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0,3:Quia natura mutari non potest idcirco verae amicitiae sempiternae sunt.

 最初はこんなじゃなかったはずだ。もっと普通に。もっと簡単に。唯、楽しくて……唯好きで。ずっとそんな風に馬鹿をやっていられるんだと思っていた。

 だけどお前は俺とは違う。お前には俺がわからない。お前にだって言えないことがある。俺が何で、俺が誰か。打ち明けることも出来なかった。

 最初に距離を作ったのは俺。俺がああだったから、お前は俺にも何も言わなくなった。

 当然だ。自分のことは話さないのに、お前には話せだなんて、不公平にも程がある。

 それなら。その最初以前は……どうだった?そうだ。存在くらいは知っていた。父に兄が居る以上、その兄に子供がいるんなら、自分には従兄弟と呼ばれる相手がいることくらい。

 それでも互いの領地はあまりに遠いから、会ったことなんてなかった。名前だってよく覚えていなかった。興味もなかった。

 あの頃の俺にとってのユーカーなんて、その程度のものだった。


 *


 それはある日突然。母さんが居なくなった。

 母さんは沈んでいったのだと、使用人達はそう言った。湖の中に沈んでいったと。俺は待ち続けた。母さんが浮かんでくるのを待ち続けた。

 毎日家を抜け出して、朝も昼も夜も……母さんを待っていた。父さんは気にもしなかった。だって家にいなかった。騒ぐのも迎えに来るのも使用人の仕事だ。

 そんな風に湖に通い詰めてどれくらい経っただろう?ある日、俺は新しい母さんと出会った。湖を覗き込む俺を、湖の中から見つめ返してきていたのが新しい母さん。飛び込もうとした俺を止めるように飛び上がってきた彼女は、俺に理由を尋ねた。何時まで待っても母さんが浮かんでこないから、俺が潜って探しに行こうとした。

 あの頃の俺は死の概念を正しく理解していなかった。もしくは受け入れられなかった。沈んだイコール死んだと結びつけたくなかった。そこに気付いた彼女は俺に、「ただいま、心配かけてごめんね」と微笑んだ。

 だから俺は母さんが帰ってきたのだということにして新しい母さんを受け入れた。新しい母さんは小さな身体をしていた。水のような透き通る青色の瞳と不思議な羽を持っていた。だけど何より不思議なのは、新しい母さんはみんなには見えていないと言うことだ。彼女が母さんじゃないことはすぐにわかった。それでも優しい嘘を吐いてくれた彼女を俺は大好きになった。だから俺は彼女を母さんと呼ぶようになった。何時しか心から。

 だけど母の死を悲しんでいたと思ったら、ある日を境にへらへらと笑い出して独り言が増えた俺を見た人達はとうとう俺の気が触れたのだと思い込んだ。しかも何やら母さん母さん言っている。確かに端から見れば当時の俺は怪しかったかもしれない。薄気味悪かったかもしれない。恥や外聞を気にするのは何も従弟の家に限ったことでもなかった。滅多に帰ってこないこんな辺境領の主さえ、それは変わらなかった。そしてそういう事を口にしないのもあの男のやり口だ。確か久々に帰ってきたあの男はこんなことを言っていた。


 「そうだランス、ちょっと父さんと一緒に旅行に行かないか?いい気分転換になるぞ」


 そう言って父は無理矢理俺を馬車に乗せて船に乗って南部に下り、父の兄というセレスタイン卿の領地まで連れ去った。俺をそこに預けたかと思うと父は数日後にはもう姿を消していた。慣れない土地に1人送り込まれた俺は、肩身の狭い思いをしていた。どうしていきなりこんな遠い場所に置き去りにされたのか解らなかった。

 周りはそれを養生だと言っていた。俺が疲れているのだと言っていた。正確には憑かれていたのだが、当時の俺がわかるはずもない。母の死でショックを受けた俺が有りもしない幻覚を見ているのだと、父も医者も言っていた。みんながみんな母さんを否定する。


 《仕方ないわよランス。みんながみんな精霊を見ることが出来るわけじゃないもの》


 こればっかりは才能ね。そう言って母さんは笑った。


 「才能?」

 《そうよ!ランスは凄いのよ!》


 みんなは俺をおかしいと言うが、母さんはそういうみんなが可哀想なのだと嘲笑っていた。

 そんな風に独り言を繰り返す俺を、屋敷の人々も気味悪がっていたのだろう。この家にも子供がいると聞いたけれど出会わなかった。いや、女の子が何人かはいた。俺が顔を合わせたのは従姉妹。

 彼女たちは最初こそ俺と遊んでくれたが、みんな母さんが見えないらしく、母さんがふて腐れるので俺は彼女たちと遊ばなくなった。独り言を繰り返す俺を危ないと思ったのか彼女たちも近づかなくなった。別に寂しくはなかった。俺には母さんが居た。

 セレスタイン伯父さんの領地は結構な自然があった。それでも南部は北部より大分暑い。母さんは日陰と水を常にご所望だった。母さんは湖の精だから水辺を好む。馬車旅の際は干涸らびそうになっていた。帰りはずっと船が良いと恨めしそうに言っていた。


 《ランス!こっちから水の気配がするわ!》

 「待ってよ母さん!」

 《はぁ、良い香りぃ~これはきっと小川ね……南部の水もなかなか味があって良いわね。無理してでも一生一度は旅をしてみるものなのかもしれないわ》

 「待ってってば母さん!僕は飛べないんだよ」


 すいすいと草木をかいくぐっていく母さんと俺は違う。裏庭はろくに手入れがされていないのか、それともこういうスタイルなのか、子供の足では歩き辛い道だった。そんな裏庭を一歩一歩懸命に歩く俺の耳に、聞こえてきた声があった。


 「とうとう幻聴まで聞こえてきたか……」


 幻聴?むしろその声こそ幻聴ではないのかと自問自答。辺りを見回すが誰もいない。それでも溜息まで聞こえてくる。顔を上げれば二階の窓が開いている。そこから風に揺れる金色の髪が見える。二階には上るなと言われていたから知らなかった。それでもそこに誰か居るのは解った。その人が今の言葉を言ったのだろうか。


 《幻聴ですって!?失礼なっ!》

 「う、なんかさっきよりそばで聞こえる」

 「…………母さんの声を、聞ける人がいるなんて」


 母さんは二階の窓まで飛び上がりその声の主に文句を言っている。俺はそれを呆然と眺めるだけ。


 「って何か痛ぇっ!冷てぇっ!」


 母さんが実力行使に出たのを察し、俺も何とかしなければと近くの木を伝い二階の屋根へ。

 見れば母さんがその子の頬を思いきり抓っている。

 精霊を認識できない人間は、精霊に触れることも出来ない。抓ることが出来ると言うことは彼は母さんを認識していると言うことだ。


 「君も、精霊が見えるんだ!?」


 そんな相手に出会ったのは初めてで、凄く嬉しかったのを覚えている。寝台に腰掛けていた彼の両手を掴んで真っ正面から向き合ってそこでやっと俺は気付いた。過ちに。

 彼の両目は塞がれていた。グルグル巻きの包帯で光も通さないように隙間無く。


 「精霊?何だそりゃ」

 《この子、見えない分聞く方に特化してるんだわ。勘が良いっていうか何て言うか……あ!避けるなんて見えない癖に生意気よ!!って放しなさいっ!》


 勘が良い。それは本当に。見えないすばしっこい母さんを手づかみで捕らえるなんて並大抵の力量ではない。


 「でかい蠅がいたもんだな。最近の数値異常は怖ぇな。言葉まで喋るのか……」

 《誰が蠅よ!私は精霊だって言ってんでしょ!早く放しなさいよ!人間臭くなったらどうしてくれんのよ!》

 「お前の飼い主は人間じゃねぇのかよ」

 《私は基本的にガキには興味ないのよ!早くその手を放しなさい!童貞臭さが移るっ!!》

 「む、むしろ褒め言葉じゃねぇか!清らかって意味で。っていうか十にも満たないガキになんつーことを言うんだよ変態っ!!つうか仮にお前が精霊なんちゃらならむしろそういうの好きそうじゃねぇか。やっぱお前蠅だろ蠅。正体現しやがったな!」

 《精霊的にも価値がある童貞のとそうじゃないのがあるのよ!ちなみにストライクから外れた奴はみんな価値無しだからっ!ていうか十にも満たないガキの癖に変な知識だけ何であるのよ気持ち悪いっ!子供の癖に純真さも無邪気さもないのね!本当っ!可愛くないわ!うちの子とは大違いっ!》

 「俺が暇だっつったら嫌がらせのように爺やが発禁上等の官能小説とか変態小説ばっか音読しくさるんだよ!!わかんない単語あったら手上げて発言しろっていう徹底鬼畜英才教育だこんちくしょう!!何がプリーズアフタミーだってんだ!何で隠語ばっかり書き方練習させられるんだよ!!俺だって俺だって……別にんなもん聞きたくねぇやいっ!!見えないなりに俺も苦労してるんだよ!!」

 《い、嫌だわ何よその言葉責めっ……今度ちょっと呼びなさいよ。面白そうだから見学したいわ》

 「絶対呼ばねぇっ!!ていうか出て行け!俺の昼寝の邪魔すんな!!」

 「ねえ母さん、そのどなんとかって何?」

 《ら、ランスには関係ないのよ?10年後くらいにあんたがいい男になった頃に母さんが手取り足取り教えてあげるから》

 「来てくれ爺やっ!俺の部屋に変質者が現れたんだ。聖十字に通報……」

 《まぁ!可愛くないガキっ!精霊を通報しようだなんてっ!!》

 「あ、つぅかあいつも変態だっ!どうしよう……やっぱ来んな!!」


 涎を垂らして笑い出した母さん相手にベッド横の隣室の壁を叩きまくっていた少年は、一瞬何やら思い出したのか思い直してそれを止める。しかし、止めた途端勢いよく隣の部屋から駆けてくる初老の男。助けの声には応えず来るなと言われた途端駆けつけるとは確かになかなか変わっている。男は室内を見回すが、やはり母さんは見えていないのか俺で視線を止めて少しだけ驚いたような顔になる。


 「坊ちゃま、その子は変質者ではなく、ランス様ですよ」

 「まぁそうだよな。変質者は爺やの方だもんな。んでランス?誰だそりゃ」

 「坊ちゃまの従兄様ですよ」

 「なんでその俺の従兄様々が俺の部屋の窓から現れるんだよ」

 「遊びにいらしてたんですよ」

 「聞いてないんだけど」

 「聞かれませんでしたしね」

 「何で言わないんだよ」

 「どうせ言っても坊ちゃまとは会いませんでしょうし、必要ないと旦那様が」

 「あっそ」


 ふて腐れたように少年はベッドに潜り込む。そして気を悪くした八つ当たりなのか俺と母さんに向かって手を払う。


 「早く出てけよ」

 《まぁ!礼儀のない奴だわ!》


 でもなんとなく、窓から入ってきて突然頬を抓り出す母さんの方が酷いような気もした。そんな気がしたからなのか、俺は彼に謝った。


 「ごめん、勝手に入ってきて……」


 いや違う。口実が欲しかったんだ。もう少し話したかった。母さんを認識できる相手と、共通の話がしたかったんだと思う。


 「……また、遊びに来ても良い?」

 「別にどうでもいいけど、たぶんお前は二度と来ないぜ」

 「え、何で?」

 「そういうもんだからさ」


 最後に彼は少し笑った。扉を閉め、外へと促す老人に連れられて廊下を歩く内、その理由が明かされた。


 「ユーカー様は病を患っておいでなのです」

 「病気?外に出られないなら僕が遊びに行くのは……」

 「それも駄目です。坊ちゃまの目を見ましたか?」

 「目の病気なんですか?包帯してましたけど……」

 「ええ。あれは空気感染の眼病でしてな。私のような老い先短い老人なら兎も角、ランス様のようなお若い方が感染して失明なさっては大変ですからな」


 老人の話を聞き流しながらこっそりと母さんに尋ねると、母さんは羽をパタパタさせながら首を捻った。


 「ねぇ母さん……そんな病気ってあるの?」

 《さぁ。感染はともかく……そんなにすぐ失明する?それも空気感染?あいつ目で呼吸でもしてるの?目息でも吐くの?目からくしゃみを飛ばすの?聞いたこと無いわ》


 その時は、物知りな母さんでも知らないことがあるんだなとぼんやりと考えた。そしてあれは食事が終わった後だったか。俺は伯父さんに呼び出された。そこで彼は唐突にこう切り出した。


 「ランス君、君はあれに会ったそうだな」

 「ご、ごめんなさい」


 伯父さんは表情が硬く目つきも鋭くいつもむすっとしていて怖いというのが第一印象。だから怒られるのかと思った。あれほど2階には上がるなと言われていたのに。それを責められるのかと思った。しかしそうではなかったようで彼は薄く微笑んでさえ居る。


 「いや、構わない。本来ならすぐに失明していたもおかしくないところだったが、何ともないところを見ると君には抗体でもあるのかもしれない。あんな境遇だ。あれも暇しているのだかな、いつも暇だと文句を言っている。君さえ良ければあれと遊んでやってはくれないか?」


 おとがめ無しの上、その言葉はとても嬉しい。それでもやはり疑問は残る。


(ねぇ母さん……そんな病気あるの?)

 《さぁ、聞いたこと無いわ》


 小声で尋ねるとやっぱり母さんは首を振る。


 「ランス君?」

 「え、はい!喜んで!」


 ただし絶対にあれを連れてあの部屋から外に出ては行けないと約束させられた。他の人間は抗体がないから大変なことになるということだった。何とも嘘くさい説明だ。こっちを子供だと思って馬鹿にしている感が漂っている。何処まで本当かわからないから俺の中に不満が残った。

 それでも許可が出たのは嬉しい。俺は早速彼の部屋へと駆けていく。それは本当に彼にとっては予想外だったのか、彼は大口を開けて驚いた。


 「マジでまた来たのかよ。お前失明希望者?」

 「僕には抗体があるから大丈夫なんだって」

 「ないないないない。んなもんねぇから帰れ。俺は今絶賛だらけ昼寝中で忙しいんだ」

 「限りなく暇そうな用事だね」

 「お前馬鹿にするなよ。この明るさの中昼寝をするのって意外と根気と根性要るんだからな」

 「そこまでして昼寝したいんだ?」

 「だって他にやることねぇだろ。外には出れねぇ。本も読めねぇ。爺やの勉強という名のセクハラ祭りにはうんざりだ。こんな目で何しろってんだ」

 「じゃあ聞かせてよ」

 「は?」

 「君の話。僕は君のことよく知らないし」

 「無論断る、やなこった。大体他人に自分を語れるほどの密度が俺のこの生活に在ると思うか?」


 従弟は口が回る。ああ言えばこう言う。此方の言葉をことごとく拒絶されていく。それでも此方が何かを言えば必ず言葉を返してくれる。本当の意味では拒絶されてはいないのだろうか。


 「…………母さん」

 《本当にもう、うちの子は本当に優しいんだから》

 「うぉっ!冷たっ!!な、何だよ放せっ!」


 母さんへ視線を向ければ、俺の意図することを理解しすぐさまユーカーの動きを封じる。空気中から水を取り出しそれを瞬く間に氷に変え、彼の両手を拘束したのだ。


 「おい、ちょっと待て。なんだよこれは」

 「目が良くなれば一緒に遊んでくれるんだよね?」

 「言ってない!もうお前帰れよ」

 《ランスの数術は本当なかなか筋がいいのよ?回復数術をマスターしたなら、こんな片田舎の民間療法なんかよりずっと良い治療が出来るに決まってるわ》

 「違っ……ええと、そうじゃなくて!止めろって!つかなんだその不確定要素満載の発言はっ!」

 《何よ文句ある?まだマスターしてないってだけのことよ》

 「最悪じゃねぇかっ!なんかやばいことなったらどうするんだよっ!?」

 《どうもしないわよ》

 「最っっっっっっっっ低だなっ!!」

 「あ、そっち窓っ!」


 丁度俺が両目の包帯に手を掛けた時だった。暴れて後ずさったユーカー。背後に控えた窓へと身を躍らせる。窓から見下ろせば、蹲っている従弟の姿。


 「だ、大丈夫!?」

 「痛っ……」


 何処か捻ったのだろうか。彼を追って裏庭へと飛び降りる。腕の氷は衝撃で割れている。そう高くはないとはいえ、無理な体勢での落下。何処か痛めているかもしれない。怪我はないかと近づいて、俺はそこで初めて彼と目が合った。


 「!?」


 手を見れば、包帯は俺の手に握られていた。そのまま彼が落下したんだから、解けてしまったのも無理はない。

 目が合うということは此方だけではなく相手も俺を認識視覚しているということになる。

 俺がそれが彼だと認識するまで数秒かかったように、彼もしばらくの時を要した。それぐらい意外だったんだ。俺にとっては。

 彼の目は俺のそれとは違っていた。父の目と伯父の目は同じような青だったのに。

 遺伝とかそう言うものをあの頃はまだ知らなくて、それでもカーネフェルの人間はみんな青い眼をしていると思っていた。いや、でも個人差というのもあるんだろう。それくらいは解る。だって俺の目の色は父のそれよりもいくらか濃い色をしていたから。

 それでも彼の目はあまりに薄い。それを青と呼んでもいいものだろうか?左目は辛うじて青。それでも俺のそれより遙かに明るい。そしてその右目は、青と言うよりももっと薄く明るい空色だ。この目の色素の異常こそ、彼の眼病なのだろうか。そう思った俺は彼の方へと片手を近づけ、数式を紡ぐ。

 式の記述は上手くいってる。そこまでは行く。唯展開が上手くいかない。だから望む答えを導き出せず、数字は奇跡を起こさず霧散する。だからまた失敗だとはわかった。それでも一応聞くだけ聞いてみる。少しは何かがあったのかもと期待して。


 「……一応、かけてみたけど何か変わったこととか、ある?」

 「全然変わんねぇ」

 「ごめん……まだちゃんと使えないから」

 「お前馬鹿か?」


 俺の心配に、彼は盛大に溜息を吐く。心底呆れられているようだ。


 「え?」

 「あんなの嘘に決まってんだろうが。俺の目を他の奴らに見せないためだっての」

 「どうして?」

 「俺はこの家の恥なんだよ。Sweep the trouble under the carpetってことだ。……にしても“母さん”か……」

 「あ、うん。こっちにいるのがヴィヴィアン母さん。職業は精霊で普段は湖の精をやってるけど今は僕の養母さんなんだ。僕の数術の先生だったりもするよ」

 《別によろしくする気はないけど、ランスがどうしてもっていうから挨拶してやるわ。感謝するのね》

 「精霊に、数術ねぇ……どっちも才能云々って話だろ?話くらいは聞いたことあっけど、俺の親戚にその使い手がいたとはなぁ」


 俺が母さんが何か言う度に彼は呆れていくようだ。雲の上の話でも聞いているような顔をしている。


 「……信じられない?」

 「信じられねぇっつぅより何つーか、驚いたってか。俺には一生関係ない世界の話だと思ってた」

 《こらっ!聞こえてるのに私を無視するなっ!!》


 従弟は左右を見回すが、やがて小さく首を振る。それが俺の期待を裏切ることだと彼は察していたんだろう。


 「悪い。聞こえるけど、見えはしないな」

 「そっか……」

 《えぇ?聞こえるのに見えないの?どういう神経してるの?才能微妙過ぎるわよ?やっぱり神は二物も三物も与えるって言うのかしらぁ?可哀想ねぇないないないで才能一つもないなんて》


 「母さんちょっと、黙ってて」

 《ひ、酷いわランス!うん解った!》

 「聞くのかよっ!?文脈なんか矛盾祭りじゃねぇか!」

 《嫌ねぇ、この天然なのに鬼畜入ってるところがいいんじゃない。でもまだまだね。頑張って私好みの男に育てなきゃ》

 「随分と低俗な精霊がいたもんだな」

 「ユーカー、今は母さんのことなんかどうでもいいよ」

 《きゃぁっ、ナチュラルに素敵に鬼畜だわっ!!いいっ!!いいのよランス!母さんそういうプレイも嫌いじゃないから!》


 話を脱線させる母さんを適度に放置しながら、俺はユーカーに数術についての話を行う。


 「へぇ。それじゃあ数術ってのが使えれば、いろんな事が出来んのか」

 「うん。理論上は何でも出来るって話だよ。人間の限界っていうものがあるから出来ないことも多いってだけで」

 「それじゃあその限界的にお前は回復術は出来ないっていうわけか?」

 「限界って言うか……どうなんだろ母さん?」

 《大丈夫よランス!筋は良いわ!式も丁寧で可憐で荘厳で本当に綺麗よ!純血でその若さでここまでやれるのは十分凄いと思うわよ。唯……うん、展開ねぇ……こればっかりは練習ね。ランスは唯練習不足なんだわ》

 「練習かぁ……」

 《ちょっとあんた!もっかい落としてあげるから今度はちゃんと怪我しなさいよ。それでうちの子の練習相手になりなさい!って無視するんじゃないわよ!!》


 「……お前はいいな。あんな喧しいのでも、お前には母さんが居るんだろ」


 彼にとっては酷いことを言っていた母さん。それでも俺への愛情がそこから感じられたのか、彼は今回ばかりは母さんに言い返さなかった。

 それどころか彼は母さんを否定せず、俺を否定せず、俺を羨むようなことを口にする。それはとても嬉しいことだった。そんな風に言ってくれた人は今まで誰もいなかった。聞こえない振り見えない振り、ここにいる俺の言葉さえ父の領地では黙殺されてきた。

 だから本当に嬉しかった。多少失望したとはいえ、喜びはそれに勝るものだった。

 だから考える余裕が出来た。彼の言葉により俺の中に新たな疑問が生じたのはそのせいだ。


 「母さん?ユーカーにだっているだろ?」


 この屋敷ではユーカーの姉に当たる少女達が居た。そしてその母親という女性もいた。なら彼女は彼の母でもあるはずだ。


 「いるけどいねぇんだよ」

 「何それ」

 「何だろうな」


 曖昧に濁す笑みで彼は笑う。


 「つかそんなことはどうでもいいから、それさっさと返してくんね?早く戻さないと俺が親父に殺される」

 「あの伯父さんがそんなことする?ちょっと怖い感じはしたけど、俺の勘違いだったみたいで結構優しかったよ?」

 「あいつが?……いや、お前にそう見えるんならそうかもな」

 「そうだよ。ユーカーと遊んで良いって言ってくれたのも伯父さんなんだし」

 「はぁ……あいつが、ねぇ」


 信じられないという風に、彼は何やら思い悩む。けれどそんなことはどうでも良かった。俺は彼の悩みより、俺の都合を優先していた。だから現状への不満が更に膨らんだ。


 「……じゃあ、それ病気じゃないんだ」

 「色素異常が病気だって言うんなら俺も混血もみんな病気ってことになるけどな」

 「それじゃあ何も悪くないのにどうして隠すの?」


 俺は普通に彼と一緒に外で遊びたかったのだ。見知らぬ土地に遊びに来たのに、屋敷に籠もりきりというのは彼じゃないけどつまらない。それなのに彼は、俺の言葉に予め用意されていた解答を繰り返し唱えるだけ。そんなものは理由にならない。そんなもので俺は引き下がったりしないのだ。


 「だから恥だからって言っただろ」

 「そうかな……俺は好きだよ」


 俺がそう笑いかければ、彼は口をぽかんと開けて目を見開いていた。

 空の青は水とは違う。沈めて殺す青じゃない。吸い込まれそうな明るい空の色。それは見る者の悲しみも吸い上げて忘れさせてくれるような温かさ。その青にしっかりと俺が映されている。認識されると言うことはとても嬉しいことだから、俺はそんな風に驚いているそいつの青がとても好きだった。だからだ。また驚かせたくなったのは。


 「せっかくそんな空みたいで綺麗な色なのに、隠すなんて勿体ないよ」


 *


 すべては偶然だ。偶然彼と出会って、偶然話し相手を任されて、偶然知った彼の目の色。

 海の浅瀬のような左目とそれより明るい空色の右目。それは真純血として本来あり得ないほど薄い色。唯の純血だってここまで明るい色を現すことは難しい。

 世間知らずの俺がそれを知ったのは、彼にそれを教えられてから。だから愚かな俺は、その色を綺麗だねと口にした。その時彼は俺の青を、どんな思いで見ていたのか。俺はとても残酷なことを口にしてしまっていた。

 それはとても懐かしく、遠い日の思い出。それが今も色褪せることがないのは……俺にとって大切な記憶だから。それをとても懐かしく思うのは、俺が悔やんでいるからだろう。

 悔やんでも悔やみ足りない。いつも俺の言葉は至らない。だから不用意に傷付けてしまう。その解決策にと俺は会話自体を減らし、そして悔やむことも忘れてしまったのだ。優先順位が一位でないのなら、いくらだって傷付けても良いと俺は開き直ったのだ。

 だけどあの人が死んでしまって、その亡霊を俺は求めているけれど……願いを使ってまであの人を蘇そうとは思えない。それは俺にも殺したくない相手がいるからなんだとそう思う。暫定的にはこいつが今のところ最も大切なんだろう。それはわかる。それは知っている。それなのに俺はまだこいつを傷付けている。

 お前はアルドール様に仕えているわけじゃない。それでもこうして命令もないのに守っている。イグニス様は言った。俺が王への償いのためだけに生きていること、それは周りを傷つけると。そのもっとも顕著な例がこの従弟。俺の勝手に振り回されて、俺の八つ当たりをぶちまけられる。俺はほとんど顧みないのに、文句を言いながらそれでも俺の目的には従う。俺が頼みもしないことを、こうして勝手にしてしまう。


 「ユーカー!」

 「うぁっ……って、ら……ランスいきなり何しやがるんだお前」


 すぐ傍で怒鳴ればすぐに目を覚ます。背後が壁だったのが幸運か。あの時のように窓から転げ落ちるようなことはなかった。

 起こしたのは自分の足で部屋に戻って貰うためだ。本当は部屋に運んでやれれば良かったんだけれど、こいつももう子供というわけでもない。引き摺るにしろ担ぐにしろ手間が掛かる。

 それならせめてお疲れとかありがとうとか言えればよかった。でもそれは出来ない。そんな言葉でこいつは言い負かせない。負けて良い時ならそう言っても良いが、今はそうじゃないのだ。


 「見張りなら俺がする。眠いなら戻れ」


 厳しい口調でそう言うも、こいつはやはりその場から動こうとはしなかった。あくまで見張りは自分がやるという顔だ。


 「そういうお前も眠そうな顔してるぜ」

 「どうしてそう思う?」

 「お前が機嫌悪そうな顔してやがる時は大抵お前は寝不足だろ。余裕がないって顔に書いてる」


 俺以上に俺を理解しているような口ぶりだ。それは事実なのかも知れない。それでも、それなら解っているはずだ。そんな言葉で俺が引き下がる男ではないことも。それなのにどうして解らない振りをするのか。


 「変な時間に寝るもんじゃねぇな。目が冴えて暇で暇で仕方ねぇ。俺の夜目は馬鹿になんねぇし、まぁこいつに何かあっても目覚めが悪いしな」


 だからここにいる、そんだけだとユーカーはそっぽ向く。小さな欠伸は寝起きの所為だと言わんばかりの表情で。

 それにランスは言われて気付く。コンプレックスの象徴であるその目を隠すことなく、彼の両目が開いている。それが意味するのは、今の彼が本気だということ。本気で王を守りに来ている。気を張り巡らせている。敵の気配を察すれば、瞬時に抜刀し斬りかかる。向けられる殺気は自分へのものではないとわかるが、その気迫に息を飲む。潜在能力の高さは知っていた。それでもこんな目を見ると、彼がどこまで嘘を吐いているのかわからなくなる。


 「ありがとう、でもお前も疲れただろう?次は俺が代わるよ」


 ……だから俺も嘘を吐く。ありがとうだなんて少しも思っていないのに。優しくもないのに優しい振りをする。そういう甘い言葉をかければ、こいつが引き下がる奴だと知っているから。最初は本心からそうしていたはずなのに、いつの間にかこいつを知る内に、打算的な物になってしまった。こんな物もはや優しさなんて呼べもしない。

 それでもこいつは優しいから。騙されてくれるんだ。俺がそうやって微笑めば、こいつも軽く笑って……………それは、いつもと違う笑い方。


 「だが断る。暇で暇で死にそうだって言っただろ?」


 おかしい。どういうことだ?いつもなら、ここで引き下がる。こいつはそういう奴なのに。何かが違う。これまでと。


(本当に……どうしたんだ、ユーカー?)


 よく知った人物なのに、見知らぬ人間を見ているよう。何を考えているのかわからない。いや表面上はわかる。唯、もっと奥。心の奥底で何を考えているのかが今は見えない。見えないというのは違うかも知れない。これまでこいつにはそういう物が何もなかった。空っぽだった。漠然としていた。

 騎士なのに何を守りたいのかとか誰のために戦っているのかとかそういう意志が欠けていた。理由もなく、唯何かから逃げるように剣を振るっていただけだ。その先には多分何もない。何も見えないままそういやってこいつは生きていた。見ていて危なっかしい。それでも迂闊に触れられない刺々しさ。

 だけど今は、何かじっと遠くの方を見据えている。以前よりは印象が僅かに和らいだ?でも以前に増して沈んでいる。以前のこいつは沈没船を渡り歩いて息を繋いでいるような眼をしていた。それが今はもう、冷たい海の底。呼吸をすることも諦めてしまったような諦観がそこにはある。それでもその眼は水上の光を見つめている。希望を信じなくとも、希望に焦がれ見つめているのだ。

 その苦しみの理由を知りたいと願っても、それが呼吸もままならないこいつから酸素を奪ってしまうような気がして気が引ける。だけどこのまま見つめていてもこいつが酸欠で死ぬのは目に見えている。この手で殺すか見殺しにするか。それが俺の手に託されているのでは?そんな予感が胸を過ぎった。


 「多忙な人間はさっさと休め。大体お前は明日からだって忙しい人間なんだ。休める時に休んどけ」

 「それは大丈夫だ。俺もちゃんと明日からお前を馬車馬のように扱き使うからお前もスケジュールはびっしりだ。というわけで休むのはお前ということになる」

 「残念だがそれは飲めねぇ話だな。俺はこの糞暇な時には働くが、周りが働くときは何が何でもふけるさぼる逃げる隠れる!ろくな給料も出ねぇのにやってられっか」


 蟻の巣だって、蜂の巣だって怠ける奴は必ず現れる。そして人間社会で言うそれがこの俺様だと従弟は無意味にふんぞり返る。それが本心からの言葉ではなく、自分を引き下がらせるためのものだとは解る。けれどそれを指摘したところで彼が認めるはずがない。そういう奴なんだ昔から。


 「どこまでお前は天の邪鬼なんだ……」

 「馬鹿かお前?素直な俺とか想像してみろよ。全面的に全体的に総合的に気持ち悪いだろうが」


 相手を言い負かすためなら自虐ネタも厭わない。どこまでこいつは捨て身なんだ。

 普段貴族がどうとかプライドがなんだとか喚いている癖に、こんなにあっさりどうでもいいと言わんばかりにそれさえ投げ捨てる。こいつのこういうところがわからない。というかこいつのこんな姿を俺は知らない。

 こいつが自分を自ら貶める事なんて……久しくなかった。その目の色を相手に忘れさせるほど、高圧的でいつも自信に満ちあふれていて、貴族らしい誇り高さと横暴さを身につけていた。そのこいつが、こんなことを口にするなんて世も末だ。何か変な物でも食べたのだろうか?

 しまった、間が空きすぎた。そのせいでこいつがそれを肯定の限りなく悪い意味の方だと受け取り始めている。別にそんなつもりじゃなかった俺は慌てて否定する。


 「……むしろそういう方が助かるんだが?」

 「あ、悪い。気持ち悪いのはお前の発言の方だったな。夏だってのに鳥肌立った。っつかマジ空気読めよ。今のは同意してそこで俺がツッコミ入れるところだろうが」


 肯定をご所望だとは、これまた意味がわからない。それにしても何なんだ?

 俺の行動を読み取ってそれを手伝うようなことをしたかと思えば、こうやって平気で俺を貶める言葉を作る。それなのにどうして、こんなところにいるのか。重んじているようにしているものが、実は心底どうでもいい。その癖普段馬鹿にしたり口汚く罵ったり軽んじているものが、本当は何より大切。自ら進んでその上辺に騙させて人の誤解を招いて、それで何が満足なのか。解る奴だけに解って貰えればいい?そんな風なこいつを見るのは初めてじゃない。妙な既視感。こんなこと以前にも思ったような気がするのは何故か。


(ああ、そうか)


 そんなに似てはいないのに、どうしようもなく駄目なところばかりが二人揃って似通っている。俺もこいつもとても狭く息苦しい場所に生きているのだ。見ている場所は違くとも。

 俺にとっての王は同時に存在成し得ない。だけどこいつの王は一人じゃない。それでも王のためにしか生きられないところは同じ。

 こいつが彼女を失って、あの人も失って、……それでも死に急がないのはまだこいつの王がいたからだ。俺の王はあの人で、今はアルドール様だけど……こいつにとってそれはたぶん、俺なんだろう。あの人に仕えたときのように文句を減らず口を言いながら、それでもこうして支えてくれる。


(そういうことだったんだ……)


 今更になり、王がこいつを信頼したのがわかる。機械でも人形でもない。生きた人間として心を捧げて仕えてくれる。罪悪感とか金のためとかそんな気持ちで仕えているわけじゃなくて、純粋に慕って力になりたいと思ってくれている。こんな最低な俺を唯好きでいてくれるんだ。

 不信に囚われそうになる敵ばかりのこの都で、王が笑っていられたのは、俺を許す余裕を持てたのは、こいつがそこにいたからなんだ。

 命令に従わない騎士と、命令に従う騎士。

 命令通り命令だけ守って王を守れない俺と命令を破って好き勝手するイレギュラー。いざという時、頼りになるのはきっと俺じゃない。だからあの人もこいつを側に置いたんだ。あいつの動きは敵も味方も予測不可能。あいつは賽子。良くも悪くもなる賽の目。

 王はその勝負に出て、勝負に負けたのだ。王はこいつの6を信じた。6が出なければ勝てなかった。俺ではきっとどう足掻いても5しか出せない。だから1から6までの可能性。それに王は賭けて負けた。

 それでも王はこいつを呪ったりはしないだろう。王はこいつに癒されていたんだ。王を恐れず、王を敬わず、それでも王を愛し慕っていたのはこいつだけ。

 こいつは本当に真っ直ぐに人に心を捧げる。俺がどんなに酷い人間でも、俺を嫌わず、俺を憎まず、まだ俺なんかを支えている。俺がこいつに何をしてやったというのだろう?何もしていない。傷付けてばかり。それなのに何故?

 アルドール様に仕えろと俺は言った。カードに仕えろと。それはつまり……俺は今日までお前に死ねと、それが騎士の在り方だと言っていた。その程度だ。出会って間もない他人のために、家族のように大切だったお前に死ねと俺は言ったのだ。それが当然なのだと決めつけて。

 自分の言葉の残酷さを、今更のように思い知る。それなのに、それに背いて……それでも俺に背かないこいつ。その青を見ている内に、初めて俺の中に迷いが生まれる。


(そうか……こいつが、死ぬ……。死ぬ……のか)


 何がお前を殺したくないだって?自分の手を汚したくないだけじゃないか。

 それはそう遠くない未来。こいつが死ぬ。俺のせいで。俺がこいつを殺すんだ。その命を使い捨てる。すり減らす。何も感じず犠牲に用いる。

 イグニス様は道化師とやりあったと言っていた。俺たちの中で最も強いカードだったルクリースさんはもういない。イグニス様もしばらく此方と距離を置くと言っている。

 となれば使えるカードはユーカーだけ。どんな策を取るにしろ、こいつの力が必要だ。

 アルドール様、ひいてはカーネフェルという国のために死ねと俺は言った。それをこいつは拒んだ。それなのにこいつは俺を支える。死んでやるのは国のためじゃないとその目が言っている。

 俺が助けてくれと、お前の力を貸してくれと言ったなら、こいつは言ってくれるだろう。その命をくれるだろう。

 それでも俺はそれを言わない。回りくどく国のためだなんて、そこに私欲が微塵もないと言わんばかりにお綺麗な言葉でもって。俺は言わなかった。それでもこいつはそれを見越している。だから言わない。認めはしない。それでもここにこいつがいるのは誰のため?それにも気付けないというなら俺は本当に最低だ。


 「お、おい……」


 そしてこいつは黙り込んだ俺を見て、言い過ぎたのかと焦り出す。情けなくも狼狽えている。その青。久しく見ていなかった空色の……

 その姿に思い出す。そうだこいつは、こういう奴だった。本当は誰より気が弱くて優しくて臆病で。いつも人の目に脅えていた。だから平気で嘘を吐く。大げさに大きな事を言って見せたり、まったく逆のことを口にしたり。


(思い出した……)


 どうして忘れてしまったのか。こいつの嘘に慣れる内、知ったつもりで再び騙されていったのか?俺は絶対にそれを忘れてはならなかったのに。

 こいつは弱い。とてつもなく弱い。剣とかそういう次元ではなく、それは精神的なもの。こいつは弱い。それは確かだ。俺はこいつのそういう弱さが好きだったんだ。

 償いを知る前は、もっと普通にそう思えていた。俺が騎士に憧れたのは、強くなりたかったからだ。誰かを守る喜びに、希望と意味を見い出したから。

 それが始まりだったのに、いつの間にか立場が逆になっていた。彼の願いを叶えたいと思っていたはずなのに、今は彼が俺の願いを叶えるためにこうして支えてくれている。

 俺が気に入らなかったのは彼が強くなることだったんだ。もう必要ないと言われるのが怖かった。だからずっと駄目でいて欲しかった。それはこいつが駄目だからではなく、そんなこいつを俺が望んでいたからなんだ。俺はそれが嘘なんだって気付きもせず、その優しさに甘えていた。それでいて同僚として情けないと罵ったりなんかして。こいつの身動きを取れなくしていたのは俺の方だった。


 「ユーカー……」

 「何だよ」

 「一本勝負で良い。付き合ってくれないか?先にお前が一本取ったら俺は大人しくここを引き下がる」


 得物を手に取ってそう提案すれば、数秒後に彼も応じる。言葉よりこれだ。結局は。


 「…本気なんだな?」

 「無意味な嘘を吐く趣味はない」


 話が早いし、力で負けたなら文句も言えない。王の守りはより強い者が担うべきだ。

 正直なところ、俺が勝てる保証はない。三本勝負なら、二本取れる自信はある。十本勝負なら七本は行ける。それでも一本と言われたら、俺はこいつに負けるかもしれない。両目のこいつとやり合ったことは確か一度もなかったはずだ。


 「俺が勝ったら四の五の言わずに部屋戻れよ」

 「ああ。その代わり俺が勝ったら、戻るのはお前の方だ」


 互いに得物を天井へと投げる。思い切りぶつけると落下速度も上がりキャッチも難しくなる。しかし軽すぎてもいけない。それでもこんな時間に騒げない。思い切りに欠ける投げに、交わる視線で共に笑った。落ちてくる得物、それを掴んで鞘を抜く。それは僅かに彼の方が早かった。これは得物の重さの差。先手必勝、速攻勝負と早速取りに来る攻撃を払い落とす。その衝撃に腕が震える。


 「……っ、やるじゃないか!お前らしくもない良い太刀筋だ!迷いが抜けたな!」

 「はっ、何様のつもりだよ!?」


 再び攻勢に転じられる前に、得物の軽さを活かして今度は此方が突きを繰り出して行く。いきなり狙いには行かない。体勢を崩すための連続攻撃。それを彼も防ぎはするが、次第に隙が見えてくる。数度の突きとその反応から、故障の部位を見つけ出す。


 「……っ!」

 「軸足を庇っているようだが?」


 余計な情報をくれてやるわけにもいかないと、或いは喋る余裕も無くしたか。さっきまで立派なくらい張りぼての冷徹を装っていた癖に、ほらもうボロが出てきた。精神の乱れは剣にも現れる。そういった意味でなら、分は俺にある。気持ちにムラのあるユーカーはどんなに才能があっても本当に強くはなれない。俺がいつもある程度以上に剣を振るえるのは、感情をその分そぎ落としている結果とも言える。剣を極めることは、おそらくそう言うこと。

 先程までの悩みもどこかへ消え去って、唯この一瞬。刹那だけがそこにある。


 「ああ、悪い……言い間違えた、利き足だっ!」


 傷めているその足を狙って鞘を振り下ろす。それを庇うのには間に合わない。そう踏んだのか、その壊れた足を振り上げる。

 それはユーカーの咄嗟の判断だ。その中にも俺はこいつの成長を見る。今のこいつは逃げなかった。無謀にも勝負に打って出た。犠牲を厭わないその賭けは、その勇気を讃えるがごとく幸運は彼に微笑んだ。


 「そこまでやるか………てめぇ」

 「嫌だな、言わない方が悪いんだ。痛いなら痛いって言ってくれないとハンデのしようがないだろう?」


 鞘を蹴飛ばしたユーカーは足の痛みに顔を僅かにしかめていた。

 もっとも、それは痛みのせいだけでもないのかも。今の攻防の勝者は彼だが、勝負の勝者は俺だった。足の痛みで跪いた、彼に向かって俺は剣を突きつける。……勝負あった。


 「まったくお前は無茶ばかりして。診せてみろ、今治してやるから」

 「そうやって決めつけるの止めろよ。別に俺は足なんか痛くねぇし」

 「へぇ、そうなのか」


 足を変な方向へ軽くひねってやればすぐ傍で悲鳴が上がる。


 「痛ぇっ!殺す気か馬鹿っ!!」

 「黙れ馬鹿。アルドール様がお休みになっていらっしゃるんだぞ」


 軽く叱ってやれば、気に入らないとそっぽ向く。ふて腐れた顔なんかは本当昔から全然変わっていない。


 「大体そんなコンディションで見張りなんて無茶だろう?俺が気付いたから良かったものの、もしここに刺客でも来ていたらお前だって……」

 「俺はコートカードだ。お前みたいな弱っちぃ数札と一緒にすんな。そのくらい幾らでも覆してやる」


 たった今その格下のカード相手に負けたことを彼はもう記憶から抹消してしまったのだろうか?


 「……俺がいつそんなことを口にした?」

 「ランス……?」

 「勝手に俺の言葉を決めないでもらいたいものだな」


 此方が強い口調になれば、言い返せないのはもはや条件反射なのだろう。一見逆に思われがちだが結局我が儘を押し通すのは、最終的には俺の方。それを多少は悪いと思うから、小さな事やどうでもいいことは俺が折れる。唯それだけ。


 「確かにカーネフェルには強いカードが必要だ」


 それは認めるし、否定は出来ない。


 「それでも、お前がカードじゃなかったとしても俺はお前の力を望んだだろう」


 むしろそうだったらどんなに良かったか。俺が願いを諦めたのは、何故だと思っている?新しいカーネフェル王を殺せないから?それだけだと思っているのか?


 「お前は数術が使えないから知らないだろうが、俺が回復数式を作る時……何を思うかお前に解るか?」

 「んなの解るわけねぇだろ。お前の言葉、そっくりそのままお返しするぜ」


 言われないのに解るはずがないと開き直って対話を拒否する従弟に俺は幼い頃を思い出す。


 「……あの日のことだ。お前のその目を治したときの事を思い出す。この数式を紡ぐ度にな」


 *


 俺は馬鹿だ。本当に馬鹿だ。だから彼のことを知りたがった。俺は初めて得た、人間としての理解者の登場を喜び有頂天になっていた。だからもっと多くを理解したいししてもらいたい。多くを共有したくなった。どうして見えるのに見えない振りを演じているのか。眼病なんて失明なんてしてもいないのに両目を隠して隔離されているのは何故か。

 見えない振りをする彼との遊びはせいぜい会話だけ。それも充分楽しいけれど、もっといろいろなことをしたかった。海と緑に恵まれた美しいその領地。母さんと二人で遊ぶのも楽しいけれど、三人ならもっと楽しいはず。幼い俺は、唯彼と一緒に遊びたかった。自分の暮らす領地なのに、その景色も彼は知らない。森の緑、水のせせらぎ、俺と母さんが見つけた風景を彼にも見せてやりたかった。

 彼の青はとても綺麗なんだから、こんな部屋の中では勿体ない。彼の青は空の下で一番映えると思った。彼は誇るべきだ。そして羨まれるべきだ。そのすばらしい澄んだ色を。心の憂いさえ吹き飛ばしてくれるような快晴。それを宿している瞳は、とても温かな色。それなのに、領地の人間達さえ、彼を知らないなんてあんまりだ。

 俺は心底彼を気に入っていたんだろう。だから見せびらかしてやりたかった。知らしめてやりたかったのだ。ユーカーは母さんとは違う。誰の目にでも映る。それなのにいないもののように扱われるのが不愉快だったんだ。

 だから伯父からきつく止められていたにも関わらず、彼を外へと連れ出した。伯父は何故か俺には甘いから、バレたところで許されるだろう。そんな強かな計算をして。

 俺の何時間にも及ぶ説得の末、彼は渋々了承をした。人目に付かない場所ならついて行ってやってもいいと。

 みんなに見せることが出来ないのは残念だったけれど、大好きな友人と一緒に遊べるのは素直に嬉しい。使用人とは違う。仕方なくとか仕事だからそうしてくれてるわけじゃない。それがとても嬉しかった。


 「おいランス、なんだこれ。水の中になんかいるぞ?」

 「それは魚って言って……」

 「ああ、たまに晩飯に置かれるあれか」

 「うん、それ」

 「で、こいつら何でこんなところにいるんだ?」

 「え?……ええと、魚だからじゃないかな。魚が陸を歩いてたり空を飛んでたら魚って言わないだろうし」

 「その理屈だとそこ飛び込めばお前も今日からめでたく魚類と言うことか。そうかそうか」

 「そうだね。ていっ」

 「突き落とそうとすんな馬鹿っ!全身びしょ濡れになってみろ!どう言い訳すればいいんだよ!?」

 「ああ、ごめん。よくわからないしユーカーが溺れている間に母さんにどうしてなのか聞いてみようかと思って時間稼ぎに」

 「そんな理由で!?溺れること前提!?」

 「それにユーカーの方が俺を突き落とそうと考えてたじゃない」

 「何故バレた?」

 「そりゃあバレるよ」


 悪意のない悪意の押収。誰かと馬鹿をやるのがこんなに楽しいなんて思わなかった。母さんは俺には優しいけど、こんな会話は成り立たない。だから新鮮だった。何が何だかよくわからなくて。

 俺たち自身何がツボに入ったのかよくわからないのだから、それを端から見ている母さんはもっとわけがわからなかったのだろう。


 《私あんたら何が楽しいのか全然わかんないわー……って何でそこで二人で吹き出すの!?これだから人間って嫌いなのよ!あ、勿論ランスは別よ?ってなわけでユーカー!あんただけは許さないわ!ヴィヴィアン様の怒りの一撃を食らいなさい!》

 「水は止めろって言っただろ!?」

 《ひひひひひ!いい気味よ!寝汗か涎とか世界地図とかでも言い訳するがいいわ!》

 「くっ……この技だけは使いたくなかったが、秘技!ランスガード」

 《くっ!うちの子を盾にするなんてっ!卑怯者っ!》

 「黙れ、勝負の世界に卑怯もクソもねぇんだよ!」

 「あ、母さんが回り込んだ。今はあっちだよユーカー」

 「あ、じゃねぇよ!ちゃんと庇えよ馬鹿!抜け出したのバレたら俺本当やばいことになるんだからな!」

 《ランスの馬鹿ぁっ!何でそいつに教えちゃうの!?でも愛してるっ!!……ってランス?聞いてる?聞いてないのね?……うん、そうだよね。うん、あのね母さん別にスルーされるの嫌いじゃないわ。全然嫌いじゃないんだからね!!するならもっと!徹底的に無視しなさいよっ!!ちらちらこっち見ないでよ!!またバレちゃうじゃない!!》

 「母さん五月蠅いよ」

 《ごめんなさい》

 「でもさユーカー、それは絶対そんなことないよ。伯父さん親切だし優しいじゃないか。うちの父さんの方がもっと最悪だよ」

 「あいつは外面だけは良いんだ!」

 「へぇ、ユーカーとは反対だね」

 「…………貶してんの?褒めてんの?」

 《それは勿論貶してるのよ!》

 「現れたな馬鹿めっ!秘奥義ランスバリアーっ!」


 話の話から外れたのを良いことに、羽も使わずひたひたと無音のままにじり寄ってくる母さん。そんな母さんの犯した痛恨のミスにユーカーはすぐさま反応。俺を掴んで前に構える。そして自分は陰に隠れる。


 「うわ、冷たっ」

 《きゃああああああああ!ごめん!ごめんねランス!!今焚き火とか竈辺りの火の精霊探してきて乾かしてあげるからっ!あ、…………でも水もしたたるいい男、じゅるり》

 「へ、変態だ!変態がいるぞ!!つか精霊ってもっと綺麗な心根なんじゃねぇのかよ!?あれ絶対湖の精じゃねぇよ、湖に浮かぶ水垢とか赤潮とかゴミとかヘドロの精だろ。もしくは湖の性犯罪者を略して湖の性的な」

 「ユーカー、それって偏見って言うんだよ」

 「な、なんか違ぇと思う」

 「それはそうとそれでそれはこういう綴りなんだって」

 「へぇ……手に文字書かれるのと目で見るのって結構違うな」


 飛び去った母さんを見送りながら、俺が木の枝でガリガリと土の上に文字を記す。すると、彼はそれをまねるように、自分の手のひらの上で文字をなぞる。

 彼との会話は、母さんのそれとも違う。母さんからは俺が教えられる側。だけど今度は俺が教える側だ。俺以上に何も知らない従弟に、母さんから教えられたことを教えるのは、なんだか不思議な気持ちだった。俺の言葉に、感心したような声が上がると凄く嬉しい。素直じゃないこの友人が、俺を認めてくれているような気がして。

 思えば誰かに認められること。それが俺の、そして従弟の……共通の願いだったのかもしれない。否定され続けて来たから、誰かに認められ受け入れられること。それに歓喜し胸が震える。だから、大切だったんだ。


 「あの魚はね焼いて食べると美味しいんだよ、それに塩をかけるともっと美味しくて、こっちのはお刺身にして……」

 「おい、これなんだ?」

 「ああ、その花はね……よくお墓に供えられるものだよ。確か花言葉が……」

 「へぇ……聞いたことはあっけど、こういうものだったんだな。イメージと全然違う」

 「どう違う?」

 「もっとおどろおどろしい系の奴かと思った。墓場ってイメージの?思ってたより全然綺麗で驚いた」

 「持って帰る?」

 「…………ああ。ちょっと頼んでもいいか?」


 彼に頼まれるままに、俺はその花を手に取った。先に部屋に彼を戻した後、頼まれた場所を探して、領地外れの墓地へと向かう。そして、教えられた名前の刻まれた墓の前にそれを供えた。それは女性の名前だった。名字は彼と同じだったから、彼には死んだ姉さんか妹でもいたのかと悲しい気持ちになった。


 《ねぇランス、あのユーカーって糞ガキは確かあんたより少し年下よね?》

 「うん、確か1歳だか2歳だか……」


 けれど母さんが首を傾げる。言われて俺も気づいたけれど、墓に刻まれた時を示す数字は少しおかしい。少なくともその人はユーカーの妹ではない。おそらく姉でもないだろう。それなら彼女は誰なんだろう?

 食事の席の後だった。ユーカーの部屋に向かおうとした俺を、伯父は呼び止めた。もしかして連れ出したことが知られてしまった?だけど息を飲む俺に、伯父は礼を言う。バレたのは墓参りの方だけだった。


 「君を見かけた領民が君のことを感心していたが、私もそう思う。本当にランス君には感心する。よくもまぁあの愚弟からこんなに出来た子が生まれたものだ」

 「いえ、そんなことは……」

 「うちの馬鹿息子にも見習わせたいものだまったく。いっそ君が私の息子なら良かった」

 「伯父さん……」


 家を空けてばかりで死んだ母さんと俺を悲しませた俺の父が最低なのは全面的に同意するが、ユーカーを否定されるのは彼の父親でも許せなかった。

 そもそもそれは俺の手柄じゃない。彼がそうしたいと言ったから、それを頼まれたからそうしただけ。でもそれを告げることは出来なくて、褒められたのに悔しさだけが残された。

 俺にとって彼はとても大切な友人。誰にも見えない母さんの声を彼は聞く。彼は俺を馬鹿にはしない、俺と母さんの否定もしない。お前は疲れて居るんだとか、気が触れているんだなんて、彼は一度も言わなかった。だからこそ、俺は彼を否定したくないし、否定されれば自分のことのように悔しくて、悲しくなる。

 扉の向こう、聞こえていたのだろうか。自らを縛めたその両目で、覆われて見えない窓の外を眺める彼。その横顔はとても悲しげだった。


 「……あれ、誰のお墓だったの?」

 「母さん、か……」

 「え?」

 「人間じゃなくても、血が繋がってなくてもお前には母さんがいていいよな」

 「ユーカー?」

 「悪い、何言ってんだろうな俺」


 ユーカーは俺の母さんを否定しない。それどころか羨ましいとさえ言った。それを口にしたのは二度目。

 不思議だった。ここには普通に彼の母親が住んで暮らしているはずなのに。それを尋ねれば、彼は笑っていた。それは以前のような曖昧な笑みではない。だから彼は今回こそ誤魔化さずに教えてくれた。とびっきりの笑いが浮かべられた口元が自虐の笑みなのだと知ったのは、その内容を知ってから。


 「あれは俺のお袋じゃなくて、姉貴達の母親なんだ」


 俺の屋敷には死んだ母さんしか居なかった。だからとても驚いた。領主が複数人の女を娶っているなんて、俺の常識では考えられないことだったのだ。


 「それじゃあ本当の母さんは?」


 興味本位で話をするべきじゃない。彼は笑いながら死んじまったと口にする。


 「死んだよ。お袋は親父に殺された」

 「…………」


 どうしてとは聞けなかった。それでも俺の顔にはその言葉が記してあったのだろう。彼は笑いながらそれを告げる。


 「こんな色だろ?認められるはずねぇんだ。俺の父親が自分なんだって」

 「ユーカー……」

 「いや、俺がもっとちゃんとした色だったって……怪しいもんだけどな」


 その色は突然変異などではない。色素異常をもたらしたのは、そこに明確な罪があるからだと彼は暗に告げている。それでもその理由を彼は語ろうとはしなかった。


 「それでも生まれた男は俺だけだ。他の女が見栄えのいい跡継ぎを産むまでは生かしておいてやろうって温情さ」


 そんなことを父親に言われたなら、俺は立ち直れない。それでも彼は何も気にしていないような顔で笑い出す。


 「そしたらさ、遺伝情報調べさせたらマジでてめぇの子だったって話で、ざまぁねぇぜクソ親父」


 それにより処刑から逃れることが出来た彼。伯父はそれ以降他の妻との間にも子宝に恵まれず、こんな色でも希少なカーネフェル人の男児だからと、外から隔離し“大切”にされている。


 「考えようによっちゃ俺ほど幸せな奴もいねぇしな。一日中だらけてていいし面倒くさい仕事なんか回されることねぇし?それでいて立派な家で美味い飯食えるんだ。まぁ、見させてはもらえねぇけどな」


 へらへらと笑う言葉は、心底自分は幸せだと言わんばかり。それがあまりに上手すぎて、こちらまで騙されそうになる。……というより俺は騙された。彼を尊敬したものだ。そんな境遇でも不貞不貞しく強く生きる彼が凄いと思った。同じようにはなれなくても、少しはそんな風に強い心が手に入ればいいのにと俺は思った。

 俺は馬鹿だ。彼が捻くれて素直ではないことくらい知っていたのに。俺の前でも精一杯強がって見せていた。それこそが拒絶なんだって気付きもせずに憧れた。

 彼と自分は全く似ていない。だからこそだ。俺は彼を羨んだ。

 彼の周りの環境は、決して羨むべきものではない。それでも俺は羨んだ。俺が羨んだのは彼自身。俺よりも年下なのに彼はとても強い人間で、弱音を吐いたりしなかった。泣いたところなんか見たこともない。それは彼が強いからに他ならず、弱音を吐いてばかりの俺はそういうところに惹かれていたんだ。彼のそういうところは俺を変え、俺の日常さえも変えていく。

 でもそうじゃない、そうじゃなかった。彼はとても弱い人間で、臆病な人間。自分の弱さをひけらかすことを何より恐れ、強がって生きている。自分にも他人にも嘘をついて生きている。それは人生における最大の逃避。彼自身誰より彼を否定している。嘘の彼を崇めると言うことは、最大級の侮辱で、彼の否定で彼の拒絶だ。彼を知ったつもりで俺は何もわかっていなかった。


 それはあまりに唐突に。何もない日に起きた事件。その日の俺たちは……いつものように二人で窓から外へ抜け出して、いつもと変わらず馬鹿をやって遊んでいた。

 だけど彼は、そのいつも通りを続けられないほど心をすり減らしていた。それに俺は気付けなかった。唯、俺を見るその目がとても悲しそうだったのには気付いた。俺は馬鹿だ。見えない振り気付かない振りが出来ない程子供だった。年下の従弟に出来ていることなのに、俺には出来なかったのだ。だから聞いてしまった。


 「どうしたの?」

 「どうもしねぇよ」

 「嘘だ、絶対何かあったって顔してる!」


 俺が問いただすと、彼は小さく呟いた。


 「……俺は、お前が羨ましい」


 俺が心から羨んだ人間が、お前が羨ましいと口にした。彼は俺の青を羨んだ。その色こそが彼に望まれていたもの。彼は言ったよ、いっそこんな目なかったならと。薄すぎる青の瞳が、すべての災いを招いたんだと。


 「俺はこんな貴族らしくもねぇ目!そこらの領民だって俺よりマシな色をしてるんだ!!」


 遊びに行く最中に、通りすがって身を潜めた。そして木陰から覗いた先……領地で暮らす人々、その姿に彼は絶望したのだ。


 「あいつだって!真純血でもねぇような奴らより、俺は……劣った目をしてるっ!!」

 「そんなことない!お前の目は綺麗な色だよ!!それだけで十分価値はあるっ!!」

 「んなもんねぇよっ!!こんな出来損ないっ!!こんな目っ……人前に出せるわけがねぇんだ!!みんな俺を馬鹿にするに決まってるっ!!」

 「そんなことになっても俺は絶対馬鹿にしない!!」

 「お前なんかに褒められても全然嬉しくねぇんだよっ!!」


 好かれて嫌だとは思わない。それでも自分の嫌いなものを褒められて嬉しいはずがない。ましてや自分に欠けている物を持っている人間にコンプレックスを褒められても、その好意を真っ直ぐの意味で受け取れるわけがない。彼は俺にそう告げた。


 「何でお前なんかが俺なんかと一緒にいてくれるんだ!?嫌味かよ、哀れんでるつもりなのかよ!?お前みたいな綺麗で深い色の青……そんな目でそんなこと言われても、俺は嫌な気分になるだけだっ!!」


 理由がない。自信がない。そんな人間に好意を与えたところで、信じられない。唯、それを拒絶できる力が無かった。唯それだけ。それだけで彼は俺と遊んでくれていた。

 俺はそれさえ気付かずに、日々彼を無神経にも傷付けていた。見たくないものばかりをその目に刻ませることを強いて。

 俺は馬鹿だ。でもそれ以上に、彼は本当に馬鹿だ。

 そんなことをしたところで何も変わらない。余計悲しくなるだけだ。そんなもので人の心は得られない。見放されていくだけだ。でもあの日のそれだけ追い詰められていたんだろう。そこまで俺は追い詰めてしまっていた。

 本当にこの目が何も映さなかったなら……こんな目なくなってしまえば。そうなったならきっと、親父は俺を見てくれる。認めてくれる、胸を張ってお前は俺の息子だと。そんな風に言ってもらえる夢を見ていたんだろう。願いを祈りを抱いていたんだろう。俺なんか生まれてこなければ良かった。俺なんか死んじまえばいい。俺なんか……俺なんかと繰り返す彼。その右目に祈りを捧げるように握りしめた、刃を掲げてうっすら微笑んだ。

 俺の青が俺の存在が、彼にとってコンプレックス。比較され見下されて、傷ついてすり減って。それでも彼は俺を憎まず、自分自身を呪った。無神経で最低な俺のことを呪わずに。

 心配されたかったんだな。家族からの関心なんて、他人からどう見られるかなんて全く興味がないような、そんな素振りをしているのに……狂おしいまで求めていたんだろう。与えられる心を。それが痛みや傷で購えるなら喜んで彼は支払う。迷い無く振り下ろされた彼の右目を抉るナイフ。彼はこんな時まで笑っていた。それでも流れる赤色に、泣いているように俺には見えたんだ。

 羨んできた彼を、俺は初めて哀れんだ。弱々しいその姿に、俺は打ちのめされていた。格下だと見下したわけじゃない。彼が弱いのなら、自分が強くなりたい。今まで支えられてきた分、それ以上に彼を支えて守りたい。虚勢の強さでも、彼が今まで与えてくれたものには本当に感謝しているから。

 彼の幸せ。それを願って、俺は数式を完成させた。これまで成功したことのない、回復のための数術を。


 *


 「つまるところ、ここ最近俺がお前を全く顧みることが出来なかったのはお前の所為だということだな」

 「責任転嫁もいいところだぜ」


 ランスの発言に、従弟は何でそうなるんだと苦い表情だ。


 「お前は弱いカードなんだ。振り分けられてる幸福値だってものっそ低い。俺なんかのために使っていい数はひとつもないはずだ」

 「その、俺なんかって言うの禁止だから。今後一回言う毎にお前に新規のトラウマを一個ずつ植え付けようと思うから」

 「その言い方だと今までのも全故意的なものだったのか?あぁ!?」

 「そんなわけないだろ。お前が俺にトラウマ製造器とか不本意な称号を贈るから言ってみただけだ」


 無論言われたからには頑張るけどと付け足せば、頑張らないでと従弟が左右に首を振る。


 「俺は嬉しかったんだよ」


 償いの忙しさがそれを忘れさせてはいたけれど。


 「あのさユーカー、俺は別に嫌々お前の怪我を治してるわけじゃない。それは解るな?」

 「…………わかんね」

 「なら解れ」

 「んな無茶な……」

 「お前なら出来るよ何だって。俺の自慢の従弟なんだから」

 「その修飾は最終的にお前にかかるんだろどうせ。素晴らしいランス様のおまけ的なあれ」

 「俺はいつから自己愛者になったんだ?」

 「胸にて当てて考えろ。ヒントは三択、三十年前、百年前、五百年前」

 「そうだなユーカー……とりあえず生まれてねぇよと俺は突っ込むべきなのか?」


 下らない馬鹿げた言葉の押収。それにどちらともなく吹き出した。それが少し、懐かしい。昔の俺はこの空気のこの感じが、とても好きだったな。いや今だって、十分好きだとは思える。


 「実は先程イグニス様にな……俺らしさというものをもっと大事にしろと咎められてな」

 「お前らしさ?んなもんあれだろ。要モザイクグロ料理を爽やかな笑顔で量産したり、間の抜けた天然発言したりとかナチュラルに鬼畜外道になるとかか?」

 「お前は俺をそんな風に見ているのか?」

 「それ以外に何があるよ?それともあれですか?高名な騎士様は美辞麗句の方がお好みですかって俺にんな薄ら寒い台詞言わせる気か?」

 「お前が嫌なら、言ってくれて良いな。言いたいなら言わないでくれ」

 「そんなに俺の嫌がる顔が見てぇのかお前はっ!!」

 「ああ」

 「爽やかに言うなボケっ!!」

 「……まぁそれはさておき、俺らしさというものを俺はお前に預けてしまっていた気がしてな。端的に言うと、返してくれ」

 「もらってもいねぇもん返せるか馬鹿っ!!端的に理不尽過ぎるぞお前はっ!!」

 「仕方ない。それなら別件で手を打とう。それじゃあキリキリ歩いてもらおうか?」

 「……え?お前も帰んの?」


 背を押して歩みを進ませる俺を、従弟が焦ったように振り返る。俺が見張りを代わるものだと思っていただけに、俺まで帰ろうとしているのが理解できないようで彼は混乱していた。


 「今は誰かあそこにいねぇと……」

 「アルドール様が心配か?」

 「……あいつがどうとかそういう次元の話じゃねぇだろ。単に目覚めが悪いっただけだ……何かあったら」


 こいつが人に関わらないのは、こいつが弱くて優しいから。

 一度関われば、もうこうして気にして見捨てられない。だからずるずると守る相手が増えて、身動きが取れなくなる。それを自分で理解しているから、こいつは人に関わらない。

 本当なら俺はここで、計算通りとでも笑えばいいのか。アルドール様を押しつけて、見捨てられない程度に状を植え付ける。そうすることでカーネフェルはコートカードの一枚を保有することが叶う。

 頭では解っている。それでも……扉の中の人間が心配だと視線を送る彼に、少し苛立つ。そんな自分に救いようがないなと思った。

 ユーカーは何だかんだ言いながら、関わった人間をそう簡単に見捨てられない。俺より余程広い場所をこいつは生きているのかもしれない。俺の苛立ち……それはその領域を羨むと言うより、もっと別のもの。

 その認識は俺が最低だという証明だ。こいつをちゃんと一人の人間として見てやれていないのだ。だからいつも振り回していた。俺がアルドール様に仕えるのなら、こいつだって当然仕えるべきだと頭ごなしに信じていた。そうなるものだと決めつけていた。

 俺はこいつを自分の分身か何かだと……もっと酷い言い方をするなら付属品か所有物かとでも思っていたのだ。だから俺の言葉に従わないこいつに苛立ちを覚える自分がいる。それに気付いて自分を深く、嫌悪する。

 それは否定よりもずっと酷い。存在を無視しているようなもの。母さんを否定され続けて俺は悲しい思いをした癖に、自分がそれをしてしまっている。目に見えている相手のことを。

 それでもそんな俺を未だに大切だと言ってくれる、見放さないでいてくれるこいつには、胸の奥を締め付けられるような悔恨を覚える。


 「良いんだ」

 「は?」

 「彼はまだ即位もしていない。カーネフェル王じゃない。唯の少年だよ。ちょっと目の色が深い青ってだけの」

 「何言ってんだお前……?」


 お前がそんなことを言うなんてと、空色の瞳を彼は見開く。信じられないようにその目は俺を見ている。それも仕方ないだろう。今の言葉は、王よりも今はお前の方が大切だ。そう言っているような問題発言。お前の信じる馬鹿真面目の忠義の騎士はそんなことを口にするものか。要は俺がそんな人間ではなかった、それだけのこと。

 アルドール様は大切だけれど、実際どうでもいいという気持ちも大きい。俺に必要なのは俺の主であるカーネフェル王。あの人の代用品。それは別にあの少年でなくとも構わない。イグニス様が言うように、俺はまだあの人をあの人として見ていない。


 「お前の言うことももっともさ。ああそうだな、まだ彼に仕える必要なんか無い。こんなところで死ぬようじゃ、仕える意味もない。その程度の希望だ」


 一晩目を離したくらいで、そんなにすぐ簡単に死んでしまうような王なら要らない。どんなに犠牲を捧げて守ってもすぐに死んでしまうだろう。そこに守る価値はない。そんな価値ない王のために、それを失って俺が後悔したりするのは嫌だ。それでまたこいつを責めるようなことももう嫌だ。

 俺は何もこいつに与えられていない。唯搾取するだけ。俺の償いのためにその命まで利用しようと俺はしていた。俺のために死ねと言う癖に、お前のために死んでやるとは絶対に思えない。嘘でだって口にすることが出来ない。その違いが気持ちの差だろう。俺は思われている以上に、こいつを大切には思っていない。

 それでも俺だって大切なのは、嘘じゃない。どうでもいいとは思えない。手の掛かる俺の弟。何でも出来るのに何もしない、何でも出来るのに何も叶わない、何をやっても報われない……可哀想な子。いろいろ思うところはあるし、一言では言い表せない。それでもこのままこいつの命を使い捨ててしまったら、俺は後悔するような気がする。

 戦いが始まるその前に、俺は俺と折り合いを付けなければならない。これから迷うことがあってはならない。そのためにも俺は俺が何を思い生きているのか。それを見極める必要がある。

 思えばここ数年、ゆっくりと話す暇もなかった。過程が抜けていて始まりと今だけがそこにある。その両端にいる俺がまるで違うことを考えていて、見つめる俺の心を惑わす。俺はその両方を見据えて、自分というものを探らなければならないのだ。

 でなければいつまでも俺はここに立ち止まったまま。何も変わらず、何も解らず、それっぽいことを口にしてそれらしくなんとなく生きる。本当にやりたかったこと、本当の自分の気持ちも見失ったまま。

 王はいない。あの人はもういない。そして今、俺は何を思う?俺の償いは、一人だけに向けられるものだったのか?違う。それは違う。


(その目……)


 薄すぎる青。その空の瞳が、もう雨に泣かないように。祈ったよ。祈っているよ。祈りだけはまだ俺の中に谺している。

 お前が幸せでいられればいいのに。そう祈っていたはずだったのに、その俺がお前を一番手酷く扱っている。お前の不幸の大半は俺が原因なんじゃないのか?お前が呪ったその目さえ、俺の責任と言われてしまえば否定は出来ない。お前は責めない。だから謝らない。肝心なことは何も俺は……

 いっそ詰ってくれたなら、今何かが変わっていただろうか?


(馬鹿だな本当に……)


 俺なんか優しくする必要はない。別に俺はお前に優しくしていないんだから。そう見えているのなら、お前の目は昔よりも何も見えていないことになる。でも違うか。お前は違うな。お前は見えない振りがとても得意だった。聞こえない振りは出来ない癖に。

 それでしっかり傷つくくらいなら、ちゃんと声に出して言葉を作ればいいのに。お前はいつも最後の最後まで何も言えない奴だった。それで痛い目を見るのが自分だって痛いほどわかっているはずなのに、まだお前は懲りないのか?

 そんな馬鹿を本当に救いようがないと嗤う気持ちと、そんな馬鹿がどうしようもなく愛しくてその髪を思い切り撫で回したくなる衝動。そう、俺は好きなんだ。家族としては弟としては本当に可愛くて可愛くて仕方がない。ずっと唯の弟だって思わせてくれるなら何も困らない。だけど、こいつは俺の同僚で立場も身分もあるから……私情で全てを測れない。だから割り切れないものがでてくる。割り切れない思いは、酒で流してしまおうか。現実逃避もたまにはいいか。


 「死ぬほど暇なんだろ?奇遇なことに俺も死ぬほど暇なんだ。それなら暇人同士一杯やろう?食料庫にいい酒が隠れていたのを見つけたし」

 「お前警備さぼって何やってんだよ……」


 呆れたような言葉を発し、ずるずると荷物のように彼は引き摺られていく。抵抗する気力も失せたらしい。


 「失礼だな。見つけたのは前に城に来た時だよ。都貴族に嫌味を言われたのが腹立たしかったんで、噂されていた秘蔵の一本とやらを隠させてもらっただけで」

 「お前って変なところでアクティブだよな」

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