其の5
頬を優しく撫でるような風が潮の香りを運んできます。猫の鳴き声にも似た海鳥の声が辺りに響きました。
桃太郎は昨日初めて海を見た時の事を思い出しました。あの時の感動は忘れられません。とても広大で、美しい青い海の水は全てを飲み込んでしまいそうだと圧倒されて、暫らく見入ってしまいました。
桃太郎はどこか懐かしく感じる潮の香りを胸いっぱい吸い込こみました。
隣を歩く紗瑠々が元気良く話します。
「わたくし大黒屋の娘ですの。うちの和菓子の味はなかなかですのよ。けれど、子供の時に一度だけ食べたきび団子の味が忘れられなくて。あんなに美味しいきび団子はうちの店にもありませんわ。後で知ったんですけれど、その時食べたのがタロさんのお爺様のGきび団子だったのですわ。それ以来、何とかあの味を再現したいと思っていたのですけれど、とても出来なくて」
「へえ、紗瑠々はあの有名な大黒屋の娘だったのか。でもよ、良いのかよ。俺達と一緒に旅なんかに付いてきて」
「良いのですわ。元々大黒屋は兄が後を継ぐのですから。それに、わたくしどうしてもこの機会を逃したくないのです」
紗瑠々はきっぱりと、強い光を宿した眼で言いました。桃太郎の眼に紗瑠々の笑顔は輝いて見えました。
「それより、そう言う貴方はどうなんですの?」
「俺か? 俺はな、桃太郎さんに恩があるんだよ。それに、こんなちびっこ一人で放っとけなくてな」
戌成はニヤリと笑うと、持っていたきび団子を一口でパクリと頬張りました。
「確かにそうですわね」
「……ちびっこでは無い」
桃太郎は憮然としてしまいました。二人とも桃太郎を一体何歳だと思っているのでしょう。身長だって、周りの人よりちょっと小さい位です。
海沿いの町へと辿りついた桃太郎達は町の中へと入って行きました。
「タロさん、此処が海沿いの町ですわ!ここには大きな港があって、色んな場所から沢山の船が発着しますのよ。勿論、鬼ヶ島にも船が出てますわ」
海沿いの町は桃太郎が今まで見たどの町より大きくて、その規模と人の賑わいにしばし唖然としてしまいました。
「桃太郎さん、遂に鬼ヶ島の手前まで来たぞ」
「ああ。遂に鬼退治だ」
鬼ヶ島とは一体どんな所でしょうか?
役人でさえ歯が立たない鬼達とは、一体どんな相手なのでしょう。未知なる相手に緊張が高まります。
桃太郎は気を引き締めました。握っている剣の柄にぎゅっと力が入ります。
ふと気が付くと、上から覗き込むように戌成が桃太郎を見ています。
戌成はごわごわの髭を剃った、つるりと生まれ変わったその顎に手を当てると言いました。
「桃太郎さん。この時間では今日はもう鬼ヶ島行きの船は無いぜ。取り合えずは次の出向を待つしかないだろうな」
お天道様は既に西に傾き夕刻近くなっています。
「そうか。では、ひとまず宿を取ることにしよう。だが、私はこんなに大きな町は初めてだから、どこをどう行ったら良いのやら分からない」
「ああ、それなら心配要らねぇよ。桃太郎さん、俺は何度か此処に来た事があるんでな、案内するよ。さあ、こっちだぞ」
「まあ。それは助かりますわね。じゃあ案内を頼みますわ、戌成さん。行きましょ、タロさん」
紗瑠々は桃太郎の手をぐいぐい引っ張って、戌成の後を追います。ひしめく人々の合間を縫って、戌成の白い後ろ頭を追い掛けました。
それにしても、紗瑠々は桃太郎の事をタロさんと呼びます。
桃太郎としては、何となくペット感覚である様な気もしますが、そこは置いとく事としました。
今回も読んで下さいまして、ありがとうございます。