5:Stultum est timere quod vitare non potes.
アルドールから少年騎士の看病を任されて、それも一段落着いた頃。僕の所に現れた奴が居た。
「おい、神子」
振り返るイグニスに、仏頂面のユーカーは黙り込む。
用があって来たならさっさと喋ればいいのに何とも面倒臭い人だ。どうしてこう、カーネフェル男はどいつもこいつも精神的にへたれなんだろう。船に乗っている自分以外の人間の顔を思い出せば自然と口から溜息も零れる。たぶん彼らの中で一番マシな精神を持っているのはここで寝ている少年だ。幼いが故、痛みに愚鈍。それはある意味、屈強な精神とも言える。まぁ、それでもだ。
「少しはマシな顔色になりましたねセレスタイン卿」
人を支える余裕があるだけ、今の彼はかなりマシな部類に入る。アルドールが僕の次に今のメンバーで心を許しているのは彼だろう。更には他の騎士二人も彼への依存が酷い。一人は元々。一人は僕の策により。もう一人は依存というどろどろした物はないが懐いているのは確か。
セレスタイン卿自身もへたれではあるが、虚勢だけは立派な物だしそれに騙されるへたれ阿呆もいる以上、馬鹿には出来ない。空元気でも彼の強がりは今のアルドール達にとって必要な物なのだ。
だから僕も一応は、感謝めいたものを感じてはいる。だから僕にしては友好的な言葉が口を吐いて出たのだろう。
「ところで僕に何か?」
「そいつの調子はどうだ?」
「貴方よりは随分と良いはずだと思いますよ」
「そうか」
そこで会話が途切れる。この騎士は他人に感心を持たない風を装いながら、なんだかんだで抱え込んでしまうタイプだから、まぁ利用し易いよね。だから途中までは上手く行く確信が僕にはある。最大の山場はあそこをどう越えるか。このまま進んだとしても、ぽっと出のアルドールが彼の依存面でアロンダイト卿を上回るのはたぶん無理だ。
彼は実に四分の一の確立で頼り甲斐のあるカード。だからこそ、敵に回った時が恐ろしい。
厳密に言うと僕は間に合わないだろうから確立は三分の一まで落ちる。
「それで用事はそれだけですか?」
どうしたものかと考えながら、僕が尋ねれば……それだけではなかったのだろう彼がぼそと呟いた。
「…………今ここにあいつが出るっつう話はないのか?」
あいつ。それだけですぐに分かった。それは道化師のことだ。
「どうしてそう思うんですか?」
「あいつの出現条件は水場が多い。俺が初めて見た時、それからアルドールに聞いたが船にも現れたそうじゃねぇか。シャラット領以外の全てにそれは当てはまる。なら今が絶対安全だって保証は……」
彼の言うことは確かにもっともだ。あいつはギメルを装うためにわざと水場に現れる。アルドールを精神的に追い詰める作戦で、自分がハートのカードだと匂わせるためにそういう事を繰り返す。
「そうですね。ですか確率は低いですよ。カードが六枚。その内コートカードが三枚も固まっているんですから」
ジャックにペイジだけとはいえ、三枚も集まれば流石の道化師もそう簡単には手出しが出来ない。総幸福値という面においては道化師をも上回る。
だから狙うとするなら……幸福値とカードがもっと削れた後だ。
「それに道化師にとってもカーネフェルとタロックの戦争、つぶし合いは喜ばしい所だと思いますよ。4枚あるエースカードが戦争により減らされると分かっているならしばらくは傍観に勤しむことでしょう」
そう。計算上で考えるならそうなる。唯そこに感情論を入れればわからない。僕自身、あいつを誘き寄せる餌に等しい。だからこそ僕は早急に彼らの元を離れる必要があるのだ。
唯、タロック側の一手のせいでそれが出来なくなってしまった。もうしばらくは僕も此方にいなければならない。
これは僕にとっても想定外だ。いつものエルス=ザインなら、あんな手は打たなかった。僕はアルドール達が北部を平定そして南部の都攻めを行う際にまた手を貸しに戻る予定だったというのに、今の彼はどんな手を使ってくるかがわからない。迂闊にここを離れられないのは事実。
第一ユリスディカが遅れている。僕は彼女とマリアージュにこっちを任せて帰るつもりだった。ユリスディカがあの時城にいたなら、あそこでエルス=ザインは殺せていた。それだけで随分と戦況は変わっていたはず。双陸に都を支配させるというのは手筈通りでも、エルス=ザインのあるなしはかなり話が変わってくる。
(はぁ。僕も立場上。あまり国を空けるわけにはいかないんだけどな……)
シャトランジアから離れて一ヶ月。シャトランジアには僕の存在を知らない者も多い。先代の寿命もまもなく尽きる。そうなった場合僕が表舞台に出なければならない。彼の訃報を聞いたなら、一度は帰らなければ。そうなったらそうなったで問題は山積みで、今度は何時カーネフェルの支援に戻れるかもわからない。
国王派を黙らせるための駒の懐柔さ成功すればその辺は何とかなるのかもしれないけれど、今はそれも未定だ。
「……ならてめぇも休んどけ。こいつは後は俺が面倒見てやる」
「…………え?」
「こんなガキまで巻き込んだお前らのことはどうかと思うが、まぁ……こいつもぽんと一人で置かれてるよか安全かもしれねぇしな」
もしかしてこの人は僕にお礼を言っているんだろうか?それはあまりにらしくない。
それに第一僕がこの少年をスカウトしたのは、彼がコートカードだったからに他ならない。
ペイジは探し出すのが難しいレアカード、僕だって対面するまではわからなかった。それに何とも特殊なカードだ。故に毎回所持者が変わる。現にこれまでエルス=ザインは他のカードだった。この少年パルシヴァルに至っては、前回まではカードですらなかったはずだ。
(……アルドールとセレスタイン卿を友好的にさせた成果なのかな)
カードは上から下から選ばれる。だけどペイジはカードであってカードではないカード予備軍。彼らは願いをまだ持っていないカードであり、星に願いを託していない。だからペイジの出現はゲーム中いつ訪れるかわからない。もし誰もペイジの存在に気がつかず、そのままゲームが終了したとしたら……これは誰の願いも叶わない。ペイジは願いを持たないが故、殺されなくともゲームが終わる。勝たなくとも生き残れる特殊なカード。だからこそ、ペイジを殺せたときのメリットも大きい。
まぁ、僕はあの子を最大限利用するため拾っただけなので、そこを感謝されるとほんの少しばかり僕も良心の呵責を感じるよ。
「雨が降りそうなことを言わないで欲しいですね。奴が現れる可能性が増えますよ」
それでもそれを嫌味で返すのが僕という人間だ。
「まぁ……それでも一つだけ僕からもお礼を言わせていただきますよ。僕が今もここで神子でいられるのは、貴方のお陰です」
お言葉に甘えて休ませて貰いますねと微笑めば、視線を逸らして僅かに顔を赤らめる。男社会で生きてきた分女に免疫ないんだな。いや、単に褒められるのに慣れていないのか。
まぁ、どっちでも良いけど。どっちにしたって、とんでもない甘ちゃんだよなこの男は。いっそ呆れるほどに。
僕が女とわかったくらいで何?途端に反抗的な態度が弱まった。以前感じた殺意も弱まった。部下であるある子の言葉を借りるなら、正に“馬っ鹿じゃないの?”の一言だ。
同情してるわけ?哀れんでいるつもりなの?お貴族様が。まぁ僕もお綺麗な人間じゃあないからね。付け入る隙があるなら大いに利用させて貰うに越したことはない。
精々僕を哀れむが良いよ。僕は残りのタイムリミットの少なさも、アルドールへの服従の糧に使わせて貰うだけだ。
そうだ。考えようによっては彼に僕の正体がバレたことで良い方向に転んでいるのかもしれない。彼の件に関してだけなら。
僕は唇だけで小さく笑いながら、船室を後にする。アルドールの側を離れるのは結構僕にとっても不安なことだから彼が来なくてもあの子の容態が落ち着いたら後は契約精霊の誰かに任せて戻る気ではいた。
「……馬鹿みたいな顔してる」
寝台で眠り惚けているアルドールの平和そうな寝顔。馬鹿みたいだなと思う。船酔いが完全に治ったわけでもないのに、僕の言葉一つでこの馬鹿はこんな顔になる。それは嬉しいけれど、心配なことでもあった。君は少しは自分と自分の考えという物を持つべきだよと言って聞かせるべきだろうか?
(いや……)
今は無理だ。昨日の今日だ。フローリプさんまで死んだんだ。忘れたわけではないだろう。唯、よく考えないようにしているんだ。視野を狭めて。もっと落ち着いてからしっかり悲しもうとそうやって……アージンさんの時も、ルクリースさんの時も先延ばしにした。そしてそこに新たにフローリプさん。君は後何人親しい人間を亡くしたら、ちゃんとその悲しみと向き合うんだろう?先延ばしにすればするほど、荷物は重くなっていくのを君は気付いていないのかい?
……いや、まだいいか。何時か必ずその時は来る。君は向き合う。そしてそれに打ち勝ってくれなければ僕が困る。それを越えれば……今度こそ、君はちゃんと憎んでくれるだろう。
「………大丈夫。今度こそきっと上手く行く」
僕はこの馬鹿の、この馬鹿みたいな緩みまくった表情を失いたくないと思うのだ。例え僕がそこにいなくても、それでいいんだ。
「君は殺されるべき人間じゃない。アルドール……殺すのは、君なんだ」
*
「ふぁあ……思いの外ぐっすり眠れたな」
「もしかしたらトリシュがずっと竪琴を弾いていたからかもしれませんね」
「アルドール様にお喜びいただけたなら私も幸いです」
「ずっとって何やってんだお前……阿呆か?」
「な、何てことを!イズー!私は8割は貴方の安眠を願って歌っていたんですよ!?」
「あ、……俺2割なんだ」
多いと言うべきか、それっぽっちかと突っ込むべきか。アルドールは少し判断に迷った。
「……にしてもこんな夜中に着くなんて」
「船が沈まなかっただけでも十分幸運だと僕は思うよ。それにこの暗さなら敵の目にも付きにくい」
「ああ、なるほど。流石イグニス」
俺が目を覚ませば、もうすぐ対岸に着く頃だった。川の流れに流されて、大分東寄りの岸に停泊することになった。
出発が夕暮れだったし仕方ないのかも知れない。夜中の内に渡り切れたのだから、敵の目にも止まらなかったはず。それなら上々と言ったところか。
「いやぁそれにしてもいい夜空ですね。こういう時は咽が渇きませんかイズー?」
「渇くかボケっ!」
北部について早々、ユーカーに絡みに行くトリシュ。二人が犬猿の仲だったという話がにわかには信じられない。ユーカーの方だけ見れば何となく信じられる気もするけど。
「それにしても……懲りない人だなぁトリシュって」
っていうかもうユーカー女装止めて着替えたのに、まだイズー呼びなんだ。変装解いただけでここまで可愛気がなくなるとはある意味才能だ。
「つかパー坊が寝てんだから静かにしろ!」
「面倒見の良いイズーも素敵だ……」
「本気で打たれたいか?」
「それが貴女の愛の鞭なら喜んでっ!!」
「つか故意に変換ミスすんの止めろ!俺は男だって言ってんだろ!」
「一発でも打たれた時点で私の愛を受け入れてくれたってことになりますのでその辺りをご了承下さい!さぁ!何時でもどうぞ!」
「そんなこと言われて誰が殴るか!」
「殴れない…?はっ……それはやはり貴女が私を愛しているからですねイズー!愛しい者に手を挙げるなんて、そうです……出来ません!私が貴女を殴れないようにっ!!」
「誰かこいつに常識ってもんを叩き込んでくれ!なんで夜中なのに元気なんだよお前は!」
「お言葉ですがセレスタイン卿、恋狂いの人と変態は24時間体勢で通常営業らしいですよ」
「要らん情報くれんな馬鹿神子!」
船が岸についても目覚めないパルシヴァル。彼を背負ってるユーカーは、彼に気を使ってか小声で喧嘩をしている。あれはお兄さんっていうかなんか小さな若いお父さんみたいだ。不良って婚期早いってイメージあるし。
「痛っ……!何で殴るんだよユーカー!」
「お前今なんか要らんこと考えただろ?俺そう言うの聡いんだからな弁えろ!」
「お前が弁えろ。アルドール様に手を挙げるなんて流石に無礼だぞ」
俺の頭を叩いた直後に、ランスに打たれるユーカー。これも段々パターン化してきたな。こうなるのが解ってても俺を殴るのを止められないんだろうかユーカーは。もしかして逆にランスに殴られたくて俺を殴ってるんだろうか。いや、まぁユーカーに限ってそんなことはないか。幾ら構って欲しいからってそんな面倒なことをする人じゃないよな。
「俺はこいつに仕えてねぇからいいんだよ!あとこいつ打たれるの好きって顔に書いてあった」
あ。そういう理論ですか。やっぱりユーカーはユーカーだった。
「そりゃ誰だって打つよりは打たれる方がマシだろ」
「アルドール、それはSには通じない発想だよ。僕は打つ方が好きだな」
流石イグニス。聖職者失格の発言いただきました。でもそんな酷い言葉を笑顔で語るイグニスはとっても輝いて見える。
「ところでセレスタイン卿。貴方の部下の方々を対岸で見ませんでしたが、彼女たちは都に居たんですか?」
「ああ。待機させていたのは橋のあった場所だからな。城の近くだ。一週間前に落ち合って引き続き都の警備に当たらせたんだが……あの騒動だろ。多分あいつらも虫に刺されちまった可能性はあるな」
ユーカーは平然とそう言うけれど、そんな日があっただろうか?彼はこの一週間の殆ど、俺の傍にいてくれた。俺の部屋の前に居てくれた。朝も夜も昼も。何も言わず、扉も叩かず。昨日までずっとそうやって何もしないで、それでも多くをやっていてくれた。
(ユーカー………?)
彼は何かを隠している。俺はそれに気がついた。
「でもまぁ、逃げてくる途中に作った拠点はこの近くにもある。とりあえずそこに向かおうぜ」
ユーカーが背中を向ける。歩き出す。それを俺は追いかける。何か言いたくて。何も言えなくて。俺の変わりにその背を呼び止めたのはランスだった。
「お前は全員で橋を渡ったのか?」
「馬鹿言うなよランス。狂王と間近でやり合ったんだぜ?生き残ったのは少数だ」
そこまで言ってはっと彼は左目を見開いた。自分の言葉で何かを思い出した。そんな表情だった。
ユーカーは狂王……タロック王に会ったことがあったのか。前線に出ていたのだからそういうこともあるかもしれない。俺はその言葉に驚きと僅かの興味を抱いた。だけど他のみんなは俺みたいな馬鹿な考えを抱いたりはしなかった。彼らが抱いたのは、恐怖と危機感。
「……それでは北部の戦には、須臾王が来ていたんですか?」
言われてみれば、それは初耳の情報だ。そもそも先代カーネフェル王がどんな死に方をしたのかさえ俺たちは聞いていない。
カルディアで話した時のユーカーはまだ俺たちを信用してくれていなかったし、ユーカーも辛そうで多くを語らなかった。だけど今……ユーカーは否定しない。これにはイグニスも険しい表情になる。
「それならどうして……彼は今、何処に?」
「イグニス?」
イグニスが何を焦っているのか俺にはわからない。タロック王がカーネフェルに来ていたなんてイグニスは想定していなかった。それはイグニスの先読みにすらなかったことのよう……
「もしそれが真実なら、タロック王が南下して来ない理由がありません。そしてその場合エルス=ザインが、ローザクアを離れる隙が極端に短くなる可能性すらある」
タロック王が近距離にいたなら、報告へ行く距離も時間も短縮される。
「狂王の存在それひとつで、今回の計画の根底から覆されるかもしれない。そんなこと……あってはならない!」
「イグニス……」
「……俺が見たものがまやかしだったとでも言うのかよ?」
辛い記憶を思いだしても、信じて貰えるか解らない。その戦場から帰った者がここにはユーカーの他にいないのだ。
俺はイグニスとユーカーの間で視線を彷徨わせる。二人とも嘘を吐いているようには見えない。だから出来ることなら二人とも信じたい。それでも俺には情報が少なすぎる。それはイグニスにとっても同じだった。
「それは詳しく聞いてみないことには解りません。それでも……彼の代になってから、タロック王がカーネフェルの土を踏んだことは唯の一度きり。彼の初陣の時のみです。それ以来須臾王は唯の一度もこの地を訪れてはいない」
「お言葉ですがイグニス様。それは今回のような侵略戦争ではなく略奪のための戦争です」
「…………セレスタイン卿。貴方の見たタロック王は、どんな男でしたか?」
「言わせるのか?それを俺に……思い出せっていうのか!?あんな……、あんな化け物っ!!」
「言ってください。思い出してください」
泣き出す寸前、そんな悲痛なユーカーの声。詰め寄る冷たいイグニスの声。
「…………」
ユーカーは無言のまま、歩みだけは止めない。何かを思い出すように、戻ってきた忌まわしき北部の土地を歩く。
(ユーカー……)
心配になって彼の隣まで走る。暗くてよく見えない。だけど、とてもじゃないけど喋れない。喋れるはずがないのだ。彼の頬を伝う透明な雫。それが微かな星に月に照らされ冷たく光る。それを見ていたら、俺も何も言えなくなる。つられて泣きそうになる。
ユーカーはこの土地から、南部へ逃げてきたんだ。ランスよりももっと……一番ここに来たくなかったのは彼なんじゃないか?
(それを……俺が、イグニスが……)
人が死ぬのは辛い。俺もその痛みを知っている。人の上に立つってことは人の命を食い潰すこと。俺が今、ここにいるみんなを死なせてしまう。ユーカーはそれと限りなく同じ思いをこの土地で味わったんだ。
「…………ユーカー」
「……馬鹿だな、お前」
縋るように彼を見れば、情けない顔するなと笑われた。でもそういう彼だって似たような顔してるに決まっている。
草原を越え森の中へ少し進めば、野営地跡が見えてきた。以前も同じ場所で夜を過ごしたのだろう。慣れた様子で、焚き火の跡に再び火を灯す。その間に俺たちはテントを組み立てて、パルシヴァルを預かって寝かせることにした。それが終わる頃には、簡素な食事まで用意されている。野宿に慣れてるんだな、何だかルクリースを思いだして……またちょっと泣きそうになった。俺はユーカーの隣の、椅子代わりの丸太に腰を下ろして、彼を習って空を仰いだ。星の光を見ているとやっぱりシャトランジアからカーネフェルまでの旅のことを思い出す。ルクリースとフローリプとこうやって星を見ていた。星の灯りがもっと温かかったなら、もっと早く涙を渇かしてくれるだろうに、星は冷たいから……まだ俺の目は潤っている。
「ユーカーも星見るんだ」
なんとなく口を吐いて出た言葉。それに彼は小さく答えてくれた。
「そりゃあ見るぜ。こんな広い大陸行き来するには星くらい読めねぇと」
「何を見てたんだ?」
「……蠍の心臓」
ユーカーは空の赤星を見つめているのだという。明るく瞬くそれに重なる色があるらしい。
それを尋ねようと思ったけど、その頃にはもうみんなが火の傍に集まっていた。ユーカーの話をイグニスは待っている。ランスはユーカーを見守る形で、トリシュは少し心配そうだ。
「あの男の赤は……あの星よりももっと赤い。血の色みてぇなどす黒い、不気味な赤だった」
ユーカーは、語り始める。蠍火に思い出すのは、憎い男の双眸だと彼は言う。
「…………久々だけどな、あの時も思ったぜ。もし俺がお前だったらなって」
視線を一度だけランスの方へ向けて、ユーカーが自嘲する。重いため息と共に。
「あいつは……漆黒の黒髪に深紅の赤眼。歳は中年ってとこか。だが妙な迫力があった。どう年を取ればあんな風になれるのか俺には皆目見当も付かねぇ。普通の人間と一線を画す、狂気に触れた人間の顔だ。なんら躊躇いがない。恐れもない。だからこそ……すげぇ、怖いんだ」
その視線を思い出したように身震いしながら、ユーカーは恐れ戦く。
「あの男はそこにいるけど何も見ちゃいねぇ。俺たちを取るに足らない、ゴミみてぇな虫螻みてぇな物みたいに眺めてやがった」
そこには怒りと憎しみ。そしてそれをも上回る恐れが介在していた。
「風が吹くんだ。ぶぁっと……そいつが剣を薙ぐ度。薫る血の臭いに吐きそうな位だ。そいつの服に身体にもうこびり付いてやがる。何人殺せば、あんな死臭纏えるんだ?相手が女だからって躊躇いもない。優しさもない。それがむしろ優しさなのか?よくわからない。わからなくなる。死んだ方がマシなんじゃないかって、あいつと眼を合わせただけでそう思う」
誰もが逃げ出したくなる。それでも逃げられないのは、足が動かないから。まるで金縛りにあったかのように、その場所に縫い止められると言う。そうなってしまえば後は、唯殺されるのを待つだけの行列。吹き荒れる死の風を見つめることしかできない。
そんな悪の風を追い返す、守る者があったと彼は言う。
「あの人は凄ぇ人なんだ」
普通の王は、守られる者であり守る者ではない、だけどあの人は守った。
悪の王は、奪う者で壊す者で殺す者。だけどあの人は違う。ユーカーはそう叫ぶ。
「どうして俺なんかって思った。俺はカーネフェリアじゃない。そんな価値、俺にないんだ!!」
目の前に迫った刃。魅入られたようにそれを見つめる。訪れた死は意外と長く、その時が来るのを待っていた。
「俺はあの人に肩を叩かれて、名前を呼ばれて我に返った。あの戦場であの狂気に臆することなく居られたのはあのおっさんだけだった。凄ぇ人だったよ……やっぱり。だから悔しかった。あのおっさん、こんな腐れた国じゃなきゃ……立派に戦って勝って、歴史に名を残せたような立派な奴だったんだ。それが都貴族共に踊らされて……っ!あんな場所まで送られて!!俺なんか……俺なんかを庇って!!」
言えなかった。ここに来るまで、誰にも話せなかった。彼が今までその胸に閉じこめてきた言葉。或いは忘れていたのだ。辛すぎて耐えきれなくて、脳が書き換えた。彼を守るために、自分を守るために。約束が先走り、脳を書き換えた。
彼の眼が見た悪夢が今ここに甦っている。彼がどうしてあんなにもランスの身を案じたのかもそこにあった。
死ぬために戦っていたのはランスだけじゃない。死にたくないと生きていたいと彼が追い求めたのは、死んでしまいたいから。
約束に縋らなければ立っても居られなかった。いつかそんな日が来ることを彼女は知っていたんだろうか?だから最後に彼に約束を送った。愛する人に生きていて欲しいと祈りを願いに託して。
「死ぬのは俺だったんだ。俺が死ねば良かったんだ。庇われる価値なんか無い!!」
「ユーカー……」
俺が彼の名前を呼んで、他に誰も何も言えなかった。ユーカーを責めようと握りしめられた拳。ランスはそれを振り上げることが出来ず震えている。トリシュは仕えた王の真意と、ユーカーの悲しみを察することが出来ず、瞳を迷わせている。イグニスは驚かず、それでも一言も聞き漏らさぬよう……琥珀を光らせている。そして俺は彼の名を一度呟いたっきり何も言えず彼を眺め、彼の代わりに泣いた。ユーカーはもう泣かない。声を肩を震わせても。眼の青を光らせて、闇を見つめて吠える。
「落ち着いてくださいセレスタイン卿。以前僕は言いましたよね?全ては幸福値。彼は死すべきして死んだんです。貴方を庇わなくとも彼はその日に死んでいた」
「そういう問題じゃねぇんだよ!俺はあの人の騎士なのに……っ!傍にいたのに守れなかった!何も出来なかったなんて……」
「いいえ、相手が狂王なら誰でも同じです。おそらくランス様でもトリシュ様でも同じです。誰だってそうなっていました」
イグニスがユーカーを庇うようなことを言うなんて。俺は少し驚いた。だけどその言葉にランスが少し苛立つのが見えた。自分なら何とか出来た。そう思ってしまったのだろうか。それでもイグニスは貴方でも無理でしたと眼で告げる。
「毒の前に全ては無力です。剣の腕も才能も努力も全て水の泡。人が人である以上、毒には抗えません」
「毒……ですか?」
何故そこで毒の話になるのだろう。ランスがイグニスに疑いの眼差しを向けたが、すぐに思いだしたことがあったのかそれを驚愕に改める。その変化を見取ってイグニスは深く頷く。
「タロックは毒の王家です。王家の者の武器は刃物以上に毒です。動けなくて当然です。そういう毒を盛られたんですよ貴方がたは。死臭でそれに気付けない程度の毒を嗅がされたんです」
「しかし神子様、彼らが毒を内政で用いることがあってもそれを戦争で用いたなどとは……」
トリシュの疑問もイグニスは一刀両断。切り捨てる。
「今回の戦争はいつもと勝手が違います」
王はこれまでほとんど前線に出ていない。先の戦では毒を使わなかった。だからその手の内をカーネフェルは知らなかった。
戦争の是非。勝てば官軍。終わらせるための戦。彼がそこまで考えたかは解らない。狂人は狂人であるが故、平然と禁じ手、狂気を操る。そこにルールも法もない。彼らが歩く法なのだ。
「セレスタイン卿、……その場にはエルス=ザインがいたでしょう?」
「あ、ああ」
「彼は風使い。毒を運ぶエキスパートです。以前僕らもそれをされたことがあったでしょう?タロック王族やエルス=ザインとの戦いで風上を取られたらまず勝てません。戦うなら屋内、これが鉄則です」
イグニスは外で戦った時点でもう負けだったのだと吐き捨てる。これまで毒など使わない割と善良なタロック勢としか戦ったことが無かった騎士達は、イグニスの言葉に絶句する。
「あなた方はエルス=ザインの戦い方が卑怯かと思われるかも知れませんが、彼はタロック王の側からすれば風情のある殺戮を行っているんですよ。だからこそ王の傍に置かれるほど寵愛されているのでしょうね」
より残酷に、苦しめて殺すことが王の喜び。人に恐怖を与え、嬲り殺すのが美学。だからこそ、毒を用いるのがもっとも美しい殺し方と狂王は考えている。イグニスにそう言われ、俺は腹の底から怒りが湧いてくるのを感じた。それは俺だけではないはずだ。
「貴方を庇った後、先代様も体調を崩されたでしょう?」
「ああ。……っ!?」
「ええ。彼の剣には毒が仕込まれていたのだと思いますよ。カーネフェルは毒の知識に疎い。おまけに相手方のトップが開発したような毒です。その辺の医者では解毒さえ出来ずに匙を投げ出すでしょう。それなら先代様が撤退命令を出したのは懸命な判断です。まだ毒の行き届かない場所の者は逃がすことが出来たでしょうから」
イグニスの言葉にユーカーは疑問の表情。それが確かなら、自分が動けるはずがない……
「……でも、どうして俺は」
「先代様に頼まれましてね。戦の前にいくつか数式の施したものを渡していたんですよ」
「え……?」
「その中の一つに、教会の知識を詰め込んで現代で考え得る限りの解毒数式を施した道具がありまして。使い捨てですけど一度は殆どの毒を解毒できる代物です」
「おっさん……馬鹿だ」
一度だけ解毒が出来るなら自分に使えば良かったものを。どうして俺なんかにとユーカーは俯き頭を抱え込む。
「セレスタイン卿……最後に彼は何か言っていませんでしたか?」
「ランス……ランスを守れって」
「あの方が……俺を?」
最愛の王から自分に遺された言葉があったことを知らなかったランスは、ユーカーの言葉に眼を見開いた。
「もし自分が死んだら、新しい王はランスだって言ってた。だからランスを絶対に死なせないでくれって……だから俺……」
「……そうですか」
イグニスはそう頷いて、ランスは複雑そうな顔になる。
ランスが南部に送られたのはそういう理由からだったからだったのか。ランスの器を見込んで、もしもの時の王にするために……わざと傍に置かなかったんだ。だけどそんなことを知ってしまうと、俺も少し思ってしまう。
(……俺なんかが王になって、良かったのかな)
ランスの方が強い。ランスの方がしっかりしていて人望もある。彼が王になった方が人もついてきたんじゃないか?ランスは俺をどう思っているんだろう。こんな男に国を任せられないと思って居るんじゃないだろうか?
何となく彼の方を見られなくて、空に視線を逃がしても……そこに答えは書いてはいない。
*
「何だお前さっさと寝ろよ」
「俺。船で結構寝てたから」
地の利があるからと今晩の見張りを買って出たユーカー。パチパチと火の音とたまに聞こえる溜息に俺はこっそりテントを抜け出した。案の定怒られたが、別に拒まれてはいないようだ。
「ユーカーが俺を認めたくないのって解るよ」
「は?」
「俺だって俺を認められそうにないんだから」
「何言ってんだ?」
「……だって俺じゃあ前の王様に、勝てっこない」
同じ状況で、俺に出来るだろうか。わからない。たった一つ選べと言われたら。
その場所にユーカーだけならきっと俺は選べる。だけどそこに他の人がいたらわからない。
瞬時に拾い捨てるその選択が出来ない。俺は迷う。迷ってしまう。何もかもを救いたくて全部取りこぼす。
その人はユーカーを助けた。そのことで自分自身、そして大勢の命を一瞬で見捨てた。そうしてまでユーカーを助けたのは、ユーカー自身を助けたかったから?ランスへの伝令のために?
「俺はそこまでして託された言葉を退けて王になってしまった。前の王様の気持ちを蹴って俺はここにいる。それが申し訳ない気持ちになるんだ、少し……」
「……そんな弱音を吐いてる間は絶対認めてやらねぇぞ」
「あはは、そう……そうだよな」
ユーカーならそう言うよな。
(でも少しは認めてくれたんだろうか?)
以前の彼なら、こんな事は言わなかった。俺が何を言っても言わなくても、絶対認めないって言ったはずだ。一見否定しているようなその言葉にも、少しの譲歩が見える。
「でも別に良いんだ。俺はユーカーに仕えて欲しいわけじゃないし」
「……この俺が役立たずみてぇな言い方だな」
仕える気がない癖に、仲間はずれにされると不満を言う。彼は本当に面倒な人だ。だけどそれにも慣れてきた。
「そ、そうじゃなくて!俺はこういうのが好きなんだよ!」
「は?」
「面と向かって悪態吐いてくれたり文句言ったりしてくれた方がありがたいんだ。みんな俺には良くしてくれるけど、陰で何か言われてるか、心の中で本当は何考えてるんだろうって思ったりするんだよ」
都に来ては特にそうだ。みんな俺を王としてみる。王だから寄ってくる。都貴族なんて典型的なその例だ。だけどユーカーは俺を王とは呼ばない。アルドールと呼んで、人間として見てくれる。そして対等な人間として俺を罵ってくれるんだ。罵りながらもこうして付いてきてくれている。それは本当にありがたいことだった。彼は正直じゃない。だけど嘘は吐かない。素直でも嘘を吐く人はいる。だから、彼みたいな存在は本当には救われている。ユーカーのそういうところは、昔のイグニスに少し重なる。今のイグニスは神子という役職と重すぎる責任からか、俺に言えないことも多いし……嘘も吐く。俺はイグニスになら騙されても良いし嘘を吐かれても構わない。それでイグニスを嫌いになることなんて絶対にあり得ないけど……だけど俺は弱いから、凹んだり傷ついたりする馬鹿だ。
イグニスはイグニスとしてじゃなくて神子として俺の傍にいてくれる。ユーカーは騎士としてじゃなく、ユーカーという人間としてここにいてくれるんだ。
役職のない人間同士、気楽に話が出来るのは……今となっては彼相手だけだ。もうルクリースもフローリプも俺の傍にはいないから。
「だから俺はユーカーに感謝してるんだ。俺に仕えていないのに、俺を守ってくれてありがとう。傍にいてくれて……って、なんでそこで蹴るかなぁ」
こっちは割と真面目にお礼を言っていたのにユーカーに足を蹴られた。彼は目も合わせてくれない。
「勘違いも甚だしいぜ。別に俺はお前のためになるようなことは一つもしてねぇ」
「そりゃランスのためかもしれないけど、俺はユーカーのしてくれたことに感謝してるんだよ」
「別にあいつのためでもねぇ!」
明らかに嘘だなぁこれは。ユーカーの嘘は分かり易いから本当助かる。
「…………つかてめぇ、そんなことを言うために起きてたのか?違ぇだろ?他の奴らに聞かれたくねぇ話でもあったんじゃねぇのか?」
そして勘も鋭い。これは助かる時と助からない時があるけど、今日に限っては前者だ。
「ユーカー……あのさ。ユーカーはこの一週間ずっと俺を守っていてくれただろ?だから……ユーカーは、部下の人達に会いに行く暇……無かったんじゃないかなって」
「……お前馬鹿か?俺なんかのこと気遣う暇あったら、もっとしっかり妹のこと見ててやれば良かっただろうが」
「……違うよ。だからだよ」
ユーカーに睨まれる。それは聞きたくない糾弾だ。今更の言葉だ。だけど、俺は耳を塞がない。自分で守っているつもりでも、俺は守られていた。馬鹿みたいだよ。気付かなかった。今日と昨日までの違いは、部屋の外に彼がいたかいないか。フローリプの不運は……起こるべきして起きたのだ。最低幸福値のAカードが傍にいたって何も変わらない。彼女の命を繋ぎ止めること、俺には出来なかった。
「フローリプが今日まで死なずに済んだのは、ユーカーがいてくれたからだ。俺一人の幸運値じゃ駄目だった」
「…………それは俺を責めてるわけか?」
「違う。だって不可能だ。ユーカーにずっとフローリプの傍に付いていてくれなんて頼めないだろ。別の人間なんだしさ。好きなところに歩いていく権利があるよお前にもあいつにも」
フローリプはもう、幸福値が殆ど尽きていた。不幸をはね除け生命維持を行うのも困難なほどに。コートカードはその理をねじ曲げる存在なんだ。そこにいてくれるだけで、不運をはね除ける。
「俺は……お前のお陰で、今日まで彼女と一緒にいられたんだ。本当なら、もっと早くに失っていたかもしれない彼女と」
「…………」
都を脱出しながら、ランスから聞いた。フローリプの亡骸は隠してきたと。ユーカーがランスに、あいつを静かなところで眠らせてくれるように頼んでくれたって聞いて……俺は安心した。二人に感謝した。教会に逃げる間中……ずっと気掛かりだったんだ。目先の問題を見つめることで嫌な想像から俺は逃げていた。もし彼女の死体をそのままにして逃げていたなら。あのまま彼女は野晒しのまま?それとも俺の縁者と知れて死して尚辱められることになったのだろうか。そんな不安から二人は俺を助けてくれた。
「ユーカー。俺は何も言わない。誰にもだ。お前がこれから喋ること何も俺は聞かない。聞かなかったことにする」
彼が辛いなら、俺が助けになりたかった。少しでも感謝の気持ちを返したかった。だけど俺は本当に弱くて何も出来ないから、こんなことしか出来ない。唯、傍にいるだけだ。
置物みたいな俺だけど、置物だって何かしたいとは思うんだ。
「だからもし……口にして楽になることがあるなら、好き勝手に言ってくれ。俺は何も知らないから」
言って楽になることってある。胸の中に貯め込まない方がいいことだって。
俺はユーカーに背中を向けて空を見上げる。しばらくはパチパチと焚き火の燃える音だけが聞こえた。だけど……やがて、それに混じって微かな声が聞こえてきた。
「……橋を越えたのは俺だけだ」
カーネフェル軍全ては騎馬隊ではない。馬の数は限られている。都貴族に国庫の金を流されて、国防の経費も削られて……歩兵がその大半を占めると聞かされた。だからこそ奇襲を仕掛けるタロックをろくに迎え討てなかったのだろう。
「一般兵なんて歩兵ばっかだ。連中に速度を合わせてたら、敵に追いつかれる瀬戸際だった」
「…………」
「全員渡りきるのを待ってたら敵が来ちまう。何処かで見限らねぇと……どうしようもなかった。けど俺は言い出せなかった」
「…………」
「……俺の部下は優秀だった。立派な……兵士だった。そして……やっぱ馬鹿だった」
とんと、ぶつかった背中が肩が小刻みに震えていた。たぶんまた泣いてるんだろう。声にはそんな色を出さないように彼は強がっているけど。
「変なとこばっかり俺に似て平気で命令違反しやがる……」
「……命令、違反?」
ユーカーの策では橋を渡りながら、爆薬を仕掛け……渡りきった後に橋を壊していくものだった。そうすれば、追っ手も一緒に始末できると考えた。そしてそこからは、渡り来る船を待ちかまえて討つものだった。
しかし兵が橋を渡るのを拒んだ。説得しても従わない。命令だって従わない。
「逃げるのかと思った。それならそれでも良いと思った。南部が安全だって保証もなかったしな……好きにしろって言ってやった」
都を目指す敵の進路から逸れれば、比較的安全な場所が北部には幾らでもある。これから危険になるのは南部の方だと誰もが思う。
他の場所から河を渡りだした先遣隊より先に、河を越えなければならない。時間は残されていなかった。
「もう戦いたくないという者を無理に従わせる意味はない。もう傾いた国だ。誰がどう頑張ってもたぶん何も変わらない。狂王に会った時から、もう俺たちはこの国が終わりだって悟っていた。あいつは絶望そのものだ」
そして希望と呼べる王が、死んでしまったのだから……もうこの世界に光はない。朽ち逝くのを待つだけの土地。それならばと、仕方なしに置いてきた。
「北部の居る四六時中俺はあの赤に見られている気がした。あの狂った眼に追い立てられるように逃げて逃げて逃げて来た。立ち止まればその瞬間、目の前にあいつが現れそうな気がして、立ち止まることが怖かった」
赤は嫌いだ。赤い色は。見たくもないとユーカーが吐き捨てる。そう告げた時彼は、上手く呼吸が出来ないように咳き込んだ。
「敵の手に渡った死体は王じゃなくて影武者だ。本当の王の居場所を俺は知っていると思ったんだろうな。現に奴らは俺を追っていた。俺から離れれば……それだけで安全だった。妥当な判断だと思ったよ」
人の言葉の裏を読むような余裕がなかったのだろう。彼はそんな土壇場で嘘を吐けるような器量のある部下が居るとは思っていなかった。追い詰められれば人なんか、国より自分の命を取る。そんな奴らばかりだと頭ごなしに信じていた。
「……渡ってから、気付いた。俺は本当に間抜けだ」
一心不乱に駆け抜けて南部へと至る。そこで初めて振り向けば、兵はちゃんと付いてきていた。兵士達は橋の中腹まで至っている。そこで手を振っていたという。
「最初は馬鹿みたいに嬉しかった。早く走って来いって足を止めて待ってやった。けど、そうじゃなかった。あいつらは俺に別れを告げていた」
振られた手。振り返そうと、手招きしようと手を挙げた。
それを合図に爆音が鳴る。橋が半分から向こうから煙が上がり、崩れていく。一人で運べる量には限界があった。仕掛けることが出来たのはほんの数カ所。橋を壊すことなど出来なかった。けれど残された爆薬を使い、兵士達はそこまで罠を仕掛けてきたのだ。
追ってきた、敵兵共々自分共々……橋を壊すため。
止めろと叫んでも、付けられた火が導火線を走り出す。
「煙が消える頃には綺麗なもんだ。何事もなかったみてぇに、……河の流れる音だけ聞こえる」
全てが流されていく。飲み込まれて消えていった。敵も味方も、何も残らない。
導火線に火を付けた。
「あいつが俺を騎士失格だって言ったのは正しいんだ。自分の隊の奴らも守れねぇような奴が……どの面下げて騎士だってんだ」
「ユーカー……」
「それでも俺があいつみたいな立派な騎士ならそこで……死んだあいつらのためにもこの国を守らねぇとって思えたんだろうが、生憎俺はそんな大層なもんじゃねぇ」
人を殺すことよりも、自分の判断ミスで死なせてしまう方が怖いものだと彼は言う。
守ることも、その死を割り切ることも出来ない自分に将の資格はないと呟いた。
ユーカーが俺に仕えないのは、俺を認めていないからだけではないのだとぼんやりと……そう思った。彼は自分に守れない程、人の命を背負うのを拒んでいる。だけど一つだけを選んだなら、全神経使って守ることに集中できる。ユーカーはその相手にランスを選んでしまっている。だから俺には仕えられないと、そういうことだったんだ。
「怖くなった。馬鹿らしくなった。こんな国に命を賭けるなんて愚の骨頂だ。あいつらがそこまでする意味のある場所だとはどうしても俺には思えなかった。俺はこんな馬鹿な国のために、最高で馬鹿な連中が死んでいくのが理解できなかった」
愛すべき価値のない、守るべき意味もない。そんな国をまだ愛している人間がいる。
ユーカーはカーネフェルという国自体が好きではなかった。そこにいる一部の人間が好きだったんだ。だからその殆どを失って自分を見失った。
「俺はもう抜け殻みてぇなもんだった。いや、多分その前。狂王のあの狂った赤に眺められた時からだ……、俺は俺の頭が心が壊されるような気がした。俺が考えていたのは二つだけだ」
「二つ?」
「死にたくねぇ……死なせたくねぇ」
タロック王の狂気に触れて、感じた本能的な恐怖。それが死にたくないと泣き喚く。どうしてこんな馬鹿な国のために俺が死ななきゃならないんだ。こんな国、好きなんかじゃない。好きだったのは仕えた主だ。死ぬべきはその人のためで、国のためじゃなかった。
そこで託された言葉。ユーカーにはあと一人だけいた。この国に、守りたい人間が。
「ランスが死にたくねぇ。逃げ出したいって言うんなら、俺は何やってでもあいつを外へ逃がそうと思った。だから都なんかカーネフェルなんてどうでも良かった。滅ぶなら滅んじまえって思ってた」
「でもユーカーは先遣隊を倒したんだろ?」
「たまたま出会して俺の邪魔して来やがったから殺しただけだ」
カーネフェルにまだ未練があるんだろうと尋ねても、彼は怒りしか存在しないと吐き捨てる。王を守れなかった。その悲しみと怒りから、タロック兵を切り捨てた。そこに愛国心も正義もないと彼は言う。
「だから橋のこっち側で部下を待機させてたってのは嘘だ。正確には橋の上……河の中だからな」
ユーカーが自身を嘲笑う。
「カルディアまで来たはいいが、馬連れじゃ南砦が通れない。あいつは都へ返して、俺一人で砦を越えた。そこからはお前も知ってるだろ?」
「ああ、そうだったよなそう言えば……」
ユーカーと出会ったのはカルディア付近。そこから今日までの一月に満たない短い付き合いだ。
「あの頃のユーカーは本当にランスの心配してたよな」
「俺にとっての守るべきカーネフェルは、もうあいつだけだからな……」
悔いるようにそれでもそれを誇るように彼は小さく笑っていた。
「続いて船が渡ってきたらそれでもいい。さっさと滅びろ。そうすればあいつもこの国への未練がなくなる。そんな風にさえ思った……だけど、あいつはそういう奴じゃなかった。俺があの人を守れなかった時点で、俺はあいつに死に行く道を選ばせちまった……」
死なせたくないのに、彼を死の道へ追いやったのは自分の不甲斐なさ。そう思うと彼はどうにもこうにもやるせないのだろう。
「あいつは本当に……今まで誰よりもこの国のために尽くして来た男だ。あいつは幸せになるべき人間なんだ。それだけのことをして来た。……だけどあいつは自分の幸せってもんを知らねぇ」
幸せになって欲しいと彼は言う。自分の幸せを差し出してそれで彼がそうなれるなら彼は恐らくそうするだろう。だから彼はここにいる。幸福値を、彼の代わりに賄うために。
それを当たり前のように彼は言うけれど、相手が親戚だからってそのくらいでそこまでの言葉を紡げるだろうか?
「ユーカーは……どうしてそんなにランスが……」
「あいつは俺の理想なんだ。理想の騎士なんだ」
逆さになったってなれっこない。妬む気持ちも吹き飛ぶくらい、清々しい憧れを与えてくれる。あいつはそういう相手なんだとユーカーの青が物語る。
「あいつ程の人間が何にも報われもせずに、こんな蛆の湧いた国のために犬死にするなんて俺は認めねぇ。認めて堪るか」
「……あいつは今までずっと無理して生きてきたんだよ。誰もが憧れるような騎士。そういうものになろうと頑張って……自分の頭で自分の気持ちを考えられなくなっちまった。何時だって自分の中の騎士に支配されている」
それは彼に憧れた自分の責任でもあると、彼は言っている様だった。
「それって結構辛いことだと思うんだよな。あいつだって人間なんだから」
「…………そう、そうかもしれないな」
言われて俺も考える。誰もが役職を持っていてそんな目で見られる。生きることは、自分に嘘を吐くこと。演じること。心を見失うこと。何が悲しいのかも分からない。そういう人形だった記憶が俺にもある。
(ランスも……辛かったんだな)
俺は彼を優しくて強い立派な騎士として見ていた。彼自身のことと言えば、ちょっと天然気味の言動と無差別魚料理くらいしか思い浮かばない。
それは彼自身俺と向き合うときに騎士の顔をするから。だから俺は彼の顔を見ることも知ることも出来ない。それは俺がアルドールとしてではなくカーネフェル王として彼を従えているから。でも、それじゃあ駄目なんだ。
俺はもっと俺の言葉で、俺の素顔で彼と向き合わなければならない。俺も鎧と仮面を付けていた。彼は凄い人だから、俺もついつい身構えて……気に入られたくて、嫌われたくなくて……よそ行きのいい顔をしていたんじゃないか?ちょっとでもボロを出せば、彼は優秀な人だから俺の駄目さに馬鹿さに呆れてしまうと思ったんじゃないのか?無意識に。
そんな俺には出来ていないこと。ユーカーはそれをやろうとしているんだ。
「だから俺は人としてのあいつの願いを叶えたい。あいつ自身が言葉にしなくても。気付いていなくても。あいつが助けを求めてるなら、力になりてぇ。どんなことでも」
「…………そっか」
その願いが俺と対立するかも知れない。だからユーカーは俺に仕えない。いつでも自分だけは彼の味方でありたいと言う。彼のそんな切なる願いに、俺は逆に憧れる。
俺は幸せになって欲しい人はいても、その人が口にしない願いまで読み取れないし探ろうともしない。それが嫌かと思ってと逃げる。そうだ。俺は嫌われるのが怖い。イグニスに嫌われたくない。
都合の悪いところは触れないようにして、目を逸らして……何も聞かない。本当に彼女のことを考えるなら、俺は嫌われても彼女の真実を探らなければならない。
ユーカーは……最悪嫌われても構わない。そういう覚悟があるんだ。それで傷つかないはずないだろうに、それでもいいんだと彼は笑っていられる強さがある。俺のイグニスに対する大切と、ユーカーのランスに対する大切は、似ているようで実質俺は彼らに負けている。それを俺は痛感していた。
(俺はずっとイグニスの友達でいたい。でもそれは……本当にイグニスのためなんだろうか?)
それは俺の一方的な思いであって、本当に彼女のことを考えていると言えるのか?
彼女は言っていた。シャラット領の教会で。言えないことがある。それでもそれを見つけて欲しいと俺に……俺に、言っていたじゃないか。
(イグニス……)
俯いて言葉少なになった俺に、ユーカーがテントに戻れと目で言った。
「お前もさっさと寝ろよ。夏っつっても夜は冷えるしお前なんかに倒られたらそれこそお荷物が大荷物だ」
「なぁユーカー……」
「何だよ?」
「何て言うか、人間っていろいろ……大変だね」
「……馬鹿かお前」
俺の言い方が悪かったのか彼は怪訝そうに俺に言う。
「てめぇも人だろ」
当たり前のことだ。でも目から鱗だ。そして彼からそんな言葉が贈られるとは思ってもみなかった。
「……そっか」
それだけのこと。当たり前のこと。それでもそれが誰かに認められるのは、少し心が軽くなる。彼は俺を本当に……カーネフェル王として見ていないんだな。俺を俺として見てくれている。それが、なんだか嬉しかった。……少しだけ、救われたような気がした。変だよね。彼が救いたいのは俺なんかじゃなくて、ランスだけのはずなのに。それなら俺なんかにそんな言葉くれなくてもいいのにさ。
何でだろうな。嬉しいのに、少し悲しい気もした。
人の心って言うのは複雑な物なんだなと俺はまた学ぶ。昔はもっと嬉しいとか悲しいは別の場所にあるような気がしたのに。