40:Male parta male dilabuntur.
「っち……」
「……え?」
短い舌打ちの後、トリシュは風を感じ、戸惑った。
(そうか!)
見えないからって見えない訳じゃない。彼は普段から片目が見えない生活をしていた。殺気を読むのは誰より得意だったのだ。
「生憎なっ、俺は騎士だ!俺は野郎に守られるような貴婦人じゃっ……ねぇっ!」
ユーカーは抱え込まれたまま背後に身を倒し、僕を思いきり頭から床に叩き付ける。そうして無理矢理束縛を解こうとする。腹の傷はダラダラと再び血を吹き出すも彼は気にしない。自身のカードの強みを信じるように。
(また、僕は……)
また、守られてしまうのか?せめて死ぬ前に一度くらい、貴方を守れる自分になりたかったのに。
(いや……違う)
彼は僕を死なせないために、今無理をしてくれているのか。
(止めてくれ……そんな)
これ以上貴方に僕を惚れさせてどうするつもりなんだ!どうせどうにもならないと解っているのに、僕がどうでも良いならここで見殺しにしてくれて良いんだ!貴方の幸福値を割いてまで、僕に生きる価値はないだろう!?
走馬燈のような記憶。その一秒一秒が、愛おしい。数式を紡がれている。僕を生かそうと。
だけどこれ以上生きて何がある?貴方が僕を受け入れることは多分無い。それなら貴方を守って死ねたら……どんなに幸せか。僕を哀れむつもりですか?そんなことをするくらいならせめて……このまま死なせて。死ぬ前か、死んだ後にか、……一度口付けをくれるだけで良い。それでも十分僕は報われるから。そんな言葉も彼にはもう届かない。僕は唇一つ震わせられないのだ。
そんな中、どこからか……遠くから聞こえる声。懐かしい声、愛しい声。それがぴったり重なって……すぐ傍に。
「巫山戯ないでくださいっ!」
響いた言葉に肩が震えた。その口調はいつもの乱暴な言葉ではない。極力男を殺した裏声で彼はチェスター卿に立ちはだかる。恐らくはイグニス様の数術のフォローもあるのだろう。
(母、さん……?)
今僕を庇うのは、幼い頃に失った母の幻。剣を振り上げ突進していたチェスター卿が目を見開いて、足を止めるには十分な……視覚数術!
その言葉は目の前の男に向いた物だろう。それでも僕は母と彼から、巫山戯るなと怒鳴られたように思えた。実際、その意味もあったのだろう。彼は僕をも罵ったのだ。
「貴方はそれでも父親ですか!?何故!?どうして彼を愛さない!彼は貴方を父として……慕っていたんだ!どんなに辛く当たられても大好きだったんだ!なのにどうして貴方は彼を愛さないっ!」
彼は気付いていないのだろう。だけど、その言葉は僕だけに向けられるものじゃない。ユーカー……彼自身が、自身の父親に言いたかった言葉なのだ。そして自分が誰かに言って欲しかった……そんな言葉だ。
「フルール……何故、何故……私をそう罵るのだ。何故私にばかり辛い思いを……」
縋り付くよう膝を折り、母の名を呼び涙を流すブランシュ卿。彼にはまだユーカーが……妻に、僕の母さんに見えているのだ。だけど僕にはもう見えない。彼の正体を知っている僕に視覚数術はもう通じない。
「違います。私は……イゾルデ。貴方のご子息!トリシュ様の恋人ですっ!」
演技だ。この場を脱するための言葉だ。そう解っても僕は感涙の涙が止まらない。もう今この瞬間に息の根が止まって終っても良い。最後の一文が何度も頭の中で響いている。今日まで生きてきて良かった。本当に良かった。
それでも一つ悲しいこと。それはこれまでずっと追い求めた名前を名乗られても全く嬉しくないと言うこと。だけどそれがまた、僕にとっては嬉しかった。
(嗚呼、僕は……)
僕は運命の女性に惚れたんじゃない。そこに彼の名が無いことを寂しく思うほど、僕は本当に、彼に心惹かれているんだ。その確信は、最後の一文よりもずっと嬉しかった。人間、一番見えないのは自分自身なんだろう。僕は自信が持てなかった。だからいつも何もかもランスに負けていると思った。それでも僕は本当に彼が大好きなんだ。その気持ちは、それだけは……ランスに負けないと心の底から確信を得た。ほっと胸のつかえが取れるような安らぎに、僕はゆったり微笑んだ。
「お義父様、私は彼を我が子として愛して下さらぬ貴方を、父として愛することは出来ません。それは……お義母様もそうだったのではありませんか?」
「……私が、愛されなかったと?」
「いいえ……」
心細そうな老人に、“彼女”は優しく微笑んだ。
「トリシュ様を慈しんで居られた時の貴方を……彼女は愛していたのでは?」
「……そうだろうか?」
「ええ。それに私、楽器を奏でている時の彼が一番好きだわ。言葉だけでは気恥ずかしいようなことが、旋律に乗るだけで趣が違って聞こえてきて。ううん、弾いているときの彼が本当に楽しそうだから!」
それを翻訳するならたぶん、「普段から気恥ずかしいこと抜かす野郎だが、下手な歌歌って阿呆面されるともう殴る気力も失せてくる。もう勝手にしやがれ」とかそんなところだと思う。
説得のため存在しない糖分を盛り込むサービスが出来るなんて、彼は何時の間にこんな役者になったのだろう?エレイン様を演じていた少女、マリアージュとの関わりを通し何か得る物でもあったのか。嘘の言葉にも、何かの意味を宿している。気持ちがある。だからその嘘は、とても力強く香るのだ。彼は僕を好きではない。それでも親しみを感じてくれている。そんな気持ちを乗せた言葉が響いて輝く。
(これは、数術……?)
彼は数術使いではないのに。その言葉が力を帯びて、大気を振るわせる。人の心を打つような不思議な数値に変わる。いや、それは数式ではない。計算式無く、唯事象を塗り替えていくような……数値変動。森羅万象、万物の流れのように、何気なく、流れるように……空気を変えていく。
「貴方の歌は私も聞いたことがありますわ。貴方はとても愉快な王様、ヴァイオリンが大好きなんですってね。是非聞いてみたいわ、胡弓弾きのみんなと……トリシュ様の琴と一緒に」
音楽を愛する人がどうして人を愛せないだろうか?人は楽器だ。言葉という美しい旋律を紡ぐ楽器だ。会話は音楽だ。彼は優しい音色を歌う。
愉快にヴァイオリンを奏でたチェスター卿。楽器を愛する以上に愛されただろう僕の母。その時きっと、母さんは……この人を大好きだったはずだ。僕がそうだったように。
「嘘だ!純血が……僕らを受け入れてくれるはずがない!」
「音楽は、人の心を映す鏡」
僕の言葉に流されなかった。それでも僕の音楽は、直向きなものだったと言うように、優しく彼は笑うのだ。船での演奏、空回り。それさえ今となっては……懐かしいのだと。
「悔しいけど、私には音才はない。それでも耳障りかそうじゃないかはわかります」
お前ら性悪だけど、いい演奏してたぜとユーカーは、カミュルに優しく微笑んだ。パルシヴァルにそうするように、そっと頭を撫でながら。幼くして両親を亡くしていた彼にとっても、その姿は母を彷彿させたのか。
「お母……さん」
その場に泣き崩れた彼の背を、優しく叩いてあやす姿は、戦場を駆け抜けた騎士とは思えない程慈愛に満ちている。数術文様に乗せられてるとは言え、あれは出来すぎだ。彼が表に出そうとしなかった、人間味。彼の本質は……むしろ。
(あれじゃあ、仕方ない)
例え違う形で出会っても。こうして傍で過ごしたのなら……僕は同じ気持ちになっただろう。惹かれるなというのに無理がある。僕は悔いない。僕は僕の心を決して恥じない。
(ユーカー、僕は)
本当に、貴方が大好きだったんだ。
*
「あれ……?」
目覚めた場所は懐かしいような部屋。
「トリシュ!」
ほっと息を吐き笑顔になって飛びついてくるのは長い金髪の少年。それは誰だろうと考えて、仕える主アルドール様だと気が付いた。
「良かった!本当に良かった!」
「心配しましたよ、もう二日も目覚めないんですから」
寝台に駆け寄ってくるのはジャンヌ様。
「申し訳ありません……」
「いや、良いんだよ。トリシュが生きててくれただけで俺は……」
「なんと勿体ないお言葉」
「でも、本当に良かった」
涙ながらに微笑む主に、僕もつられる。何か無性に悲しかった。
「二日と言うと、領地の方は?」
「うん、みんなのお陰でブランシュ領は取り戻した。チェスター卿は残念だけど、記憶障害で隠居しなくちゃならなくなって……だからこれからはトリシュがこの領地を守って貰うことになる」
「私が、ですか?」
頭が痛い。それでも倒れる前のことを少しずつ思い出して来た。確かシール叔父さんは、数術代償で、父を殺めたことを忘れたんだ。そもそも母の浮気すら知らない頃に戻ったみたいに……
「だけどそれじゃあ俺の所も手薄だから、しばらくは彼らに頼もうって事になった。入って」
アルドール様の声に、室内に現れるのは胡弓弾きの長男次男。
「彼らはこれまでチェスター卿の手足になって働いてきたわけだから、この領地に関してはトリシュ以上に詳しい。みんな数術使いだし、キールはカード。守りの戦力としても申し分ない」
「流石ですアルドール様。彼らを御し、配下にするとは……」
「トリシュ、何言ってるんだよ?」
「はい?」
話が噛み合わない。どういうことだと目を瞬く僕とアルドール様。そこに割って入るのは胡弓弾きのカミュル。アルドール様に何やら耳打ちし、後ろに下がる。その言葉の所為なのか、アルドール様の目が再び涙に揺れた。
「キール!私の主に何を!“お前年齢イコールDT歴だろ”とか宣ったんですか!?」
「僕の弟はそんな下品な事は言いませんよ」
キッと胡弓弾き達を睨んだ僕だったが、キールに思い切り睨まれた。
「僕らは教皇様に、亡命の話を頂いた。その契約のために、暫くここで働くだけです」
僕は死ぬ気もありませんし、弟妹を殺させるつもりもありませんからと、憎まれ口を叩くキール。
「……それに、不本意ですが……これまで通りは僕らにとっても喜ばしい限りです」
「え……?」
「シールのじっさ、シールのじっさ!」
窓の外へと目をやれば、中庭でシール叔父さんとコルチェットが演奏を楽しんでいる。耄碌したとは思えないほど、ヴァイオリンの音はしっかりしていた。もう三人は姿を純血と偽ってはいないのに、叔父さんはそれを受け入れている。まるで誰かに諭されたかのように。
(叔父さん……)
彼は父を殺したことを覚えていない。恨み言の一つや二つはまだ胸にある。それでも……昔のように優しく笑う彼に、その言葉も隠れてしまう。
(あ)
此方に気付いた。叔父さんが僕に手を振る。昔みたいに。その口が、僕の名前を形作った。
「っ……」
それはとても嬉しくて、懐かしくて。涙が込み上げてくるのだけれど、それ以上に胸が痛い。僕は何かを忘れているような気がするのだ。どうしてだったか僕は死にかけた。そこから生還したのだから、何か代償を支払ったはずなのに。それが何だったのか、思い出せない。
「トリシュ、なにか食べない?ずっと寝たきりだったんだし」
飲み物か果物でも持ってこようかと言うアルドール様に、それならばと言うジャンヌ様。
「でしたら先程、ランス様が果物の調達に。セレスタイン卿もご一緒に……」
「ランスなら兎も角、あんな低俗な男から贈り物を受け取るほど私は落ちぶれては居ません」
その名を聞いて、条件反射のように零れた言葉。
(あれ?)
僕は何を言っているんだろう。妙な違和感が胸を占める。
(セレスタイン卿?)
気に入らない男。僕の親友を奪っていく男。品が無く馬の合わないその男。
「アルドール様、あの男は何時此方に来たんですか?」
「何を言ってるんですか!?トリシュ様、彼とはこれまでずっと、都からここまで旅をして来たんじゃありませんか!何を薄情な!」
「ジャンヌ……」
アルドール様が静かに首を振る。それ以上は言ってくれるなと彼女に向かって。けれどその態度が解らない。
(この様子……僕が忘れているのは、あの男のことなのか?)
ろくな思い出がない。清々する。あの男を忘れるだけで、九死に一生を免れたのだから。
ふんと鼻で笑ったところで、部屋の扉にノック音。その向こうで聞こえるランスの声。
「アルドール様?」
「ああ、ごめん。荷物一杯?今開けるよ」
「ああ、それなら私が」
「トリシュ様は病人でしょう?私が……」
僕に代わって扉に向かうジャンヌ様。僕が目覚めたことを知ったらしい廊下の二人。ドスンと言う音、直後に走り去る音。誰だか解る。そんなに僕に会いたくないのかあの男は。
「病み上がりに彼に出会っては具合も悪くなります、彼もたまには空気が読めるんですね」
はははと笑う僕に、何故だろう。室内の皆が、微妙な表情。現れたランスは分かり易いほどむっとしている。
「大事な従弟が馬鹿にされて怒っているのかいランス?」
「怒りはしない。だけど……俺は、悲しんでいるんだよ」
篭一杯の果物を残して、ランスは主へ一礼。再び廊下へと戻る。そうして今度は去った足跡を追いかけるように駆けていく。
「やれやれ、彼のイトコンっぷりも大概ですね。あんな男の何処が可愛いのか、私にはさっぱりわかりませんよ」
やれやれと肩をすくめた僕に、何も言わずに皆が退室をする。最後まで残ってくれたのはアルドール様だけだ。
「アルドール様?私は何か間違ったことでも言いましたか?」
「……トリシュは悪くないよ」
アルドール様はそう言うけれど、はっきりしない口調だった。
「しかし……」
「唯さ、俺もみんなも……割とセレスちゃんのこと好きなんだよ。助けて貰ったりしてるし。だからちょっと、さ……」
「アルドール……様?」
「でもトリシュは悪くないよ。仮に悪くても、……臣下の罪は俺の罪だから。悪いのは俺なんだ」
そう言ってとうとう嗚咽まじりに俯いた、主を抱きしめその背を撫でて……確かに感じる既視感。僕はつい最近も、こうして誰かの背を撫でた。決して離すものかと、掻き抱いた。
長い金髪、可憐な姫君。彼女は一体、誰だったのか。
(イズー……)
くり返し読んだ本。物語の中のお姫様。何故だか彼女のことを、くり返し思い出していた。それでも何か違うと、僕の無意識が訴えて……僕は僕の運命の人を、無くしてしまったことだけ理解したのだ。
トリシュ編、とりあえずここまで。
まずはさくっと都取り返して、セネトレア戦争開始。
それが終われば裏本編とクロスします。
そっからが作者としては楽しいんだけどね。こっちの味方があっちの敵で、あっちの味方がこっちの敵で。
主人公が複数人いる群衆劇ならではの楽しみですね。
まぁ、どうせバッドエンドなんだけどね。