぼ言いなり。だからお前まで盲信し過ぎんな。……そんだけだ」
「あ、ああ……」
「つか、都攻めの配置どうするんだろうな」
「……そうだな。北の守りをゼロには出来ないだろう。幾らイグニス様の配下が送られたとはいえ……カーネフェルのカードを一枚も残さないというのは無理だろう」
「胡弓弾き共は戦力としては優秀だけどな、カードなのは長男のキールだけだろ?カードが来た場合、決定打に欠ける」
北部を平定したことで、守るべき場所が増えた。戦力的には信頼できても、教会に任せきりというのも心許ない。
「だが、コートカードは連れて行きたい。つまりは人質ってこった」
「なんだか不穏だな」
「北部には俺が残る。代わりにあの青髪のガキを連れて行け。たぶんそいつが最善だ」
「でも、お前はパルシヴァルのことが心配なんだろう?」
俺のその発言で、従弟の眉間に皺が寄る。彼が思いきり溜息を吐いたのは、やはり弟分が心配だからなのだろう。嫌なこと思い出させるなと俺は睨まれる。
「北部を空にして都を攻略は出来ねぇ。それにあいつも騎士だ。いつまでも俺が助けてちゃ駄目なんだよ。あいつが誰かを助ける側になる番だ」
「ユーカー……」
トリシュにパルシヴァルに、みんなお前の所を離れていく。別に二人がお前を嫌った訳じゃない。お前がそうせざるを得ないのだ。そうさせているのは誰かと考えて、俺は僅かに胸が痛んだ。そう、僅かばかり……その程度の痛みしか感じられない自分が心底嫌になる。なのにジャンヌ様に何かあれば、こんなものでは済まない。これまで俺達が培ってきた友情も、親しみも……あっと言う間に無価値な物に変えてしまう彼女が俺は恐ろしい。俺だってユーカーが嫌いになったわけではないのに、こうして心ここにあらずと空を見ている。
(お前が心配で、お前を慰めるためにここに来たはずなのに……)
余計に辛い思いをさせてしまっているようだ。
「どうしてだろうな」
「何だよ?」
嘆きの言葉が聞こえてしまった。仕方ないと誤魔化して、それでも俺は聞いてみる。
「あの雲は何故流れるのかと思ったまで」
「そりゃ風が吹くからだろ」
「そうか、風か」
留めることなど出来ない、流れていく。雲も、人の心もだ。強い風が吹いている。きっと俺の心にも。もうどうしようもないのかもしれない。無理を言って否定をしても、俺は戸惑うばかりだ。ならば認めよう。認めた上で俺は彼女に指一本触れてはならぬと禁じよう。
掛け替えがないと縋ったはずの友情が、もはや重しにならないのなら、お前を犠牲にしてまで守ろうと思った、アルドール様への忠誠を糧に、俺は前を見歩いていこう。
「ユーカー」
「何だよ」
「俺はやっと、アルドール様に仕えることが出来そうだ。彼を俺の主として、認められる気がするんだ」
「へぇ……」
確かにあの方は弱い。しかし多くの人が忘れた物が彼の中には残っている。弱く優しいカーネフェリアに俺は守られた。あの牢の中で感じた温もりを、俺は絶やしたくないと思う。
「それじゃあランス、もし俺がアルドールの敵になったらどうする?」
それは例え話じゃない。ユーカーは一つの確信を持って俺に告げた。
アルドール様が教会を盲信し続けるなら、いつかここにはいられなくなるかもしれないと、俺は彼に教えられている。
「ユーカー……」
「迷いが無くなったな、完全に」
ふっとあいつは小さく笑い、俺に背を向け寝転んだ。
「なんか疲れた。怠い。会議までには戻るから」
そう言って惰眠を貪る様は何時もと何も変わらない風に見えるけど、それは彼の虚勢だろう。口元だけが笑っている。本当に喜んでくれている。それでもその目の色をお前は見せてはくれないのだ。今となっては両目さえ。
そんな姿を見ていると、彼がとても哀れに思えて、父の言葉を思い出す。もしもお前かあの子が女だったらと言う言葉。ずっと共にいられただろうか?自身の半身のようにすら感じた友を、ここまで蔑ろにする男にはならずに済んだのだろうか?無論、考えたところで答えは見えない。唯、俺という男が最低だということだけを俺の奥底まで浸透させる風景だった。
*
「はぁ……」
アルドールは重い息を吐く。もう午後になってしまった。会議のために呼び出されたのはブランシュ城のトリシュの部屋。その扉の前で時計と睨み合う。時間ギリギリに来たため、他の者は皆もう中にいるようで、自分が最後。
「何してんだよ、邪魔だ」
「ゆ、ユーカー……」
最後じゃなかった。俺より遅れてきた者が居る。
「……っち」
彼はそう舌打ちすると、乱暴に俺の肩を掴んだ。
「ユーカー!?会議始まるよ!?」
「うるせぇ、俺はさぼる」
あんな野郎の顔を見てられるかと、言わんばかりのその態度。
「何だよそのむかつく面は」
それまで挙動不審だった俺がにやついたのが気に入らなかったのだろう。彼は目に見えて不機嫌……照れ隠しのようにふて腐れる。
「もしかしてユーカー、俺に付いてきて欲しいの?」
「はぁ!?な、何を馬鹿なことを!」
俺の指摘にばっと手を離しそそくさと背を向け歩き出す彼。あ、なんか俺わかったかも。
(ランスっていっつもこういう気持ちだったんだろうな)
自分に嫌なことがあった時、ユーカーをからかうとなんだかとても癒される。自分の性格が悪くなっていくようで、後味悪いけど……それでも一瞬、沈んだ心も忘れられた。
「待ってよユーカー!俺もさぼるー!」
「普通に付いて来んなっ!」
「普通にじゃなければいいの?」
「余裕で付いて来るな」
「解った、何となく付いて行くよ」
*
「……扉の前まで来てさぼるとは、良い度胸ですね」
ちっと腹立たしげに舌打ちをするイグニス様。それを見て、申し訳ないとランスは深く頭を下げる。
「すみませんイグニス様、ユーカーには俺からよく言っておきます」
「申し訳ありませんイグニス聖下、アルドールには私から……」
似た言葉が重なった。はっとそちらに目をやれば、同じく気付いたようなジャンヌ様が見える。くすっと小さく微笑まれ、俺は慌てて頭を下げた。
「お互い苦労しますね」
「は、はい」
ジャンヌ様と目があった!ジャンヌ様と気が合った!ジャンヌ様に微笑まれた!ジャンヌ様にお声を掛けられた!!!サボってくれてありがとうユーカー!ありがとうございますアルドール様!って俺は何を不埒なことを考えているんだ。
(主の留守に、何たる失態……)
こんな状況を有り難いと思うなんて、思考が汚れている。ぶんぶんと頭を振って、雑念邪念を振り払う。
「……まぁ、どうせ彼らに説明しても無駄ですからね。先に話し合い、各々アルドール係のジャンヌ様、セレスタイン卿係のランス様から伝達のほどをお願いいたします」
イグニス様は仕方ないと溜息一つ。それを切り換え合図に、公私の顔を切り換える。俺より幼いというのに、本当に凄い方だ。
「じゃあ改めて紹介します。彼らは僕の腹心、マリアージュの同僚」
先日加勢に入った青髪の少年は室内に。それから旧チェスター領、アロンダイト領の守りに入ったという二人の部下を、映像数術だけで会議室に呼び起こすイグニス様。道化師のそれとは違って触れることは出来ない。最初にジャンヌ様が試しに手を翳してみたけれど、彼女の手は擦り抜けていた。
「シャル……まさか貴女が……イグニス様の腹心だったなんて」
「貴女というより、貴男ですしね彼」
「し、信じられません……」
その中の一人は一人はジャンヌ様の同僚だった子。海上での戦いから一緒にいたという女兵士だ。……それが実は女装していた男性だとは。 ずっと騙されていたのだ。ブルブルと肩を震わせる彼女の心中を察してしまう。
「す、素晴らしい!なんて見事な変装術っ!」
「は?」
掴めない映像などお構いなしに、がしっとシャルルスという子の手を掴んだジャンヌ様。
「この私を変装で騙すなんて、お見事です!一昨日のセレスタイン卿もなかなかでしたが貴方もっ!」
「解りますか!解ってくれましたか!彼の変装を施したのは何を隠そうこの私っ……!」
「まぁ、要するにですねジャンヌ様。僕が次期神子として教会に入ってから、有望な聖十字兵を見つけるため、士官学校では特殊なテストを実施しました。そこで光る逸材の傍には育成と保護のために僕の部下を置いていたんですよ」
「イグニス様から期待されていたとは……流石ですジャンヌ様」
「い、いえ、私など……彼の足元にも及びません」
「彼?」
謙遜をするジャンヌ様。しかしその口から飛び出す言葉に、俺はひやりと汗を感じた。
「ええ!士官学校時代からの親友のラハイアと言うんです。彼は祖国カーネフェルのみならず世界に視野を向け、セネトレア配属を自ら希望した、本当に凄い男なのです!」
まるで自分のことのように胸を張り、嬉しそうに笑う彼女は美しい。しかし何処の馬の骨とも知らぬその男……顔も想像できない人を、快く思わない自分の心は本当に救えない。
居心地の悪さから視線を逸らした先、イグニス様は至難顔。言うべきか言わざるべきかといった重たい表情。
「……その件なんですが」
意を決した風なイグニス様が、ゆっくりと話し始める。琥珀色の瞳が見るのは当然ジャンヌ様だ。
「貴方の友人……ラハイアとエティエンヌは、先日セネトレアで殉職しました」
「え……?」
何を言われたのか解らない。大きな瞳が見開いて、ジャンヌ様は瞬きをする。
「彼はセネトレアの殺人鬼にちょっかいを出されてしましてね。あの人柄です。更生させようと奮闘する内に、まぁ出世。周りのやっかみを買い、殺人鬼と通じているのでは疑いを掛けられましてね……当然無罪だったのですが」
「え……あの、……い、イグニス聖下……?」
「その内に女王の刹那姫の逆鱗に触れまして、彼がその殺人鬼という濡れ衣で処刑されてしまったんです。僕としても惜しい人材を失いました……あれは世界にとっての損失です」
「そ、そんな……」
「エティは彼を逃がそうとして、捕まり殉職……幾らセネトレアが無法王国だからと言って、国の長が好き勝手して良いはずはありません。僕は、正義はそれを許さない」
それから会議では何を話しただろう。ジャンヌ様は蒼白な面持ちのまま。耳にしたことを反芻せずに聞き流している。我に返ればこの場に座っていることも出来なくなると知っているのだ。俺はと言うと、そんな彼女が心配で、やはり右から左だった。
「それではランス様、南部攻めにあたっての配置をアルドールと話し合ってください。僕が言ったのはあくまで一例。そろそろ彼の、貴方達の考えを僕は聞きたい。よろしくお願いします」
「はっ……」
条件反射で返事はしたものの、今の言葉の前に何を言われていたかが思い出せない。部屋から出て行くジャンヌ様を追いかけようにも言葉が見つからない。俺が失った人は仕えるべき主。親友を失った彼女の気持ちが解るなどと、とてもじゃないが口に出来ない。俺は友を傷付けることになんら感傷を抱かないような男だ。彼女を癒す言葉を口に出来るはずがない。
「ランス様」
溜息を吐く俺の肩を、ポンと叩いた者が居る。振り返れば、背伸びをして微笑むイグニス様だ。その笑顔には一片の悪意も感じ取れないが、それが逆に胡散臭くもある複雑な笑み。
「い、イグニス様?」
この方は俺のことを一体何だと思っているのだろう。いや、そのようなことを考えてはならない。カルディアの一件を俺は思い出す。この方は触れるだけで相手から情報を読み取ることが出来る、天才的な数術使いなのだ。俺は何を読まれても、恥じることがない人間で居なければ。少なくともこの方が味方である限り、俺はそうする義務がある。
「ちょっとあの馬鹿、もといアルドールを捜しに行っていただけませんか?多分僕の予想では裏庭当たりが怪しいです」
俺の心中を察しているだろうに、彼女は笑顔を湛えたままそんなことを言う。
「嫌ですか?」
「と、とんでもありません!あの方は俺にとっても主です。向かわせていただきます」
「そうですか。それなら安心できます」
「イグニス様?」
ほっと安堵の息を吐くイグニス様。彼女はとても疲れているように見えた。本当ならアルドール様を捜しに行くのはイグニス様だっただろう。彼女はこれまで彼を励まし叱咤し支えてこられた。ルクリース様、フローリプ様……アルドール様にとって大切な方々が失われてから、この小さく細い肩があまりに多くを背負って来た。ユーカーはああ言うけれど、そんな彼女を疑うこと自体、とても罪深いことのようにも思える。
イグニス様は、もう追えないのだ。アルドール様と距離を置いている。それがあの方にとって必要なことであり、成長のための試練なのだと知り、イグニス様はアルドール様を精神的に支えない。それはこの方にとっても……心の支えを失うに等しい。この小さな子供が強くあれたのは、すぐ傍にあの頼りないアルドール様がいたからなのだと俺は知る。
「イグニス様……貴女は」
「行って下さい。くれぐれも……アルドールをよろしくお願いします」
恐れを多くも彼女は俺に頭を下げる。一国の長より高い位の人が、俺なんかのために……アルドール様のために。
「はい、この命に替えても。必ずやあの方をお守りします」
俺は何を浮かれていたんだ。沈んでいたんだ。
深く深く息を吸う。どんな風が吹いても耳を塞いでおけば良い。極力ジャンヌ様に関わるな。俺にとって必要なのは、あの方への忠誠だけ。そのためにも俺は……アルドール様とジャンヌ様が上手く行くよう取り持たなければ。今、傷付いている彼女に俺は適切な言葉を掛けられない。しかしジャンヌ様が精神的に弱り、全力を出し切れないのは今後の戦にとっても不利益。ジャンヌ様を励ます役目はアルドール様にお任せしなければ。俺はイグニス様に言われた通りに裏庭を目指すことにした。