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第1話 快晴の朝

「おはよう、明日あけび

「おはようございます、あいさん」


カーテンの隙間から日が差し込んでいる。ぼんやりとした明るさの中、藍の黒髪が艶めいていた。


朝は苦手だ。自分がいかに社会に適応できていないかを突きつけられている気持ちになるから。まあ、昼も夜も、明日にとって心地良いものではなかったけれど。


「眠れた?」


藍の穏やかな声がそう、問う。藍の声は、ずっとずっと、優しい。


「そう、ですね」

「よかった」

「藍さんはずっと配信してたんですか?」

「うん」


眠くないんですか、と聞きかけてやめる。眠れない苦しさは、明日にも覚えがある。


ことりと置かれるスープマグを見る。中には黄金色の液体が注がれている。次いでふわりと香るコンソメの匂い。こぼさないように手に取って、そっと口を近付ける。この部屋にあるものは全部、ほのかに、けれど確かに明日を温める。


「行ってきます」

「行ってらっしゃい、今日は二限までだっけ?」

「はい」

「じゃあまた午後に」

「あの、」

「うん?」

「いや、お昼とか、買ってきましょうか」

「ああ、いいよ、俺作っとく」

「わかりました」

「うん、じゃあ行っておいで」

「はい」


ひらひらと振られる手にふわりと気持ちが上昇する。名残惜しさが顔を出すのに見ないふりをして、明日は扉を開けた。


エントランスを出る。差し込んできた朝日に視界がちかちかと明滅する。今日は清々しい程に快晴だ。


藍と出会ったのは二ヶ月前、街路樹の葉が色付き始めた頃。あの日も空が高い、晴れ晴れとした朝だった。


陽気とも言える好天にも関わらず、その日、明日の気分は最悪だった。大学の一限目の授業に向かう電車の中、人波に翻弄されながら必死で体を支える。しかしその努力も虚しく、目の前が白んでいくのを止められない。ぐらりと傾いた体に襲ったのは、強かに地面に打ち付けられるより、存外柔らかく温い衝撃だった。力が入らない体を、しっかりと受け止められているのが分かる。次いで香ったのは、微かなコーヒーの匂い。


「降りようか、歩ける?」


そう問いかけてくる声に頷けているか、分からない。肩を支えられて、久しぶりに息を上手く吐き出すことができた。


気がついたらホームのベンチに座っていて、自分よりも背の高い人にもたれかかっていた。


「・・・・・・すみません」

「ああ、落ち着いた?」

「はい」

「急に起きない方がいいよ、しばらくはそのまま、ね?」

「・・・・・・はい」

「ごめんね、連れ出しちゃって」

「いや僕こそすみません、迷惑かけて」

「気分平気?」

「さっきよりはマシなので、大丈夫です」

「そう?」


明日を気遣ってなのか、ゆっくりと顔を覗き込まれる。穏やかな口調に反して、冴え冴えとした見た目をしている、と思った。自分よりおそらく少し年上のその男。冷たそうな顔に心配の色が乗っているのがアンバランスで、不思議な感覚になる。明日にはない色彩を持つ瞳をぼんやりと見つめていると、それは静かに離れていった。


「顔色は少し良くなったね」

「あの、お礼します」

「いいよ別に、君学生でしょ」

「でも」

「今日は帰って休みな、ていうか帰れる?」

「・・・・・・もう少し休んで、帰ります」

「うん」


ゆっくりと体を起こす。朝のラッシュの時間を過ぎ、ホームは人もまばらで閑散としていた。帰るとは言ったが、この駅から明日の最寄りまでは電車で三十分程かかる。その距離をもう一度電車に乗ると考えるだけで、今は憂鬱だった。


「・・・・・・あのさ」

「はい?」

「俺の家、来る?」

「え、や」

「あーごめん、嫌だったら断ってくれていいんだけど、まだ調子良くなさそうだから」

「でも、迷惑」

「別にいいよ、一人だし、予定も特に無いから」


少し上にある顔を見上げる。綺麗な顔からはあまり感情が読み取れなかったけれど、心配してくれているのだろうか。少なくとも、自分に危害を加えようという意思は感じられなかった。その不思議な距離感に安心のようなものを覚えてしまっていた時点で、きっと明日の心は、この男に捕らわれてしまっていた。


「あの、ありがとうございます、えっと」

「ああ、網谷藍、藍でいいよ」

「あい、さん」

「うん」


柔らかに微笑んだ藍は、やはり少し不思議な空気を纏っていた。

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