39:Caritas amicitia quaedam est hominis ad deum.
「あのねアルドール、私嘘吐きって良くないと思うな」
例えるならそれは背筋を開いて脊柱骨を、氷で出来た冷たい指先で触れられるような。端的に言えばぞっとする。
ギメルの顔と声。それでも俺が知らない彼女の顔で、道化師は笑った。
「あの時の聖十字……どうやって近付いたか知らないけど、男の格好で私の目を誤魔化すなんて酷いよね」
「ひ、酷い……?」
お前がそれを俺に言うのか?アルドールは絶句した。
この女?は全てを奪った。トリオンフィ家という復讐相手、アージン姉さん、ルクリース、フローリプ……そんな相手が何を言う?言う事に欠いて、酷いだと?
「酷い……?」
俺と同じ言葉を漏らしたのはジャンヌ。ジャンヌはこの場で一番この状況を理解していない。それもそのはず。道化師と彼女は初対面なのだから。噂には聞いていただろう、俺の宿敵が……こんな、戦いと縁遠そうな女の子だとは思わなかっただろう。ジャンヌの下でにこりと微笑む少女の姿に、ジャンヌも危機感を見失っている。
「うん、そうだよ。酷いよね。アルドールは知っていた。傍に女の子を置けば、これまでみたいに私に殺されるって知っていた。それでも男装までさせて傍に置くって言うことは……どういうことなのアルドール?私に殺されたくない、絶対に守りたい、死なせたくない。……その位この女に惚れているってこと?」
「ち、……違っ!」
「何がどう違うの?」
どんな言葉でも構わない。どんな言い訳も通用しない。今この時、道化師は世界の誰よりギメルに等しかった。彼女は怒り狂っている。それはまるで……昔みたいに彼女がまだ俺を好いていてくれるみたいな激情。無関心じゃない。確かに俺への意識と執着を、彼女はそこに宿していた。
道化師は姿を現す前から数式を紡いでいたのだろう。あっと言う間にそれは完成。ジャンヌと道化師を包むように張り巡らされた無数の数式。それがどんな式なのかはよく分からない。それでも相手が相手だ。どうせろくでもない式だ。そんなろくでもない式が、後はいつでも展開できる危険な状況。俺に出来ることは……何もない。それでも何もせずにはいられなかった。
「や、止めろ!止めてくれっ!ジャンヌは……ジャンヌは殺さないでくれっ!」
手にした剣が震える。俺の目には涙が浮かんでいた。情けない醜態だ。
「アルドール……」
向こうでジャンヌが俺を哀れむように呟いた。
その姿に思い出すのは失った俺の家族達……それから山賊レーヴェの姿。俺はこれ以上、目の前で女の子が死ぬ所は見たくなかった。
「ねぇ、アルドール。それじゃあ私の質問に答えて」
それが気に召したなら、何もしないであげるよと道化師は天使と見紛うほどに優しく微笑んだ。
「あのねアルドール……“どうして人は人を殺してはいけないの?”」
*
その少女を前にして、ジャンヌは思い出していた。何度も繰り返される問いかけ。
聖十字に入るために受けた簡単な試験がある。それは学力テストと言うよりは、本人の思想を探るような問題の羅列だったように私は思う。
“Q1:十字法では死刑制度が廃止されています。しかしどうして人は人を殺してはいけないのですか?あなたの考えを述べよ。”
面白いことに、その解答に解答はない。
同じ模範解答を書いて落とされる人間と、合格する人間がいる。また、士官学校の卒業を前にも同じテストが行われる。風の噂では配属先やその後の出世にも、その答案が関係しているという話もある。
そう、おそらくは答えに意味はないのだ。解答用紙には数式が刻まれていて、そこから回答者が何を考え、どういう心構えでその文章を記したかを問われる。
私の親友である男は、その問いに「人命は等しく尊い物である、故に取り返しが付かないから」と……模範過ぎる模範解答を記したと言う。彼は熱意と正義の心がある人間だったから、それが本心であると数式は教官達に教えただろう。だから私は確信している。彼はきっと高い地位に就く。そして聖十字を教会を……国を世界を変えていくだろう。
それなら私はそこに、何と答えただろう?
(私は……)
そうだ。私は確か……「人は死ぬのが怖いから。」とそう、書いたはず。
誰だって死ぬのは怖い。もし万が一自分が罪を犯した時、無実の罪を着せられた時、その時自分が殺されないように。前もって保険を掛けておくのだ。死刑がなければ、少なくとも死にはしない。
“Q2:人質にナイフを突きつけた犯罪者。あなたは銃を持っている。敵には気付かれていない。あなたはどうしますか?”
続く問いは、私達に正義の是非を問いかけた。
十字法は、平等を謳いながら不平等な法律だ。人質のため、犯人を射殺したとしてもその時私は人殺し。それでも私はその時死刑にはならない。十字法は、暗に殺しを認めているのだと私はその時理解した。人命は十字法の下では正義に劣るものなのだ。
私は「人質に当たらぬように、慎重に引き金を引く。」とだけ記した。友人は、「凶器を持った手を撃ち、次に犯人に向かって体当たり。」と書いていたそう。
続く問いも面白い。
“Q3:あなたは犯人と向かい合っている。犯人は人質に銃を突きつけている。あなたは銃を持っている。どうしますか?”と。
先の問いは、犯人に此方が気付かれていないという前置きがあった。しかし今度は違う。気付かれている。怪しい動きをすれば人質が危ない。
友人は言った。「互いに銃を持ったまま犯人と話し合い、説き伏せる。或いは自分が人質に名乗りを上げ、その子を解放させる。」とか。何とも彼らしい答え。そういう彼に私は人としてとても好感を覚えたけれど、私は違う解答を書いていた。
(そうだ、私は書いた……)
「出来る限りの努力は行う。それでもその犯人を見逃して、国の危機に繋がるだとかもっと大勢の人が死ぬことになるのなら、何が何でもその場で犯人を撃つ。或いは私と犯人が撃ち合う形になるよう挑発し、その隙に援護射撃を仲間に頼む。」……そうだ、私はそう書いた。私と彼は親友ではあったけれど違う人間で、違う思想と志を持っていた。共感を覚えることもあったし、意見を競い合い、見つからない答えについて語り合ったこともある。それで何が変わるわけでもないけど、大きすぎる問題にそうやって真剣に悩むこと……それで私の中の何かが固まっていくような気がしたのだ。それは多分私という人間。誰かに流されるのではなく、はっきりと自分の言葉で語れるような……自分の心。私達の討論は、ある種の自分探し。互いに自分がどういう人間で何を思っているのかを探り当てるための協力。
(アルドール……)
あの動揺……そしてこの場を取り巻く異様な緊張感。耳鳴りに似た、歌が流れる。これは数術?
(違う……これではまるで、あの時みたい……?)
道化師とは、一体何者?その正体がまるで見えない。だって私が数術を知るときは、方法は二つしかないのに。普段は耳鳴り、例外が旋律。この音はとても歪だけれど、確かに音楽だ。
(神、様……?)
道化師は、道化師は……天と通じている?そんなはずが!そんなはずは……
「どうなの、アルドールぅ?」
せせら笑うような声に、私は我に返った。そうだ、あんな女がそんなはずはない。だって彼女は加害者。可哀想なアルドール。彼は今、道化師に質問を突きつけられている。
奴は理不尽な加害者。彼から多くを奪った悪人。彼女は開き直って、彼にそんな問いかけをしている。何故人を殺してはいけないのか。この場合の人質は私。道化師がどうして私を殺してはならないのかを、その理由を彼は求められている。
「……」
私は書いた。犠牲も殺人も肯定してこの場所にいる。戦争に加わるというのはそういうこと。
「イグニス様!ランス様!」
私は組み伏せた少女に関節技を決め、そのまましっかり抑え込む。
その上で私は、中衛後衛の彼らに聞こえるよう叫ぶ。数術使いである彼らは、この状況でも攻撃が行えるはず。聖職者であるイグニス様には難しいかも知れないけれど、騎士であるランス様なら大丈夫。
「今の内に攻撃をっ!」
私ごと道化師を攻撃してください。そう彼らに私は伝える。それでも私の言葉を耳にした、ランス様は青ざめた。これまで何人だって手に掛けたはずの騎士様が。お優しい方だというのは解るけれど、今は一大事。私はコートカードだしまだ幸運は幾らでも残っている。こんな所で死にはしない。いいや、死んだとしても悔いはない。私は兵になったのだ。兵のために一国の主が屈することがあってはならない。アルドールが道化師に、何か不当な要求を突きつけられてはならないのだ。なのに一体何を躊躇うのか。私などと言う小娘一人のために何をそんなに……?
「ふぅん……」
そんな私達のやり取りを眺めた少女は、にこにこと……愉快そうに笑っている。
「それでアルドール、答えは?」
「……俺はまだ、お前が誰なのか解らない。それでも」
苦しげに、アルドールは答えをもたらす。それはあの日の私とも、私の親友とも違う答え。
「お前だって人間だ。誰かの間に生まれて、家族とか友達とかが居て!誰かに大切におもわれている人間なんだ!お前だって殺されれば誰かが泣くんだろ!?それと同じだ!俺も誰もそういう風に泣きたくないから、人は誰も殺したくないんだ!そういう風に人を泣かせてはいけないんだ!……」
「……ふ、ふっふふ、あはははは!面白いことを言うねアルドールは!」
アルドールが必死に考えた解答を、道化師は腹の底から嘲笑う。これ以上ないという傑作の冗談を耳にするように。
「私が死んでも誰も泣かないよ。泣いてくれる人を、アルドール。お前が私から奪ったんだから」
初めて少女の顔から笑みが消える。いや、口元だけなら笑っている。その表情にぞわと寒気を感じた。それに何故だか聖教会で彼女と会った時のことを思い出す。あの日の彼女の目……今と同じ。笑っているのに笑っていない。
「あのね、私は貴方に殺されても仕方ないと思うよ。私は貴方の大事な人を沢山奪った」
道化師は復讐を肯定する。でもその前置きは……彼女自身のためにある。
「でも貴方が私の大切な人を奪った。だから貴方も私に復讐されても仕方ないんだよ、アルドール?」
被害者面するな。お前が加害者だ。自分の胸に聞いてみろと、道化師は迫る。そして彼女は数式を発動させようとした。
「!」
その一瞬を見逃さなかった人がいる。これまで一部始終を黙って見守っていたイグニス様が、静寂を破った。十字法の要であるはずの教皇聖下が、引き金を引いたのだ。
「こ、これは……!?」
イグニス様が撃ったのは何もない空中。しかし、それにより流れる歌と異音は消える。あれは私のような一般兵が持っている弾とは違うのか?何らかの数式を刻んだその弾は、数術に触れることで……全ての数式を掻き消した。
(音が、消えた……?)
私に数術効果を教える音が聞こえない。耳鳴りも、旋律も掻き消された。
微笑むイグニス様は、今度はその照準を少女に合わせる。彼の解答は、奇しくもあの日の私と同じ。
「……ここにセレスタイン卿がいたなら、出し惜しみすんなと言われそうな物ですが」
切り札は何枚でも隠しておいて損はない。そんな口調で嗤う教皇聖下。
「さて、これが教会兵器の力です。お前も一人で僕と……いえ、我々と戦うのは分が重いのでは?」
道化師が弾を防ぐ数式を紡ぐ、それを壊す。戦えば戦うほど幸福値を費やす消耗戦だ。対するイグニス様は、教会兵器の力で戦える。そしてアルドールが道化師を殺せるところまで追い詰めれば、私達の勝ちだ。
「……っ、権力者はやっぱりやることが違うね」
それが彼女の捨て台詞か。この場を引くことは受け入れたようなその言葉。それでも彼女はまだ何かを企む口調。
「その弾一発で国家予算何割持って行かれるの?」
「まったく、出世はするものだね」
「……ふん、だけどそれだけの武器、幾らも生産できるとは思えない。今の弾の触媒……値が張るし採掘量だって限定されている。つまりこの戦争が長引けば長引くほど、私にとっては有利だってこと」
「イグニス様!?いいんですか!?」
これから逃げに入る様子の道化師。これまで押さえていたはずの、少女の身体……その輪郭、感覚が薄くなる。
「どうせまた精神体ですよ。王が二枚もあったような危険な場所に生身で現れるはずがない」
「せ、精神体!?」
こんなしっかりと数術を紡げて、触れる者が?信じられない。
「仮に本体であったところで、まだここで道化師は倒せません。無駄に幸福値を消費させたくないのは我々も同じはず」
タロック王の撤退、そしてブランシュ領の解放。確かに当初の目的は果たせている。イグニス様の言葉は正論。
(それでも!)
道化師はカーネフェルとタロックを戦わせるつもり。またジョーカーカードの力で戦況を左右するだろう。祖国の敵を、見逃してなるものか!
「ここでみすみす彼女を見逃せばっ……!」
戦争は拡大。余計な犠牲者が出る。先程、一致した思想。それが何故?イグニス様を睨んだ私。それを遮るのは、弱々しい視線のアルドール。
(あっ……)
彼は私のカーネフェル。守るべき国の化身に等しい、カーネフェル王。
「ここで無理に戦って、みんなに何かあったら……」
「アルドール……」
駄目だ。今のアルドールは道化師にトラウマを刺激されている。その目は虚ろ。動揺して震えている。押さえた口元、背けられた顔……その場に倒れ込んだ彼が漏らす嗚咽と嘔吐。彼にはきっと、今……物事が正しく見えてはいない。再会してしばらく、素っ気なかったアルドール。異様に女性を怖がり距離を置くその姿。貴方はもう、見たくないものがあったんですね。
(アルドール……)
今のアルドールは、弱い。そして弱っている。
(私はこの人を、カーネフェルを守ると決めた)
私は守ってあげられていない。彼の心を、道化師の魔の手から。どうすれば、私は彼を支えられるんだろう。駆け寄ろうにも、私はまだ逃げかけている道化師から身体を離すことが出来ない。
「イグニス様……」
縋るように見上げた先、イグニス様は階下に降りて来られた。そしてアルドールに歩み寄り、そっとその背を撫でるのだ。
「“枢要徳が希望冠する壱の神……彼の涙を僕へと奪え”」
刹那、流れる心地良いメロディ。これまで聞いたこともないくらい、はっきりと聞こえる。あの時以上にはっきりと聞こえるそれは、何て優しい旋律の音。これが彼の作る数式。これは唯の回復数術じゃない。やっぱり彼は、本当に神子様。天と通じ合っていらっしゃる。これは天上の旋律。主の情け。憐れみによって引き起こされる奇跡。
アルドールに代わり、突然イグニス様が咳き込んだ。
「イグニス様!?」
「大丈夫です、問題在りません」
続いて一度の耳鳴り。最初から回復数術をかけるのではなく、彼はアルドールの痛みを引き受けた後に自ら治療。二度手間のそれを無駄だと人は言うかもしれない。それでも彼は敢えてそうした。
イグニス様は、アルドールの親友。その痛みを共有して、辛さを敢えて受け入れたのだ。対話と議論を重ねた私と私の親友の在り方とは、まるで異なるその関係。私も彼との友情になんら恥じるところはない。ラハイアは、私にとって今だって胸を張って誇れる無二の友人。それでも羨む心が芽生えたのは何故か?
(私は……、私はイグニス様が羨ましいのだ)
私もあんな風に、アルドールを……支えられはしないものか。縋るようにイグニス様の服を掴んだ弱々しい彼の手が、なんだかとても恨めしく思えた。私のカーネフェルは、私を頼ってくださらない。シャトランジアであるイグニス様に縋るばかりで。
(私はどうすれば、アルドールに信頼してもらえるのだろう……)
女の我が身が口惜しい。無理だとは言わせない。私は先に男性との友情を築いてきた。それでも駄目だ。アルドール、彼は私を拒むのだ。道化師が怖い?だからって……どうして彼と私は友人になれないのだろう。どうあっても私は、イグニス様以上の信頼を、彼から得ることは出来ないのか?
(私は怖くないのに)
私は貴方のためなら、貴方という国のためなら……この命、投げ出すことも厭わないのに。
「……なぁんだ」
残念そうな声が下から。思わず其方に目をやると、半透明になった少女が嗤っていた。
「アルドールが好きなんじゃなくて、アルドールを好きだったんだ」
「え?」
主語が抜けた言葉。それは誰と誰のこと?暫し考えそれが私と彼とのことであると知り、私は思わず動揺。
「わ、私と彼の友情にケチを付ける気ですか!?」
自分で言ってて情けない。彼と私はなんて薄っぺらい関係。伴侶なんて、名ばかりの。
「ジャンヌ様……?」
私と道化師のやり取りが聞こえなかったのか、ランス様が不安げな様子で此方を窺う。もう殆ど消えかけている道化師を前に、今更加勢もあったものではないと、前衛に近づけずにいるのだ。
「アルドールの言う通り。僕らがここで無理をしても何も始まりません。良くて相打ちが関の山。悔しいですが、期を待ちましょうジャンヌ様」
しゃがみ込んでアルドールの背をさすっていたイグニス様が上を向き、私に決意を促した。
「タロック王とあの数術使いの子は逃がしてあげた。そう簡単にこの戦争、終わらせてあげないから」
そのイグニス様の言葉を待つように、その言葉を聞いた後、道化師は完全に姿を消したのだ。最後まで彼女から手を離さなかったのに、私の手の中にはもう何もない。まるで初めからそこには何も居なかったみたい。いや……
(水……?)
そうか、イグニス様の策で生じた結露。その水を媒体に道化師は現れたのか。
「イグニス様」
私は水をハンカチに染みこませ、イグニス様へと差し出した。
「道化師は血を媒体に現れたようです。解析をお願いできませんか?」
道化師は血を残した。イグニス様の式を真似るように。それは撃たれた時の出血じゃない。だってここに本体が来ていないのならあり得ない話。私がハンカチに染みこませたのは、道化師の正体に繋がる手がかりかも知れない。
「……なるほど、あの数術か。解りました、教会のデータと照らし合わせて調べさせてみます」
教会の管理する情報の中に、一致する人間がいれば、道化師の正体に繋がるかも知れない。そんな期待を込めて頼んだけれど、そこで私は再び……自分の無力さを知るのだ。兵である私は戦うことしかできない。コートカードでは元素の加護も薄く、トリシュ様のように数術に目覚めることもないのだという。
(私には、何が出来るのだろう)
戦うことしか、出来ないのか。あんな風に弱った少年を前に、気の利いた台詞一つ出て来ない。彼を罵り叱咤したところで、今彼は奮い立たない。逆効果となるだけ。
「あ、そうだ。大丈夫でしたか?」
アルドールの傍で再びぼーっとしている青髪の少年。先程までのトリシュ様らしき人格も今は見えず、じっと私を見つめただけ。
「……お父さん?」
「え?いや私は……」
男に勘違いされている。いつもなら嬉しい。私の変装が板に付いているのだと誇れる。それなのにどうして?今、私の胸が感じる痛みは何なのだろう。男と間違えられたことに、違和感を感じている。何か居心地の悪い、妙な感覚。
「い、イグニス様!トリシュ様はどうなったんですか!?」
話題を逸らすように、少年から目を背け振り返る。
「被憑依数術と伺いました。それが剥がれたと言うことは…っ!トリシュ様は…っ!」
「エフェトスの数術は、彼が生み出した真新しい数術。解っていることはそう多くはありませんが、死に瀕した人間しか宿すことが出来ません。身体が死んだ時点で数式は解かれます」
「トリシュが、死んだっていうのか!?」
突然青ざめ、泣き出すアルドール。その背を抱くのかと思いきや……
「ていうか君、そろそろうざったい」
イグニス様、銃を手にした手でそのままアルドールの頬を張り飛ばすなんて!何て惨い!凄い音がした、ゴンって。あれは痛い。凄く痛そう。
油断していたところに痛恨の一撃。無理矢理引き剥がされたアルドールは尻餅をつく。
「大丈夫ですか?」
すかさずその手を取り助け起こすけれど、ありがとうという彼の顔には遠慮があって、その手も怖々私に触れていた。立ち上がるとすぐに、私からパッと手を離す。何の余韻も残さずに。
「イグニス様、トリシュは……」
私とアルドールの手が離れて数秒後。はっと我に返ったような表情のランス様。先の不穏な流れに流石に不安になったのか。友人を心配する素振りを見せる。
「安心してください、向こうにはセレスタイン卿が居ます。彼の幸運があれば死にはしませんよ」
「では」
「被憑依数術は、対象者が息を吹き返しても術が解ける。そう言うことです。さ、では適当に残党の相手をして、領地の平定を終わらせましょう」
「いや、その必要はないようです」
ランス様が指差す方向。トリシュ様を背負った金髪の女の子。彼女は腹部が割かれて血まみれのドレスを着ているけれど、身なりは良い。それでもチェスター卿に娘がいたとは聞いていない……
「ユーカー、無事で何より」
「うっせー、こっちは死にかけたってのに」
「ごめん、それ割と俺の所為だ」
「けっ」
「ええええ、せ、セレスタイン卿!?」
朗らかに嗤うランス様と、苦々しく顔を背ける少女の会話に、私はその子の正体を知る。言われてみればその少女、可憐に見えて何気に腹筋がそこそこ逞しい。
「ユーカー、トリシュは?」
「残念ながら無事だ。ほれ」
セレスタイン卿は、背負っていたトリシュ様をアルドールに押しつける。自分より長身の男を押しつけられたアルドールは再び倒れ込む。
「機嫌悪いな」
「当たり前だろ。ここに来るまで何回タロック兵に絡まれたと思ってんだ」
「そうだな、野獣の群れに投げ込まれた生肉みたいなものだなそれは」
セレスタイン卿が、残党狩りをしてくれたのだろう。城はほぼ制圧されていた。
「ユーカー、チェスター卿は?」
「……あの爺なら改心させた。だが……年の所為でだいぶ焼きが回って来た」
ユーカーに続いて現れたのはこの城の主だった男。チェスター卿はとても優しい笑みを浮かべていたけれど……それが向くのはセレスタイン卿に向かって。
「フルール」
「……何、貴方?」
話を合わせるように無理矢理女声を演じる騎士様。
「トリシュがこんなに大きくなったというのに、お前は今日も若く美しいな」
「もう……、冗談はお止しになって。私の名前はイズーですよ。また亡くなられた前妻様のこと?」
「そうか、イズー……良い名だ」
「息子の妻を口説くなんて、トリシュ様が起きたら怒られますよ?」
優しく笑う。それでもセレスタイン卿の瞳は悲しげだ。私達に話せない、何かがあったみたいにとても……心細そう。
これはどういう状況だろう。私は小声でイグニス様に問いかけた。
(イグニス様……あれは?)
(彼にはセレスタイン卿が、失った妻に見えて居るんでしょうね)
これはもうボケが来ていますねと、イグニス様が頷いた。
(ですがこれで後のことは上手く行きます。領主は痴呆になられた。この領地は新たにトリシュ様が治めるしかありません)
(よ、よく分からないけど……トリシュとチェスター卿は、和解できたって事?)
(ああ。どうやら彼は、仲違いとなった原因を忘れ……セレスタイン卿を妻の生き写しだと思い込んでいる)
アルドールの問いかけにも、自信たっぷりにイグニス様は頷いた。そんな彼を恨めしそうに見るのはセレスタイン卿だけだ。その悲しそうな目が気になって……私は胸の中に妙なしこりが残る。目的の殆どは達成できたというのに、何故だろう?まるでナイフを胃の中に飲み込んでしまったみたいだわ。




