几帳面な男
男は人一倍、神経質だった。
A商事という小さな会社に入り、雑用から始めた。
書類を作らせれば誤字脱字の確認を執拗におこない、使いに出せば釣り銭を一円ぴったり持ち帰り、領収書を必ず添えた。
会社の金と自分の金とを、決して同じ財布に入れなかった。
上司に気に入られ、そのうち発注を任された。
業者はどこもリベートを用意してきたが、男は一度も受け取らなかった。
見積もりに小細工することもしなかった。
断られた業者のほうが気味悪がって、まじめな変人と社内で噂になった。
やがて噂が重役の耳に入り、男は経理に回されたが、神経質な性質がそのまま役に立った。
一円合うまで朝になっても帰らない。
伝票は日付それから名前の順、ファイルは月ごと勘定科目ごとに完璧に整理した。
鉛筆は長さを揃え、引き出しの中身は一覧表にして扉の裏に貼った。
同僚は感心を通り越して、呆れていた。
社長はやり手だった。
何年か男を見ているうちに、この男は間違いがない上に金に手をつけない、と見きわめて重宝した。
金庫の鍵を渡し、しまいには表に出せない金の管理まで任せるようになった。
男は言われたとおりに数え、言われたとおりに帳簿に記録した。
ある日、金庫から一億円が消えた。
すぐさま社長は警察を呼んだ。金庫を開けられるのは社長と男の二人だけである。
当然、男が疑われた。
だが家を調べても、本や帳面や領収書が出てくるばかりで、肝心の金はどこにもなかった。
口座も動いていない。
借金もなく、買ったものもない。
取り調べで、刑事は何度も同じことを聞いた。
「一億円は、お前が盗んだのか」
「私の帳簿に、間違いはありません」
「帳簿の話はしていない。金の話だ」
「そんな金、ありません」
男は落ち着いていた。
声を荒らげることも、口ごもることもない。
何度聞いても同じだった。
カツ丼を食べさせても、天丼を食べさせても、答えは変わらない。
嘘発見器にかけても反応はなく、刑事はただ、罪のない男を相手に無駄な時間を使っている気分になった。
結局、確たる証拠は出ず、男の容疑は晴れた。
かわりに、会社の帳簿から妙な処理がいくつも見つかった。
ただちに税務署の調査が入り、取引先への賄賂、談合、裏金の一切が明るみに出た。
社長は海外に逃亡しようと向かった空港で逮捕された。
消えた一億は、とうとう見つからなかった。
会社は傾き、やがてなくなった。男は誰にも見送られることなく、ひっそりと退職していた。
二十年がたった。
あの事件で男を取り調べた刑事は、定年後も再任用で署に残り、生活安全課で若い刑事たちに顎でつかわれていた。
その日は、孤独死した独居老人の現場検証だった。
検視とはいえ、事件性があるはずもない。
こんなつまらない現場に一人で行かされるのか、と思いながら階段を上った。
自室で孤独のうちに死んだ住人は、まだ六十代だという。
若いうちに心労がたたって体を壊し、その後はずっと病気がちだったらしい。
なるほど、部屋のいたるところにその形跡があった。
胃腸薬の包みが服用時間ごとに小分けされ、日付と時間、食前食後を書いた紙が貼ってある。
体温と血圧の表が壁を埋めている。
食事の記録には、カロリーはおろか塩分や脂質まで細かく書かれていた。
衣類は種類ごとにていねいに畳まれ、袋麺や缶詰には賞味期限順の番号が振ってあった。
はて、と刑事は思った。
この部屋には見覚えがある。
ずっと昔、何かの捜査で入っている。
何の事件だったかな。
思い出しかけたが、さすがに答えは出てこなかった。
部屋を一巡し、特におもしろいこともなく、引き上げようとしてふと、書棚に手を伸ばした。
デスクの横の書棚には、背表紙が互いに重なり合うほどにびっしりと帳面が詰め込まれていた。
そのうちの古い一冊を手に取る。
家計簿らしかった。
ひと月分が左右二ページに所狭しと書き込まれ、自動販売機の缶飲料 百二十円まで、一円単位で記録されている。
刑事は何の気なしにパラパラとページをめくり、手がとまった。
六月。
二十日 五月分給与 A商事より 285,000円 B銀行口座へ入金
二十二日 水道・電気・ガス 六月末請求分 21,335円 現金支払
二十八日 A商事金庫より回収(帳簿超過分) 100,000,000円 地中へ埋設
(所在 ▲▲町七丁目8番地 地先 山林)
一億円。A商事。地中へ埋設。
刑事はあわてて帳面を閉じ、立ち上がった。
うしなわれかけていた現役時代が、一息に戻ってきた。
署にもどり、年下の上司を強引に説得して連れ出し、その場所を調査すると、金属探知機にわずかに反応があった。
掘らせると、朽ちかけた金属らしき箱が、四つ出てきた。
中身は手つかずのようだった。
現場は騒然となり、上司はあわてて応援を要請した。
要請を受けた署では応援の意味がわからず、まず確認のためにパトカーが一台来た。
確認に来た者が現場を見て、さらに応援を要請した。
パトカーが次々と増える間に、すでに付近は報道の車と近隣住民の車とで、大混乱になっていた。
現場検証のあと、衆人環視の中、みなで署に運んで、中身をあらためた。
札束と小銭。99,966,419円。
一億には、33,581円、足りない。
二十年埋まっていた金が、なぜ半端な額になるのか。
そもそもなぜ小銭があるのか。誰にも説明できなかった。
刑事はふしぎに思い、例の帳面を開き直した。
問題の六月のページには、どこを見てもそれ以上の手がかりは、何もない。
次のページをめくった。
領収書が何枚か貼られて、厚くなっている。
七月。
三日 埋設作業、立替金精算 33,581円 地中より受入
(所在 ▲▲町七丁目8番地 地先 山林)
内訳
アタッシュケース 4個 19,840円
タクシー 2往復 10,320円
シャベル 1本 2,280円
衣類用除湿剤 10個セット 700円
軍手 5組セット 321円
お茶 1本 120円
刑事はしばらく黙っていた。
それから帳面を閉じると、大きくうなずき、そして小さくつぶやいた。
「なんて几帳面な男だ」




