94:fortuna vitrea est; tum, cum splendet, frangitur
殺すしかない。例えそれが誰であっても。背負うべき罪も名誉も、すべては自分だけのものだから。他の誰かに良いように、この身体を使わせるわけにはいかない。迷いなく剣を構えたランスに、女は尚も囁き続ける。
「私がいれば、言い訳も出来るわ。貴方ほどの精神力がある人が、憑依数術に負けると思っているの? 追い出せるかも知れないわ、私を。今私がこの身体から出ていけば、……まだこの女は助かるわよ? その保管数術で、私を隠してしまえば良いのよ」
「それ以上、何も言うな! 今すぐその人から出て行け。さもなくば……」
「見てすぐ分かった。貴方あの子が好きなのでしょう?」
「っ!?」
「乗っ取られたと言い訳すれば、何だって出来るのにお可哀想ね騎士様? 貴方はあの王と娘の味方で居る限り、愛しい人に指一本触れることが敵わない」
《だ、駄目よランス! あの数術は貴方を……っ!》
激昂し距離を詰め斬りかかろうとした俺に、母さんの悲しい声が届いた。振り上げ既に振り下ろす形に入った得物。風に掻き消されるよう彼女の声が、泣くように。
(憑依数術は……)
あの少年の被憑依数術は、意識を失うことで他者を取り込む容量を得た。ならば憑依数術は……悲しみでも怒りでも、感情が単純化しそれ一色に塗り潰させた隙を狙う数術か!? 咄嗟に他のことを考える。考えようとすればするほど、彼女のことを思い出す。笑ってくれた顔、憂いの顔……そして泣き顔。どんな表情のあの人を思っても、感情はたった一つに辿り着く。俺はそれだけの人間ではなかったはずなのに。
「ふふふ、落ちたな。アロンダイト卿! 貴方がシャトランジアで食らった毒は、私が陛下にお渡しした憑依毒よ! 如何にシャトランジアの数術をもってしても完全には消せない!」
攻撃の途中で、剣が止まった。もう乗っ取られてしまったのだ。そう諦め……いつまで自分の意識が続くか、それを数えるくらいしか出来ないと。
(いや……まだ、だ)
まだ、動かせる。無理矢理にでも、動かす。終わらせ方くらい選んでみせる。懐へと手を伸ばす。小瓶に、手が届いた。
(シャトランジアの名を、俺に告げたのが敗因だ!)
すっかり忘れていた。使い道も、使う相手もなくなって。それでもこうして持っていた。思い出せたよ、お前のことを。お前はここに居なくても、こうして俺を助けてくれる。確信を得て、毒薬を口へと放り混む!
*
「へぇ……面白いこと言うんだね、君は。面白い発想だ。純血なのに、君は数術使いの才能があるよ。脳がじゃなくて思考の方向性がね。良い精霊が居れば将来的にはそこそこの使い手になれるんじゃないかな……と思うんだけど」
男は……まだ、幼い。外見だけなら僕らと同じくらいの少年だった。彼の活躍で、無事逃げおおせた者は多い。だけど僕は思うのだ。そんな風に逃げた奴らは、あなたの民ではないはずだと。
「残念なことに、君に未来はないんだよね。ああ、すぐ死ぬからじゃないよ。殺さないし、勿体ないよねそれは。君は養子奴隷になるだろうから、まず真っ新な状態に初期化しないといけないんだよね、記憶も人格も君の心も」
「放せっ、この無礼者!」
「“リア”君だっけ? 良い名前だね、気に入ったよ。今度何かに使おうかな僕も」
「私になにかしてみろ! カーネフェルが黙っていないぞ!」
「弱くて何も出来ない、だけど気持ちばかりが大きくて……生意気で強がりで、誇り高い小さな王様。そんな君の性格を、ねじ曲げたらどうなるかなぁ。泣き虫で、頼りなくて……そうだ、隣のその子みたいな性格にしてあげようか? 記憶がなくなっても性格の方向性は予め設定出来るからね。多分ぴったりだよ、君の顧客のオーダー通りだ。ねぇ、リア君。誇り高い君がそんな風になるのは、とても屈辱的なことだよね? 王たる君はここで死ぬんだよ。そして生まれ変わるんだ。今の君が持っている物全てを無くした、何も出来ない人間に。それって死ぬより辛いことじゃないかな?」
「……、フロ、リアス」
死刑宣告のような話をされながら、彼はそれを聞いていない。聞こえてはいたが、彼は僕だけを見ていた。何故戻って来たと、青い瞳が揺れている。泣いていたのか、誰も居なくなった後。あなたは本当は弱くて、怖くて……心細かっただろう。僕は気付けなかった。見て見ぬ振りをした。あなたを王だと、別の生き物だと。高貴な生贄であると彼の言葉通りにそれを信じた。別れ際にも、その目が潤んだことを知っていたのに。
一度は逃げたのは、僕も同じ。僕は自分が大事だった。だけど今は……
「私の王から、離れろ!」
彼の前に飛び出して、両手を広げた僕を見て……数術使いは少し驚く。そして今度は足下を見て、もう一度。
「逃げて下さい!」
「何言ってるんだ、逃げるのはお前だ!」
「王様がいなきゃ、国は滅んじゃうじゃないか! 逃げなきゃいけないのはあなただ!」
彼の手を引いて、走り出した僕の背に……数術使いの声が投げられる。
「面白いな。植物使いか。瞬時にこれだけやるとは……複合元素だ、素晴らしい。だけど君は、ひとりじゃないね。でもそれで複合元素を扱えるようになるなら、面白い実験が出来そうだ」
追いかけるでもなく、彼は既に僕を実験台の上に載せた物言い。
「王様、君が逃げずにその子に動くなと命じるなら、僕はその子にカーネフェルの瞳をあげるよ。名実共に、彼は君の民になれる。危険もなく、安全な場所に……そうだな、彼も養子奴隷にしてあげよう。早急に跡継ぎを作れなんて言われないだろうから、彼の余生分の幸福は約束してあげても良い」
「……本当、か?」
「駄目だっ!」
彼の目が輝く。そんな言葉を信じるなんて愚かだ。僕は彼を止めようと声を張り上げる。しかしいつの間に!? 僕の喉元にはナイフがピタリと押しつけられていた。それは誰も手にしていないのに宙に浮き、しっかりと力が込められている。どんな数術を使ったのか。あの男は、一歩も動いていないのに。
「それ以上、喋るな。僕は王と話をしてるんだ。次君が口を開いたら……金にはならないけど君たち二人をここで殺す」
青ざめた僕を見ても彼は満足せず、言葉と視線は冷たい。しかしその目の奥には妖しげな光が揺らめいていた。純血にあるまじき、黄金に……
*
(俺の名前……本当の、名前)
フロリスに会いたい。あって昔のことを聞きたい。だけど、もし……それを呼ばれてしまったら。戦争どころか審判も終わってしまうことになる。たぶん、もう会わない方が良い。そう思う。だけど……後ろ髪を引かれるのは、まだハイレンコールに仲間が残っているからだけではないのだ。
(花の、香り……)
アルドールは考える。フロリスから贈られた青い花を手に。
図鑑でも見たこともない。見つめれば野の花よりも沢山の数値が詰まっている。人工的な植物。作り出したのは数術使い。はじめて目にする花なのに、安らぐ香りが懐かしい。
花を育てるには、様々な元素が作用する。火の温かさ、根を張る床となる土、そして恵みとしての水。種を遠くへ運ぶため……繁栄には風も必要となるだろう。
(四つの元素……)
俺は騙されている? それとも忘れているだけ? 何も俺を憎む人間が、アルドール=トリオンフィを知る者とは限らない。それを俺は失念していた。それより昔、俺が覚えていない過去。そこで俺が罪を犯していたならば、道化師は……フロリスのよう、昔の俺を知る者の……可能性もなくはない。
信じると自分で口にしたのに、彼が命を削っているのは本当なのに……その無償の好意を疑う気持ちが顔を出す。俺が信じて油断したところで、掌を返されるんじゃないのか? もしそれが事実なら、俺達は分断されている。手強いランスから、始末したいと敵が思っても不思議ではない。こんなに安らぐ香りさえ、嗅覚数術で俺の思考を感情を支配しようとしていると……疑いだしたらキリがない。それでもフロリスがもし敵ならば、彼の思惑通りに進んで良いものか。信じると、言葉にするのが滑稽だ。自分にそう言い聞かせなきゃ、俺は誰も信じられなくなってしまったようで。
(この国は……二度目)
何処で何をされたのか。記憶は何もないけれど……この場所を知る人は、この世の地獄と口にした。誰を信じたら良いのか、そういう意味でもランスは失えない。だけどここに来てから、いくつもの……選択の繰り返し。選んだ答えは正しいのか、仲間内でさえ割れる。どうしようもなく、不安になる。
イグニスから離れること。俺自身が王になって考えること。それがこんなにも難しいことだと思わなかった。あの子は俺より小さな肩にどれ程のものを背負わされていたのだろう。結果だけ見て彼女を非難したこともあった。俺自身、誰からも賞賛される王ではないのに。
不安でしょうがない俺が、思い出すのはランスの顔だ。このセネトレア攻めに来た中で、彼とが一番、付き合いが長い。理解し合えず、何度も言い争った。彼の泣き顔も見たし、俺も彼の前で何度も泣いた。彼は何でも出来るから、大丈夫だと思う傍ら……彼を本当に失うかもしれないと思う心に、頭の理解が追い付いて……不安はもっと強くなる。俺よりジャンヌの方が、俺の心を正確に言い当てられていた。
「アルドール……?」
俺の目から、こぼれ落ちるもの。ジャンヌが隣で見咎めた。
「どうしました、突然」
「あんなこと言ったけど……ジャンヌの言うとおりだ。ごめん……俺にはランスが必要だって、思ったよ」
「アルドール……」
「今から戻るって言ったら……怒る? こんな山の下の方まで降りたのに」
「いいえ、それでこそ……アルドールです!」
「うわっ!」
「大人しくして下さい、私が担いだ方が早いです。これでも元は軍人ですから貴方一人くらい余裕です」
ジャンヌが俺の手を引いたと思ったら、俺を抱えて走り出す。小脇に抱えられた俺は荷物のように運ばれる。頬に触れる風が、俺の涙も運んでいった。
「ジャンヌ……俺、おかしかった?」
「いえ。貴方が辛い選択を迫られていることは知っています」
「おかしかったら、言ってくれ。俺を殴ってでも止めてくれるのは、もう……ジャンヌしか居ないんだ。って痛っ……!」
突然俺の頬へと痛みが走る。ジャンヌに頬を抓られたのだ。少しふて腐れたような態度で、ジャンヌは約束してくれる。
「……私以外に居たとして、それでも私は貴方を止めます。私も貴方も、誰かの代わりではないのですから。それに……アルドール。貴方の選択は間違っていないようです」
ここで彼らを見捨てたら、本当に彼らは助からない。
「あれは……タロック兵か?」
「いいえ。第五公の旗を付けています。見たところカーネフェル人……女兵士が多い。かの公爵の手の者で間違いありません」
「ディスブルー公が、ハイレンコールに山狩りを? 敵か味方か分からない以上、迂闊に接触は出来ないな」
「わかりました。迂回し上を目指しましょう」
道を逸れ、山を登り始めたその刹那……ジャンヌが足を止める。何かが聞こえたのか、彼女は触媒剣に手を伸ばす。
「アルドールっ、手を此方に!!」
「え、うん」
ジャンヌから剣を受け取ると、念話数術……聞こえた声は、俺達が待っていた相手。
《アルドール様》
(ランス!! 無事なのか!?)
良かったと安堵する俺に、ランスは強張った声色で状況を伝えてくる。
《はい、何とか。アルドール様、代わって頂いたのは他でもありません。リオ=プロイビートのことです》
(リオさんが……どうかしたのか?)
ジャンヌに話せない話と告げられて、俺も些か不安になった。
《部下に届けさせたと言ったあの娘を……彼女は保管していました。時間と労力が勿体なかったのでしょうがそれが仇となり、リオはあの娘に……第四公プリティヴィア公に被憑依され、俺は彼女と一戦交えました》
(くそっ……)
確かにあの少女は怪しかった。タロックの騎士が置いて行った相手。唯の被憑依者ではない可能性は大いにあった。
(でも、そこまで分かってるって事は……)
《はい。ひとまず脅威は排除しました》
(流石はランスだ。ありがとう……一人で無理したんだろ? 今、助……)
《そういうわけには行きません。一人で貴方の下へ帰れない俺など、切り捨てて貴方は進むべきです》
(ランス……)
《と、言いたいのですが……俺の思い上がりでなければ、まだ貴方には俺が必要なはず。このセネトレア攻めを終えるまで、カーネフェルに帰るまで……俺は死ぬに死ねません。俺をまだ、貴方の騎士と呼んでくださるのなら……我が王、恐縮ですが……俺の所まで来ては頂けないでしょうか?》
(ああ。こっちも不味い状況なんだ。合流するのが一番良いと思う。リオさんは無事なんだよな? ジャンヌを連れて行って、大丈夫か?)
《彼女は無事です。唯、負傷した俺では……共に敵から隠れるだけで精一杯。聖十字の方々ともはぐれました。彼女を運びながら合流というのは困難です》
(わかった。出来るだけ早くそっちに行くよ。何か目印はある?)
《人気のない場所まで、無理をし飛びました。暗い……地下のようです。教会施設のどこかだと思います。すみません……目眩が。しばらく連絡できません……アルドール様》
(わかった。近付いたようなら起こすから、それまで剣を持って休んでいてくれ)
通信は、そこで途切れた。始終心配そうな顔でジャンヌが俺の様子を窺っていた。
「アルドール」
「ごめん、もう数術切れてる」
「そうですか、ランスは何と?」
「ランスとリオさん。二人とも怪我してるから、これから合流しよう。いいよね?」
「勿論です。……良かった」
「え?」
「一瞬でも……また、貴方が本当に彼を見捨てるのかと……思った私を許して下さいね、アルドール」
ジャンヌが笑う。目尻にはうっすら涙もにじんでいた。自分に聞かせたくない話、それは別れの言葉、遺言だろうかと不安になった。そう告げられて、申し訳ない気持ちになる。だからだろう。先程と同じ問いを、違う言葉で繰り返したのは。
「ジャンヌ……シャトランジアで会った時の俺と今の俺、やっぱり違うと思う?」
「そうですね。あの頃の貴方の方が、多分精神的には強かったでしょうね」
即答され、沈んだ表情の俺に……彼女は優しい声で続きをくれた。
「ですが、今の迷う貴方は。王になろうとして、王であろうとして……傷ついて、悩んで……そうして今の貴方があるのでしょう? 貴方の選択一つ一つが絶対に間違っているとは私は言いません。昨晩のことも、私の我が儘です。貴方が正しい事もあるでしょう。でも、そんな貴方が……私が嫌だから。そんな理由で。……きっと、私の方が余程おかしくなっています。だけど、私と貴方でカーネフェリアです。結果は共に背負いましょう、背負わせて下さい。誰が、……私が、貴方が間違っても」
「ジャンヌ……」
「共に間違え、共に正して……より良い道を探すのです」
「うん、ありがとう」
当たり前だけど、今更思う。ジャンヌは、違う。イグニスとも、姉さん達とも。
*
「アルドール、人が居ません。ここにいた病人達も……」
「うん。逃げる時に見た、タロック兵も……」
私と彼が、二人で戻ったハイレンコール。死の都は、その名に違わぬ佇まい。生気がない、人の息づかいさえ感じないのは何事か。最も大きな変化と言えば……フロリスが降らせた花の色。敷き詰められた一面の白が、黒ずんだ赤に変わっていること。
(なんだか不気味……)
数十分の間に一体何があったのだろう。ジャンヌは僅かに身震いし、赤い花へと触れてみる。
(血ではない? 濡れてはいない。単純に花が変わってしまっただけ?)
自分が貰った白い花はまだ白いまま。アルドールが渡された青い花もそのままだ。
「その後……ランスから、連絡は?」
「今呼びかけてる。あ……こっちだって」
「お待ち下さい!」
誰も居ないと思った場所から声がした。相手は現れてすぐに、アルドールの手を蹴り飛ばし、通信手段を遠ざけた。
「っ!」
すかさず私も剣を抜き、私も戦闘態勢。丸腰のアルドールを背に庇う。
「あ、あなたがたは……!」
それは私達にも見覚えの、ある人物であった。
*
数術は便利だ。しかし便利故万能故に、警戒が薄れるというのは扱う者が凡俗故の愚かしさ。カーネフェリアはノコノコと、ハイレンコールに再び足を踏み入れた。
(こんな単純な奴らを相手に、王は何を遊んでいたのやら)
僧祗はすっかり呆れてしまう。そして思う。あれは王にとって遊びに過ぎなかったのだと。
「其方が何らかの手段で連絡を取っていたことは気付いていました」
「お前っ……タロックの! ランスは何処だ! 彼に何をしたっ!?」
「愉快ですね、念話数術とやら。しかしあれは現実の声ではない。自分の思っている声、他人に聞こえる声。それを数値化し再現している。つまり声質のパターンを打ち込んでやれば、他人がそれに成り代わることも可能なのです。数術に不可能はありませんから」
もっとも、その絡繰りを知ったのが俺自身でないことは不満だが、この場でそれを明かしはしない。不遜を僧祗は装った。
「まだ殺さない。そちらの王にはまだやって欲しいことがある」
気を失った、騎士と女指揮官。縛り付けた二人を指し示し、カーネフェリアに小瓶を見せた。
「これは、風土病の末期患者の血液です。これ自体がある種毒薬と言って良い。これを食らえば間違いなく発病する、進行速度も通常とは比べものになりません」
「そんなものをちらつかせて、何のつもりです」
「簡単な話です。終りの日まではまだ随分と日がある。簡単に決着が付くのは困る者もいるのです。我々にもね。タロックと戦うのが最終的に何処の国になるかはどうでも良い。セネトレア、カーネフェル、シャトランジアには疲弊して頂きたいのです」
「それを聞いて三国が共にタロックを討つとは思わないのですか?」
「出来るわけがない。少なくとも女王陛下がお望みなのは、娯楽と享楽。勝てる確信のある戦などつまらないと仰るはず」
三国からセネトレアが攻め込まれる位の方が、あのお姫様は喜ぶだろう。
「これは刹那様からの贈り物ですよ、カーネフェリア。シャトランジアでの一件、姫は大層お怒りです。カーネフェル王、その王妃、騎士。そのいずれかにこれを飲ませなければ俺も首が飛ぶのでね。勿論、即死するような毒ではない。最期の日までは何とか保つでしょう」
風土病に感染しろと、俺は言う。人質を取り自分の優位を確信しながら。姫からの命令とは少々異なる言葉だが。あの方は俺に楽しませろと言ったのだ。そう、俺自身が楽しいと思えないようなことを、どうして楽しいと思わせられよう。あいつが作った毒よりも、強い毒を俺は作った。敵国は素晴らしいな。難癖付けなくとも実験素材がいくらでもいる。それが俺の名誉に繋がるのだから、そりゃあ楽しくて仕方がない。
「貴方がたどちらかが名乗り出なければ、この二人に飲ませようと思ってます。紳士的だとは思いませんか? あの子鬼がやりそうな煽動、他にも下世話な手段はあったのに、俺はこうして交渉をしてやっているのだから」
刹那姫は其方の方が楽しそうだな。だがそれでは味気ない。聖女の株を地まで落とせと命じられた以上、俺はその上を行くまで。
「……私が飲みます」
「ジャンヌ!?」
それ見たことか。僧祗は笑いを抑えきれない。全てが俺の手の上だ。聖十字上がりの聖女様は、こんなことを見過ごせない。生き残る気も無い偶像は、自分の使い道を考える。
「貸しなさい。私がこれを飲み干したら、貴方はここから立ち去るのですね?」
「ええ。勿論」
「駄目だジャンヌ! それなら俺が飲む!」
「アルドール! 私の代わりは居ますが、貴方の代わりは誰もなれない。貴方は王なのです。大丈夫、私は簡単に死にません。知っているでしょ、私のカード」
噂通り。悪になれない王に、勝利は掴めない。昨晩の非情さはどこへ置いてきた? あの騎士がいなければ駄目なのか。この女は鍵だな。この女が傍に居る限り、カーネフェル王は強くはなれない。
(同じ時期に、王と女王を共に屠る。これが最も確実なやり方だ)
この女は強いカードだと聞いた。もうしばらく弱体化させる必要があるだろう。何簡単なことだ。不幸を避ける幸運は、不幸の数で抉れば良い。殺せるはずだ、セネトレアでは簡単に。
「アルドール。貴方は彼が約束を違えた場合、ランスを守り戦うのです。さぁ、剣を持っていて。その位は仕方ありませんね、タロックの……」
「天九騎士、第五師団の僧祗です。お優しいクィーン・カーネフェリア」
「では僧祗様、交渉は成立です」
聖女が毒薬に口を付けた、その刹那……! 此方へ襲い来る殺気。カーネフェル王からではない。それは下方上方。地下なのだから奴のテリトリー。それでも花は降らせられない。つまり完全に気配は消せないと言うこと。
「欲に目が眩んだな、フロリアス。この俺の血を欲する余り、恩人の妻も守れぬか」
健康な生き血。主を生贄に選ぶとは生意気な。俺無しでもやれる自信があるのか、死ぬ気であったのか?
植物に動きを封じられながらも、俺は余裕を崩さない。あっという間に植物を、数へと分解して消すは、銃を手にした金色の娘だ。
「っ!?」
「駄目よ、そういう卑怯なの。そういうの嫌い」
少女の言葉は此方ではなく、混血へと向けられていた。娘の黄金の瞳を前に、フロリアスは戦意喪失。過去がフラッシュバックしているのだな。
「ぎ、ギメル!?」
「アルドール、無事だったんだね」
彼女が本物か偽物か、考えるまでもない。しかし人は信じたいものを選んでしまう。認めたくない現実から逃れるために。
「助けてくれ、回復数術得意だろ!? 水の数術でも良い! 毒が回りきる前に、吐き出させるか薄めるか……っ」
「海戦でね、お兄ちゃんかと思ったのは青髪の男の子だった。貴方が私だと思って置いて来たのは、お兄ちゃんだった」
懇願する王に、少女は己の手を見せる。左手の薬指、輝く青の宝石を。
「馬鹿だねアルドール。本当に何もみえてないんだから」
*
ランスとリオさんは目覚めない。毒を飲み干したジャンヌは息こそあるが、地に伏せ苦しみ呻いている。俺、アルドールはと言えば、呆然と……その状況の中にある。
味方はいた。心強い仲間は居た。彼女たちに隠れて貰い、いざという時に助けて貰うはず。なのにどうして来ないんだ。それは……それは、本当に。
彼女たちは、聖十字……イグニスの部下だ。ここで俺をジャンヌを助けられない、その訳は……
(嘘だ……)
エフェトスが、ギメルがイグニスが。どうなったのかなんて怖くて聞けない。一つだけ分かっているのは、これは俺のギメルじゃない。俺が好きだった……抱き締めた、あの子ではない。それでも彼女の顔で、道化師は泣く。ずっと待ってたのに。彼女は俺にそう言って。
(だけど)
その指輪は彼女のもの。どうしてお前が持っているんだ? お前が彼女から奪った? それとも……お前こそが。
「ね、アルドール。私とお兄ちゃんを見分けられない貴方の目。何の意味があるのかな。その子は可哀想な子。貴方の所為で苦しめられてきた。私とお兄ちゃんと同じ」
「ね、アルドール。あの子の名前、今日まで思い出しもしなかったんでしょう? あんなに酷いことをしたのに」
笑う道化師は、いつもと違う。長い三つ編みを解いている。長い金髪、暗闇で輝く金の瞳。それはいつもの琥珀と違い、まるで猫の瞳のよう。
「あなたが治してあげるのはね、その女じゃない。あなたの血、あなたの身体のパーツ、全部あげて償うべきは……フロリスさんじゃないかなぁ?」
「やめろ“オルクス”っ……! その人に近付くなっ!」
フロリスは、何を見ている? 何を口にしているんだ。錯乱したフロリスは、道化師と俺の間に割り込んで……必死に俺を守ろうとしてくれた。だけど彼の青い瞳は、今を見つめていなかった。
「“ ”様は、僕が守るっ!!」
力が抜ける。その場に倒れる。糸の切れた人形のよう。まだ、分かる。まだ考えられる。
「“フロ、リアス”……?」
口から勝手に零れた言葉。目からは意味の分からぬ涙が溢れる。悲しい、寂しい。苦しいんだ、とても。嫌だ、嫌だと声が聞こえる。止めてくれと叫ぶ声。それは今? それとも昔? 憑依数術に飲まれた人は、こんな感覚だったのだろうか。自分がいなくなる感じ。エフェトスはいつも、こんな風に塗り潰されていなくなった、空っぽだった?
彼の名を呼んだのは、俺じゃない。俺は彼のことなんか知らない。
(嫌だ、嫌だよ)
どんどん何も考えられない。走馬燈のよう、大好きだった人達の顔が声が流れて消える。
傍にまだ居る、居てくれる……二人の姿が俺を俺に留めてくれる最後のものだ。
「ジャンヌ、助けて……たす、けて、ラン……ス」
絞り出した声に、ジャンヌが気付いてくれたけど。彼女が此方へ這う前に、道化師が俺の傍へと膝を折り、手袋付きの白い手で……俺の両目を覆い隠した。
視覚情報を奪われて、二人の姿も名前も忘れてしまう。
「ね、アルドール。忘れて、思い出して。……わたしは、だれ?」
もうその子が誰かも解らない。瞼に触れる手は温かく、その存在が生きて居ること以外、何も知らない。わからない。目を開けたまま眠っているような俺の世界が、完全な闇へと変わる。瞼を閉じられたのだろう。どうやって目を開けるかも、もう思い出せない。それでも眠ることは知っているんだ。そうしなければ、壊された頭が、動き出せないと……知っていたんだ。
というわけで、8章力【逆】に続きます。
6章ヒロイン死ぬ死ぬ詐欺で、6章生き延びました。予定外です。長くなりましたし区切りとして丁度良いバッド感があったので、アルドールの不幸までで区切りました。
リアルの忙しさで何年もかかってしまいましたが、次章ははやめに終わらせられるよう頑張ります。
ここまでお付き合い頂いた皆様、大好きです。ありがとうございました。
アルドール達の戦いを、また見守って頂けると幸いです。