0:Latet anguis in herba.
道化師は夜の声を聞く。なぜなら自身も葬られた存在だから。
少なくともあの王にとって、イグニスと言えばあの少女のことだ。そしてギメルと言えば、本当に眠っているのだと未だに信じている。それら全ては限りなく真実であり真っ赤な嘘だ。信じる人間ほど馬鹿を見る。それがこの世の摂理というもの。
「だから君は愚かなんだよ、アルドール」
去りゆく馬車を見送りながら、崩れ落ちた廃墟を照らす月と一緒に嘲笑う。
一番厄介な女王カードをこんなに早く葬ることが出来るとは、正直思っていなかった。それも此方の痛手はほとんど無い。恋に溺れた娘と、恋から逃げた男を使っての仲違い。
クラブのジャックには疑念を植え付けたし、ハートのジャックの代償は残り少ない。クラブのシンクも間もなく不運に見舞われる。
「まぁ、僕のお手並み拝見ってところか。ギメルはどう動くかな」
このままではカーネフェルは潰える。この現状、誰の目から見ても戦争に勝つのはタロックだ。そうさせないために、彼女が今まで以上に動くしかなくなった。それはつまり、アルドールの傍からギメルが消えるということ。それは道化師にとっても好都合。
神子の次の手のおおよその見当は付く。失ったクィーンと離れる自分の代わりに新たな駒を調達してくるはずだ。あの神子にとっての最優先はアルドール。教会もシャトランジアもおそらくどうでもいい。それは手段であって目的ではない。
「…………それにしても、君は一体どうしてしまったんだい?」
少なくとも1年半前の彼女なら、こんな風にはならなかった。あんな馬鹿な男のために自身を犠牲にするなんて。
彼女が彼に寄せる好意に、昔感じた心苦しさ、その怒りと憎しみとは意味が異なる。今あるものは驚愕だ。まるで悪夢だ。そんなことはあり得ない。あり得ないものを見せられている。それに自分は唯々驚かされている。
死者は決して人の力で蘇らない。それがこの世界の根本にある絶対のルール。それを破ることが出来るのが神の審判、悪魔のゲーム。それならば彼女の正体も、自ずと限られては来る。
だからこそこんなにも驚かされている。彼女を殺すことに僅かの躊躇いを覚えるくらいに。
これが現実なら、真実なら……願いなど必要ない。唯彼女に駆け寄り抱き締める。
けれどこの世を統べる神に人の求める慈悲など無い。だから奴らはまさしく悪魔。人にとってはそれ以外の何者でもない。
だからこそ彼女は彼女であるはずがないのだ。これは現実、それでも悪夢。この手で誰よりも愛しい人を、殺めろと悪魔は言う。そのためのカードなのだからと。
「…………ギメル」
愛しい人の名前を呟いて、道化師は悲しげに小さく微笑んだ。
眠りに就いた人が、再び動き物語る。それを何時までもすぐ傍で眺めていたいとは思う。それでも願いに至るため、それは越えなければならない苦難。抱き締めるのではなく首を絞めろと神は言う。語り合うのではなく殺し合えと悪魔が言う。
「本当に神様って奴は無粋だね。人間って言うのは貴方達とは違って、そう簡単に全てを白と黒で考えられるわけじゃない。確かに彼女は彼女じゃないけれど、彼は彼女であることは本当なんだ。だから僕はそれを知っていても全ての迷いを断ち切るまでちょっとは時間が要るんだよ」
それを愚かと語る神と、興味深いと眺める神と。その狭間で道化師が笑う。
「ねぇ零の神。貴方は僕の心を愚かと言うけれど、僕はそこまで僕が愚かではないと思うよ。僕から言わせて貰えば、かつて貴方が伴侶に抱いた感情の方が愚かだね」
だからこそ2人の神は、出会い別れ未だに争っている。人の目に映れない悲しい者へとなり果てて尚。そんな不幸をまき散らす愚かな戦い。始まりはその愚かな感情こそがその全て。
「僕はそれを知っている。愛は無償で高貴なものだ。だけど恋は低俗で欲深く、残忍だ。この世で最も愚かな人の心を知っているかい零の神?いや貴方が一番それを理解しているんだろうね」
何も見えない苦痛の生で、一度だけ見えた光。その愛のために死んだ者のために、その愛のために生きる。他には何も要らない。理不尽な世界と神に奪われたものを取り戻す。
愛するに値しない世界で唯一、愛しいと思うことが出来た彼女のために生きること。それが間違っているなど誰にも言わせない。それを口にし責めることが出来るのは、世界に唯1人、眠りについた彼女だけ。
彼女に責め詰られるのなら、それはそれで構わない。そうすることがされることが出来るのは、紛れもなく自身の幸福。
小さな不平を言い合って腹を立てたり、そして再び笑い合う。そんな些細なことがどんなに幸せだったことか。それ以上の幸せなんて望んだりはしなかった。あの日のまま、いつも2人で小さな幸せの中に浸っていられれば、それだけで良かった。
「ああ、下らない。実に下らないよ。馬鹿げている。この世で最も愚かな感情、それは恋だよ零の神」
僕はね彼女を世界の誰より愛しているけれど、別に彼女に恋している訳じゃないんだよ。崩れ落ちたその教会で、道化師は笑う。砕かれた偶像をせせら笑いながら。
廃墟と化した悲しい領地。無能な王は相も変わらず盲目を生き、真実を半分も知らずにここを去った。隻眼の騎士も何処まで見えていたのやら。彼らの愚かさを語るのも全てはその心。
何にせよ人は愚かだ。道化師はそう思う。とりわけ恋する人は何より愚かだ。
人が賢く生きる道。それは恋を知らずに生きることだろう。
「まぁつまり……人に道を誤らせるにはそのスパイスを添えてやればいいとも言うね。人を内から綻ばせることなんて、とても容易いことなんだから」
次の悪巧みを思い付き微笑む彼に、誰の目にも映れない者達は誰の耳にも聞こえない、不協和音の音色を発した。道化師は不協和音に薄く笑み、領主の屋敷だった建物からおびただしい数の墓の前へと飛び降りる。
作られたばかりの墓標。真新しい土の下で眠るのは、とうに骨になっていた少女。
「眠っていたところ叩き起こしてしまってごめんね。ゆっくりお休みお嬢さん」
彼女は過去の思い出のオルゴール。死者は未来を見据えない。数式で知り奏でることが出来るのは、過去に残された想いだけ。逃げ続けた彼からの慕情が彼女に伝わらないよう、道化師の謝罪の言葉もまた、届かないとは知っている。それでも手を合わせる。それがどんなに無意味でも、道化師もまた人間だった。時に無意味なことをする。
「まぁ、悲しむこともないよ。彼はいつかまた貴女に会いに来る。どっちの意味かは返答しかねるけれど」
恋は愚かで愛は偉大だ。恋から愛へ至れない思いのどんなに多いこと。
だから恋になる前に封じられた思いは未知数だ。あの騎士がどう転ぶか、それは先を見通す目を持つ道化師にも解らない。けれどそれを不安に思う心は道化師にはない。
完璧な計算はない、操るのが人である以上。それでも計算に僅かの狂いを交えること。それは時に楽しい。ゲームは結果が全てではない。過程を最大限に楽しみつつ勝つことが、ゲームのおもしろさと言うものだ。何が起こっても対処できる力が自分にはある。
それでも彼らの方はそういうわけではない。計算で動いている彼女のために狂いを与える。
それが巻き起こす騒動は未来を濁らせるだろう。石はもう、投げ込んだ。後は波紋の広がりを暫し楽しむことにしよう。
道化師は、月下に笑う。ほくそ笑む。
*
「馬鹿だなぁ……人間って」
木の幹に背を預けながら、エルスはそう思う。思いながら薄汚い人間達を眺めていた。眼下には戦火から逃げ出す人々の群れ。その中で生まれた出会い、ささやかな幸せを見つけた者もいるのだろう。寄り添い会う男と女。硬く手を握り合って。
そんなものを見せられてしまうと、穏やかな微笑を浮かべるその顔を、絶望で彩らせてやりたいと思うのだ。彼らもきっとその方が嬉しい。だってこのまま平凡な幸せが続いたら、彼らは互いに必ず不満を持ち始める。粗探しを始める。そして傷付け合うのだ。そしてその時一番苦しむのは彼らではない。生まれ出る悩みとは、生まれなければ生まれない。
だから恋は恋の内に粉々に崩れ去るのが一番。それが世界平和というものだ。
あの恋人達。一体何が楽しくて生きているんだろう。同じ事の繰り返し。馬鹿みたいだ。それがさも当たり前かのように語り、教え、それを引き継がせていく。巡らせていく。それが当たり前だと言うように。その当たり前。それをその輪から少し離れて眺めるだけで、とても馬鹿馬鹿しい物事のようにエルスには見える。
男と女。他にすることなんか無いって言わんばかりに、一時の気の迷いで恋をし面倒事を抱え込む。或いは恋さえせずに彼らは寄り添う。それが唯々、唯々薄気味悪くて気持ちが悪くて堪らない。
その当たり前に組み込むこと。それが共同体という組織。それは時に国であったり村であったり、なんという不自由。そんな風に考える自分を、自由気ままな風のようだと言った人間がいた。そんなことを思い出す。
そうだ。僕は風。自由で気まぐれ。緩く冷たくそして残忍。
僕はそれでいいと、あの日僕はそう告げられたのだ。罪から逃げ、裁かれない人間は、いつか必ず罰を求めるようになる。あの男は僕を罰まで育て上げようとしていたのだ。そしてあの男はそこに救いを見出した。
本来ならあの男が僕をこんな危険の真っ直中に送り込むことはない。猫可愛がりで城に残したがるに決まっている。つまり僕がこんな戦争の真っ直中にいるということが、十分おかしなことなのだ。それに気付かないあの堅物同僚は本当に馬鹿。カーネフェルの連中だって結局何も見えてはいない。
「さて、あの幸せそうな2人を祝福してあげようかな」
幸せを幸せに留めさせてあげるお手伝い。人は愚かだから幸せを幸せと感じられる期間がある。幸せはいつまでも幸せではない。そう思えない、だから、そんな風にならないように、ちゃんと今の内に教えてあげるのが幸せな2人に贈る一番の親切というもの。別にお礼も謝礼も要らない。僕が欲しいものはそんなものではない。2人の歩む道が、一時の暇つぶし、憂さ晴らしの物語になるならそれでいい。
簡単な数式を描けば、エルスの美しい黒髪はカーネフェルの金髪へと変わる。勿論薄紅の瞳も青へと偽った。後はその人間達を先回り、行き倒れを演じるだけでいい。
「君、大丈夫かい?」
間もなく声が掛かって、その一向に抱き起こされた。心配そうに此方を覗き込む人々のその顔に吹き出しそうになるのを堪えるのが大変だったが、そんなミスは犯さない。
「…………」
何かを訴えようと口を開く。カーネフェル語を話せないわけではないけれど、こっちの方が味がある。戦の恐怖で声も出ないと言わんばかりに脅えてみせた。
「可哀想に。よっぽど辛い目に遭ったんだね。でも大丈夫、もう大丈夫だよ」
「ゆっくりでいいのよ。何があったのか、話して?」
幸せな人間は頭の方まで幸せだ。自分が幸せだから周りの人間がみんな不幸に見えるのだ。そして幸せな自分が、その可哀想な人間に手を差し伸べたくなる、それが人間。
「…………ボクの、街が……」
この先は危険だと、そこも戦火に包まれた。それを伝えれば、ざわめく人の声。
「そうだったのか。……それじゃあこのまま先に進むのは止めた方がいいか」
「そうね、長へ掛け合って来るわ。別のルートでの避難を考えましょう」
男女が群れの頭の元へ向かった隙に姿をくらます。どうせ他の者達は取り乱していて此方を見ていない。その隙にエルスは、近場に構えている破落戸達の所に顔を出す。数術を使えばほんの瞬き一瞬。
山岳に拵えられた小さな砦。ここは通称サーカス小屋。そういう名前の山賊の居城。情報収集のためにたまに足を運んでいる情報源の一つ。数術だけでは取りこぼしてしまう情報というものはやはりある。また敵の敵は味方とも言う。カーネフェルへの敵対勢力との仲を深めておくことには意味がある。
あの堅物は使わないような手ではあるけれど、綺麗事で戦に勝てるなら世の中もっとシンプルだ。そうじゃないから面倒臭い。使える手ならどんな手でも使うのが、戦という舞台での礼儀というもの。
「やぁ、みんな、最近の調子はどう?」
砦に足を運べば、柄の悪そうな男達が両手を広げて出迎えてくれる。
「ややっ!これはこれはエルス様!いやぁ、ぼちぼちって感じですよ」
「そうそう!エルスちゃんが遊びに来てくれるようになってから、ほんと稼ぎが増えてなぁ!」
「そっか。それは良かった。ボクも君たちの力になれて嬉しいよ」
にこやかに微笑むエルスに、男達は下卑た笑いをもって応える。より面白いことになるなら、どんな相手とだって手を組むのがエルスのモットー。あの少年王の最期を、存分に惨めに飾り付けるためならばどんな人間とだって手を組む。それにエルスは、こういう薄汚さのある人間の方が好きだった。先程の男女のような偽善者面の頭が幸せな奴よりも、常に悪巧みをしているような信用できない人間の方がずっと好感を持てる。人間嫌いの自分としては珍しいことだとは思う。それでも俗に言う下衆な人間はそこまで嫌いではないのだ。
そう。だから彼らも不思議な気分なのだろう。破落戸である自分たちの所に、幼い成りの大国の将が親しげに遊びに来る。その度に美味しい獲物を引き連れて。
「まぁ、もしカーネフェルをタロックが支配して商売あがったりになったら何時でもタロックにでもおいでよ。ボクのところで迎えてあげるから」
「へへっ、いやぁありがてぇ」
男達はまた妙な鈍りのタロック語でケタケタ笑う。上品ぶったお貴族様とは違い、その鈍りが懐かしくさえ思うのは、きっとここの空気のせいだ。エルスは海より山の方が好きだった。山に囲まれて育ったせいもあるのだろうか。
「あ、そうそう。あの平野にまた馬鹿な奴らが逃げてきたよ。襲って下さいって言わんばかりにあんな目立つところで足を止めてる。期待には応えてあげないとね?」
この間はセネトレアから来た商人とその手下達を使ったが、カーネフェルには他にも多く使える駒がある。略奪者は何度も往復する手間を考え、カーネフェルのあちらこちらに拠点を築いている。ここに残ってコンスタントに略奪を行い、その戦利品を船へと乗せる。今日ではそういうシステムが出来上がっている。その者達は山賊として城を構え、今では往復組との仲も悪化し独立勢力と化している。海からの略奪者と山からの略奪者。元は同じものでありながら、獲物を奪い合っている。だから獲物の情報を流してやれば、彼らはすぐに此方に尻尾を振るようになる。
「野郎共!すぐに仕度だ!!」
「エルス様!いや、毎度すまねぇです」
「エルスちゃんー!帰ったらお酌してくんな!行って来るぜー!!」
手を振りながら居城を出て行く山賊達。そして思いだしたかのように踵を返し、ごろんと横になっているその人物を揺すり出す。
「ほら、お頭!お頭ー!仕事ですぜレーヴェのお頭ぁっ!!」
「ん……」
寝返りを打ちながら、起こそうとした部下を思いきり殴り飛ばすその頭。見れば見るほど興味深い。その黒髪はありふれた色。それでもその身体に刻まれた数値はいささか風変わり。
エルスがここに通い詰めている理由のもう一つがこの人間。これを味方に引き込めば、後々全てが楽になる。
「……駄目だこりゃ」
「ああ、レーヴェはボクが見ておこうか?」
「それは有り難いんだけども、お頭がいねぇと俺らの戦力半減ってもんだ」
ぐぅぐぅといびきをかいているそのお頭に、頭を抱える山賊達。1人は未だに壁にめり込んでいる。
「まぁ今回は連れて行かない方が暴れられて良いと思うよ。戦えそうな奴は殆どいないし、若い娘が一杯いたよ。お頭の前では好き勝手暴れられないだろ?」
ブロンド美女が大股開けて君たちをお待ちかねだよとエルスがほくそ笑めば、山賊達はすぐさま外へと駆けだした。
「いや、流石エルスちゃん!男心をよくわかってらっしゃるぜ!」
「出発だっ!行くぜ野郎共ぉおおおおおおおおおおおおお!!」
ひらひらと手を振って山賊達を見送れば、物凄いスピードで馬を操り駆けていく。その姿に人間は、とりわけ男は本当に馬鹿だなぁとそう思う。こういう馬鹿はそう嫌いではないけれど。
まもなく遠くの方で悲鳴が上がった。ああ、きっと面白いことになる。見に行ってみようか。ちょっとそう思った。けれど止めておいた。人づてに聞く物語というのもそう悪くはないものだ。それに今はここの留守番を任されている。この人材を釣り上げるためにやるべき事はまだあった。
「さてと……」
出かけていった男達も帰ってきたら宴会だろう。準備くらいはしておかなければ。
人間を釣り上げるのに必要なものは快楽だ。そしてそれは食というものでもある。食を極めれば人を操ることなど容易い。それを作ることが出来るのがその者しかいないのなら、誰もその者に牙を向けなくなるからだ。
そしてそのそれが美味ならば、それだけで相手は好意的に解釈をするようになる。これだけ美味い物を作る者が、此方に敵意を持っているはずもないと。
「いい匂い……」
「ああレーヴェ、起きたんだ」
言うなれば単純馬鹿。そしてここのお頭もそういう部類の人間だった。
料理を作り始めた途端、むくりと起き出し背中にへばりついてくる者がいる。寄り掛かるよう持たれてくるその重みはじぶんのそれより随分重い。うっとりとした灰色の瞳が見つめる先は火にたかれた鍋の中。
「エルスー……やっぱお前って良い奴だな、俺のために飯作りに来てくれるなんて!!」
餌付けは効いてきたらしい。山賊達のお頭は、頭の横で結われた髪を犬の尻尾のように振り回す。見た感じ大型犬のような印象だ。獅子を名乗っている癖に、戦っていない時はどうも犬っぽい。まぁ、百獣の王ということで頭には相応しい名だとは思う。他の山賊達も大体はサーカスにいそうな動物の名前を名乗っている。
「はいはい、もうちょっと待ってね。今出汁取ってるから」
図体ばかり大きいが、灰の瞳はなんとも綺麗な色をしている。こんな破落戸の長には似つかわしくないような気もするが、それにはそれなりのわけがある。
まず第一にレーヴェはタロック人。性質として割と義を重んじる。この面倒くさがりの性格でもそれは同じだ。そしてもう一つが……
「っていうか、お前らなんか大変なんだろ?俺カーネフェル語わかんねぇしよくわかんねーけどみんな大騒ぎしてっし」
そう、これだ。レーヴェはタロック語しか話せない。そんなレーヴェがカーネフェルで生きて行くにはタロック語の通じる相手のところにふらふらと歩み寄るしかなかった。そしてこの純真無垢だ。適当に言われたことをそのまま信じるようなところがある。それで腕の方は立つのだから山賊達もそりゃあ歓迎するだろう。
「まぁ、大々的に戦争も始まることになったから。ボクも大忙しってところだよ」
「にしても……エルスのタロック語懐かしい。ここの奴ら妙な鈍りで俺までおかしくなっちまいそうで笑える」
普通の返答にも猛者の長は顔を綻ばせて擦り寄ってくる。余程故郷が恋しいのだろう。タロックへ戻る方法を教えてやれば、おそらく完全に堕ちるとエルスは踏んでいる。唯、手下全員と一緒でなければそれには従わないだろう。彼ら全員を迎え入れるためには、はやりカーネフェルを落とす必要がある。まだもうしばらくの段取りが必要だ。
「そういや腕の方はもういいのか?」
「まぁ、一応は」
「ほんと許せねぇ!人の腕切るなんざ、世の中には酷ぇ奴もいたもんだ!カーネフェルの金髪族の奴ら鬼だぜ!悪魔だぜ!俺が見つけたら三倍返しでそいつらの両腕もぐかへし折ってやるからな!」
レーヴェは拳を握って顔も見えない相手への怒りを口にするが、それはとても山賊のお頭の口から出るような言葉ではない。しかしこのお頭は、山賊がヒーローみたいなものだと思っているのだ。仕方がない。
「あ、ありがとう。でも腕は三本ないから二本でいいよ」
「エルスは優しいな」
「まぁね。それでレーヴェ、このあたりを通過したっていう話は?」
ザビル大河の北に位置する以上、橋の壊れた今誰でもすぐに来られる場所ではないが、この山岳地帯は都ローザクアと要塞カルディア間を見るには監視には絶好のポイントだ。エルスが時折ここを訪れるのはその情報収集も兼ねてのことだった。
新たなカーネフェル王。彼の消息は未だ不明。数術で探ってもいるが、傍にいる数術使いが厄介だ。シャトランジアの神子……彼が何を考えているのかよくわからないが、出し惜しみの回りくどい術を使う。故にまだまだ数術の才は未知数。油断は出来ない。
「んー……エルスに言われてから一応監視してみたんだけど、今んところカルディアから都に向かった奴らがいるって話は聞いてねぇなー。ああ、唯……」
「唯?」
「何つったっけ?あの今は使われてねぇってところの領地」
「シャラット領?」
「あ、それそれ。そっからローザクアに向かう馬車を見かけたぜ」
「それ、何時?」
「んー…と、五日前の夕暮れだったぜ」
「そうか。ありがとう」
すぐさまエルスはシャラット領とローザクア。そこに向けて情報数式を練る。
(…………なるほど、だからあんなことを)
情報は見つかった。情報隠蔽も満足に行えないほど、あの数術使いは消耗していたのか。如何に才能があっても代償がなければ数術は意味がない。その点、代償が自分ではないエルスの数術は使い勝手の良いものだ。
長期戦、望むところだ。長引けば長引くほどカーネフェルの勝機は弱まる。それが今、結論づけられた。
「エルス、やっぱまだ腕痛いのか?」
「そんなことはないけど……どうして?」
考え込んでいたエルスのことを心配そうに見つめるレーヴェ。何故そんな風に思うのか、聞き返してみると指さされたその腕には……確かにまだ包帯が巻かれていた。
怪我は治った。数術で簡単に治すことが出来た。それでも何故かこれを解くことが出来ずにいる。何をやっているんだろう。そう思う。思うのにどうしてか、そうすることが出来ないのだ。
これを解こうとする度に、あの馬鹿な同僚の顔を思い出す。それが嫌でなるべく見ないようにしていたのだ。そうすると、必然的にそれは腕から離れない。
(人間なんかに……あんな人間なんかに)
哀れまれた。屈辱だ。そう思う。あのカーネフェルの少年王……アルドールに哀れまれたときは本当に怒りで体中の血液が沸騰するかと思った。よりにもよってお前が僕を哀れむのかとそう怒り狂った。
哀れまれるのは嫌いだ。別に僕は可哀想じゃない。僕は十分楽しい。毎日楽しんで愉しんで生きている。自分の価値観で僕を哀れみ可哀想がる奴が僕は大嫌い。そう言う奴は自分が優越感に浸りたいだけだ。本当に可哀想だなんて微塵にも思っていない。人を哀れむ自分が好きなだけなのだ。そんなエゴの餌になどなりたくはない。今この腕に巻かれているものだって、そのエゴの産物。そうだ。そのはずなのに……どうして僕はこれを解くことが出来ないでいるのだろう。
(双陸……)
あんな男大嫌い。価値観が違う。馬が合わない。あんな堅物僕は大嫌い。僕はもっと不真面目で自堕落で愚かな奴が好きなんだ。あいつだって僕みたいな主への忠誠心の欠片もないような奴大嫌いだろう。僕らは今まで何年もそうやって生きてきた。同じ城で同じ人に仕えているのに、全く別の世界を生きていた。あの城よりずっと広い見知らぬ土地にやって来て、それで初めて前より近くに感じるなんて本当に気持ちの悪い話だ。あいつだって人間だ。僕の大嫌いなタイプの人間だ。
「エルス……?」
レーヴェに何て言えばいいんだろう。レーヴェは単純だが馬鹿ではない。嘘を吐くにはちゃんと上手く吐いてやらなければ駄目なんだ。今の僕はちゃんと上手く喋ることが出来るだろうか?
「只今エルスちゃーん!!」
「あ、お頭ぁっ!!起きてたんすか!?」
「おお!飯だぜ!!本当エルス様々だな!!」
「いやほんと、エルスは良い嫁になるぜ」
「こらお前ら!勝手に俺の飯を食うな!!お頭の俺より先に食おうなんて百万年はぇえぞ!!」
助け船と言わんばかりに帰ってきた山賊達。戦利品を抱えて居城の一室へと雪崩れ込む。早速料理に手を掛けようとした男を見つけ、レーヴェがその皿を奪いに走り去る。食べ物の怨みは恐ろしい。空中コンボを食らって天井にその男がめり込んでいる。
運び込まれた戦利品は金品に食料に、それから数人の人間。
カーネフェル人の中で売り飛ばす金になりそうなのは、僅かな若い男だけだ。多すぎる女は奴隷としての商品価値は殆ど無いし、年老いた老人達もそれに等しい。
見回せば山賊達には返り血が付着しているし、それなりに大暴れをしたのだろう。男達は純粋なお頭に気を使ってカーネフェル語で土産話を始めてくれる。ちなみにそのお頭は天井に張り付いている部下に文句を言いながらもりもりと食事を始めているため此方の会話には気付いてもいないようだった。
「いやぁ、今回も傑作だったな」
「そうそう。この男本当馬鹿でよ、見物だったぜエルスちゃん」
「へぇ、そうだったんだ」
「なんでもよぉ、恋人の女を後生大事にしてたってんでな、まだ一回もやってなかったらしいんだわ。それを目の前で、だもんなぁ!もう止めてくれ止めてくれって泣き叫ぶのが縛られてるだけっつう男の方だってんだから腹痛くなるほど笑っちまってこっちまで泣きそうなっちまった!」
「にしてもよぉ、金髪族の野郎は軟弱男しかいねぇんだな!もう俺ら爆笑して手元が狂いそうでやばかったって話」
「あははっ!それはほんと面白い!ボクも付いていけば良かったかな」
また一つ不幸な恋人達の別れ話。女の方は目を離した隙に舌を噛んで死んだらしい。タロックでは女は月でも、カーネフェルでは女は星の数。使い捨ての消耗品の命を哀れむ者はいない。今日この場で彼女を哀れむのはその片割れである青年1人。
「そ、その声…………まさか」
エルスの笑い声に、目を見開くその青眼。それがあの少年王と一瞬重なって、僅かな高揚感に満たされる。
「やぁ、さっきぶりだねお兄さん?ご機嫌如何?ボクは最っ高!」
「な、何で……っ!こんな酷いことをっ!!」
「あのねお兄さん、人間は二つの自由を与えられた生き物なんだよ。一つは疑うこと、もう一つは信じること。そのどちらを選ぶもその人の勝手で自由」
泣き叫ぶ男ににこりとエルスは微笑んだ。
金髪青眼の男は嫌いだ。あいつを思い出す。だからこの男が苛ついたのだ。見たかったのだ。この男が泣き叫び、絶望の底に沈む様を。
「その自由には責任というものがついて回るんだ。その選択の先での不幸を人のせいにするのはとても愚かなことだよ。自分の考え無しと能無しをひけらかしたいのなら話は別だけど?」
この僕を可哀想だと哀れんだ自分自身を呪うがいいさと教えてやれば、男は今度は可哀想な自分自身のために泣く。本当にカーネフェルの男はどいつもこいつも心が弱い奴らばかり。
「いやぁ、相変わらずエルスちゃんはいい鬼畜っぷりだねぇ!」
「んだんだ!酒が進むってもんだ!」
下品な笑い声で溢れかえった砦の中、酒が回ってくる頃には戦利品達の涙も涸れ果てる。安堵しているのだろう。少なくとも可愛い我が身は殺されることはないのだとは知って。
ああ、やはりこんなものか。嗚呼くだらない。愛なんて恋なんて、所詮その程度のものなんだ。思い出として美化された彼女は何時まで生きられるだろうか?この男はどうせまた他の女を愛するような薄情者なんだろう。生きていても死んでいてもそう長くは生きられなかったのだろう。こんな男に惚れるなんて、哀れむべきは彼女に死なれた彼ではなく、彼女の見る目のなさだったのかもしれない。
「あ、そうだレーヴェ」
そろそろ出かけなければ。そう思いながら、先程仕入れた情報の一つを伝えることを思い出す。
「ん?なんだエルス」
「もうしばらくしたらさ、カーネフェルの奴らがこっちに北上してくるかもしれない。都が落ちるのはもう時間の問題だ」
「おお!都落ちんの!?やったじゃんエルス!」
「うん。そうだから、君たちの稼ぎ時が来る。その時に、ボクの腕を切った奴も来るかもしれない」
「よっしゃ!わかった!エルスの仇取ってやる!そんかわり仇取ったらお前あれだからな!毎日俺の所に味噌汁作りに来いよ!」
何故かキラキラした瞳のレーヴェに両手を握られる。どうやら餌付けしすぎたらしい。どうも求婚されているような雰囲気だ。どこまでこの相手が理解しているかは怪しい。
「何か逆じゃないかな」
「美味い飯作れるのが最高の嫁の条件だって俺の村じゃ常識だったぜ」
「ああ、そう。タロックも広いからなぁ、ボクが知らない常識もあるのかもね」
苦笑しながら答えれば、山賊の頭は両手を空へと突き上げる。
「野郎共!毎日エルスの手料理食いたいかぁああああああああああああああああああ!!」
「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」
「カーネフェル王!ぶっ潰すっ!そんでもって俺らの天下だっ!」
「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
*
それは山に捨てられた一人の子供のお伽話。
黒髪に薄紅の瞳の赤子が二人生まれたよ。二人は女と男、姉と弟。
二人は重さも背丈も不気味なほど瓜二つの姿。それだけで十分人を恐れさせるもの。
おまけにゃその姉弟は妖を見、話すことが出来る不思議な目を持っとって……そりゃあ二人が鬼だからなんじゃと村の衆は囁き合ったんだと。
貧しい村は食うにも困る次第であってね……口減らしにって弟の方、ぽいっと山へと捨てられたんだと。その頃にゃ、悪いお殿様が悪い命令敷きまして。二番目からの男はね、みんな殺すか捨てられるかってな話。その家にはもう一人先の兄がおったから、何から何まで同じなのに……捨てられるのは男の子。
それでもその子は自分が悪いんだと知っていたもんで、せめて姉さにゃ苦しい思いをさせたくはないと思ったんだと。それでひもじいっても家さは帰らず山ん中さいたんだと。
そんな子鬼を助けたのは、山に暮らす物の怪達。毎日村のあちこちから盗みを働きどんちゃん騒ぎ。子鬼も物の怪達との暮らしが楽しくて堪んねってさ。
んだどもある時子鬼も里心が付いて、おっかさんが恋しくなったんだと。
村さ現れた子鬼の姿に村の衆は大騒ぎ。そりゃもう死んだはずの人間が、帰ってきたらそりゃ怖ぇ怖ぇってな。最近悪さしてるって物の怪もその子鬼なんだって話になって、今度こそちゃんと息の根止めねとな……っつぅ話さなって、子鬼は最後に姉とおっかさんに会いてぇって泣くもんだから、んならそんくらいって村の衆も聞いてやったんだったな。
おっかさんもおとっちゃんも兄ちゃんもみんなどうして帰ってきたんだと、子鬼を責めて詰って罵って、子鬼さ水をぶっかけた。それを止めたのは、子鬼が自分の見窄らしい格好が惨めになるくらい綺麗に着飾った姉だったんだと。顔も背丈も相変わらず同じなんだけども、子鬼ゃそりゃあ悲しくなったんだと。
「あのな、おら長の息子のとこさお嫁さ行くんだ。したら食うに困らんて、あんたも戻ってこられっべ。おらもみんなと村長さ謝っからな」
姉は優しく話しかけてくれっけど、子鬼にゃそれは裏切られたっつって怒ったんだ。
姉も子鬼と同じ、鬼なんだ。同じ物見えっし、同じ色の目なんだわ。だども山さ連れてかれたのも、石投げられんのも、これから殺されんのも子鬼の方だけなんだと。
おまけに姉は、嘘を言ってんだって子鬼はわかってんだ。手が震えてたんだ。子鬼が怖くて堪んねぇからって、どうせ助けられもしねぇのに、優しいこと言ったんだと。自分だけは呪わねぇでくんねってな。そういう薄汚ぇ……人間らしい心になっちまったんだと。石を投げられる子鬼の方が、村の誰よりも綺麗な心を持ってたんだな。
だから、子鬼は人一倍傷ついたんた。子鬼は悔しくてのぅ、悲しくてのぅ……村を呪った。綺麗な色の大きな宝石みてぇな目ん玉に、いっぱい涙を浮かべてな。泣きながら、家族も村も呪ったんだと。
村の衆は子鬼のその言葉が恐ろしいってんで、さっさと子鬼を殺そうとした。その時山から一斉に物の怪が村へと降りてきて、子鬼を助けに来たんだと。
んだども、物の怪達ゃそんなに強い妖怪じゃなかったんでな、物の怪見えない人間に、悪さは出来なかったんだ。見てないところで盗んだり、脅かしたり、そんくらいしかできねぇ弱い妖怪だったんだな。
だから人前さ出て、子鬼を助けるってのはどんなに大仕事か。物の怪達はそん時に、子鬼の縄を解くのが精一杯。後は人さ心も体も踏んつけられて、次々消えてしまったんだと。
子鬼はなぁ、そん時なってやっとわかったんだ。人間がどんなに汚ぇ心を持っとって、妖怪がどんなに優しい心を持ってたか。
そんなら自分も鬼でいい。妖怪でいい。子鬼は本当に大切な家族を無くしたと気付いてわんわん泣いた。仲間を殺した人間が憎くて憎くて仕方ねぇって、子鬼は怒り狂って本物の鬼になった。村を焼いて人を焼いて、地獄絵図を作り上げたんだと。
悪いお殿様はそんな鬼を討伐に来たんだけどな、その鬼があんまりに可愛らしいもんだから、召し抱えて城さ連れ帰ったんだと。残虐なその鬼は、悪いお殿様とは大層馬が合って、二人して悪さをして人と村を沢山焼くようなったんだ。
空の向こうに煙が見えっべ?ありゃ鬼がまた悪さしてんだな。
鬼はな、人間が大嫌いでな。妖怪を殺す人間と幸せそうな人間が大嫌いなんだ。鬼には夢があってな、世の中から人間を消して、妖怪だけの世の中にするんだって言ってんだ。
また昔みてぇに、妖怪だけでどんちゃん騒ぎ。毎日たらふく飲んで食って歌って踊って……そんな昔を取り戻したくてな、今日もああやって、鬼は村を焼いて回るんだと。
だども鬼を哀れんでいけねぞ。鬼はそうされるのが一番嫌いなんだと。鬼は誇りを持って鬼をやってんだ。薄汚ね人間なんかに哀れまれるのが気に障るんだな。
だから鬼さ出会った時は、恐れてやんのが一番だ。そうやって鬼恐れる心がな、妖怪生むんだと。だからああやって、鬼は人を怖がらせてんだ。
*
鬼が出たぞと人が言う。振り向けば誰もいない。
ああそうか、指を指されているのは僕なんだ。
鬼は何処にいるの?鬼はここにいるよ。
石が狙うのは誰かじゃなくて僕なんだ。
何もかもが嫌になった。燃えていく赤は綺麗な色。たぶん何もかもを終わらせてくれる色。焼いて焼いて燃やして消して、全てを零へと帰してくれる。
嗚呼、綺麗だな。このまま全部壊してくれないか。僕の怒りも悲しみも全部赤く塗り潰して。どうしてこんなに悲しいのか。どうしてこんなに苦しいのか。その全てを忘れさせてくれる。きっと全てを清めてくれる。
パチパチと燃え上がる家屋の鳴る音は、まるで喝采の拍手だね。ここは何かの舞台だろうか?そうか誰かが見ているんだ。僕という奴の生き様を。人生をまるで脚本のように眺めて物語り嘲笑う。だけどもうそれもお終い。僕も燃えて無くなるんだろう。
今にも崩れ落ちそうな屋根の上に腰掛けて、もうどうでもいいやと目を閉じて、最後の拍手の時を待つ。
崩れ落ちたその直後に聞こえたのは別の音。
燃え上がるのは家屋じゃない。もっと近くから聞こえる。崩れ落ちたのは屋根じゃない。僕の身体だ。その激痛に目を見開いた。目に映るのは赤じゃない。一面の青。僕の腕を焼いているのはその色。ぞっとするような青ざめるその痛み。手から腕から広がっていく。早くこれを切り落とさなければ炎は痛みは拡大していく。
逡巡後、僕は決断。僕は僕の腕を切り落とさせた。その痛みに僕は目覚める。
「はぁっ……、はぁ……」
夢か。また嫌な夢を見た。
恐る恐る視線を向けた先、ちゃんと僕の腕はある。
「カーネフェル王…………、アルドール……っ」
僕に屈辱を植え付けたあの男。人間の癖に鬼の僕を傷付けるなんて。そんなのおかしい。間違っている。人を狩るのが鬼。鬼は人を凌駕する。
僕がおまえに狩られるんじゃない。僕がおまえを刈り取ってやる!……そう心に誓ってエルスは気を静めた。
「…………」
深く息を吸ってもう一度、腕を見れば巻かれた包帯が目に入る。
鬼であるエルスが人間に手当をされたのは、あれが初めてのことだった。それをこの上ない屈辱だと思う以外の思いが胸の内にあるようで、それが酷く落ち着かない。それがよりにもよってあの堅物の双陸だとは。
「…………あいつ、何があったんだ?」
少し前までのあの男なら、こんなことはしなかった。王に命令されたなら手当くらいはするかもしれない。それでも自分の意思でわざわざ此方に歩み寄るようなことなんかなかったはずだ。彼のこちらを見る目は、異形を見るそんなものだった。それが何故今更柔らかくなったのか。
「…………まさか」
時期を考えれば、思い当たる節は一つだけ。それはエルスがちょうど片腕を失った頃。あんな大怪我、大失態。それをあの男に知られてしまった。それが全ての原因だ。
(あいつ……、僕を哀れんでいるのか!?)
僕を恐れの対象ではなく、無力な子供だと認識したのだ。それは鬼であるエルスには耐え難い苦痛だった。鬼は強くいなければいけない。弱さを見せることで恐れを失い人になる。殺す側ではなく、殺される側に戻ってしまう。
僕は弱くなんかない。見せつけてやらなければ。僕は人間の子供とは違う。僕は鬼だ。そう化け物だ。
弱みは見せられない。あいつだって人間だ。人間は必ず裏切る。信じる価値なんかない。こんなの唯の気まぐれだ。或いは偽善だ。そしてエゴだ。別にこれは僕のために施された優しさではない。
「こんな物っ……」
さっさと剥がして捨ててしまおう。そうして腕に巻かれたそれへと手を伸ばす。簡単な動作なのに、それがとても難しく思える。そうしてその繰り返し。
「あいつ……昔は全然こんなのじゃなかったのに。どうしたんだよ……突然」
だからこっちも調子が狂う。悪いはあの男だ。僕は何も悪くない。
昔だ。もう何年も昔だ。僕はもっと背が低くて、あいつも今よりは仏頂面ではなかったし、まだ子供と呼べる年頃だった。
「こんな所で何をしている!危ない、逃げるぞ!」
気がつけば一人の少年に僕は抱えられていた。助け出されたのだと知っても、有り難いとは思えずに、余計なことをしてくれたものだとさえ僕は思った。
「…………何って」
馬鹿だろうかこの男は。
「そんなの見てわからない?村を焼いてるんだよ」
僕の言葉で彼は自分が助けたのが人ではなく、鬼だったのだと気付いたのだろう。抱える手が強張った。そして僕も知る。ああ、これもやっぱり唯の人間だ。だから急いでそこから飛び降りた。人間なんかに助けられたくなんか無い。僕は誇り高い妖怪なんだ。馴れ合うもんか。
「何の権利があってそんなことを……」
「そんなの殺したいからに決まってるよ」
「民はお前の物ではない。王の物だ。だから勝手に殺していいものではない。そんなこともわからないのか?」
「それじゃああんたはどうして生きているの?」
変なことを言い出したその人間に、僕はそう切り返す。
「何の権利があってあんたは生きているの?生きているんだから何かを殺して食らって生きているんだろ?ボクは鬼だから人を食らって生きている。それにいちいち許可を取らないといけないわけ?あんたは息をする度に誰かに許可を貰っているの?」
これはそれと同じ事。僕は生き続ける以上、人を怨まずにはいられない。だから殺す唯それだけさ。息をするのと同じように、それが僕にとっての自然だった。
同じ場所にいられない。人が嫌いな虫を叩きつぶすのと同じだ。唯目障り立ってだけで。いや違うか。確かに奴らは害がある。悪質な蚊だ蜂だ。最悪僕を殺す虫だから、僕は僕の安全のために殺しているんだ。
僕がそう責めれば彼は苦しげな顔になった。何か気に障ることを僕が口にしたのだろう。
「ねぇ、綺麗な黒のお兄さん。綺麗な着物のお兄さん。あんたは人間に石を投げられたことがある?食うに困って生死の境を彷徨ったことは?あんたら凡人の目には見えない者達の、悲しみを聞いたことはある?何?一つもないの?その癖そんなに多くを知ったような顔をしているの?本当人間って盲目で傲慢な生き物なんだね」
目に映る景色のその全てが憎らしくて堪らない。嗚呼、世界の何もかもが呪わしい。全て音を立てて崩れて壊れてしまえばいい。
その日彼は、僕の言葉に何も返せなかった。そのまま答えられずにただそこで僕を見つめていた。
そこから八年位同じ城に仕えていたけれど、彼と顔を合わせることはあっても向き合うことは一度もなかった。彼はよく外へ仕事に出ていたし、僕はいつも城にいた。数術に疎いタロックは僕の力を重宝した。基本的に僕に出来ないことは何もない。あるとすれば数術で不可能と言われている死者の蘇生くらいなものだ。それ以外は代償さえあれば叶えられることばかり。
まぁそれでも須臾王は、僕の力自体にはそこまで興味がなかったのかも知れない。あったのは周りの奴らだけ。王は僕がお気に入りだった。得に王は僕の目がお気に入りだった。紫は薄めれば桜色に見えるからだって。どんな我が儘を言っても王は僕がお気に入り。人間って本当に馬鹿。くだらない感傷に捕らわれて踏み外す。
真面目に誠心誠意忠誠を誓うあいつより、適当で不遜で無礼な僕が可愛がられる。それをきっとあいつは気に入らないと思っていただろうし、僕もそう思われている自覚はあった。何しろあいつの僕を見る目は本当に冷たい。化け物を見るような目で僕を見ていた。それは昔は純粋な恐れでも、年を重ねる度にそれは唯の嫌悪と薄気味悪さの不快感へと変化した。そういう目を向けられるのは。
それがどうして今更になって。僕を哀れんでいるのか?それとも馬鹿にしている?鬼なんかじゃない。唯の非力な子供なんだって見下している?
それでも丁寧に施された、それでいてぎこちない不器用な結びの包帯。そこにどういう意味が込められているのかわからない。やらなければやられる、それなら僕はやる。そんな風に生きてきたからやらないのにやられてしまった時にどうしていいのかわからない。
「……借りは返してやらないと。そうだ、どんなことでも同じ事だ」
恨みでも、感謝でも。それが人の世の理だ。郷に入っては郷に従え。鬼だって時々は空気を読もうと思ってみたりするものだ。勿論唯の気まぐれか、利害の一致それだけだけど。
*
要塞カルディアでのタロックとカーネフェルとの交戦が始まって一週間。その決着はカーネフェル側の撤退という結果に終わる。
カーネフェルを指揮するアロンダイト卿。昨日までは好戦的に捨て身の覚悟と気迫を感じさせるまでの圧倒的強さで砦を守った。
指揮官が最前線に出るというその無謀。それを舐めて掛かった兵はことごとく切り捨てられた。それに身構えた兵士さえ、切り捨てられた。並の者では相手にならない。
国と主へのその忠義に敬意を表し、三日目から双陸がアロンダイト卿の相手を務めた。剣は幼少から嗜んでいた。勝てるとは言い切れないが、負けるとも言わない。剣だけなら渡り合える。気持ちが勝れば討ち取ることも叶う。相手が唯の剣士なら。しかし相手は唯の剣士ではなかった。アロンダイト卿は剣士にして数術使い。剣を交えている際に発動される数術。それを避けるので精一杯。そしてそれを避けても今度は襲い来る剣戟。どうしても此方が防戦一方になってしまう。彼と互角の勝負をするためには正々堂々では無理だ。兵士達も彼の数術を恐れて動けない。
正直なところ、此方も数術使いがいなければ話にならない。
エルス=ザイン……あの同僚である混血の子供が傍にいてくれたなら、そう思いもしたがこればかりは仕方がない。同僚とは言え同じ目的のために動いているかも怪しい相手だ。
それにあんな子供が傍にいては気が散ってもっとまともに戦えなくなる。あれが唯の子供ではないとは知ってはいても、あんな姿だ。大怪我をさせたなら、此方の気も乱れてしまう。
しかしこれ以上、アロンダイト卿一人に手こずるわけにはいかない。そして今朝……七日目から方針を変えた。自分が彼を抑えている間に彼ではなく他の者を狙えと。
如何に数術使いとは言え、多くの仲間全てを守るのは難しい。そんなことしようものなら集中が乱れ、術か剣技に乱れが生じる。
そして今日、彼が下した決断は……撤退。最後の最後で王の命令ではなく部下の命を取ったのだ。
それは自分には決して選べない選択。それでも彼の選択を責めるつもりはない。むしろその慈愛には好感すら持てる。しかしこれは遊びではない、戦争だ。相手の弱みには付け込まなければならない。
「カルディアは完全に我らがタロックの手に落ちた!残すは都!ローザクアのみっ!!敵は体勢を崩した!このまま都まで進軍するっ!」
湧き起こる歓声の中、進軍の準備を整えるよう兵士達に声を掛け、砦より物資の補給を行った。一通り命令を下して周れば、もう辺りは薄暗い。まもなく夜が訪れる。
地の利は向こうにある。夜の間は進軍は出来ないだろう。そうなれば今日は砦で一夜を明かすことになる。
これまで強行軍で無理をさせた兵士達。南の砦だけでは部屋が足りなかった。一夜だけとはいえゆっくり休ませてやれるのは有り難い。敵将のようにはなれず。王の命より彼らを選んでやれない自分の不甲斐なさに自責の念を覚えるも、それも仕方のないことだと首を振る。
守られていた砦の門番も兵士ももういない。住民達も逃げ出したり、降伏したり。夕暮れの風に吹かれることで、堅牢な砦の最後に僅かな物悲しさを感じる。命令遂行のための一コマを進めたのだという喜びよりも虚しさの方が勝っている。それでも命令から逃れられない我が身もまた悲しいものだ。
双陸に命じられたのは都を落とすこと。そしてそれを阻む者と戦うこと。カルディアという最後の砦は通過点に過ぎない。元より無力な住民達に刃を向けることは極力控えるように兵には命じている。だから交戦中も逃げ遅れた住民達は屋内退避でやり過ごさせた。
別に人殺しをしに来たわけではないのだ。
「なかなか見事なものだね」
「エル……呪術師殿か」
久々に姿を見せた同僚は夕暮れの風と共に、いつものようどこからともなく現れた。いつものこの子供なら、甘いとかなんだの口にしそうではあったが、今回は珍しく此方のやり方を褒めている。それが少しばかり意外だった。それに驚き、何かを企んでいるのだろうかと、僅かにそう感じてしまう自分を恥じる。振り返れば少年は笑ってはいたが、今日は此方を嗤ってなどはいなかったのだ。
「で、このまま追うんだって?」
「無論、ここまで来た以上……前進するしかあるまい。速やかに終わらせる方が、両国にとって被害は最小限で済む」
「そう。それじゃあ丁度だね」
「丁度だと?」
この子供は妙なことを言う。くすくすと小気味よく笑いながら混血の子供は見えないことを語り出す。
「ボクの計算では明日の昼頃。こっちがローザクアに着く頃に、奴らは即位式を行うよ。新たな王の誕生で、どん底まで落ちた士気を盛り上げようってことらしいね」
「……なるほど、そのためか」
極力戦力を減らさぬように、相手方の将は後退した。今にして思えば、それは退避のための時間稼ぎと言えなくもない。指揮すべき将が前線に出てきたことにも頷ける。それを双陸は捨て身の覚悟と受け取り応戦したが、そういうことではなかったようだ。
「まだ諦めてくれてはいないということか……窮鼠猫を噛むともいうからな。より一層気を引き締めてかからねばなるまい」
「まぁ、そうだけど本当に次で最後だ。その最後の芽を摘み取ったなら、カーネフェルはもうお終い。士気が上がることはない。カーネフェル王の初陣を大失敗にさせてやれるかどうか。それは貴方の采配に掛かってるんだよ双陸」
遠回しに頑張れと言われたような気分。本当に妙だ。この子供は何かおかしな物でも食べたのだろうか?
「即位式も王が居なければ出来やしない。南の砦を張っていても全然来ないと思ったら、あいつらもう都入りしてたんだよ」
「その言い方だともっと早くに気がついていたようだな」
「そりゃそうだよ。ボクの腕の怨み、たっぷり返してやらなきゃ」
やはり妙だ。いつものエルスなら、そんなことは言わないしまずやらない。場所を知ったならすぐさま乗り込み殺しに行っていてもおかしくない。それをわざわざ今日まで待って、自分の所までそれを教えに来るなんてとてもおかしなやり方だ。その彼らしくない行動に、一抹の不安を覚える。
「王になる前に叩きつぶしても唯の一般人。希望の芽を潰すには、それを灯した後に吹き消した方が効果的だしね」
その物言いは確かに彼らしいが、不安はやはり拭えない。
「あ、そうそう。南の砦にボクが借りてた兵、貴方に返すよ。都攻めには一人でも多い方が良いでしょ?僕は一人の方が身動き取りやすいしね。都落としは貴方がやってよ。僕は内部から崩して隙を作る。大暴れだねぇ……楽しみ楽しみ!」
「しかし……それでは流石に危険ではないか?相手は……」
「貴方なんかに心配される義理はありません!ボクは誰の命令も聞かないよ!須臾がそれでいいって言ってくれてるんだから」
彼のみを案じた途端、突然突き放すような敬語。これまで嫌味としてしか活用されてこなかったそれが、今だけ聳え立つ壁のよう。礼儀の欠片もなかった口調の方が、身近に感じられていたというのも変な話だ。
「カーネフェル王……ボクに二度も屈辱を味会わせたあの男……!絶対に許さないっ!!」
ああ、そうか。ようやく悟る。
彼は今俺が哀れんだのだと思ったのだ。俺の言葉が彼にカーネフェル王へと向ける怒りを思い出させてしまったのだ。
そうじゃない。そうじゃないのだと、何と言えば伝わるのだろう。こういう時、言葉を上手く作れない自分に呆れてしまう。
別にお前の力を侮っているわけではない。弱いと思っているわけでもない。それでも心配なのだ。強さは認める。知っている。そうだ。出会った頃からお前は強い。村一つ、今よりもっと小柄な身体で焼き払ったお前だろう。その気になれば俺の磨いた剣技すらお前は凌駕するだろう。そういう理不尽な強さを持っているのが数術使いという生き物。
それでもお前は心にムラがある。やはりまだ子供なのだ。だからいつでも強いわけではない。その隙を突かれれば、またこの間のように大怪我を負う。
数術でそれは無かったことに出来るのかもしれないが、その傷を負うとき……痛くないわけではないのだろう。だからこそ、彼はこんなにもカーネフェル王を憎んでいるのだ。
「…………これを持っていけ」
「何これ……」
「数術使いの弱点は接近戦だったな。俺の脇差しだがないよりはマシだろう。万が一のために持っていけ」
「へぇ……やっぱりボクの力を貴方は信用してないんだ。いや、わかるよ。……いいえ、わかりますよ、ボクは人間じゃないから」
子供扱いなんてされたくない。いつも鬼として人に恐れられていたい。それでも力だけ、強さだけは信用して欲しい。そんな我が儘な言葉、子供以外の何だというのか。子供が傷つくところをあまり見たくはない。こんな戦場に似つかわしくないのだ、この子供は。第一これはあの方のお気に入りだ。命令は絶対だが、主の望みを察し叶えるのも自分の役目。俺はこの子供を死なせてはならない。そのために王は俺とこれを同じ場所に送られたのだ。
「お前が鬼でも人でも些細なことだ。あの方にとってお前が必要なのは確かだ。万が一でもお前に何かあっては困る」
「双陸……」
「それは俺の大事なものだからな。返しに来てもらわなければ俺も困る」
そう恩義せがまし言い方をすれば、エルスが小さく微笑んだ。
「貴方はつまらない人間だね。……そしてこの上ない馬鹿だ」
いつもの人を小馬鹿にしたようなそれとは少し纏う空気が異なっているのが印象に残るような笑みだった。
「返しに来た時得物が足りなくて死んでたとかなって、その時ボクに恨み言とか言われても聞いてあげないからね」
しかし生意気な口の利き方は相変わらずと言うべきか。子供だというのにまったくこれは素直ではない。子供らしい可愛らしさがまるで皆無だ。こんな弟がいたなら今頃きっと手を焼いていただろう。俺の弟はこんな奴じゃなかったから、妹がいたらこんな風になっていたのかも知れない。タロックの女は大抵性悪だ。甘やかされて我が儘で、自分勝手で傲慢で。
「そこまで言うんなら持っていってあげるよ。……同僚のよしみでね」
そう言って笑うエルスは、何だろう。とても人間らしい笑顔を浮かべている。出会った頃のこの子供は、こんな風には笑わなかった。漠然とそれを思い出し、それがとても遠くそして妙に懐かしく感じられた。
いきなり道化師、それからタロックサイド。6章ヒロインジャンヌのジの字も出てこない。あらすじ詐欺とか言われたらどうしよう。0章ゲー制作時のイベントを0章に付け加えるか6章に盛り込むかで悩みましたが心機一転と言うことで此方に。
何はともあれ6章はむやみやたらに恋ですね。タイトルが以上避けられん……
ところで彼方此方であらぬ方向に矢印出てるせいで、ノリで三角関係タグを入れてしまいましたが誰と誰と誰を指しているのやら。なんかもうみんな何だかんだでいろんな線出てやがりますね…人間関係カオス鍋。そうだね、愛憎だね。