13:Fama crescit eundo.
もうどうにでもなれ注意報。女装野郎が二人も出てきてやがります。
こいつら真面目に戦争する気あるんだろうか?
今更過ぎて何を警告すればいいのか最近解らない。人間関係があれすぎる所為だ。ヒロインが軌道修正してくれることを切に願って。もうどうにでもなれ。
一緒に騎士になろうよ。そして、全てを見返させよう?認めさせるんだ。この剣ひとつで全てを取り戻そうと俺は笑った。そしてあいつも頷いた。
それは幼い日の約束だ。その約束が今は遠い。俺もあいつも今はもう、そのために戦ってなどいないのだ。
「……ランスはさ、アスタロットさんってどう思ってた?」
あの少年は、俺の主は……何も知らないのに、時々明確に俺の心を言い当てる。まっすぐで濁りのない綺麗な青。あの人に似ている深い海の色。
あの色で見られると、俺は時々言いたくないことまで言葉にしてしまう。隠し通そうとする醜い心を照らし曝かれる。
あの人はそんな俺も許し認め、受け留めてくれる。だけど……彼に、アルドール様に同じ事が出来るとは思わないし、俺もそんなことをしてもらうつもりはない。
アスタロット。エレインの実姉。ユーカーの婚約者。もう何処にも居ない人。そしてあいつが未だに忘れられない人だ。
俺が彼女と会ったのは数えるほど。婚約者選びのためあの男に無理矢理シャラット領に連れて行かれたことがある。ユーカーが一緒じゃなかったら馬に乗ってでも走ってでも泳いでも逃げていた。
俺が気になったのはあいつと結びつけられた少女がどんな娘なのか気になったからに他ならない。あいつにちゃんと釣り合うか。あんまりにも酷い子だったら俺も黙っていられない。
「ランス兄様……、ですよね?」
彼女は俺を義兄と呼んでいた。俺が姉と妹のどちらと婚約するか解らなかったからだろう。割合的には彼女には姉の方が多かったから、確率的な意味でも、年令的にも年上の俺をそう呼んだのだ。もっとも俺が彼女の妹とそんな関係にさせられたのはもっと後のことだから、当時の俺はそれに異を唱えることもなかった。唯、一目見て俺を俺だと知れたのが、不思議だなと思った。
「初めまして、ランス兄様」
ぺこりと頭を下げる、瞬間広がるその髪は……カーネフェルの金よりも、タロックの黒に近い暗い茶色。それでも青い眼はカーネフェルのそれだと知れる。
厄介者払いで両家のために結びつけられたのだとそこで俺も理解する。彼女もあいつも真純血。かけ合わせれば、次代には見目麗しい真純血が生まれる……その可能性に賭けてだ。
俺はその話に憤った。家の道具のように、そんな風にあいつが使われることが許せなかった。だから俺は彼女を哀れみながらも、あいつのために彼女を憎く思った。
それを彼女は感じ取り、妙なことを言うのだ。それは確かあいつが席を外したその時に。
「やっぱり優しいんですねランス兄様は。セレス様の言う通り」
「……俺が、優しい?」
俺の憎しみに当てられて、それで何故そのようなことが言えるのか。俺は驚く。この暗い髪の少女は、数あるこの家の娘の中で一番優れた娘。あいつに相応しくないなんて、どうして俺に言えるだろう?その澄んだ水のような精神は、非の打ち所もなく美しい。こうして言葉を交わすだけで、俺の心が濁っているのを思い知らされる。
「だって兄様は、そんなに深い目をしてらっしゃるのにセレス様をちゃんと思ってらっしゃいます」
それは彼の両親にも出来なかったこと。それを当然のようにやってのける貴方は凄いのだと言われたが、それこそ俺は馬鹿にされているように感じた。
「……人を色で区別するなんて馬鹿げたことだよ」
「ええ、そうですね」
貴方は確かにそれを本心として口にしている、彼女はそう指摘する。
「ですがそれを嫌味としてセレス様が受け取らないで居られるのは、ランス兄様が本当にお優しい方だからなんでしょうね」
あの卑屈なユーカーが、俺の言葉には楯突かない。口では何か言ったとしても、心の中では受け入れる。そんな俺が優しいだって?
(違う……)
それは優しさじゃない。我が儘だ。優しいのはあいつ方だ。そんな俺を許してくれている。
俺と笑顔で褒めてくれるアスタロット。彼女の言葉を嫌味と受け取ってしまうような俺が、どうして優しいんだ?
「セレス様は、いつもランス兄様のお話をしてくれるんです。とても楽しそうなお顔で。私はそんなセレス様を眺めているのが楽しいんです」
だから俺にお礼を言いたかったのだと彼女は言う。セレス様をあんな顔にしてくれてありがとうと。そんな感謝の言葉にさえ、これの心は影が差す。
だってそれは、自分の物であるユーカーに代わって、彼女が俺にお礼を口にしているように聞こえたから。
俺に一礼し、戻ってきたユーカーの元へと駆ける彼女。談笑する二人を見て、何故か裏切られたような気がした。俺と話すときとは違う、顔で笑うあいつは俺の知らない別人だった。兄弟のようにずっと傍にいた。何もかも知っていると自負していた。だけど、そんなことはなかったのだ。そう思うとどうしてだろう。これまで信じた何もかも、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく……そんな感覚。
あの頃の俺には、王とあいつしかなかったから。あいつが彼女に奪われたと知った日に、俺には王だけしかいなくなった。俺が騎士として、剣の道に以前に増してのめり込んだのはその所為だ。一緒に素晴らしい騎士になろうって約束したのに。あいつは鍛錬をサボって彼女に会いに行く。俺に負けることも多くなった。
許せなかった。以前のあいつは俺の努力なんか飄々と越えていった。本人が認めることは絶対にないが俺が認める。あいつには俺以上の剣の才がある。それなのにあいつは以前以上に何もしなくなった。これが恋という物か。それはここまで人を腐らせるのか?
あいつが腐っていく。腐敗していく。その照れ隠しの仏頂面から立ち上る、姿無き腐敗臭。ユーカーも、俺の父と同じ……そんな生き物になってしまうのか?空の色が、変わっていく。目には見えない、それでも解る。綺麗な青が、俺がこの世にあって綺麗だと……信じた色の一つが、こんなに簡単に汚されてしまうなんて。
あいつが堕落していくなら、俺は誰よりも立派な騎士になる。俺はあんな風にはならない。俺には王しかいないんだ。俺は王についていく。誰よりも忠実で立派な騎士になる。あいつが本気でやらないなら、それしか俺を負かしたあいつに勝つ方法がないんだと思っていた。
あいつは長く立ち止まった。彼女を失ってからは見当違いの方向へと走り出した。傷ついたあいつは心を閉ざした。もう傷つくことがないように。
その中に入ることが出来るのは、あの方と俺だけ。あいつの世界が閉じていく。それはあいつがまた俺と同じ剣の道に戻って来てくれたようで嬉しかった。だけど違うのだと気がついた。あいつは以前に増して無気力で、剣を振るうことに喜びもない。苛立ちをぶつけるように戦うだけ。そんなあいつを見ているのは苦しかった。
それは俺の知るユーカーじゃない。始めて剣を取った日のお前はそんな風じゃなかったはずだ。夢があり、目標があり……剣で全てを認めさせると抗おうとがむしゃらで。その目を馬鹿にした全てを、そして父親を見返してやると言っていたのに。
目的も忘れて、狂ったように戦うお前は、俺が望んだお前じゃない。それを伝えたところで、俺の言葉は届かない。
(俺は……)
俺は嬉しい。俺は悔しい。
アルドール様との出会いがあいつを変えてくれた。元のあいつを取り戻させてくれた。それは俺には出来なかったことで、感謝は言葉で言い表せない。感謝してもし足りない。だが同時に俺は心底悔しい。どうしてそれが俺ではなかったのだと。何も持たない彼にそれが出来て、どうして俺に出来なかったのかと。
彼はあんなにも脆く、弱く……普通の少年。いや、普通すら逸脱している。それは一度奴隷商達に脳を過去を弄られたからなのだろうか?アルドール様の普通さは普通ではない。
何処にでもいそうで、その実、何処にも居ない。そんな違和感が彼の中にはある
それでも彼の弱さは俺の存在意義に変わってくれる。だから俺にはアルドール様が必要だ。俺が騎士であるために、掲げる主は必要だ。彼が俺が戦う意味に生きる意味に、死ぬための意味になってくれた。俺はあの人の剣だ。それは揺るぎない。
それでも……そんな人を相手に、どうして俺は悔しいと思うのか。
剣では俺の方が強い。けれど戦わずして俺はあの人に負けている。それがどうにも腑に落ちない。俺はあの日と似た感覚を感じている。
アルドール様と出会ってから、ユーカーはまた他人を受け入れ始めた。ルクリースさんを、トリシュを、……パルシヴァルに関しては以前からだけれど、あそこまで余裕を持って時間を割いて相手をしてはいなかった。あいつの世界が開かれる。それは良いことのはずなのに、どうして俺の心はささくれ立つのだろう。
最初はからかっていただけだ。あいつが嫌がるのが楽しくて。怒ってむくれて照れた顔を見るのが好きだった。それでも最後は俺だけに……しぶしぶ折れる、そんなところも好きだった。優越感に浸っていたんだろう。誰の言うことも聞かないあいつを、従えた気になっていたんだろう。そうだ、俺は……得意げに。
だけど、あいつは自分の意思であんな格好をするようになった。それは俺から逃げるため。それは俺を助けるため。プライドの高いあの子が、そんなことをするなんて。その変化に俺は狼狽える。
俺を心配して来てくれたはずのユーカー。それは本当に俺のため?だってあいつを変えたのは俺ではないだろう?あいつ自身気付いていないかも知れない。でもそれだけじゃないような気がしてならない。俺にアルドール様が必要だからそうするのか、アルドール様に俺が必要だからそうするのか。その理由が反転して行きそうで怖いのだ。結局優しいのは俺ではなく、あいつの方だから……大切な物がまた増えていっても、捨てるとしたらあいつがじゃない。多分俺がだ。いつか俺から離れるあいつを俺が見限る時が来る。あいつはそんなことをしないから、俺がそうするしかなくなる。耐えられなくなって、いつか……
「ランス様?」
神子様の声ではっと我に返る。
「いえ、何でもありません」
そうは言うが、遠離るあいつの背中から目を離せずにいる。
暗闇なら両目の差違にも気付かれないと、最初からあいつは両目で来た。それはあいつにとって何よりのトップシークレット。彼女亡き後それを知るのは俺だけで、アルト様だってそれは知らなかったのに。その秘密がこんなにも簡単にぶちまけられる物だなんて。投げ出される物だなんて。
「それでは今の内に僕たちは行きましょうランス様」
俺の言葉を信じたわけではないだろう。それでも時間の無駄は避けたいと、彼は俺達の役目を口にする。
「しかし、イグニス様……」
様子見のために送り込んだ相方。それを思うと俺は気が気でない。しかし神子は相も変わらず冷静だ。或いはそこまで彼のことがどうでも良いのか。。俺はユーカーが心配で彼の方を振り返る。
そうだ。今、あいつは囮になってくれている。その隙に神子様の部下達と合流し、タロック軍の隙を突くのが彼の策。
今はそれに集中しなければ、そう思うのにどうして後ろを振り返りそうになる。だって今のあいつは丸腰だ。本当に、大丈夫?
「心配有りません。彼はコートカードです。そう簡単にどうにかなるとは思えません」
その言葉には俺にはない、ある種の信頼のような物が感じられて、彼を侮辱しているのはむしろ俺の方ではないのかと思い始める。俺はあいつをちゃんと頼れてあげていない。あいつの方が強いカードでも、俺が心配したいし頼られたい。あいつを弱くしているのが俺のエゴ。俺がそれを望んでいるから、あいつは弱いままでいようとしてくれる。
わざとこの方があいつを突き放すのは、それではいけないと俺に伝えるためなのだろうか?
「彼に敵の目を惹き付けている間に、僕らは合流を図らなければなりません」
ああ、そうか。この人は……
俺に出来ないことをやってのける。冷酷に見えるのは、多分その所為だ。俺が甘くなるのは、信頼していないからだ。ユーカーも、アルドール様も。
神子様がアルドール様を、危険な場所に彼を送り込むことを企んだのは、彼ならばそこを切り抜けられると信じたからだ。俺はユーカーを信頼するなら、振り向かずに今やるべき事に専念しなければならない。
「イグニス様、貴方は余程アルドール様のことを信頼していらっしゃるんですね」
「……彼はまだあの二人の騎士とは打ち解けていないところがありますからね。あの二人も同じです。苦難を共にしてこそですよ」
俺の言葉に一瞬面食らったように琥珀色の目を見開く神子様だったが、すぐに目を伏せそんなことを言い出した。もっともらしい言葉ではあった。
「苦難を……共に……」
「セレスタイン卿なら大丈夫ですよ、三つ子の魂百までと言いますし彼はもう手遅れです」
「はい……?」
俺の目をじっと見て、神子様は悪戯好きな子供のように微笑んだ。
「さぁ、先を急ぎましょう?これも巡り巡ってアルドールの、カーネフェルのためですよ」
「……はい」
「それに間もなく彼への助っ人も現れる頃でしょう。ですから問題有りません」
*
(問題有りません、か……)
そうは言ってみた物の、ちょっと今回ばかりは危ないかも知れない。イグニスはさっそく胸の内で発言を撤回した。
嫌な気配がする。それが彼女のカードの気配なら、おおいに越したことはないけれど……この辺りから僕を除いてコートカードの気配が三枚もある。
一枚がセレスタイン卿。もう一枚には心当たりがある。それならもう一枚は?
カードは上から下から決まる。それでも例外は稀にある。例えば上に変動が有れば、下のカードの配役が、変わることだってあり得るのだ。
部下からの情報によって、スペードのコートカード三枚は把握した。ダイヤはジャックとキングは把握、だがクィーンがまだ行方知れず。だがセネトレアにあるのは間違いない。
ハートは僕のシャトランジアに関わる以上、三枚とも僕は知っている。既に一枚失われたのは正直痛手だが。残りはクラブ。ジャックはセレスタイン卿、クィーンはルクリースさん……だがキングはまだわからない。
カードは国だけではなく生まれや職で揺らぐこともある。だからカーネフェルに関わる人間か、それとも農民出身かははっきりしない所がある。
クラブのクィーンとジャックがカーネフェル……アルドールの下に来た以上、キングは恐らく僕らの所には来ない。神はコートカードが同じ陣営に固まるのをあまりよく思わない。そんな結果の見えるゲームに彼らは興味がないのだ。だからバラけさせる。
第一僕を含め、コートカードはその過去から大抵人格に問題がある。一点に集約されるような者ではない。個人の意思と理想があり、そう簡単に誰かに下るようなものでもない。僕がアルドールの傍に何枚か集められたのだって、その点を利用したからだ。
(セレスタイン卿に釣り上げて貰って……そこで力を使わせる)
確信が欲しい。この付近に潜伏しているカードの正体。一瞬でもカードの力を使わせれば、僕はその情報を辿ることが出来る。神経は張り巡らせている。見過ごすことはないはずだ。
カーネフェルは火の元素が多すぎて、他のスートのカードの気配を薄めさせる。クラブのカードは力がここでは増幅される分、見つけやすい。アルドールが道化師やエルス=ザインに見つかるのもその所為だ。だから戦うのは他国の中が良い。その方が有利。だからカーネフェルは今危うい。さっさと彼らを追い出して、僕らが攻めなきゃ勝ち目がない。
「……イグニス様」
ランス様の声に顔を上げれば、そろそろと海辺からタロック兵が引いていく。彼らは林の方へと向かっているようだ。セレスタイン卿が惹き付けてくれたのだろう。
「上手く行きましたね」
その隙に僕らはその場を抜けて、数術で船へと上がる。しかし船はしんと静まりかえっていた。
「イグニス様……これは」
「妙ですね、人の気配がありません……いや」
僕が現れたことに気付いたのか、数術を解く気配。姿を現したのは、明るい調子のカーネフェル人の少女。兵士である以上そこそこ筋力は付いているが、それなりに可愛らしい外見ではある。だがそれは彼女の本当の姿ではない。マリアージュほどではないが、この子も変装スキルには定評がある。
「神子様っ!」
彼女は僕を見るなり駆けて来て、思い切り僕に抱き付いた。彼女の方が身長高いから何というかもろに。うん、もろに。でも僕には素直に喜べない理由が三つほどある。まずは一つ、それは彼女が厄介な者を飼っているから。そして二つ、それは偽りの肉の塊だからだ。そもそもそれは肉でも脂肪でもない。俗に言う以下察してください。最後の三つ目は……まぁ、今となっては問題になるのかならないのかよくわからない。
それは兎も角このまま抱き付かれていると、僕といえども面倒臭いことになる。なので僕はその厄介なモノに今に離れる、そう告げる。
「よく来てくれたね、シャルルス」
よしよしと彼女の頭を撫でてから、本題を思い出してくれと訴えれば我に返ったように跪く。先程までの明るい表情が嘘だったかのように沈んだ顔で。
「今日はまだ連絡がないから心配していたんだけど……何があったんだい?」
「海上でタロックの船から奇襲を受けました。辺りには数術妨害の数式も紡がれていて……私程度の術者では破れない物でした」
それは仕方ない。この子は純血にしては優秀で数術は使えるし戦えるが、通常時では相手が混血なら劣る。中途半端なナンバーなのは否めない。それにその性質上、力にムラがある。あくまで今回は補助に徹しろと命令したから、仕方ないことだろう。
「……タロックのカードが本格的に数術を会得し始めたってことかな。いや……エルス=ザインの可能性もある。相手はどんな技を?」
「嵐です。殺意しか感じられない大嵐……」
嵐か。エルスも風使いではあるが、そこまで大きな精霊は憑けていない。信仰を無くした哀れな精霊……通称悪魔、タロック風に言うと妖怪共の寄せ集め。一匹一匹は大したことはなくとも、それが合わさることで強大な化け物になった。そう言った怨みの化身をいくつかあれは憑けている。彼の憎しみ怨みの波長が彼らと異常なまでに共鳴したから、彼は彼程の数術を手に入れた。それでも嵐を起こすほどの力は彼にはない。僕が見た限り、エルス自身は壱の数術使いだ。攻撃数術は全て精霊頼りと言って良い。
このカーネフェルの地で風の元素を気ままに操るってことは……タロックのかなり上位カードの仕業、その可能性が高い。それならエルスの線は薄いか。
(どうやら、タロック王がカーネフェルに来ているというのは今度ばかりは本当かも知れない)
どこで盤面が歯車が狂った?これはこれまでの僕が知らない展開だ。だとしたら、不味い。エルス=ザインはタロックまで飛ばない。短期間で帰還する。流石に国をまたいで飛ぶような転移数術は使えないだろう。如何に彼が混血だってそれは無理というものだ。契約数術だからって、代償がないわけでもないし、第一脳内計算に耐えきれなかったらそれでアウト。混血だって身に余る力を求めれば、脳死は訪れる。混血の数術使いは自分の力量と潜在能力を正しく理解する。その上で力を行使する。それが数術学の基本中の基本。
「状況から察するに、この船は君が一人で動かしてきたってことだね?」
「はい」
「それで残りの兵士は?」
「退避させそれぞれ別のルートから上陸を。嵐に最短ルートで来る船に、カードがいると思わせなければなりませんでしたので私がそれを……」
「……そうか、ありがとう。最善の行動だよ」
「あ、ありがとうございます」
照れたように彼女は視線を逸らしたが、僕は膨れあがるような殺意に当てられる。これは彼女の責任ではないとはいえ、本当にとばっちりだ。
「タロック軍の船は此方に向かって来たと言うより、この辺りを警戒していました。もう既に一度上陸した者達の一部かと」
此方の船がやって来たのを見て出陣させたのか。北部のこの辺りは既にタロックに掌握されつつあるらしい。
思えば都攻めを遂げたのは南部から侵攻して来た双陸、エルス。
それまでは南北からの挟撃を狙っていたタロックも、無理にザビル河を渡る必要が無くなった。だから河を渡れなかった連中は、引き返し北部の支配に専念し出した?もっともある程度は各地に兵を残していたのだろう。唯通り過ぎるだけと言うわけにもいかないだろうから。
河を渡れず北上する者と、北から降りてくる者。どちらにしろ僕らは挟み撃ちにかけられている。今度こそ逃げられない。
「ユリスディカは?」
「彼女の船は近場の海岸に」
「なるほど。それを聞いてあの湖城からタロック軍が飛び出した……ということか。所で一ついいかいシャルルス」
「神子様?」
「君は何時から僕を神子と呼ぶようになったのかな?」
僕は服の下から取り出した、十字銃を彼女へ向けた。それに驚いたのは話を聞くことに専念していたランス様。
「い、イグニス様!?彼女は貴方の部下ではないのですか!?」
だけど構っている暇はない。ちょっかいをかけてくるなら僕の方だと確信していた。僕がアルドールと離れたのは主にそのためだ。
「この辺りの気配を歪めていたのはお前だね。ねぇ、ジョーカー?」
*
その言葉に、ランスは言葉を無くしてしまう。
自身も数術使い。ある程度の術なら見破れる。
それでも道化師と呼ばれる相手をまだ見たことがない。だから何が本当なのか、わからなくなってしまう。限りなく気配の薄い、数術を解いたその者は……神子様と瓜二つ。
教会の礼服に身を包む可憐な混血の少女。愛らしさと残忍さを感じさせる、奇妙な笑みを浮かべていた。
「……さっすが“お兄ちゃん”!でも良かったの?部下との秘密を一つこんな序盤で私に教えてしまうなんて」
お兄ちゃん?道化師が神子様の縁者?いや、それに化けている?わからない。俺は皆から離れていたからシャラット領には行かず、道化師に会わなかった。アルドール様達の状況から、とても聞けるような状況にもなかった。それにあまりに忙しすぎた。
動揺する俺とは違い、神子様は冷静そのもの。それでもその瞳に宿る強い感情がある。美しい色の瞳を隠しきれない殺意で彼は光らせている。
「何処まで本当か解らないけど、そっちもタロックの情報をわざわざ僕にくれたじゃないか」
「そりゃあそうだよ。“愛しの妹”のためだもの、ねぇ……“ギメル”?会いたかったよ」
途端に声のトーンが変わる。先程までのテンションとは打って変わった、淡々としたやや低めの声。愛くるしい少女のそれだったはずの表情まで、冷淡な少年のそれへと変わる。その素顔、その声は神子様の声に酷く似ている。だが違和感。それは先程の抱擁を思い出すような、うっとりとしたその口調。聞き流そうものならそこに囚われがちだが、注目すべきはそこにない。耳に残った単語は、妹、それからそれらしい人の名だ。
「神子様が……女性……?」
「ああ、初めまして高名な騎士様。出し惜しみされ過ぎて仲間はずれの可哀相なランス様」
何故それを!適確に此方の神経を逆撫でるその言葉。数秒前に言われたことを忘れてしまいそうになる程苛立つ。しかしその話題に引き戻したのはその、不愉快極まりない道化師だった。
「彼に教えてあげなかったの?」
くすくすと、その少女だか少年だかよくわからない者が笑う。
「何の話かわからないな。下らない話をしに来たわけ?」
「下らないだって?この間のことで理解したと思ったんだけど。君じゃ僕には勝てない」
「…………」
「いや、別に僕は愛しの妹の衣を剥いでそこの騎士様に証拠を見せるような変態趣向はないから安心してよ。そんなことをしなくても疑念を植え付けることは出来るからね」
証拠があるわけではない。それでも魔法のように、道化師の言葉が俺の中へ滑り込む。途端に神子様が、少女にしか見えなくなる。数術が解けていくのか。それとも此方がまやかしか。顔立ちが変わったわけではないのに。先程まで見目麗しい少年だと思っていた子が可憐な少女にしか見えない。俺は今まで何を見てきたのか。それがぐらぐら揺らぎ出す。
どうして俺は知らない?知らないのは俺だけ?やはり俺は信用されていない?あんな男の子供だからか?俺もいつか裏切ると……
「違います」
「イグニス様……?」
負の感情に囚われそうになった俺を、そこから掬い上げるは凛とした声。
「アルドールとセレスタイン卿に知られたのは事故です。本当は誰にも教えるつもりはありませんでした」
その言葉にはいつものような含みが感じられない。それどころか……
「い、イグニス様っ!?」
彼女は慣れた手つきでボタンを外し、胸元をくつろげる。俺は咄嗟に目を背けたが、それでも視界の端に少しだけ、小振りではあるが男のそれとは違う胸元が見えた。
「女は聖教会の神子にはなれない。万が一広く僕の正体が知られれば、僕はこいつに今の地位を奪われる。そんなことがあってはならない」
道化師が、神子様と入れ替わる。誰よりアルドール様の味方のような顔をして、最大の敵を傍に置くことになる。
女の身のイグニス様がどうして神子になれたのか。その経緯はわからないが、俺は今国家機密以上に触れている。
あくまで嘘を突き通すことも出来ただろう。そえでも敢えてそうしてイグニス様は、俺を信じてみようと思ってくれたから。そうなんだと思う。
カーネフェルをここから立て直すためにはこの方の力が必要だ。シャトランジアに必要なのはこの人だ。道化師ではない。
(それに……)
アルドール様にとって、一番必要なのはこの人だ。俺の仕える人が信じる人の言葉を疑うことはアルドール様への裏切りだ。この人が何者であっても、俺がすべきことは一つだけ……
「ギメル、そんなストリップはあんまりだろ?恥じらうようなサービスはないの?」
「別に見られるくらい今更だ。大体恥じらってもこんな場面じゃ何も得にはならないよ。僕は得にならないことはあんまりしない主義だ」
「それもそうか。でもちょっとは良いこともあったんじゃない?だって騎士って生き物は守るべきご婦人方がいる方がやる気が出るって言うじゃないか」
道化師が、俺を見てにたりと口元を釣り上げる。そこには得物を手にした俺の姿が映っているはず。
「イグニス様。貴方の秘密は私が守り通します」
俺は左手で母さんに貰った水入り水晶を握りしめる。どうか力を貸して欲しいと……
俺の祈りに呼応して、水の精霊が集まってくる。ここは海、水の元素なら幾らでもある。これなら少しはやり合える。そう思ったのだが周りの反応は芳しくない。
「無茶です、ランス様!幾ら貴方が強くても、相手はジョーカーなんですよ!?」
「冷静に見えてやっぱりクラブのカードなんだねアロンダイト卿は。“感情に走るのは身の破滅。いずれそれが貴方の命取りになるだろう”」
珍しく狼狽える神子様と、予言めいた言葉を紡ぐ道化師。その言葉には俺の身体にまとわりつくような嫌な響きがあった。否定の言葉も口から出ない。絶対的かつ問答無用の正当性が灯った言葉。見れば、言葉だけではない。その口から飛び出す言葉は禍々しい数値を生み出す。
(これは数術!……でもこんな数術見たことがない!)
どうすればその数式を相殺できるのか。水の数術を簡単にそれはすり抜ける。攻撃も防御も効かない。得体の知れない数式が迫る!
もう後は物理攻撃しかない。剣を構えるしかない俺の前に神子様は進み出て、その言葉に挑むように言葉を謳う。
「誉れある騎士よ、貴方はこれから旅をする。幸福を幸福と知るために、貴方は深い悲しみに落とされる。“悲しみなくして喜びを知ることはない。苦難は貴方の救いのために現れる”」
「イグニス様……?」
「聖杯は既に貴方の中にある。後は貴方がそれを見つけるだけ……“ランス様、貴方の幸せを願っています”」
抽象的なその言葉が何を意味するのか解らない。唯道化師の言うようにこれから俺に何かが待っているのは確かなようだ。神子様はその悪意の言葉を僅かにねじ曲げて、救いの糸口を作り出してくれたのか?
その澄んだ声は、大気に広がって……道化師の紡いだ言葉の空気を僅かに退ける。謳う彼女の笑顔は、慈しみに満ちている。天の使いその者だ。
「……ギメル、君はあくまで僕の邪魔をするつもりなんだね?どういう心変わり?これは君の願いでもあったはずだろう?」
「可哀相な、“お兄ちゃん”。貴方は何も知らないからそんなことが言えるんだ」
暫く二人は鏡のように睨み合っていた。その視線に触れてしまったら俺の存在など消し飛んでしまうのではないか。そんな強過ぎる眼差しの交錯だ。息をするのも忘れて俺はそれを見ているだけ。
「……まぁ、そんなに本気にならないでよ。僕はあの馬鹿に邪魔にされずに君と二人で話がしたかっただけなんだ。今日の所は君を殺すつもりはまだないよ。僕としても可愛い“妹”はメインディッシュに取って置きたいからね」
「…………あっそ」
そんな幕切れ、二人が視線を逸らす。その直後に俺はようやく身体の自由を取り戻す。
「イグニス様っ!」
「大丈夫です。僕は……」
そうは言うが、ふらついている。そうだ、元々彼女は本調子ではなかった。タロックの数術使いの虫にやられていたことを、俺は今更ながらに思い出す。危なっかしいその身体を支えると、すまなそうに彼女が俺を見ていた。
「しかし、君もあんな男の何処が良いんだろうね。そこの騎士様の方が全パラメーター遙かに上だろう?アルドールなんか身分以外に取り柄のない馬鹿じゃないか」
「ああ、そうだね。否定はしない。その身分さえ失いかけている阿呆だと付け加えてあげても良いよ」
幾ら親友相手と言えど、流石にそれは酷すぎる。親しき仲にも礼儀ありとは言うけれど、この神子様は親しい相手ほど礼儀を失う人らしい。
「……だけど彼を馬鹿にして良いのはこの世に一人、僕だけだ。王の名を汚すことは許さない」
「イグニス様……」
それでもその言葉は、この海よりも深い信頼が結びつきが二人にあってこそ。本当に相手を大切に思っていないなら、こんな表情は出来ない。俺だってあいつのためにここまでの顔が出来るか怪しい。
静かな怒りをそこに湛えて、神子様が再び道化師を睨む。そんな彼女の気迫に俺は息を呑む。数術があるとはいえ、懐に入られれば赤子も同じ。接近戦では俺の足元にも及ばない。そんな数術使いが一瞬でも俺を震えさせた。本当に……この方は何者なのだろう?答えがまるで見えない。
「それに彼には彼の良さがある。それに気付けないお前は本当に可哀相だと思う」
「冗談が上手くなったね。あんな男に良いところがあるって?あいつと比べればそこらで湧いている蛆の方がまだ見所があるよ。ちなみにその長所って?」
「それは勿論、彼が馬鹿だと言うことだよ」
「ははははは!それは欠点以外の何物でもないだろう?……って、僕は戦いに来たんじゃないって言っただろ?」
剣を収めない俺を嫌そうに、道化師が横目で見る。
「それ以上、我が君への侮辱は謹んで貰いたい」
「まったく、何が最高の騎士だって?呆れたものだね。それとも毛並みの良い犬も、飼い主に毒されるとろくでもない野犬になるのかな。ああ、怒った?でもそれって本当にアルドールのため?本当は自分のためだったりするんじゃないの?貴族育ちはみんな馬鹿みたいにプライドが高いから」
「ランス様、耳を貸してはいけません」
道化師の言葉を遮る神子様に、奴はやっと話をする気になったのとにやりとほくそ笑む。
「ふふふ……僕は悩んでいるんだよ、ギメル。君をアルドールの目の前で殺すか、アルドールを君の目の前で殺すか。どちらの方があいつにとって苦痛かわからなくてね、正直まだ選び切れていないんだ」
「そう。それじゃあ第三の選択肢を上げよう。お前から死ね」
「その顔で言われても、僕の不興は買えないよ?」
嫌味と敵意、あちら側からは歪んだ好意のようなモノまでそこに混ざってその応酬を濁らせ脱線させる。しかし道化師がアルドール様を心底憎んでいると言うのは紛れもない事実だと、第三者の俺でも解る。
「何故そこまであの方のことを……」
彼は取るに足らない少年だ。だからこそ弱く脆く頼りない。それでも希望の火を背負う。この国が俺が失ってはならないものだ。
彼は至らない。何にもならない未熟者。だからこそ、人から憎まれるところまでも行かないはずだ。少なくとも殺してやると相手に殺意を抱かせるほど、彼の中に悪はない。
俺が彼を少しばかり妬むのは、俺が人として未熟なためであり、何も彼の所為ではない。
「サー・アロンダイト。今の貴方には解らないことだよ。貴方は本当の意味で人を愛したことも亡くしたこともないんだから」
「な、何をっ……」
それくらい、それくらい…………記憶を巡るが検索に引っかからない。愛は愛でもこの者が言うそれに該当する愛はない。別にそんなものがなくても俺はここまで生きて来られた。どうせ老い先短い生だ。無理矢理必死にそれを求める意味が何処にあるというのだろう?俺はこれ以上の未練は欲しくないのだ。
大体それの何が偉いのだろう?それを知らない人間は人間として欠陥品だと言わんばかりの嘲笑を、道化師は浮かべている。その目は俺がユーカーよりも劣っていると暗に語りかけて来る。
「僕はこれまで貴方に殺された相手が哀れで仕方ないよ。貴方のような空っぽのがらくたに、未来を絶たれるなんて」
「溢れた水は落ちるだけ。空の杯はより多くの水を受け止められる。雨さえ降れば彼は誰より深い愛を知る。お前の言葉は侮辱として意味を成さない」
理不尽に俺を責め立てる道化師の言葉に対するは神子。こんなにもそっくりなのに、道化師は噛み合わないその思想に苛立っているようだった。
「物は言い様だね。それともギメル、君は聖職者だからそうなのかな?お前は誰も愛せないし愛することも許されない。だからこそ愛を知る人間が妬ましい。愛を知らない人間が好ましい」
「そんなこと、僕には関係ない。それは僕にとっても、取るに足らないことだ」
彼女の言葉は苦しげで、それでも強い決意を底に秘めている。その目は自分にそんな資格はないと口にしているようで……やっぱり目の前の少年よりも、俺に彼女は似ている気がした。
「僕はアルドールが好きだ。だけどそれは友人として。それを下世話な方向に持っていく奴が僕は一番嫌いだ。それが僕と彼に対する最高の侮辱だ。僕が何であろうとも、それは揺るぎない物だ。“僕はイグニス!お前とは違う!僕は彼の親友だっ!”僕はギメルじゃない。その名で僕を呼ぶなっ!」
「……なるほど、半信半疑だったけどこれで確信が持てた。……やっぱり僕の願いは全てを葬り去らないと、叶いそうにないんだね」
片手を夜空の月に伸ばし、それがあまりに遠いと泣くように……道化師が少し寂しげに、小さく呟いた。けれどそれはほんの一瞬。刹那の中の出来事だ。彼はまたすぐに唇を釣り上げて、神子様とは違う笑みを浮かべた。
「それなら僕は何も苦しまず、悩まず、君を殺して良いわけだ。ありがとう“ギメル”、少しは楽になったよ僕も」
その歪な礼など歯牙にも掛けず、神子様は冷たい目で肩をすくめる。
「そんなことより、僕の部下は何処へやったんだ?今日一日彼らと連絡が付かないはどうせお前の所為なんだろ?」
「むしろお礼を言ってくれても良いよ?この船以外はタロックの嵐に航路を変えた。この船の乗組員達はその敵船の中へと飛ばしてあげた。それを倒せたなら無事に上陸している頃だろう」
「また余計なことを……」
あわよくば相打ちさせようという道化師に、神子様は深い溜息を吐く。
「そう、ユリスディカだっけ?あの子は君の部下のシャルルスって子が数術弾を使って逃したよ。彼女自身は船に残ったと思うよ。そろそろ妨害数術を解いてあげるから、これで通信も来るはずだ」
道化師が妨害数術を無効化。部下からの情報が届き始めたのか、神子様は舌打ちながら彼を睨んだ。
「まぁ、しばらくは僕も大人しくして置いてあげるよ。タロックが楽に勝ってしまったら、後々僕としても厄介だ。精々カード同士潰し合ってよ。正直な話、僕としてもAを4枚も相手にしてられないからね。アルドールの馬鹿は兎も角、他のAは強固な守りがある」
どこまで信用して良いのか解らない。重みの感じられない言葉で、道化師が数歩歩み寄る。今日は戦うつもりがないと言いながら、油断も隙もない。俺は再び剣を構える。しかし目に飛び込んできた光景に、俺は再び動けない。
彼は彼女に自然な動作でこつんと額をくっつけたと思った。二人並ぶと二人の身長が違っていることに俺は気付いた。神子様の方が一回りほど小さい。アルドール様よりは道化師は低いだろう。それでも彼女には勝っている。こんなにそっくりなのに、左右対称ではない二人の姿に何故か不意に胸が締め付けられるような感覚が襲った。それは神子様も?だから彼女もそれを拒めなかった。そうして居ることで、互いに異なる願いを同じ物へと戻し解り合えることが出来るなら、彼らはそんな祈りの像のよう。
しかし事件はその一瞬の隙に訪れた。
絵にはなる。二人とも混血だから見目麗しい。だから絵にはなる。なるにはなる。それでもこの二人の関係が解らない。信じて良いのか解らないが、彼らの言葉を鵜呑みにするなら二人は実の兄妹らしい。その意外な行動は、先読みの神子様ですら読めなかったのか完全にされるがままだ。彼女が予見できないことを、どうして俺が動揺しないでいられるだろう?
完全に時が止まった。この場所は道化師が完全に掌握していた。それでもやがて我に返った神子様が……片手を振り上げる。神子様に思い切りビンタを食らって、ようやく彼女の唇から離れる道化師。
「痛いよギメル」
「痛くしたから当然だよね」
照れか羞恥かそれとも怒りか、顔を上気させる神子様に、頬を打たれた道化師は……心なしか満足気。
「それにしても、本当にこっちの耐性ないんだね彼は。何処の箱入り騎士?ていうか騎士連中ってよく手の甲にやったりするじゃない」
「するのは平気でもされるのとか、見せられるのはまた別の話だよ。第一場所と意味が違う」
こんなの挨拶じゃないかと、俺の反応をせせら笑う道化師と、……反吐を吐くように、心底嫌そうな顔で唾を吐く神子様。最後の最後まで俺を小馬鹿にした道化師は、置き土産と言わんばかりに神子様にも嫌味を置いていく。
「今日は楽しかったよ、ギメル。暫く見ない内に綺麗になった」
元素を無理矢理従えるような膨大な光……数字の渦。それに包まれ道化師の姿が揺らぐ。
計算式自体が彼を守る結界なのか、容易に近づけない……それどころか此方が立っていることさえ危うい。バランスを崩し倒れ込む神子様を抱き留めて、俺も膝をつく。
「……と言いたいけれど、君はあの日と変わらず可愛いよ」
あの日と変わらない?それは何時との比較?俺には何も解らない。それでもその一言が、神子様の胸を深く抉った。暗い影が琥珀の瞳に降りて行く。その影は、道化師……その人の影が消えた後も、彼女の目の中に深く残されていた。
*
「聖十字……?」
ユーカーは、その場の流れについて行けずにぽかんと口を開けていた。
「その顔を見るに、本当に何も知らなかったようだな」
惚けていると、黒の騎士が少し驚いたように呟いた。神子の部下がこの辺にいるとは聞いてはいたが、それが純血だとは思わなかった。
いや、本来ならそれが当然だ。でもイグニスはその部下を信頼しているようだった。だから神子が混血だから、その部下も混血なのではないかという先入観が俺の中にあった。
ついでに言うと聖十字のカーネフェル人は大抵女だ。人口比率的にそうなる。後は亡命して来たタロック人の男がそれに次ぐ。聖十字軍の中にはタロック女はまずいない。カーネフェルの若い男も割合ではほぼいないに等しい。居たとしても中年とか爺が大半だ。
それもそのはず。カーネフェルの若い男は、その出生率の低さから貴重。適当な場所、適当な身分に生まれても、アルドールの阿呆のように養子として貴族の家に貰われたりする。法を破り奴隷商に売られる者もいる。売られなかったとしても攫われ金に換えられることもよくあることだ。
俺はこんな目の所為で真純血でも価値は殆どない。それでも昔、ランスの馬鹿はよく攫われそうになったもんだ。小さい成りで剣は強いわ精霊の加護のある数術使いのあいつをどうこう出来る連中はいなかったが。要はそれくらいカーネフェリーの男は貴重だって事だ。
だから自分の息子を聖十字なんて危険と隣り合わせの職に就かせる馬鹿な親は居ない。いるとしたらそれは自分の意思で軍隊入りした正義漢か愛国者。
(……神子から与えられた任務を投げ出して、カーネフェルに上陸ってことは)
この少年はそのどちらか、或いは両方である可能性が高い。でなければ赤の他人の俺の危機にこうして自らのみを危険に晒すはずがない。
「タロックの騎士よ!その子を放しなさい!」
「それならば、まず先にすべきことがあるだろう」
得物を捨てろ。そう告げられた少年は、迷うことなく手にした剣を投げ捨てる。思い切り。
「解りました」
しかし投げる方向がよりにもよって騎士狙い。俺としては助かった。黒の騎士がその攻撃を防ぐため、俺を掴んだ手を放し突き飛ばす。そして自分の得物を奴も構える。……不意打ちとはいえあんな攻撃でこの騎士をどうこう出来るとは思えない。それなら……その攻撃が騎士に届く前に俺は飛んでくる剣を掴む。ずしりと重い諸刃剣。長さも申し分ない。やっと俺も本調子になれそうだ。
「もう一勝負と行くか?生憎俺はまだ降参してねぇぞ」
受け取った得物を構えた俺に、騎士は黒い目を軽く見開いた。俺が逃げるものだと思いこみ、俺はここで挑みに来るとは思わなかったのだろう。
「……そんなに俺に嫁ぎたいのか?」
「したかねぇよ!つぅかもう我慢ならねぇっ!これ以上俺を侮辱するってんなら……」
「駄目ですよ」
「は?」
騎士の言葉に噛み付いた、俺に近づく聖十字。さっと、俺の手から剣を奪い返して微笑んだ。
「これは貴女のような方が持つべきものではありません」
持つべき物じゃないって、むしろ四六時中三百六十五日俺は剣と一緒だぜ?騎士だし。それが普通だし。ていうかいい加減誰か気付けっ!せめて一人くらい気付っ!お前ら眼球腐ってんのか?俺は男だ!
「大丈夫ですか?」
「え、ああ……」
「怪我はないようで良かった。でもこんな時間に女の子が一人で出歩くなど不用意にも程があります」
にこりと優しげに微笑まれても、それは悲しいだけだった。何度も言うようだが俺は男だ!その証明のため本名暴露し変装服を脱ぎ捨てたくなったが、それはそれで俺のプライドが許さない。これ以上北部で変な尾鰭の付いた噂を抱え込みたくない。
「いや、あの……あのな俺は」
弁解しようとしたが、思うように言葉が出ない。籠手の下から覗くのは、俺よりほっそりとした長い指。それでも一瞬触れた指は硬い。そこには幾つもの剣蛸がある。懸命にがむしゃらに剣を振るって来た手だ。そこには俺の中にはない気迫のような、危機迫る何かが感じられた。その何かが俺に訴える。剣を持つべきではないのはこの子の方なのではないかと。
「それで私に何用ですか?」
「何用とは解っているだろう?其方も俺達を捜していたはずだ」
「……要求は何ですか?」
「お前の仲間は全て捕らえた。捕虜としての扱いを望むのなら、我が軍門に下れ」
騎士と少年兵の会話に俺は一人置き去りのまま。
(……おいおい、正気かよ?)
俺とそう背丈の変わらない……いや、ちょっと俺より高いかも知れない。だが顔はまだ少し幼いというか……いや、整っているというか。こんな少年兵をタロックの奴らが捜していたとは。
しかもルクリースの風評被害攻撃が真実味を帯びてきた。自然と下半身に力が入る、強張った。おいおいおいおいおいちょっと待て、俺はそんなの御免だぞ。
「くそっ……」
この少年兵がそうしなければ神子の部下、つまりはカーネフェルに縁のあるシャトランジアの女が捕虜以下の扱いを受ける。処理の道具に使われる?奴隷として売られる?
この少年が下っても、それは犠牲の数が変わるだけ。自身を贄に最小限の犠牲を望むか、より多くの不幸か。それを男は問うている。
「…………」
「答えは決まったか、聖十字?」
少年のまっすぐな青。潔く、一点の曇りもないその青は……確かに惹き付けられる何かがあるようだ。
「解りま……」
「解られて堪るかよ」
だから嫌なんだ。俺は胸の中で息を吐く。
何も見えなきゃ、こうして何も守らなくて良いはずなのに。何処かへ行けば何かと出会う。こうして勝手に背負わされていく。
「こいつが何かは知らねぇが、この俺を差し置いて交渉とは頂けねぇ。いいかお前ら、ここはカーネフェルだ。そしてお前はタローク。そっちのお前はシャトランジー。ここはカーネフェリーの俺に話を通すのが筋ってもんだ」
勝手に人ん家の庭で好き勝手やりやがって。この辺はまだアロンダイト領だぞ?ランスの家は俺の家。要するにここは俺が守る対象内。そういうことだ。
仕方ない。こいつらはカードのことを知っている。それを見せればこいつらの興味は俺へと移るはず。
手袋を地面に叩き付け、ついでにうざったいドレスを脱ぎ捨てて、変装を解く。下に普通の着ていたから別に問題はない。しかし戦いにくいのなんのって。ドレスの下から見えないように下服の丈が普段より短いのが違和感だし、動きづらい。蹴りのスピードも開脚も、ダッシュも何もかもが煩わしかった。
俺は手の甲……クラブのスートを見せる。そしてその手を裏返し、Jの文字を見せてやる。それには少年兵をも含め、その場の人間全てが息を呑む。
「北部でセレスの名を聞いて、目の色変えねぇとはお前ら新参者だな。俺はユーカー=セレスタイン。アルトリウス王の騎士だ!」
「セレス……?まさか、こいつは!?」
「師団長!この女はっ、カーネフェル王の腹心!ロードナイトっ!!」
「ほぅ、あの熊殺しの名高い騎士か。隻眼というのは嘘だったのか。なるほど、一杯食わされた」
「それだけじゃありませんレクス様っ!この北部で、セレスタインの守護は絶大!夜に戦いその騎士に勝った者はいないとか……ここからどんな手を使ってくるか解りません!」
「それだけじゃありません!殺した熊を料理して、フルコースにし骨一つ残さず食べたとか!」
「いや俺が聞いたのは生でそのまま美味しく頂いたとか……」
「俺どんだけ腹減ってるイメージなんだよてめぇらっ!貴族馬鹿にするのも大概にしろっ!」
どんな尾鰭ついてるんだよ俺の活躍は。
「なるほど。料理上手と来たか。これはますます俺のストライクだ。どんな物でも食材に出来るその才能……是非我が軍に欲しい。ついでに俺の嫁にもどうだ?」
「敵に好感度上げられても嬉しくねぇよ」
「まぁ、そう吠えるな吠えるな。折角の顔が台無しだ。……しかし男殺しとも聞いていたがまさか女だったとは」
「馬鹿か?俺は男だ!」
俺の噂って主に熊と男関連しかないのか?もっとあるだろ他にっ!腹を立てて俺は騎士を睨み付ける。まじまじと奴は俺を見る。そいつは無表情……だがその部下のがっかりしたような顔に俺は少し安堵する……が、よくよく見ればごくりと息を飲む阿呆も幾らかいる。むしろ待ってましたみたいな顔止めろ。やっぱ幾らかはいるのかよ。カーネフェリーの男はレアだよな、とりあえず記念に一回食っとくかみたいな顔の奴は殴りたい。いや、蹴り飛ばしたい。主に股間を狙って。
にしても今日は何という厄日だ。いやむしろ今年は何という厄年だ。もう嫌だ。犬も歩けばとは言うが、棒ってその棒じゃねぇだろうが。何で俺はここ最近野郎としかフラグが立たないんだ!確かに他の女とそんなことになったらアスタロットに申し訳が立たないとはいえ、これはあんまりにもあんまりだ!悪意の集中砲火過ぎる。俺だって一応生きてるんだぞ?人並みの幸せとは言わねぇが、多少なりとは平穏とか望んでも良いじゃねぇか。それが何これ。何なんだこれ。どうなってんだこれ。どうすんだこれ。
「確かに言われてみれば胸がない。俺は貧乳が好みでな、むしろ喜んでいたところなのだが……まさか無乳だとは」
「無乳で悪かったな」
「いや、だがしかし一体世の何人がその両者の違いを明確に述べることが出来ようか?」
「俺に聞くな。でも多分性別の違いじゃね?」
「いつぞや我が君は言った。巨乳こそ世の宝だと。後くたばれ絶えろ貧乳と。俺はあの方を尊敬しているがその一点だけはどうにもいただけない。でかければいいというものでもないだろう。何時かあの方が巨乳以外の女は死刑と言い出さないか俺は心配でならない。ここだけの話、量より質。この信念の前では無と貧……それは微々たる問題。そうだろう?」
「真面目な顔で馬鹿なことを言うの、いい加減止めてくれねぇか?お前の部下連中ドン引きしてるぜ?お前の第一印象ガタ落ちだわ。何でお前みたいなのがタロック一の騎士なんだよ」
「王は退屈なさっていてな。俺はいっそのこと死ぬつもりで最後の言葉を問われた時に、彼に猥談を持ちかけた。その度胸のでかさを気に入られたとかそんな記憶がある」
「止めろ、俺の中のタロック王のイメージを崩壊させるな。そんなのにあの人が俺が負けたと思うと死にたくなる」
「なるほど、だが敢えて今一度お前に問おう。ちょっとタロックの俺の屋敷まで味噌汁を作りに来ないか?毎朝」
「…………条件にもよるな。俺の主はもういねぇし、就職先を探してないこともない。有給七日と昼寝時間は付いてるんだろうな?」
「あ、貴方達っ……な、なな何てことを言っているのですか!?私は聖十字!教会の定める十字法は同性愛は禁止ですっ!」
顔を真っ赤に染めた少年兵は、俺達を見て狼狽える。俺はもう神子やあのメイド女に色々言われた所為で、慣れてしまった節がある。
ていうかだ。そうは言うけど神子を見ている限りなんかその辺どうなんだろう?割とその辺緩そうな感じではある。聖職者は恋愛禁止結婚禁止とか法では定められているらしいが、あの神子常にアルドールの阿呆といちゃついてはいないか?どこからどう見ても。可哀相に、この兵士はまさか教会のトップがあんなんだとは思わないだろう。
(つーか……馬鹿かこいつは)
せっかく俺が囮になったのに、どうして逃げない?何も俺も好き好んでこんな猥談に参加してたわけじゃねぇのに。いや、ランスの阿呆とはこういう話できないからちょっと新鮮だったとかそんなことは全然無い。まったくない。これっぽっちもありゃしねぇ。
上手いことこいつらの所に潜り込み、せっかくお仲間とやらを解放してやろうと思ったってのに。
「大体貴方はなんなのですか!?カーネフェルに生まれていながらそんなに簡単に国を主を鞍替えしようだなんて!騎士の風上にも置けませんっ!」
不味い。これは俺が苦手なタイプの男だ。いや、男は……男じゃなくても苦手なタイプ多いけど。苦手な女も多いけど。それは今はどうでもいい。兎に角これは不味いのだ。
こいつには俺のような小細工が通じない。空気を読んで話を合わせてくれるなんてそんな事が出来るだろうか?……無理そうだ。仲間を囚われて、すっかり使命感に駆られている。
「これだから教会の奴らは辛気臭くていけ好かねぇ」
「何ですって!?」
ツカツカと俺に歩み寄り、俺を睨み付ける青の色。教会を侮辱する言葉が許せないと、俺に手を振り上げて……そこで何かを思い出したように、そいつはその手を止めていた。
よくわからねぇ。だが好機!
俺は油断しているそいつの手を引っ掴み、思い切り上空へと放り投げ、叫ぶ!
「リンガーレット!」
近場に潜ませていた俺の馬。それが少年兵が地に着く前に現れ、背に乗せる。あいつは暴れ馬。振り落とされたら唯じゃ済まねぇ。それを悟ったのか兵士は必死に馬にしがみつく。
俺の判断に、レクスという騎士はにやりと笑う。その笑みに俺は思う。こんなのが狂王の腹心だって?なんともやりにくい相手だ。だってこいつは俺にまるで敵意がない。
「何時、気付いた?」
「手を見てだ。何人俺が部下に剣教えてきたと思ってんだ」
剣を振るう女の手と男の手。その違いが解るようになる程度には、俺も面倒臭い役をさせられて来た。
「なるほど、腐っても騎士と言うことか」
「……ったり前だろ。この俺の前で、女に剣を握らせられるか」
俺の言葉に敵ながらあっぱれと言わんばかりに男は頷いて、俺にどうするつもりだと問う。
簡単には俺を殺せない。それは相手も理解した。そして考えるはず引き抜けるなら引き抜きたいと。こいつらが数術を何処まで理解しているかわからないが、神子が言う元素の相性。それを考えるに、タロックの連中ほどクラブのカードが欲しい奴らは居ないのだ。
「……そんじゃさっきの勝負の続きと行こうぜ?簡単に俺の主になれると思うなよ?少なくとも俺は俺より弱い奴には従わねぇからな!」
俺は聖十字兵が残した、十字の剣を手に取り笑ってやった。こいつに恨みはそんなに無いが、だからってそれは戦わない理由にはならないだろう。こいつはカード。削れるだけ削っておくのが俺の仕事だ。それがランスの野郎の望みなら。
6章ヒロインの本格的な出番は多分次辺りから。