表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/105

31:Sedit qui timuit ne non succederet.

 「ランス、何処に行っていたんだい?」

 「ちょっと湖に」


 戻ってきた友人に、トリシュはそっと尋ねてみる。その返答に思い出すのは今朝の一件。精霊に向かって頭を下げたユーカーの姿。ランスの養母というあの方は、この男を諫めてくれたのだろうか?見れば確かに顔色が良くなっている……?いや、なんだろうこれは。生きた人間の顔。これまでのこの男らしかぬ、不思議な表情。

 彼と共にいる時は生き生きとしている顔や、普段ではお目にかかれない風なぶっ飛んだ言動を繰り広げるランスが、なんだろう。本当に唯の人間のような顔になる。

 彼に出来なかったことが彼女に出来たとは思えないが、それでも何か良いことがあったのだ。それがこの男を良い方向へ引き戻してくれたに違いない。この男は何だかんだで運が良い。その良いことを引き起こすために彼は祈り幸福を磨り減らしているのだ。そう思えば僕は苦しい。

 ランスには彼が居る。それに……


 「そうか……君はまだ母様がいるんだったか」

 「トリシュ?」

 「少し、君が羨ましいよ」


 境遇や生まれが似ていても、僕と君は別の人間。別に君が嫌いになったわけではないけれど、僻んでいるわけでもないけれど、やっぱり悲しく思うのだ。

 この男には心配してくれる精霊が居る。親心のように深く思ってくれている人もいる。僕には何があるだろう?誰が隣にいてくれるだろう?あの人だって僕とこの男を天秤に掛けたなら……考える間もなく答えは浮かぶ。僕の追い求めた人は何時だって、この男を追っている。そんなあの人を追いかけるほど、僕はその思い詰めたような瞳から泣き出しそうな横顔から目が離せなくなる。唯、雑念も風に飛ばされあの人を見ているだけ。見入ってしまうだけ。

 身勝手で脆く、不遜で傲慢。強さと弱さの定義もあやふやな……粗探しをしようとすれば幾らでも見つかるような男だ。その前提条件が頭に入っていても、彼の荒々しい喜怒哀楽は人間的魅力に溢れる。

 僕と彼の間には見えない紙があり、僕は彼という本の物語を追っている。例えその手に触れたって、僕はその本の内側には入れない。現実味がないんだ。それくらい、彼にとって僕はどうでもいい。多分知らぬに等しい程に、僕は希薄だ。貴方と同じ世界に、同じ本の中に在りたい。それが出来ないのなら、貴方をその本の中から連れ去りたいのだ。一緒に人間として、生きていたい。

 だけど今日だって、隣にいても僕はその壁を感じていた。僕は彼という本を読んでいる。土下座をし地面に頭をこすりつける彼を止めることすら出来なくて。見守るしかない僕はこの世界には居ないんだ。

 本の中のお姫様を追いかけた。そのお姫様だと彼女を追いかけた。彼女ではなく彼だった。それでも僕は追いかけた。それでも僕はまだ物語を追っている。夢から覚めたつもりが夢の中。ここは一体何処なのか。彼が万が一でも僕に振り向いてくれたって、僕はそれを現実として認識出来ないに違いない。だから僕が変わらなければならない。もっと……もっとだ。

 今まで出来なかったこと。それが今になって出来るだろうか?不安はある。それでも……


(希望はある)


 僕の視線に友人は、子供みたいな瞳で戸惑う。


 「ランス、僕はそれでも安心しているんだ」

 「何の話だ?」

 「君も普通の人間、普通の男だったんだなぁと……」

 「俺が女に見えるか?」


 相変わらずずれてはいるが、それでもこの男は……ランスは変わった。ランスを変えたのはユーカーでもアルドール様でもなく、たった1人の少女の存在。それも出会って間もない。その少女は澄んだ瞳をしているが、道行く男全てを魅了するだとか、とりわけこれでもかっ!と言うほどに特別美しいというわけではない極々普通の少女に見える。けれどそんな彼女との出会いが、この朴念仁を人間にしたのだ。それが恋の力だ。

 それならきっと、僕だって。僕だって変われるはず。その結末がどうあろうとも、僕自身は前進できる。していけるんだ。

 意気込むように吸った息。それも友人の顔を見れば、ふっと笑いで息が漏れてしまうよ。


 「そうじゃない。ジャンヌ様の協力に感謝していると言ったんだ僕は」

 「じゃっジャジャジャジャンヌ様が何故そこで出てくるんだ?」

 「君はなんというか、ある意味こんなにも素直な人間だったんだな。少し意外だ」


 こんな風に取り乱す友人を見る日が来るとは思わなかった。なるほど。彼が言うようにこれは喜ばしいというか、微笑ましい。人生何が起こるかわからぬものだ。

 戸惑う友人のその背中は何時もと違って頼りない。彼の背を僕は似たもの同士として、一つの目標として追いかけていたことも、今は何故か遠く感じる。いや、近付いてきたのか。僕が追い付いたんじゃない。彼が立ち止まって悩んでいる。その近すぎる距離に僕は戸惑っている。

 それでも覗き込んでみる友人の顔は僕以上に戸惑っているから、僕は……なんだか全て忘れて吹っ切れて、自分とは無関係のことだけどその背中を押してあげたくはなる。


(かと言って……)


 この男がイズーへの執着を明後日の方向に放り投げたからって、僕の運命の人(イゾルデ)が僕に振り向いてくれる訳じゃない。それだって僕の本意じゃない。まずは時間だ。時間が欲しい。少しずつで良いんだ。傍にいて支えてあげたい。

 僕のことを一つずつあの人に教えていく。知って貰っていく。そして僕も知っていくんだ。


(この男の代わりじゃなくて……あの人に好いて貰える僕自身を見つけるために)


 僕は会いに行く。僕と両親の問題を片付けて、そうして常に不動でもたれ掛かられても大丈夫な僕になる。彼以外のことで揺るがない僕になるから。

 その時もう一度、僕は言おう。返ってくる答えがどんなものでも僕はそうする。そうして僕は歩いていくんだ。僕の僕なりの騎士というものの在り方を探しに。アルドール様を守り、そして彼を守ろう。本の壁なんか燃やして、傍に。


 「ランス」

 「何か?」

 「頑張りましょうね」

 「……?これまでトリシュは手を抜いていたのか?」

 「……ぐ、愚問でした」


 少し人の悪そうな台詞を言った友人は、珍しくそれが冗談であるらしかった。この男が僕に冗談を言うなんて、何とも珍しい。そこまで気を許してくれたか、そこまで心の余裕が出来たのか。何にせよ、良い風が吹いている。

 何故だろう。これから戦いに行くというのに、全く不安がない。不思議な気分だ。こんなこと感じたことがない。不安な情景、絶望の何一つが浮かばない。すべてがハッピーエンドで終わりそうな、そんな予感さえする。髪を撫でる湖畔の風は真夏の熱気を和らげて、僕らの背を押すように西へと流れ、兵達の士気をも高める。まるで祭りだ。これから何か愉快な宴でも始まるんだろうか。僕は……その空気に酔いそうだ。


(何故だろう……)


 貴方が傍にいないのに、こんなにも傍に貴方を感じている。きっとその言葉を口にすれば、今なら貴方さえ手に入るような、甘美で不気味な錯覚。その不自然さに気付けるほど、僕はそれを知らない。知らなかった。“道化師”という者の存在を。


 *


 「祭りの音……」


 道化師はうっとりとその音色を聞く。トランペットはラッパはお祭りの開始を告げる音。

 その笛の音はまるで最後の審判の始まりを告げる鐘の音のよう。天まで響き渡るよう地を這う者を震え上がらせる。大地を蹴る馬の蹄の音。死者の眠りを妨げて、裁きを下す悪魔の響き。

 背筋がぞくぞくと震える。腹の底から湧き上がる興奮と歓喜の声。これほど楽しい見物もない。死ねば死ぬほど願いは近くなる。

 精々藻掻け苦しめ、殺し合え。最後の最後で願いを叶えるのはこの“私”。


 「そっかぁ、今度はあの子が“ヒロイン”なんだねアルドール?」


 見える。見えるよ。私には全てが見える。世界が数字が見えるから。

 鮮やかに嘘を教えてくれる。男装してるけど、貴方の隣に女の子。少し年上?ふぅん、年上が好きなんだ。変わったねアルドール。“ギメル”は年下の女の子だったのに。


 「それとも私が貴方の“姉さん”を殺したから?負い目と引け目と同情罪悪感で、年上が気になるんだ?本当、可愛いねぇアルドール」


 本当、可愛いくらい愚かでお粗末な可哀相な脳味噌。事実を事実として認識できない貴方には、きっちり明確に分かり易く教えてあげないと駄目だよね?


 「可愛すぎて殺してしまいたくなるけど、もっともっと焦らしてあげないと」


 まだまだこんなものじゃない。僕達が受けた痛みも苦しみも。君は何一つだってちゃんと理解していないんだろう?君はあまりに愚かだからさ。


 「前回の勝者はちょっとチート過ぎたね。それじゃあ神様達も面白くない」


 僕の言葉に響く声達。そうだそうだと頷き合う。こんなところで意気投合するくらいならこんな面倒なゲームを作らずに和解してくれればいいのに。いや、それでもそれだと僕の願いが叶わないから困るな。ああ、それじゃあ神様達が啀み合ってて良かったー。僕はとっても幸せですとでも言ってやろうか腐れ糞神が。お前達だって、僕はアルドールの次に憎く思ってるんですがね、その辺さっぱり理解してくれてないから神様って奴の脳はどうなってるんだか。超次元的存在に脳味噌なんて物理的概念あるわけないか。能無しがここまで世界を歪ませるんだからまったく迷惑なことこの上ないよ。……とか言ってあげても「神を罵り仇為すか、稀なる人の子よ」とか好感度上げて余計な破滅的イベントを送り込んできそうだから程ほどに。何で好感度上げたり興味持った人間不幸にするの好きなんだか、あの鬼畜神共。かわいい子には旅をさせよってレベルじゃありませんよまったく。

 嗚呼、それはもうどうでもいい。あの連中は基本スルーが一番だ。信仰廃れてさっさと消えろ。それはさておき、問題はこれが初回のゲームではないと言うことを僕は知っていると言うこと。

 本来この審判世界に生まれた僕がそれを知る術はない。それを教えられた僕は他のカードより幾らか優位な立場にあるってこと。


 「だから感謝してますよその件だけは神様達に。それでこそゲームは盛り上がる」


 歴史は繰り返す。悲劇は免れないし僕の勝利は確定している。問題は如何に僕が爽やかに復讐を遂げてすっきり綺麗な気持ちで願いを叶えて幸せになれるかということ。何を血迷ったんだかあの“お兄ちゃん”はとんでもないことをしてしまったものだな。アルドール復讐計画はもっと綿密に進めなければ駄目だね。

 収穫の秋のため。綺麗な花を咲かせるためには土と空気と風が要る。温かい日差しも必要だ。たっぷりと愛情を与えて育ててあげないと。そのためなら僕は面倒事も厭わない。あのカーネフェルの連中が頑張れば頑張るほど、事態は悪化する。アルドールが成長すればするほど揉め事は生まれていく。嗚呼、愉快だねアルドール。その時が来るのが楽しみで僕は仕方がないよ。その時君はどんな醜い顔を浮かべてくれるのかな?その顔を頭を骨が砕けるまで靴を拭く雑巾代わりに踏みつけてあげようか?そうだな、ヒールで両目と鼻穴耳穴を踏んづけてあげても面白いかも。

 腐れ純血の君は元々そんなに整った外見でもないしそうなったらいっそ突き抜けて醜くなった方がある種のキャラ付けになるんじゃないかな?復讐相手相手に、そんな協力をしてあげるなんてなんて僕は心が広いんだろうね。


 ……そんな風にくすくす笑う“私”を見ている奴が居る。此方からは見えない、触れられない。それでもいるのがこの世界の“神様”。私を狂った娘よと憐れむ神と、大絶賛して腹を抱えている神様と。こんな女に誰がした。笑えば嗤うほど、私の目尻には乾いた涙が浮かぶのに。もう笑うしかないんだよ。笑うしか、ないんだよ。貴方は何も知らない。だから私が教えてあげる。貴方が泣けなくなるまで追い詰めていたぶって苦しめて嘆かせてあげる。


 「だからアルドール、裏切って良いよ。好きになればいいよ。どんな子でも、愛してあげればいい。ギメル(わたし)に遠慮なんかしないでそうなってしまえばいい」


 愛せば愛した分だけ貴方は苦しむ。だから愛してあげればいいよ。貴方の望む、女の子(ヒロイン)を。


 *


 進軍は快調だったはず。俺達は敵の目を錯乱させるための陽動。此方にはコートカードのクィーン、ジャンヌが居る。タロック側のキングカードは南に下ったと聞いた。

 アルドールは呼吸を整える。やれる。きっと大丈夫だと自分に言い聞かせて、張りぼての王の顔になる。お飾りとして立派な王。演じきらなければならない。


 「其方から出向いてくれるとは……カーネフェリア家に空気の読める者がいたとはな」

 「タロック王!?」


 王が前線に出るというのが相手を驚かせるための策だった。それがどうだ。向こうの王まで出てくるなんて。これにはカーネフェル軍側にも一気に動揺が走った。ここでこの男が出てくるなど思っていなかったのだから。

 相手は毒使い。屋外で戦うのは圧倒的に不利。すぐに兵達を下がらせる指示を出すランス。攻撃方法を教会兵器に切り換えさせ、銃口、砲台を男へ向けるよう促すジャンヌ。


 「先は我の騎士を一人葬ってくれたそうではないか」

 「狂王ともあろう男が、仇討ちとは酔狂な」


 内心の震えを隠して、俺は男を睨む。上手くやるんだ。やりきるんだ。怖くない、怖くない。ここでヘマをしてイグニスに失望される方が怖い。そうだろ?やれる。やれるさ。や

 らなくちゃ。それがみんなを守ることに繋がるのなら。


 「まさか我々を一人で迎え撃つつもりですか?我がカーネフェルも見くびられたものだ!」

 「ふっ、手に馴染まぬ剣を手にしているようだが、其方に扱えるのか?」

 「私の剣は私に仕えてくれる兵士達。自慢の一太刀をお見せしましょう!ランス!相手をしてやれ」


 相手は十中八九スペードのA。イグニスもそう言っていた。それなら騎士として優れたⅢのランスがこの場に挑むのが最善だ。二人の戦いに敵が熱中する内に、兵を前に進ませる。ジャンヌを先に進ませる?いや、ランスの幸福値支援に残らせる。俺が一人軍を率いるのは難しい。恐らく前進しかできない。その内にイグニスとトリシュに城内を何とかして貰うしかない。

 ランスと狂王の剣がぶつかり合う音を合図に、俺は進軍の号令を告げようとした。しかし二度目の剣戟は無く、鈍い音が耳に響いた。


 「これが其方の最強の騎士、か。他愛もない……小僧よな」

 「がっ……」

 「ラ…っ」


 彼の名を呼びそうになった。しかしここで俺が狼狽えては統率が乱れる。


 「ジャンっ!撤退だっ!」

 「しかしっ!」

 「兵は民だ!民は国の宝だ!殺させるな!」


 お飾りのための剣。一応は斬れるが触媒ではない剣。数術はこれでは使えない。純粋な剣技のみが試される剣。それでも俺はその剣を手にするしかない。

 此方の幸運を退けた何かが近くにいる。それはタロック側のカードじゃない。エルスじゃジャンヌに敵わない。そうなればそれは恐らく……


(道化師だ)


 道化師は女を嫌う。ジャンヌを近づけさせるわけにはいかない。俺がここで道化師の興味を引きつつランスを守らなければ。


(ごめん……ランス)


 こんなこと言いたくないけど、王を演じるためには俺は……ここで言わなければならない。最強の騎士が、こんな事になったなんてとてもじゃないけど認められない。それでは兵が民が不安がる。


 「ふっ、騎士の一人倒した程度で調子に乗るなタロック王っ!そこの騎士は私の騎士の中でも最弱だ!私の真の切り札セレスタイン卿!彼は今にも南へ下り、王都の奪還に向かう最中よ!」

 「……ふむ」

 「私がこの前線に出てきた意味を考えろ。カーネフェルには次なる王の種がある!戦火の及ばぬ地へそれは逃した!仮にここで私を殺したところで、カーネフェルの炎を消せるとは努々思うなタロック王っ!」

 「それが最後の獅子の遠吠えか。何とも情けないものよ……その剣で、自ら戦うことも無いのか少年王よ」

 「私は貴様とは違う。違う戦いっ!違う国の在り方を示し、この戦争を終わらせよう!」


 掲げた剣を俺は地へと放り投げ……そうして不敵に笑ってやるのだ。


 「狂王よ、貴様の求めた首がここにあるぞ?」


 声が震えそうになるのを誤魔化すために胸の前で組んだ両腕、見えないところで強く抓った。

 狂王が俺へと近づき、その剣を振りかざす寸前、倒れていたランスが起き上がり震える腕で狂王の一撃を打ち払う。


 「………っ、……まだっ……俺は、まだっ」

(ランス……)


 ランスは笑う。笑っている。その頬を伝う熱い涙に俺の鼻の奥がツンとなる。

 悔しいよな。解るよ。あんな事言われたら……きっと、誰だって。死に物狂いで戦うランスに一時的な回復数術を施して、その支援を行った。


(イグニス……)


 トリシュはまだ?まだ、来ない……?どうして?どうしてなんだイグニス。これ以上させるのは危険だ。ランスに何かあったら大変なのに。こんなに不利だって事は道化師が居る。何処かで俺を見ている。見ているのに。見ているから?


 「アルドールっ!」

 「ジャン…!?」

 「兵は下がらせました!貴方とランス様も早くっ!」


 兵達を安全な場所まで退避させた後、ジャンヌは再び馬を奔らせ馳せ参じてくれた。しかし……その頃にはブランシュ領から駆けつけた兵士達が近付いている。ランスを馬に乗せて逃げるだけの時間はない。


(俺だけ飛び乗れば逃げられる。でもそれじゃあ……)


 俺は何度も言ってきた。この審判の抜け道を探そう。みんなで生き延びようって。俺は嘘を吐くのか?イグニスに、ユーカーに、ランスに、ジャンヌに。そんなの駄目だ。


 「アルドール!?」

 「ジャン、これセレスちゃんに返して来てくれ。借パクなんかしたらどやされそうだ」


 アロンダイト領でユーカーから貸し与えられた十字架。それを馬上のジャンヌに投げて、俺は笑った。ランスが自分で回復できるようになるまで、せめて俺が無駄なことでも一時的な回復をして彼を繋がなければ。


 「タロック王、私の騎士達が都を落とすのが先か、貴様らが私の首を落とすのが先か、賭けでも興じてみる気はないか?」


 *


 「ふん、他愛ない」

 「須臾!」


 血の匂いを纏わせて、ブランシュ城に帰ってきたタロック王。エルスは恐る恐る彼に近寄る。

 後一歩と言うところで己の主に人形のように抱き上げられて、今帰ったと頬ずりされる。駄目だこの男。戦争の後はいつもそうだ。甘えたいんだね、誰かに。本当は他の誰か、もう何処にもいない人に縋りたいんだ。貴方は間違っていない、正しいよと、受け入れて欲しいんだ。

 それをいつもは気持ちが悪いと文句を言って、頬を抓られていたエルスだ。それでも今日は何だか何も出来ず、出来無いどころかその腕の中に収まって、縋っているような恰好。

 だって、だってね?ふわっと噎せ返るその匂いにとても心が安まる。これはカーネフェリー共の血だ。この血がレーヴェへの手向けになる。そう思うと、ほぅと息を吐いて微笑んで……涙が頬を伝うのだ。須臾はこれまで殺してやろうと思っていた男だけれど、こうしていると何だか少し好きだなと思える自分を見つけてしまう。

 セレスタインは僕をペイジのカードだと言った。何処まで信じて良いかわからないけど、ペイジは死ななくともこの戦いは終わるのだと言っていた。それなら僕がここにいる理由って何?


(僕を討伐に来たこの男に捕まって、人間なんかの王は嫌いだって殺そうとして……)


 そんな態度が気に入られて傍に置かれた。そうしてカードになって、僕がジョーカーだと信じて……須臾と平等に殺し合える力を得たと思った。でも僕の方が強い。今の僕ならこの男を殺せるんだ。そう言われたって……確信した今となっては。この男を殺せば僕は居場所を失う。双陸だって僕を怨むだろうな。


(何考えてるんだろう、僕)


 これまで誰だって殺して来た。他人の不幸が楽しかった。腹の底から笑ったさ。人間達の滑稽さには。

 僕は妖怪だ。人間じゃない。それなのにこんな風に人間に縋り付いている。なんと惨めなことか。だけどこんなにも血の匂いのする人間が居るだろうか?この男ももはや鬼。此方側の人間だ。そう、認めてあげても良いんじゃない?この男は今日だけは、この僕のためにこんなに生贄を捧げてくれたんだ。


 「アロンダイトの息子は半殺しで生け捕った。カーネフェリアの小僧は奴に庇われ無傷で牢にある。兵の指揮を継いだ小娘が生き残りの兵を連れ退いている。今日は日も暮れた。仕掛けては来ぬだろう」


 須臾はA。ランスとかいう男は殺せない。ならそれは上出来だ。兵だけでも数百を一人で削ってくれたに違いない。本当この男は化け物だよ。淡々と語られるその報告に僕は、ぞくぞくと身体が震えて熱くなる。


 「須臾っ!凄いっ!恰好良いっ!」


 目を輝かせてほぅと感嘆の息を吐く僕に、面食らったような狂王様。あれ、ちょっと意外な反応だ。もしかして、照れたんだろうか?視線を逸らし、僕を床へと放り投げ深々と椅子へと腰かける。


 「生贄の譲渡にはどれくらい掛かる?」

 「ええと……僕が直接殺した訳じゃないから、それを今から伝えるために歌ったり踊ったりしなきゃいけないから小一時間は」

 「それが終われば其方の数術代償とやらは暫く困らんわけだな」

 「そうですけど」

 「ならば処刑は明日か。子鬼……献上の舞とやら、どれ我に見せてみろ」


 須臾がそう言って僕に笑った。優しい目だ。悲しい目だ。例えるなら迷子の子供みたいな目。そんな子見かけたら極悪人の家か性病持ちの性犯罪者の所に連れて行ってあげるくらいの親切しか出来ない僕なのに、今は何だか違う。ちょっとぎゅっとしてあげたくなった。でも僕の何倍も身体の大きい相手だから、僕が甘えて居るみたいに彼には映る。ふっと頭の上で須臾がまた笑う。唇が動く三文字は僕の名前じゃない。それでも愛おしげに僕の頭を撫でるのだ。


 *


 道化師。トリシュがその名をむざむざと突きつけられたのは……日も暮れた後。

 真昼の間、トリシュは待っていた。しかし幾ら待っても出撃命令は出ない。戦況を窺う教皇様が転送の判断を下さない。終いには城内の自由行動許可さえ与えられた次第。

 一抹の不安を感じながら、トリシュは幼少を過ごした城を見て回る。懐かしい城。こうしてゆっくり眺める暇もこれまで無かったように、トリシュは思う。唯あの人が居るだけで僕の目はこの懐かしい場所よりその人を追いかけるから。

 それが今や、まるで走馬燈。記憶の回転木馬だ。巡る場所巡る場所から記憶が流れ込んでくる。ここに彼が居ないだけで、僕は過去に縋り付く。あの人は僕の今だから。どんな思い出もあの人の傍では霞んでしまう。だから思い出さなかったのに。


 「此方にいらっしゃったんですか?」

 「イグニス様……」


 探しましたよと微笑むのは幼い教皇聖下。ようやく出陣命令かと顔を見るに、柔和な笑みからして、状況は好転し僕の力が必要なくなった……という話だろうかと邪推してみる。けれど此方が尋ねる前に、聞いてきたのは彼の方。


 「何をなさっていたんです?」

 「……過去を、見ていました。ここが母の部屋だったのを思い出して……」


 これが最後かもしれない。生きて帰れないかもしれない。そんな気はしない。しないからこそ、それはきっとそうなのではないかとも思ったのだ。死はそれくらい前触れがない。母だって死の前日までは何の悲しみも知らないように、笑ってここにいたはずなのだ。

 他の部屋とは違う。閉め切られた部屋。その淀んだ空気が僕の過去。焼け焦げた壁。それが今に伝えるのは……


 「自殺は突然だったんです」


 それはトリシュは思い出す。戦火から逃れるためシャトランジアに退避していた母に連れられ物心付く前に帰ったのがこの城。恐らく父は戦争に出向く僕の養父の代わりに、シャトランジアに逃げた母の護衛を任せられた。その信頼を裏切り父は母に手を出した。妊娠が発覚してすぐに、それを恐れた母は一度カーネフェルに戻った。「愛しい貴方が心配で」そんな嘘を口にして寝所を共にしたに違いない。そこからまたこの国はまだ危ないからとシャトランジアに帰される。そうして生まれた僕の誕生日を数ヶ月誤魔化すことで真実を闇に濁した。

 けれどそれに耐えられなくなった。引き出しの中……焦げかけた日記帳。鍵は掛かっていた。昔の記憶を頼りに、探した場所から見つかった。怒り狂った養父に打たれた時、その手から滑り落ちた鍵は古い涸れ井戸の中にやはり落ちていた。

 開かずの引き出し。そこから出てきた母の言葉。昔はそれを読む間もなくこの城から追い出された。罵られた言葉の端々から真実を悟ったに過ぎない。それを改めて言葉として文字として僕は触れた。僕の面影が日に日に嘘を曝くように父に似ていくのだと日記には書いてあった。


 「母はずっと僕に苦しめられていた。母を死に追いやったのは他ならぬ、僕でした」


 僕が傍にいるだけで、母は後悔の念に苦しめられた。縋り付きたい相手と同じ顔で、何も知らずに偽りの父を父を呼ぶ僕は母の目にどう映ったか。想像に難くない。罪悪感と後悔の念で一秒一秒身を磨り潰されていたのだ。


 「そうですね、彼女を殺したのは貴方ですよブランシュ卿トリシュ様」

 「イグニス聖下?」


 懺悔の言葉。それは間接的な言葉であり直接的罪は僕にはない。それを知っても僕を糾弾するその愛らしい少年は、僕を罪人だと確信してにたり笑む。


 「良かったじゃないですか。貴方に関わればみんな不幸になる。セレスタイン卿は利口ですよ。だから貴方に関わらない」

 「……い、イグニス……様?」

 「貴方みたいな男は誰も幸せになんか出来ない。親の一人や二人幸せに出来ない糞野郎にどうしてあんな面倒臭い障害ばかりの“お姫様”の相手が務まりますか?それが解っているから彼もアロンダイト卿にメロメロなんですよ」

 「そ、それは違います」


 彼の何を見ていたらそんなことが言えるのだろう。これまでの教皇様とは何かが違う、異質な空気を感じてトリシュは後ずさる。


 「貴方は……誰ですか?」

 「ふぅん、なかなか賢い騎士様だね。視覚開花も成って少しの数術なら見抜ける、っと」


 此方を値踏みするよう目の前の少女が笑う。少女?何故僕はそう思った?その違和感を見つけようと目を凝らせば、そこには赤いドレスを身に纏う……イグニス様と瓜二つの混血少女が現れる。


 「唯、幸福値はそんなに残っていない」


 死刑宣告のように僕の寿命を告げる死神。噂には聞いていた。彼そっくりの姿を模した道化師が居ると。それがこの……女の子?


 「私に何かご用でも?」

 「うん、そうだよ」


 少女は無邪気と形容しても差し支えない笑みで答える。白々しいまでの女性的な薄ら寒さが恐ろしい。そんな死神がもたらす言葉は何だろう?何であろうとまずろくな言葉ではない。


 「アルドールに貴方の愛しい人を仕えさせてはいけないよ。どんな未来においても彼はそれが原因で命を落として来た。そして彼が貴方に振り向いたことも唯の一度もない」

 「止めて下さい。その手には乗りませんよ」


 相手の切り札は見えた。恋に恋する僕ならばその手に引っかかったことだろう。しかし僕はそうじゃない。僕が愛しているのは恋などではなくあの人だ。


 「そうやって僕にランスを殺させるつもりですか?見くびらないで下さい。ランスは僕にとっても今となっては大切な友人です。第一彼に何かあれば僕の大切な人だって悲しみます」

 「そうかな?」

 「あの人の涙は見たくない。彼を常にあのちょっと腹立たしいような皮肉面で笑わせて差し上げることが僕の使命故、その提案はお断りさせて貰いますよお嬢さん」

 「私が誰と知っても?」

 「僕がここで殺されたとしてもです」


 トリシュの返答に少女は表情を殺す。そうしてじっと此方の瞳を覗き込む。息をする間も許さないほどの憎悪をそこに感じつつ、耐えた数秒後に少女は含み顔でほくそ笑む。


 「………やーめたっ。二度も同じ手を使うのは芸がないもんね」

 「だけど私の侵入に気付けないほどお兄ちゃんは疲弊してるんだね。それとも意識を戦場に向けすぎている?その位危ない状況ってことかな?」

 「そんなはずはありません」


 売り言葉に買い言葉。言ってしまったと思い直した。これでは向こうにコートカードがいると教えたようなものではないか。トリシュは慌てない振り、何食わぬ風を装い言葉を続けることにする。


 「なにしろ彼方には私の信じた友が居ります故」


 曖昧な定義。それでも誇りを持って自慢げにミスリードを誘う。こんな状況にいれば誰だって友だ。嘘ではない。転げ出た言葉は真実味があっただろう。


 「……唯の恋愛脳だと思ってたけど、覚醒すると厄介、か。見直したよ。思ってたより使える駒だ。アルドールには勿体ない」

 「……何の話でしょうか?」

 「貴方には関係ない世界の話。でもそうか。愛の騎士様ねぇ……真実の愛を極めれば極める程頭が回るようになるって面白いね貴方は。うん、良いんじゃない?応援してあげるよ私も」


 少女はにっこり微笑んで、此方にふわりと歩み寄る。剣の間合いを避けながら、彼女はそっと僕に耳打ち。


 「一途な人は好き。だから貴方の愛に祝福を」

 「……っ!」


 遅れて突き出す牽制の突き。それに曲芸師のよう軽やかに少女は距離を置く。


 「貴方の愛する人は私と同じ、ジョーカーになれる人。だからあの人はこの場所をとても怖がっている。みんなに嫌われるのが怖いんだって」

 「イズーが……そんな……っ」

 「いっそそうなった時、貴方だけ残ったならあのへたれはもう貴方に縋り付くしかないと思わない?貴方の真摯な愛に心を打たれるはずだよね?」


 敵の言葉だ。何処まで信じて良いかはわからない。それでもあの人が一人そんな事実に打ちのめされていたなら、その不安や悩みを察することが出来なかった自分はなんと愚かな。今すぐあの人に会いたい。会って全ての苦しみを共有したい。弱々しく脆いところまで何もかもが愛おしくて堪らない。


 「貴方に必要なのは時間だけ。その時まで生き残れさえすれば、貴方は貴方の幸せに辿り着ける。そうしてその時まで私は貴方と彼には危害を加えない」


 思考に侵され手に力も入らない。この手は剣を持つためではない。愛しい人を抱き締めその背を撫でるためにある。がくりと膝をつき頭を垂れる。窓から吹いた風に誘われて、はっと眠気のような虚ろから追い立てられ顔を上げれば……少女の影も形もそこにない。白昼夢でも見ていたのかと思うくらいにここは静かで、目を凝らしても異変の一つも見えない。いや……ここは?何故僕は天井を見上げている?


 「トリシュ様っ!トリシュ様っ!起きて下さい!」

 「ジャンヌ様、あの……程ほどに」


 道化師……?いやあれはイグニス様だ。壁際に退避しているイグニス様が見るのは僕の方。僕の方には覆い被さる影がある。その影が生み出す風の音が聞こえる。それは何度も、何度も……何かを打つような音?


 「良かった、お気づきになられましたか」


 ほんのり涙目でそんな嬉しそうに言われたら言い返せませんジャンヌ様。でも僕は何回往復ビンタを食らわせられたんでしょうか?尋ねるようにイグニス様に視線を向ければ30回……或いは100回は下らないと言わんばかりに頷かれる。


 「出撃のために幾ら呼んでもトリシュ様はお気づきになりませんし、その内にランス様がやられて一時撤退……というのが今の状況ですよ」

 「ランスがっ!?アルドール様は!」

 「アルドールは無傷ですが捕虜に。早く取り返しに行かなければなりません」

 「僕が……私は一体何を。まさかこの大事なときに眠っていたと……!?」


 そんな、どこから?何処まで僕の夢?僕は何を見ていたんだ?だってあれは風の気配まで感じるようなリアルな……いや、夢だ。だってあの少女は僕に近付いてきたのに……何の匂いもしなかった。髪から香る洗髪剤も香水の匂いも、洗った服の匂いも。


 「トリシュ様……何かありましたか?」

 「イグニス様……こんな話、信じていただけないかもしれませんが」


 それでも不安は拭い去れない。洗いざらい吐いてしまおう。そう考えて、僕は奇妙な夢の話を……一つ以外は全て話してしまった。一つだけは、どうしても言えなかった。

 僕自身の欲求のため。それがないと言えば嘘だ。だけど後ろ髪を引いたのは……傷つきやすいあの人を思い出して。それを知られたくないのではと、正確にはそうすることで更に嫌われるのではないか。恐れたのはそのことだ。

 もっとも現状でそんな些細なことを気にする人は誰も居らず、イグニス様もジャンヌ様も道化師の夢のことに気を取られていた。


 「……奴は以前精神体を送り込んできたことがあります。その時夢の領域の支配も容易いと言っていた覚えがありますが……」

 「聖下様、数術としてそういったものは可能なんでしょうか?」

 「洗脳は可能ですよ。けれど直接会ったこともない人間の意識に語りかけるなど……いえ、間接的な数式ならば或いは」

 「間接、ですか?」

 「ええ。道化師本人と会ったことがある人間。その人間にこっそり数式を刻み込みます。その数式が特定の人物に移動するように式を仕込む。そして条件を満たした時にそれが発動するようにするなら、夢の一つくらい見せることも可能でしょう。しかし……僕にも気付かないような潜伏式とは……」


 そこまで言われて、思い出すのはイズー……ユーカーの眼帯。その下に式を刻まれていたのなら隠れているその式にこの教皇聖下が気付くのは難しいのではないか?その可能性をトリシュは示唆してみる。


 「眼球ならばどちらも見ましたし、それはないかと」

 「そう、ですか」

 「それにセレスタイン卿が道化師と接触した場には僕も居ましたし、そこで怪しい動きがあったなら僕は気付いたはずですから」

 「何故式を組み込まれたのがあの方だと思ったのですかトリシュ様」


 聖十字二人から問い詰められて、僕はしどろもどろになりそうだ。


 「適当な兵士でも捕まえて洗脳して送り込んで、トリシュ様と接触させたのかも知れませんね」

 「僕も意識が彼方に向いていましたから、多少の隙があったことは認めます。数術の発動の気配が在れば気付いたでしょうが……以前のように薬物を用いられたのなら難しいですね」


 数術効果はそこら中で起きている自然現象。それと大差ない程度の式に気付くのは最高の数術使いであっても困難なのか。事実その数式は他の場所で展開されて作用された可能性すら在る。或いは本当に……唯の夢?


 「……仕方在りませんね。アロンダイト領からセレスタイン卿を呼び戻しましょう」

 「イグニス様、それでは……」

 「此方とアロンダイト領の警備には僕がシャトランジアから精鋭を招きます。それでなんとか凌ぎ切る」


 固めた拳を開いた片手に打ち付けて、イグニス聖下は顔を上げた。


 「僕は部下への指示があります。教会兵器の一部も転送させましょう。ジャンヌ様、申し訳ありませんが貴女も此方に残っていただけますか?」

 「聖下様!私は……」

 「あれは貴女の所為ではありません。それでも気に病む心があるのなら……協力していただけますね?これはアルドールとランス様を救出するために、どうしても貴女の力が必要なのです」


 傍にいて二人を攫われたことへの無念からか、ブランシュ領攻略に向かいたいというジャンヌ様。そんな彼女を押し留める言葉を紡ぐイグニス聖下。言葉の使い方がこの方は上手い。相手が従わざるを得ない言葉を選んでいる。そうして幼い教皇様は策はありますと一度頷き、僕たちの行動を決定付ける。誰にも逆らえない絶対性がそこにはあった。この方は未来が見えているのだ。それに背けばもっと悪いことが起こってしまう。少なくとも最善のやり方を示してくれているはずだ。


 「それでは至急セレスタイン卿を呼び寄せます。トリシュ様とジャンヌ様は待機を」


 部屋に残された僕とジャンヌ様。沈んだ顔をしていた彼女は僕に気付くとすみませんと溢すのだ。


 「ランス様はトリシュ様のご友人でしたね、私などより貴女は彼をきっと心配なさっているでしょうに……私ばかりこんな顔をしていてはいけませんね」

 「ジャンヌ様……」


 貴女もランスを心配して……?こんな状況だが、あの男の思いが僅かでも報われているのかと喜ばしくも思ったが、いや……それは違う。彼女が国を憂うる同志としてランスを心配するのは当然として、彼女はもっと向こうを見ているようだ。ランスが倒れた今、アルドール様は丸腰同然。カーネフェルの革命の火がアルドール様ならば、カーネフェルという国は今風前の灯火。彼女が憂いているのはそれだろう。


 「アルドール様が……心配ですか?」


 カーネフェルが、とは聞けなかった。聞いてはいけないようにも感じた。


 「……ええ」


 祈るようにぎゅっと両手を握りしめる少女の瞳のなんと青いこと。その青はそこまで深い色ではない。しかしその色味を増すような鮮やかな不安がそこに漂うようだった。


 「トリシュ様……」


 すっとその両手から差し出されたのは十字架だ。彼女はそれを僕に預かってくださいと言う。


 「セレスタイン卿にアルドールから返してくれと頼まれた物です。もし私が彼と顔を合わせる機会がなければ問題ですので、貴方から彼に渡して置いては頂けませんか?」

 「え?あ……はい。解りました。お受けします」


 よくわからないままにそれを受け取ると、ジャンヌ様は一礼し室内から出て行く。一人きりになって、まじまじとその十字架を見た。あの人が身につけていた物だ。

 あの人が支援に来てくれる。それは嬉しい。だけど……


 「会ったら……返さないといけないな」


 僕とあの人の繋がりなんてあってないようなものだから、それが随分と辛く感じてしまう。会いたいけれど会いたくはない。何とも奇妙な思いに駆られた。

 さっさと自分の領地を取り戻せと言われたのに、彼に手伝って貰わなければならない自分がなんだか情けなく惨めに思える。あの人は騎士だ、貴婦人などではない。それでも……僕にとっては貴婦人も同然の人だ。


(格好悪いな……僕は)


 溜息を一つだけ吐いて、トリシュもまた部屋を出ることを選んだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ