王宮書庫の幽霊と呼ばれた記録官は、辞表を出した日に見つかる
王宮記録局の地下3階。陽の差さない書庫の奥で、リーネ・フォーゲルは今日も羊皮紙に万年筆を走らせていた。
記録官という職がある。王宮で交わされるあらゆる公文書――勅令、条約、領地裁定、予算書――の原本を照合し、書き写し、分類し、封蝋を施して棚に収める仕事だ。
リーネはその記録官を7年やっている。
7年。入局時に17歳だった少女は24歳になり、地下書庫の空気と同じ色をした灰色の髪を一つに結んで、今日も誰とも口をきかずに万年筆を動かしていた。
「フォーゲル嬢、あなたまだいたの?」
月に一度、補充用の封蝋を届けに来る物資課の女性が、毎回同じことを言う。まだいたの。まるで前回来たときに辞めているはずだったとでも言うように。
「はい、まだいます」
リーネもいつも同じ返事をする。それ以上の会話は発生しない。封蝋の箱が机の端に置かれ、足音が遠ざかる。
地下3階には、リーネしかいない。
正確には、かつて3人いた。だが1人は2年前に「こんな場所にいたら気が狂う」と言って辞め、もう1人は昨年の人事異動で地上の外交局に移った。補充はなかった。予算削減である。
3人分の仕事を1人でやっている。そのことを誰も知らない。知ろうとしない。記録局の局長すら、地下3階に何人の記録官がいるか把握していない。
リーネは幽霊だった。王宮書庫の幽霊。存在していないことになっている人間。
だから、辞表を書くことにした。
辞表の書式は、当然リーネが一番よく知っていた。なにしろ過去7年分のあらゆる辞表の写しを自分で記録してきたのだ。
日付、所属、氏名、退職理由。退職理由の欄に「一身上の都合」と書いて、少し考えてから消した。代わりにこう書いた。
『地下3階の記録業務は、現在1名で運用されています。本職の退職により当該業務は停止しますが、影響範囲の評価は管理者にお任せします』
事実だけを書いた。感情は1文字も入れなかった。それがリーネの流儀だった。記録官は事実だけを記録する。
翌朝、辞表を局長室の書類受けに入れた。局長は不在だった。いつも不在だ。
あとは引き継ぎ書類を作ればいい。引き継ぐ相手はいないが、記録は残す。記録官だから。
リーネは地下3階に戻り、『地下3階業務引継書』と題した文書を作り始めた。棚の配置図、分類規則、封蝋の種類と使い分け、万年筆のインクの調合比率、湿度管理の手順。7年分の知識を全て文字に変換する作業は、3日かかった。
4日目の朝、地下3階の扉が開いた。
足音が違った。物資課の女性でも、迷い込んだ新人でもない。革靴の硬い音が石段を降りてくる。
「――ここか」
低い声がした。リーネは万年筆を止めずに声の方を見た。
黒髪の青年が、書庫の入口に立っていた。王宮騎士の正装。ただし、胸の紋章が通常の騎士とは違う。王直属の査察騎士団――王宮の不正や制度不備を調査する部門の紋章だった。
「リーネ・フォーゲル記録官?」
「はい」
「査察騎士団のクロード・ヴェルナーだ。少し話を聞きたい」
リーネは万年筆を置いた。査察騎士が地下3階に来る理由が思い当たらなかった。
「何のご用件ですか」
「あなたの辞表が局長室で見つかった」
「ええ、4日前に提出しました」
「局長は辞表の存在を知らなかった。今朝、別件で局長室を調査した際に、私が書類受けの中から発見した」
リーネは少しだけ目を伏せた。予想通りだった。局長は書類受けを確認していなかった。辞表すら誰にも届かない。自分はそういう存在なのだ。
「辞表に書かれた内容について確認したい」
クロードは辞表の写しを手にしていた。
「地下3階の記録業務が1名で運用されている、というのは事実か」
「事実です」
「定員は」
「3名です」
「いつから1名になった」
「1年と4ヶ月前からです」
クロードの表情が変わった。眉間に皺が寄り、それからゆっくりと書庫の中を見回した。天井まで届く棚。隙間なく並んだ文書の束。分類票の貼られた引き出し。すべてが整然と管理されている。
「……これを、1人で?」
「記録官ですから」
リーネは淡々と答えた。クロードは棚に近づき、一つの文書を引き出した。封蝋の状態、紙の保存具合、分類番号の正確さを確認しているようだった。
「どの棚も同じ品質だな」
「当然です。品質に差があったら記録の信頼性が損なわれます」
クロードがリーネを見た。その目に浮かんでいたのは、同情でも称賛でもなかった。もっと静かな何か――たとえるなら、暗い水底で光る石を見つけたときのような、確かめるような目だった。
「引継書を作っていると聞いた」
「はい、ほぼ完成しています」
「見せてもらえるか」
リーネは机の上の文書を差し出した。232頁。クロードはそれを受け取り、最初の頁を開き、そのまま立ったまま読み始めた。
10分が経ち、30分が経った。リーネは待つ間、通常業務に戻った。今日も条約の写しが3件、裁定書が5件ある。辞表を出した後も仕事は止めない。最後の1日まで記録を残す。それが記録官だ。
「フォーゲル記録官」
1時間後、クロードが顔を上げた。
「この引継書は、このまま制度設計書として使える水準だ」
「引継書ですから、正確に書いただけです」
「いや、違う」
クロードは引継書を閉じ、表紙に手を置いた。
「これは7年分の業務を構造化した文書だ。あなたは1人で、記録の実務だけでなく、管理設計まで行っていた」
リーネは少し驚いた。引継書の本質を正確に読み取る人間に、初めて会った。
「私はこの書類を上に報告する」
クロードは言った。
「記録局の構造的な問題として、正式に査察報告書に記載する」
「ご自由に。ただ、私の退職予定は変わりません」
「理由を聞いてもいいか」
「辞表に書いた通りです」
「『影響範囲の評価は管理者にお任せします』か」
クロードは少し間を置いてから言った。
「……怒っているわけではないのか」
リーネは答えに詰まった。
怒り。そうだろうか。7年間、地下で1人で記録を取り続けて、人員が減っても補充されず、名前を呼ばれることもなく、存在を忘れられていた。それに対して自分が抱いている感情は、怒りなのだろうか。
「わかりません」
リーネは正直に言った。
「ただ、ここにいても意味がないと思っただけです。記録は残しましたから」
クロードは何かを言いかけて、やめた。代わりに一つ頷き、引継書を抱えて階段を上がっていった。
翌日から、奇妙なことが起きた。
まず、物資課から封蝋だけでなくインクと新しい万年筆が届いた。発注した覚えはない。伝票を確認すると、発注者の欄に「査察騎士団・ヴェルナー」とあった。
次に、湿度計が届いた。リーネがずっと使っていたのは12年前の旧型で、目盛りが磨耗して読みにくくなっていた。新品の湿度計には小さなメモが挟まっていた。
『引継書62頁に記載のあった湿度管理の問題を対応。旧型は廃棄せず保管推奨。記録として価値がある』
リーネはそのメモを読んで、しばらく動けなかった。
引継書の62頁。湿度管理の項目で、旧型湿度計の誤差補正について書いた頁だ。あの膨大な文書の、たった1行の記述を、この人は読んでいた。
3日目、クロードが再び地下3階に来た。今度は査察報告書の草稿を持っていた。
「確認してほしい」
「私が確認するのですか」
「記録局の実態に最も詳しいのはあなただ。事実関係に誤りがないか見てもらいたい」
リーネは報告書を受け取った。読み進めるうちに、手が震えた。
報告書には、地下3階の業務量分析が詳細に記載されていた。年間処理件数、1件あたりの所要時間、保管文書の総数と増加率。そのすべてが、リーネの引継書と日々の業務記録から算出されたものだった。
そして結論にはこう書かれていた。
『当該業務は、本来3名以上の専任官を要する規模であり、現状の1名運用は制度上の重大な不備である。記録官フォーゲルの個人的な能力と献身によってのみ維持されてきたが、これは持続可能な運用ではなく、本人の退職は制度の帰結であって個人の問題ではない』
――制度の帰結であって、個人の問題ではない。
リーネは文字の上に指を置いた。7年間、自分のなかで名前をつけられなかった感情が、この一文で輪郭を持った。
悪いのは自分ではなかった。
足りなかったのは自分ではなかった。
「事実関係に誤りは」
クロードが聞いた。
「……ありません。正確です」
「そうか」
クロードは報告書を受け取り、それから少し迷うように言った。
「一つ、報告書に書けなかったことがある」
「何ですか」
「棚の文書を何点か確認した。あなたの筆跡には特徴がある。初期のものと最近のものを比べると、字が小さくなっている」
リーネは息を呑んだ。
「インクの節約だろう。予算が減ったのに発注量を維持するために、1文字あたりの使用量を減らした」
誰にも言ったことがなかった。そんなことに気づかれるとも思っていなかった。
「記録官は記録を残すが」
クロードは静かに言った。
「記録官自身のことは、誰も記録しない。だから私が報告書に書いた。あなたがここで何をしてきたかを」
リーネの目から涙が落ちた。万年筆のインクが滲まないように、咄嗟に顔を背けた。記録官の習性だった。
「……泣いても、書類は濡らしません」
「知っている」
査察報告書は王に提出された。
1週間後、記録局に大規模な人事改革が入った。局長は更迭された。地下3階には新たに4名の記録官が配属されることが決まった。予算も見直された。
リーネの辞表は、正式に受理されなかった。
代わりに届いたのは、1通の辞令だった。
『リーネ・フォーゲルを記録局地下3階主任記録官に任ずる』
主任。7年間で1度もなかった昇進だった。
辞令を持ってきたのは、クロードだった。
「受け取ってもらえるか」
「……私は辞めるつもりでした」
「知っている。だからこれは命令ではなく、依頼だ」
クロードは辞令をリーネの机の上に置いた。置き方が丁寧だった。書類の扱い方に敬意がある人間の置き方だった。
「査察騎士団の業務で、今後もこの書庫に来ることになる。王宮の公文書記録を体系的に整理する事業が立ち上がった。あなたの引継書が、その事業の基礎設計書として採用された」
「私の引継書が?」
「232頁の、あの文書だ。あれが最も優れた記録管理の設計書だと、査察騎士団が判断した」
リーネは辞令を見下ろした。自分の名前が、正式な書式で、正しく記載されている。フォーゲルの綴りも合っている。王宮の書類で自分の名前の綴りが間違っていなかったのは、これが初めてかもしれなかった。
「それと」
クロードが言った。
「これは報告書に書けなかった。公的な文書にはふさわしくないから」
「何ですか」
「地下3階の棚は、完璧だった。7年間、1日も手を抜かなかっただろう。あの棚を見たとき、私は……」
クロードは言葉を探すように天井を見上げた。
「怒りを感じた。これだけのことをした人間が、なぜ誰にも見つけてもらえなかったのかと」
リーネは万年筆を握ったまま、動けなかった。
「見つけてもらえた、と思っていいですか」
「私はここにいる」
クロードの声は低く、静かで、地下書庫の空気のように落ち着いていた。でもその中に、封蝋を押すときのような、確かな熱があった。
リーネは辞令の上に手を置いた。
「受けます。この辞令を受けます」
「ありがとう」
「それと、ヴェルナー様」
「なんだ」
「湿度計のメモ、保管してあります。引継書の62頁を読んだ人がいた記録として」
クロードが一瞬、目を見開いた。それから、初めて笑った。堅い印象の顔が、不器用に、でも確かに緩んだ。
「……記録官だな、あなたは」
「記録官ですから」
地下3階の書庫に、2人分の笑い声が響いた。この場所で笑い声がしたのは、たぶん、7年ぶりだった。
その日の業務日誌の最終行に、リーネはこう記した。
『本日、査察騎士クロード・ヴェルナーより辞令を受領。受諾。なお、地下3階に笑い声が発生したのは記録上初。本件は業務とは無関係だが、記録官の判断により附記する』
追伸のように、インクの色を変えて1行だけ足した。
『見つけてもらえた日。記録する必要はないが、忘れたくないので書く』
万年筆のインクは、もう節約しなくていい。
リーネは新しいインク壺の蓋を開けた。
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