38:Natura abhorret a vacuo.
与えられる物を素直に受け取ることが出来る相手。それはそんなに多くない。
あの人を失った俺にそういう気持ちをくれる相手は、精々パルシヴァルくらいだろう。それも違う意味合いだから、正確には正しくない。
俺はパルシヴァルを守る側。だからその報酬代わりと思って、あいつの好意を受け取れる。
俺を守って死んだアルトのおっさん。俺が守る側だったのに、俺が守られてしまった。俺はあの人に振り回されるように、あの人が与えてくれる全てを受け取っていた。だから最期のそれも、俺は突っ返せたりはしないんだ。
でもそれが、本当に最後。誰かに庇われるなんて、多分もう二度と無いことだと思っていた。仮に庇われたって、俺は素直にそれを受け取ることは出来ない。卑屈に捉えてしまう。
幼い頃に俺はランスに救われた。だけど俺は有り難いと思う前に、惨めだと思ってしまった。その蟠りは次第に溶けていったけど、俺の本質が卑屈だってことには変わりない。だからさ、だからだよ。守ることって、気分が良いよな。凄い、自己満足だって解る。それでも満たされる物がある。
戦うことは生きることだと思ってた。でもアスタロットを失って、死ぬことが怖くなった。
それから俺は、逃げることが生きることだと思うようになった。それでも逃げられない相手が、俺には二人だけいた。今はもう一人しか居ない。
死ぬことが怖くなくなって、守ることが生きた証……生まれた証に思い始めた。俺が生まれた意味なんだって、そう思い込もうとしているんだよ。俺は弱い人間だから、そう思い込まなきゃ妥協できない。やっぱり死ぬのは怖いんだろう。それでもあいつのためなら、ランスのためなら、俺はそんな弱音は吐かない。そんな情けない真似、出来るかよ。
俺は俺の命に、人生に……何の意味も価値もなかった。そう思わされるのは辛いから……だから俺はランスを守って死にたいんだ。勿論あいつが大事だから守りたいとかそういう気持ちがあるのは認めるぜ。それでもこれは本当に純粋な好意じゃなくて自己満足の領域に来ている。
人は死を自覚すると浅ましくなるもんなんだろうな。どう生きたか、どうして死ぬか。そこに意味とか価値が欲しくなる。死が怖いんじゃない、生まれたことが怖くなるのさ。いっそ生まれなければ、こんなにも生きた道に脅えたりはしないのに。そんな非生産的思考に囚われる。
俺は人の命の上に生きている。俺が救えなかった人は大勢いる。守れた相手の方が圧倒的に少ないはずだ。きっとそれより殺した相手の方が多いだろうな。その癖死ぬのが怖いなんて馬鹿げてる。自分の番がそろそろだってだけだろうに。本当、浅ましいったらないぜ。
多分俺が生きていることも、生まれたことも死ぬことも……大した意味なんてないんだよ
何の意味もない人間の、何の価値もない人生が幕を閉じる。そこに生じる涙も拍手もありゃしない。それでもランスみたいな完璧超人……俺の認めたあの男に、墓の前で礼の一つでも貰えるんなら、悪くない人生だったと墓の下で思えるはずだ。だけどその時俺は、どうしようもない程虚しい気持ちになるんだろう。今からでもそれが解る。
俺とあいつは互いを気に入ってる腐れ縁の関係だ。それなりの信頼はあるし、他の連中とは違う繋がりも感じてる。それでもその繋がりが、依存と自己満足の意味を含んでいるのを共に自覚し始めた。それでも大事なことは本当なんだ。だからそれで構わないと妥協しているその絆。それについて深く考えることはない。考えたってどうしようもないことだって俺もあいつも解ってる。
今更切っても切り離せない。他人っていうよりそれぞれが自分の一部みたいなもんだ。脳とか心臓捨てて歩けるか?走れるか?無理だろ。これはそういう話だろ。まぁ、あいつにとって俺は足の小指くらいなんだろうがな。ぶつけりゃ痛いが切っても別に死にはしねぇ。こればっかりはあいつに惚れ込んだ俺の負けだ。そうだ、俺の負けだ。だから俺があいつを守る。そんだけだ。結局対等な関係になんかなれないまま、俺はあいつに負けて死ぬ。
俺の逃避は逃げること。今の俺にとって、あいつにとって死ぬことが逃げること。死は思考の停止。それ以上何かを思い悩むこともない停滞。俺もあいつも、死の瞬間抱える虚しさを払拭できないまま死ぬんだ。
だけどそんな俺の強がりに、気付いた奴が居た。そんなところまで見透かされていたなんて、思わなかった。お前はそんなに、俺を見ていたのか?
(トリシュ……)
庇われた瞬間、感じる温もり。あの人みたいだ。
(……アルト様)
俺は、今あの日の中にいる。守らなきゃならねぇのに守られている。それでも今はあの日じゃない!身体はまだ動く!毒は食らっていない!全神経、細胞に命令しろ!やるべきことをやれって!
(俺は何だ?俺は……俺は騎士だっ!)
死ぬことが生きる事じゃない。戦うことと守ること!それが騎士の生き方。トリシュの馬鹿に庇われて、そんな当たり前のことを思い出した。
「生憎なっ、俺は騎士だ!俺は野郎に守られるような貴婦人じゃっ……ねぇっ!」
抱え込まれたまま背後に身を倒し、トリシュの馬鹿を振り払い、そうして無理矢理束縛を解こうとした。
(……え?)
しかしまだ腕は俺から離れない。床に倒れた俺達は、ますます良い標的になっただけ。抱きしめられていたからか、トリシュが受けた攻撃の、衝撃まで俺に伝わってくる。
「トリ…シュ……?」
ようやく離れた腕。解放された時、トリシュは満足そうな表情で目を閉じる。抱きしめられた腕が、力を無くして崩れ落ちる。その音を、ユーカーは聞いていた。
「トリシュ!しっかりしろ!!くそっ!何で俺なんかっ……」
俺の方が強いカードだ。幸福値も俺の方が上。守られる謂われなんか無い。それなのにどうして。
(駄目だ……さっきよりずっと傷が深い)
揺すり起こすことも躊躇われるような傷。それでも今声を荒げて呼びかけなければ、二度とその目は開かない。
「イグニスっ!回復してくれ!頼むっ……そいつとは俺がやるっ!」
気に入らない相手に懇願してでも、この男を死なせるわけにはいかない。そう思った。だが……
「イグニス……?」
トリシュに近寄り、膝を折り……そこから身動き一つしなくなった教皇。何事だと見つめれば、くるりと此方を振り返る。その無表情。無機質な人形みたいな目。その目で此方を一瞥し、小さく首を横に振り……
「ぐあぁっ!」
突然俺の耳に飛び込む派、頭が割れそうになる程の耳鳴り。両耳を塞ぎその場に蹲り、それを耐える。恐る恐る手を離せば、もうその場に教皇の姿はない。
(どういうことだ!?)
トリシュにはもう、捨て駒の価値も無いってのか!?精霊貸したのお前じゃねぇのかよ!?あの女が何を考えているのか解らない。短い付き合いだが、あいつはもっと……恩着せがましい策を取る奴だったと思う。もっと俺にプレッシャーを与えるような、逃げ場を奪うようなやり方を。
(正気か、あいつ……!?)
俺一枚で何とか出来る状況じゃない。胡弓弾き弟とチェスター卿がカードか普通の人間かは解らないが、接近戦と遠距離両方俺の敵。胡弓弾きがチェスター卿を狙っている状況でもあるため、このままじっとしていればチェスター卿は勝手に相手が倒してくれるかも知れない。しかし、その後……胡弓弾きがこっちを見逃してくれるかも怪しい。
大体俺は精霊の声は聞こえても見えないんだ。腹の傷は治せない。数術代償が記憶だって?ふざけんな。
(冗談じゃない!)
それでもトリシュを救うことが出来るとしたら、それはその精霊だけ。何処にいる?耳鳴りの発生源を探してみるが、室内はとても静か。いや、異様なほど静か。胡弓弾き弟の数術反応すらしない。
(どういうことだ?)
そうだ、何時の間にやら目に見える風景が変わって来ている。
「ここ……都の城じゃねぇか」
ローザクアの城が俺には見えている。一体どうしたことだろう。その風景は勝手に動いていく。そうして進んだ通路で、俺が見たのは俺だった。
「これってまさか……」
言い争う声。それは俺とトリシュの。傍にはランスの姿も見える。そうだ、これはトリシュの記憶だ。
そう言えばあの精霊の数術代償は記憶だと聞いた。回復を受けた者から記憶を奪い、その記憶をその場の他の人間に共有させる。トリシュは俺から自分の記憶を食わせて、俺の回復をさせようとした。その数式が発動したって事か?確かに腹の痛みは引いてきている。でもそれなら、今俺は情報の共有をされはしないはず。精霊はトリシュの回復も引き受けたと言うことなのか?
「その者にとって大きな記憶ほど、その子は大きく回復出来る」
「イグニス!?」
突然情報記憶の中に現れた混血教皇娘。
「てめぇ、よくもさっきは逃げたな」
「少し事情が変わりましてね。でも僕も申し訳ないと思ったからこうして解説に来てあげたんですよ」
悪びれない様子でイグニスは言う。お前は本当、何様だ。
「元々あれは僕の精霊。記憶の共有は僕の元へも情報として届きます。便利な子ですよ、例えば捕虜を尋問した後、回復しながら情報収集。狙った記憶を食わせることで口封じをすることも出来ます」
「お前がえげつない奴だって事はよくわかった」
俺が横目で睨むも、教皇は相変わらずと言った様子でお高く止まってやがる。それにより、先程の無感動な目への違和感が再び胸に浮上するほど。
「リディスはチェスター卿の記憶を食らい、トリシュ様に真実の情報を与えた。そして貴方とトリシュ様を回復し、都から今日までのあなた方お互いの記憶を食らっているところです」
「あのな……その間に敵に襲われたらどうするんだよ」
「その辺は問題在りません。シルヴァの回復中には防御結界が構成されます。正に至れり尽くせりの精霊です」
「あ、そ……」
「でも良かったですねおめでとうございます。これで貴方はトリシュ様から解放され、運命の人として迫られることもなくなりますよ」
くすくすと他人事のように笑う教皇に、何を言われたか一瞬俺は解らなかった。
しかし都からの旅……その間の互いのことを忘れると言うことは、俺がトリシュに迫られたという事実すらなくなると言うこと。それは俺にとって有り難いことだ。そう思う。それでも何故か……腑に落ちない。手放しで喜ぶことが出来ないのだ。
記憶を失えば、トリシュと俺は以前のようにまた啀み合うようになるのだろうか?それが俺とあいつの何時も通りだったはず。それで良いんだ。そのはずだ。
それでも移り変わる風景は、あいつの視点であいつの思考でどんどん変わる俺の表情を映し出す。
(あいつには、俺がこんな風に見えていたんだな)
人にとって、客観的に自分を見ると言うことは少ない。それでもその時々に自分が何を想っていたかを知っている俺は、自分の顔を見ることで、これまで見えていた物と、見えていなかった物をそこから感じ取る。他人の視線で見る俺は、何とも不思議な顔をしていた。
(俺……トリシュ相手に、こんな顔……こんな風に笑ってたんだな)
何となく、だ。幼い頃にランスと遊んでいた頃を思い出す。嫌々を装いながらも楽しそうに見える俺。それを見て俺は……今日までに、これまでにない親しみをあいつに覚えた。それがそっくりなくなるということに今は違和感を覚える。
「おい……」
「安心してください、精霊は僕の物。トリシュ様には貸しただけ。どの大きさの記憶を食うかは僕が決めました」
食うなら別の記憶にしろと言いかけて、すぐに教皇に笑われた。
「貴方は非常に飢えている。これまで手にしたことがない物を手に入れて、それを放り投げることは出来ない人間。例えトリシュ様がそれを捨てても、自分は忘れたくないと思う浅ましい人間が貴方です」
「……酷ぇ言い草だな」
「それでも否定はできませんよね?」
悔しいが、教皇の言葉は正しい。俺はトリシュの望むような俺にはなれないが、それでも今日まで必死だったトリシュを……なかったことには出来ないのだ。こんな俺に必死になってくれた馬鹿を忘れることなんか出来ない。
「でもお前……一体俺の何を」
「大丈夫ですよ、貴方の過去とは何ら関係ない記憶を食らっただけです。ランス様やお家のこと、先代様やアスタロットさん、それから貴方の顔見知りに関わるような物は奪っていません」
しかし記憶を食われたとなれば、不安にもなる。何と引き替えに傷を治したのだと聞いてみるも、正直な答えをくれるような奴でもなく、答えは暗に濁される。
「つかお前こんな技あるならあの時も出し惜しみする必要なんかなかったろ」
シャラット領でのことを口にすれば、奴には鼻で笑われた。
「アルドールなんかから今更引き出せる情報があると思いますか?これ以上馬鹿に成られても困りますよ」
アルドールはこの教皇を信頼している。普段から情報の共有はさせているだろう。……とならば確かにそれはそうだが。
「そもそも勘違いされては困りますね。いいですかセレスタイン卿。精霊というのはブースターでしかありません。回復数術を使える精霊を従えることが出来るのは、回復数術の才能を持った人間だけ。僕があそこでそれを道化師に教えることは出来なかったんですよ」
「道化師……」
思い出す、赤い服の女。
(あれ……?)
思い出せる。あいつの顔。あいつの言葉。俺は何度か話をしている。シャラット領の墓場で、シャンデリアの下で。
(いや……)
違う。もう一回……もう一回、無かったか?
(まさか、今食われた記憶って……)
情報共有。イグニスは俺からとんでもない情報を抜き出しやがった。満足そうに奴は笑っている。思い出せないが、俺にとって不都合なことを知られたんだってのは解る。総合的にそれを考えるなら、俺のカードとしての……覚醒情報に違いない!
「てめぇ……」
「小言は後で聞きますよ。そろそろ此方も忙しいので。それでは精霊は僕が回収していきますよ。後は任せますのでご健闘を祈ります」
そんな言葉を残して、イグニスは消える。
イグニスだけじゃない。その妙な空間も。気が付けば俺はあの部屋で、トリシュを抱え込んでいた。俺もトリシュも怪我はない。それでも……怒りと、やるせない気持ちは残る。多分、今度目覚めた時……トリシュはもう……これまでの俺とのやり取りを覚えていない。
トリシュに応えられるわけねぇのに、それを寂しいなんて感じるのは最低だ。人として、俺は最低だ。本当に、飢えてたんだな。誰かに無条件で肯定され、思って貰えることに。
(凄い……惨めだ)
馬鹿みたいだ。イグニスの野郎に嵌められただけだってのに。
丸腰の俺が、今この場を切り抜ける方法。トリシュという荷物を抱えながら、凌ぐ方法。
それを考える。
(アスタロット……)
俺は生きてる。でも生きるって、しがらみがどんどん生まれることなんだな。情けなく迷っている惨めな俺を、どうか許して欲しい。俺の弱さを許して欲しい。
(これが、最後だから)
トリシュはもう俺を忘れる。俺がこいつをこんな風に庇うのも、こんな風に傍にいるのも、これが最後だ。
俺はこいつから、与えられていた物があった。貸し借りなんて嫌だろ?俺とこいつは元々、そういう殺伐とした関係だった。いつも張り合ってて……在る意味で対等だった。
文句言われたら言い返す。それと同じだ。守られたんだ。癒されたんだ。俺が返さなきゃなんねぇもんがある。
今俺に与えられているのは、イグニスのクソ野郎が施したっていう数術文様。それが何かを考えて、この場をやり過ごす。騙しきる。それが全てだ。それが何かは、もう見当が付いている。だって此方を見つめるチェスター爺の目に涙。確かな愛憎が見て取れたから。
*
「トリシュ様、ジャンヌ様は前へ!ランス様とアルドールは中衛!数術で二人の援護!かつ後衛の僕の詠唱を守ってください!」
「了解しました!」
「はい、イグニス聖下!ランス様、これをどうぞ!」
「あ、ありがとうございます……」
「解った!」
私は脇に差していた二本の剣の内、一つを丸腰のランス様に手渡して、正面を向く。
イグニス様の号令に、トリシュ様に被憑依した少年と私が頷き走る。その後ろで少し前へと向かうアルドール。彼は先程までの追求を、とりあえずこの場を凌いでからと納得した様子。しかし彼とは反対に不服そうな声で、それでも同じく中衛になったアルドールを守り立つランス様。後方に控えたイグニス様は数術発動のための詠唱を始めた様子。
どういう絡繰りかはわからないけれど、隣立つ少年は外見以外は本当にトリシュ様そのもの。剣の腕の方は信頼して良いと、そう直感した。後は時間さえ稼げば、この場を打ち破ることが出来る。そうすれば、そうすれば……
(……戦争が終わる)
この日を私はどんなに待ち望んだことだろう。敵国の長が目の前にいる。ここまで引き摺り出したのだ。湖城での戦のように人質も居ない。思う存分戦える。
冷静になれと自分に言い聞かせるも、興奮は止まらない。ジャンヌは深く息を吸い、それでも平静を取り戻せと自分を強く戒める。
冷静さを取り戻す手助けとなったのは、奇しくも敵の攻撃だった。屋内とはいえ相手は毒使い。迂闊には動けない。風の流れを読んで動いて距離を詰めたが、強風を前にして、これ以上は前に進めなくなる。
「くっ、……こう風が強くては」
立ち止まった私の横で、トリシュ様 (ではない少年)が小さく謎の単語を叫ぶ。
「リディス!」
「ふん、そんな雑魚精霊でボクのシルフィードに敵うはずが……」
数術使い達には見えているのだろうか?私には解らない何かを語り合う。
「リディスは教会の建築材である石から生じた精霊。異国の者には解らぬかもしれませんが、教会を構築するのは何もグリーンマンだけではない!既に代償を僕は支払った!さぁリディス、見せてやりなさい!」
それまで私には何も見えなかったところに、音が生まれた。風を遮る壁の音。それは苔むした化け物の石像。
「魔を払う魔……、あれはガーゴイル!?」
「ぼ、凡人にも見える精霊だって!?そんな馬鹿な!?」
タロックの数術使いは驚いているけれど、原理としては間違ってはいない。精霊は意識を持った元素の塊。元素の集合体が突然変異で意識を持った存在。つまりあれは触媒精霊。これまで姿を消していたに過ぎない。士官学校での受け売り知識だけど、それがこんなところで役に立つとは思わなかった。
教会はそれ自体が数術結界のようなもの。情報保持のための式があり、更に祭壇に設けられた発信装置も機能する。教会という建築物に用いられる木材石材は全てが触媒。そこに意味のある数式文様を刻んだり、元素の溜まり易い装飾を作ったりする。あの雨樋もその一種。私にも見覚えがある。シャトランジアで過ごした数年、教会にあれを幾つも見た。彼の使った数術の原理は解らないけれど、その像が風から私達を守ってくれているのは解る。
「元々この子は教会の石材から生じた精霊。その姿は千差万別。形態毎に変わる特殊能力は一筋縄では行きませんよ」
「石……つまりは土属性。風属性にぶつけてくるなんて、正気じゃない!」
風と土の元素は相性最悪。互いに互いが弱点だ。それをぶつけると言うことは、ハイリスクな賭け。風を防ぐ盾となったこの精霊は、確かに風を防ぐ役割は買えるけど、長時間風に当たれば石を削られ風化する。長期戦は難しい。
(一体どういうつもりなの?)
イグニス様達の考えがわからない。戸惑う私を追い越して、少年が走る。
「あ!」
彼が斬り込む先は丁度石像の正面。石像は口から風を吸い込んで、風の結界の強度を下げていたのだ。
「結界に、ヒビが……!」
「ランス!」
トリシュ様を宿した少年の言葉。その意味を理解したランス様は、紡いでいた水の数術を石像精霊にぶつける。雨樋である石像は、ごぽごぽと言う音を発し、辺りに水をまき散らす。
「……水の元素を増したつもりか!」
風と二番目に相性が悪い元素は水。土と水の元素を増やし、この場を有利に動かそうと言うのがイグニス様の策?しかしそれを見破ったタロックの数術使いは、主に向かって呼びかける。
「須臾!北風使える!?」
「造作もない」
タロック王の得物から、生じる凍てつく風により、ランス様の数式全てが凍ってしまう。AとⅢ……数術の能力値は上位カードの方がより強い力を振り分けられているのだから、数術勝負でAに勝てる相手はそういない。元々の才能がAに与えられた力以上を持っている混血……この場で言うとイグニス様達混血だけだ。
「……何?」
しかし数式を紡いだタロック王の刀にはだらだらと水がこびり付く。
「ランス、もう一回だ!」
氷を溶かすため青い炎の数術を、床へと投げるアルドール。それが再び氷を水へと戻す。
タロック側がそれを凍らせようにも、もう一度同じ手は通じない。アルドールにまた溶かされることになる。ランス様が再び水の数式を打ち出す。それを吸い込む石像精霊。雨樋から勢いよく吐き出された水の刃が結界にとうとう大穴を抉る!そこでようやくイグニス様の詠唱が終わりに向かって走り出す。
「うんたらかんたらむにゃむにゃなむなむっ……Extra ecclesiam nulla salus!……父なる神よ、偶なる神よ!枢要徳が愛徳冠する陸の神、数の秘めたる力を現せ!箱船の君(6)の(×)更なる力(X)を(=)私は望む(12)!……以上で詠唱終わり!消し飛ばせ!」
「え……?」
多分その場の人間全てが目を見開いた。イグニス様の数術は確かに素晴らしかった。津波のような大量の水が湧き上がり、天井をぶち破る。……それは良い。いいんだけれど……問題はその攻撃が狂王は愚か敵の数術使いすら攻撃していないこと。相手は共に風使い。瓦礫の落下から身を守るなど容易いこと。それでもイグニス様の狙いは別にあったのか?
「うわぁああ!」
「アルドール様、落ち着いて!」
イグニス様は、水使い。土の精霊に一番愛される体質。詠唱の間に精霊に別の仕事をさせていたのか?
(そうか!)
瓦礫の落下に伴いこの場は土の元素が瞬間的に増加した。その隙を見逃さず、イグニス様は地震の数式を起こしたのだ。大きな地震に揺れる城。結界内の私達はまだ風に守られている。しかし後ろは危ないところだった。寸前の所で中衛の二人は石像の後ろに隠れ、更にアルドールはランス様が水の数式で守られる。
「皆、一時撤退です!さぁ早くっ!」
何故とかどうしてだとか聞く暇も与えない。そんな切迫したイグニス様の声に急かされて、ようやく踏み込んだ結果内から私達は退避。その直後、大量の水と瓦礫の重さで床が抜ける室内。結界ごとタロック王と少年ははそのまま階下へ落下。
イグニス様は一体何を狙って居るんだと彼を私が疑ったのと時同じく、イグニス様はまだ叫ぶ。
「枢要徳が節制冠する肆の神、我が血を深く眠らせよ」
その言葉を聞きながら……私は身震い。途端に寒気を感じたのだ。それも足下から?
「枢要徳が正義冠する捌の神、我が名が命じる断罪の矢!」
いや、まだ終わらない。凛と発せられたその呪文。今度の詠唱も先程同様短い。一息で彼はそれを続けて言い切った。矢までの言葉が紡がれた、その刹那生じる雷撃。それが階下の結界を狙って打ち出された。
「あなた方は水属性と戦うことがどういうことか、ご存じなかったようですね」
礼服を滲む血で染めながら、勝ち誇ったイグニス様。
彼は血を媒体として数術を紡いだんだ。恐らくは結界を破ったあの中に、血液を転送した。或いは……外で私達に遭う前に?その後に?ちょうどこの部屋の真上や真下……崩れるだろう場所にに血液を置いておく。この部屋を壊すことで血塗りの瓦礫が周りに集まる。それを目印に、数式展開。あの冷気は、岩が急速に冷却されたことで生じた。
コップの周りに水滴が付くように生じた結露。この場合のコップが結界。氷が瓦礫。
元々タロック王が紡いだ北風により、室内の温度は低下してした。冷やされた城の壁……
イグニス様は城を半壊させるために数式を紡いでいたのではない。恐らくはその前から、この部屋の湿度を弄る数式を紡いでいたのだ。
それでもイグニス様は気温までは操れない。アルドールの炎の数式では露骨すぎて狙いがバレる。だから気温を変化させるため、建物を破壊した。風の壁は万能ではない。水との相性は悪いのだ。穿った天井、上方から流れ込む熱風。冷やされた壁。高温多湿な外の空気に触れ、結界内に生じる結露。それがイグニス様の電気を、水滴纏う狂王の刃に降りる!
咄嗟に剣を放し、落雷の直撃を避けた狂王は流石だ。それでもその手は暫く使い物にならないだろうし、肝心の得物も電撃により真っ二つに破壊されてしまった。
間近に落ちた電撃の衝撃で、タロック王が膝をつく。それがチャンスと私は階下に飛び下りる。
(終わる、これで終わるんだ!)
「ジャンヌ様!?」
背後で聞こえる声も私の耳には聞こえない。王手はすぐそこ。剣を握る手が震える。武者震いと、未知への恐怖。だけどそれを相手は見逃さなかった。確かに狂王の剣は折れたが、鞘はまだある。その男はあろう事か私の一撃を鞘で受け止めたのだ。
(硬いっ!)
本当に良い触媒を使っている。鞘など防具に用いても使い捨てだろうに、この男の鞘に、私は傷一つ付けられないのだ。イグニス様が剣を狙ったのもおそらくは、あの剣が優れた触媒であり数術の行使に役立っていたからだと私は悟る。数術使いの少年は力切れで、守護に憑いている僅かな精霊しか扱えない。それさえイグニス様を警戒してもはや術を紡げない。あの子は半ば無効化したと見て良い。
私と対峙していても、狂王は警戒を怠らない。あの少年やランス様が私の加勢、或いは数術使いへの攻撃を考えれば、その対応のため私に手傷を負わせるはずだ。
(遊ばれているっ!私はこの男にっ!)
許せない。祖国の仇に遊ばれている!馬鹿にされているんだ私は!
そう思うと剣に力は入れども、攻撃は荒くなる。そうなればますます相手にならないのだと私は解っても解らない。
「落ち着いてください!」
見るに堪えず槍を構え、私の加勢に来てくれた青髪の子。それでもタロック王の蹴りを食らって小柄な身体が飛ばされる。長年戦場に身を置いただけあり、この狂った男は戦闘面では冷静な判断を下せるのだ。
「他者を装うことが出来ても、身体は子供。得物に遊ばれて居るぞ」
(くそっ……!)
少年も気掛かりだが、目の前の男に隙も見せられない。それでも横目で彼を追えば、吹き飛ばされた少年を助けるため、走り込んできたアルドールが少年を抱き留める。それでも勢い余ってその場に倒れ込んでしまったが、二人とも無事のようだ。ほっと息を吐く間もなく、私は狂王に押し切られ剣を飛ばされた。それをキャッチした数術使いが狂王へ得物を渡す。
「くっ……!」
得物は他にないか!?いつもは二本の剣を持っている。それもランス様に渡してしまった!
(間に合え!)
上を警戒したまま身体の重心を下げる。そうして折れたタロック王の刀を蹴り上げて、手に掴む。届いたそれは折れた上方部位。当然刀身を握る形となる。籠手があるからなんとか握れるが、おそらくはこの剣も優れた触媒。このまま斬り合えば、一般兵に過ぎない私の鎧装備を食い破るだろうことは予想が付いた。かといってこの短いリーチでどこまでやれるか。
(アルドールはあの子のフォローで下に来てしまった。ランス様はイグニス様の側を離れられない。ここは私がやるしか……)
幸福値を使えば、この局面を乗り越えられる。それ以外の策はない。
命と引き替えに国を救えるなら、この命はどこまでも安くなる。これ以上侵略者共に、カーネフェルを蹂躙されてなるものか!
「ジャンヌっ!」
「ジャンヌ様っ!」
私の目に、私の決意を悟ったアルドールとランス様の声。
それは敵の耳にも届いてしまった。対峙する男がにやりと嗤うのが見えた。
「やはり小娘か」
「がっ……」
リーチの差は大きい。私の剣は相手に届かず、代わりに私の得物だった剣が私の身を貫いた。
「二度も刃を交えれば、自ずと姿も見えてくる。其方の太刀筋は見事……されど些か男としては、軽すぎる!」
押しつけられた剣は私の肩を抉って、床へと私を縫いつける。天井の穴から差し込む日の光。逆光の中、のし掛かる男の顔は見えない。それでも笑った口の形は見えた。
(どうして……)
カードとしては圧倒的に此方が有利。それでも打ち負けてしまうのは、剣術の技量の差。
「ジャンヌっ!」
私を心配して此方に飛び出してこようとするアルドール。駄目だ、まだあの人に何かあったら……守らないといけないのに。
(くそっ!)
私は何て様だ。唇を噛み締めて、それでも言い訳しそうになる私がいる。カーネフェルで最も優れた騎士のランス様でさえ、タロック王には大人に遊ばれている子供に見えた。身体を鍛えたところで、女の身である私では、その足元にも及ばないのか?コートカードという幸運を得たにもかかわらず!
(いいえ、断じてそのようなことはっ!)
足りないのは覚悟の差。私は女であることを言い訳になんてしたくない。ああ、そうだ。悔しいけれど私は女だ!だからこそ男性には出来ない戦術が編み出せる。例えば身体の柔らかさ。
「はぁあああああああっ!」
剣はまだ私の肩を刺したまま。今狂王は丸腰だ。
私は狂王の股間を蹴り上げ同時に身を起こし頭突き。身体を捻り、彼をも床にたたきつけ、肩の傷を自分で更に傷付ける形となりながら、私は剣を取り戻す!
こればっかりは、戦場に着物などと言う民族衣装を着てきたことを悔やみなさい。タロックの鎧には股間ガードが無いことが貴方の敗因です。名誉を重んじる騎士様達には出来ない戦法でしょうが、生憎私は兵士であって騎士ではないのだから禁じ手だって使います。
……とは言っても股間はフェイントだった。頭突きが本命。幸福値の差がようやくここで生きて来た!攻防の末、押し勝った!
(でも、まさかどちらも決まるとは思わなかった……)
少し悪いことをしたと感じながらも、毅然とした態度を保つ。これは侵略者なのだ。
「勝負、ありましたね」
今度は狂王を床に押し倒し、私が剣を突きつける。
「く……くくくっ、滑稽な娘だ」
狂人は何を血迷ったのか、喉元に押しつけられた剣にも脅えず、腹の底から笑い出す。この奇妙な様子に私は唯戸惑うばかり。
「須臾……?」
数術使いの少年も、どうすればいいのか解らないのだろう。困った様子で王を見ている。
「マリー姫との初夜でも思い出されましたか須臾王?」
イグニス様のブラックジョークがそこに飛び、その場はなんだか居たたまれない空気に。それさえ狂人は笑い飛ばして薄ら笑った。
「よかろう。愉快な兵に免じて、其方を今日は逃してやろう」
「え?」
不利なのはそちらなのに……そんな台詞、何処から出てくるの?疑う私の下で、それでも男の余裕は覆らない。得体の知らない相手に、再び湧き起こる恐怖。
「き、消えた!?そんな馬鹿な!!」
「空間転移……!?あの数術使いは代償が切れていた!タロック王は触媒を失った!それなのに何故!?」
それまで馬乗りになっていたはずの相手が消えて、床へ尻餅をつく私。上方でランス様の動揺が聞こえている。
「見ぃーつけたっと!」
「え……!?」
違う、床じゃない。床にしては柔らかい。タロック王と入れ代わるようそこに別の人間が現れたんだ。
それは先程までの男とは違う、小柄な子供。綺麗な明るい金髪に、琥珀色の瞳……
(い、イグニス様!?……違う!)
その子は真っ赤なドレスに身を包んだ女の子。私がシャトランジアでアルドールと会った時、教会に現れた女の子!
「貴女は、あの時の……っ!?」
これは一体どうしたことか。わけがわからないと固まった私にその子は抱き付いてニコニコと愛らしく微笑んだ。
もうちょっとだ。もうちょっとでようやく本当の意味で6章始まる。
トリシュとユーカーの歪な関係もひとまずここまでかな。
トリシュの方は回復の代償で、イズー云々の恋心はすっぱと忘れて空洞抱え……それ覚えてるユーカーだけちょっと寂しいと。
やっぱりここで死なせるにはまだ惜しい男だと、悩みに悩み延命措置。ていうかレーヴェも殺してしまったし、その上トリシュまで殺したら、セネトレア戦争での戦力足りなくなりますからね。