真実はたとえ事実に覆い隠され虚偽に阻害されようとも 2/2
洋光丸
船名:YOHKOH MARU
船名符字:JQWZ
船種:バルクキャリア( 撒積貨物船)
IMO番号:7808982
グロス(総トン数):二四,九七〇・五〇トン
デッドウェイト(載貨重量トン数):四一,三七八・〇〇トン
全長:一九二・五七メートル
全幅:三〇・〇〇メートル
満載喫水:一〇・七七六メートル
クレーン:一五トン四基
ホールド:五倉
主機:三菱MAN、V型一六気筒ディーゼルエンジン一〇,〇〇〇馬力
満載速力:一四・〇ノット
航続距離:二六,三〇〇マイル
無線設備:電信、一・〇KW、電話、一・二KW
本船は三菱横浜造船所が桜木町にあった頃九九八番船として建造した最後の日本船、最後の新造船、第三三次計画造船で、ニッケル鉱石専用船としては一九七八年当時世界最大だった。竣工から七年になるが、今も世界最大を維持しているかも知れない。鉄鉱石や石炭と違って、ニッケル鉱石の場合は船の大きさに制限がいろいろある。
本船の積地は年に二航海程がニューカレドニアだが、ほとんどフィリピンで、今航もそうだ。ジャングル、僻地だが、治安などの理由で現地代理店に禁止されない限りは上陸する。
おや、彼は検疫官ではないか?私は声をかけてみた。
「クアランティン・オフィサー?」
笑顔と共に答えが返ってきた。
「イエス。ユー・アー・セコンド・レーディオ・オフィサー?」
やはりそうだ。そして、彼は私が二等通信士だということを覚えていた。
本船は一九八五年一月五日フィリピンのパラワン島、リオツバ港に入港した。
港と言っても岸壁はない。従って入港ではあるが、沖にアンカーを入れて錨泊している。
港の水深によって入港できる船の喫水が制限され、喫水から船の大きさが制限される。本船はニッケル鉱石専用船としておそらく現在も世界最大であるが、その積地と揚地の水深からデッドウェイト四一、〇〇〇トンとなっている。これ以上大きな船はニッケルの積地リオツバあるいはニューカレドニアのクワワと揚地八戸港の五万トン岸壁に入港できないので、アジア太平洋航路のニッケル船としては存在できない。
リオツバはニッケルを積み出すだけの港である。鉱山でニッケル鉱石を掘り、乾燥工場で乾燥させる。ニッケル鉱石はある程度以上に水分を含むと液状化して、揺れる船では危険な貨物となるからだ。ちなみにニューカレドニアでは天日干しだ。工場からダンプで港へ運び、バージ(艀)に積み換える。タグボートでバージを本船まで曳航する。そして本船に横付けしたバージから、本船のクレーンで鉱石を積み込む。
港湾設備としては、道路につながって数メートルせり出しているコンクリートの桟橋があるだけだ。そこにダンプがバックして荷台を上げて、下の海に浮いているバージに鉱石を落とす。そしてタグボートがバージを本船まで曳航する。
昨日、入港手続き完了直後から荷役が始まった。四〇,〇〇〇トン強を積むのにオールナイト(二四時間荷役)で七日かかる。
ステベから上陸しても町はないと聞いたが、それでも初めて入港したところには上陸してみたい。他の乗組員は都合が付かないらしく、ひとりで上がった。
普通なら本船からタラップを降ろしてタグボートに乗り移るのだが、ここではクレーンを使う。アッパーデッキにクレーンのバケットを下ろして貰い、バケットに乗ってバージに下ろして貰い、タグボートに便乗して上陸するのだ。
バケットとは、クレーンの先端に付いている鉱石をすくい取る部分だ。クレーンでつり上げられたとき、バケットから本船のデッキやバージに転落したら大けがをするか死ぬだろう。運良く海に落ちたら、それでも私は泳げないので溺れてしまう。
空のバージを曳いたタグボートで、一五分ほどかかって陸に着いた。あとは歩くしかないようだ。バスもタクシーもないジャングルである。
港から内陸の方へ一本道がある。舗装はされていない。鉱石を運ぶダンプのために造られた道路だ。時々ダンプがもうもうと土煙を上げて走っている。走り去った後しばらくは視界がきかない。
何台目かのダンプが止まって、乗らないかという。乗せて貰うことにした。一〇分ほど走って、村落のようなところで降ろして貰った。そこで、昨日入港手続き時に会った検疫官を見かけた。
検疫官をオフィサーと呼んだ方がいいのか、ドクターと呼んだ方がいいのか分からないが、いずれにしても敬意を表したい。税関も入官もオフィサーだ。医師免許を持っている検疫官だから、ドクターと呼んだ方がいいのかもしれない。
親切にも彼は村を案内してくれるという。まずは彼の家に行った。
彼は五〇代だと思うが、奥さんは二〇代に見える。子供は二歳とのこと。マニラにも妻子がいると言う。合法的かどうかは知らない。法はともかく、フィリピンはカソリックの国であり、カソリックはこのあたり厳しいと思っていたのだが、内政不干渉を決め込む。
ココナッツの白い果肉にココナッツミルクをかけたものをご馳走になった。
上陸する前に、衛生管理者であるサードオッサーからマラリアの予防薬をもらって飲んだが、生ものによる食中毒には効かないだろう。生ものは口にしたくはなかったが、ドクターが出してくれるのだから大丈夫だと思うことにした。
味はほとんどしなかった。甘くもないし、苦くもない。わずかに青臭いような感じだ。
それから彼は現地で生活している人の家に連れて行って、室内を見せてくれた。壁などはなくて、竹と葉っぱで出来ているような家だ。床は地面から一・五メートルほどあって、床下ではブタを飼っている。家財道具はほとんど無い。
バナナ畑。畑には見えない。ただのジャングルでたまたまバナナの木があるようにしか思えないのだが、畑だという。
椰子の木に登って椰子の実をもいでいる人がいた。椰子も栽培しているのか、それとも自生の木だろうか。
教会もある。
ドクターは帰りにバナナをたくさん持たせてくれた。これ以上は持てないほどだ。彼が農家から貰ってくれたのだ。彼はこのあたりでは名士なのだろう。ちょっと頼めばバナナなどいくらでも貰えるようだ。
港へ行くニッケル鉱石を満載したダンプを止めて、私を便乗させてくれるように運転手に頼んでくれた。最後まで親切なドクターだ。
船に持ち帰ったバナナは無線室のポールドにぶら下げた。熟すまで数日かかりそうだ。局長も無線室に肩ふりに来る他の乗組員も、誰もが好きなときに食えばいい。
このような何もないジャングルでも、上陸してみればそれなりに楽しめる。検疫官とも個人的に知り合いになれたし、現地の生活の一端も見ることが出来た。
リオツバは各種の危険がある。マラリアの危険、一般的な衛生上の危険、交通事故の危険などだ。あらかじめそれらの危険が存在することを知っておき、充分注意するならば上陸してみることだ。何かを経験することができる。
マラリアを媒介する蚊は、日中はジャングルの木の葉の裏で太陽を避けており、夜になって涼しくなると活動するのだという。また、健康な日本人の体力があれば、感染しても発病しないとも聞いた。
多分当地では、救急車や高度の医療は望めない。鉱山労働者のための診療所はあるそうで、体調の悪い住民は、二日も三日もジャングルを歩いて受診に来るのだという。パラワン島にはいくつの医療施設があるのだろうか。
ニッケル乾燥工場から港までの未舗装の一本道、乾燥しきっていてダンプが走ったあとは三〇秒程度濃霧の中のような状態になり、ダンプ同士の衝突で死亡事故があったという。
これらのことは可能な限り知っておいた方がよい。あとは、自分の責任で上陸する。但し、何かあった場合は他の乗組員に迷惑をかけることも自覚しておく必要がある。航海士が機関士の仕事を出来ないように、誰も他の人の代わりにはなれない。船に余分な人員はひとりも乗っていない。
一般的に、例えば海難事故があった時の新聞、テレビなどでは、オイルタンカーはデッドウェイト(○○重量トン)で船の大きさが表現され、それ以外の貨物船はグロス(○○総トン)で表現される。しかし、貨物船もオイルタンカー同様にデッドウェイトで表現されるべきだろう。なぜなら、ほとんどのケースで船の運賃は一トンいくらとなっていて、貨物を何トン積めるかが重要なのだから。タンカーと貨物船を区別する必要はどこにもない。日本の報道のおかしな習慣だ。
本船は、グロスで二四,〇〇〇トン、デッドウェイトで四一,〇〇〇トンほどだ。つまり、四一、〇〇〇トン積める。但し、燃料、水、食料、貨物、全ての合計でこれだけ積めるということで、貨物だけであれば通常四〇,五〇〇トンほどを積む。
燃料は二週間プラス数日分の余裕を積む。フィリピン航路片道一週間、往復二週間に対して必要量しか積まない。燃料は最小限にして、その分貨物を積む。
水も必要量しか積まないが、それでも本船の場合は航海中も清水の風呂に入ることができる。船がそこそこ大きいことと、一航海が短いからだ。造水器の能力も充分なのだろう。デッドウェイト二五,〇〇〇トン程度の船ではフィリピン航路でも航海中は海水風呂になる。
四〇,〇〇〇トンの鉱石を積むとする。本船にクレーンは四基ある。クレーンのバケットは一掴み五トンである。クレーン一基が一〇,〇〇〇トンを積めば満船となる。一〇、〇〇〇トン積むには、バケットで二,〇〇〇回すくわなければならない。クレーンがバージから鉱石をすくって、本船の船艙に落とすのに一回五分かかるとすると、二,〇〇〇回繰り返すには一〇,〇〇〇分かかる。一〇,〇〇〇分は約一六七時間、交代で二四時間稼働して七日間かかる。
デッキは、毎日ドラフト(喫水)を測定して貨物の積み込み量を割り出している。船の積み荷の量は、その船がどれだけ沈んだかによって計算する。本船の場合は五〇トン積んで一センチ沈む。空船と満船ではドラフトが八メートル違ってくる。
ちなにみ、空船時は船底が艏から艉まで直線であるが、満船時は高張力鋼製船体中央部の船底は一〇センチほど下に曲がる。四〇,〇〇〇トンの重さである。艏と艉がうねりに乗ると中央部は更に曲がり、中央部だけがうねりに乗ると艏と艉が下がるので中央部は元に戻る。これが金属を何度も曲げ伸ばしすることになり、金属疲労の原因となる。
最初は陸の近くにアンカーを入れて荷役を行い、ドラフトが深くなったら一度アンカーを揚げて水深の深い沖に移動する。これをシフトという。陸に近い方が、タグボートが陸から本船までバージを曳いてくる時間の節約になる。そして、船が沈んできたら沖へ、深いところへシフトするのだ。燃料を最小限しか積まないもう一つの理由は、ドラフトを深くしないためである。
デッドスローアヘッドのエンジン振動が大きい。今、リオツバを出港した。
しばらくして出港スタンバイが解除され、デッキはハッチカバーを閉鎖した。
出港の翌日一三〇〇時から、ワッチの乗組員を除いて全員でハウス(居住区)の清掃を行った。ニッケル鉱石はもうもうと舞い上がる細かい砂埃を含むので、ハウスの各部屋やパッセージ(通路)の床はホコリだらけになっており、水で洗い流さなければならない。
フィリピンは数千の島で成り立っている。航海士とコーターマスターはパラワン島を出港してもフィリピン群島を完全に離れるまで気を抜けないかもしれないが、他の乗組員にとっては単調な七昼夜の航海の始まりだ。
青森県八戸港、八太郎五万トン岸壁に着岸。
また七日間かけて鉱石を揚げる。岸壁に一〇トンダンプで四,〇五〇台分の鉱石を揚げると、この全てが本船に載っていたとは信じられない程の量になる。岸壁に山ができる。
鉱石一トンが三〇ドル弱、四〇,五〇〇トンで一二〇万ドル。
ニッケル含有率は三・五パーセント程度で、精錬されるニッケルは一,四〇〇トン。
受け荷主である大平洋金属株式会社八戸工場では、岸壁から工場までダンプで輸送する間にダンプからこぼれた鉱石も道路から拾い集めて精錬するそうである。
雨の日は雨に溶けて地面を赤く染め、風の日は風に舞って空気を白っぽくするニッケル鉱石。いずれの場合も、上陸するときに靴や服を汚してくれるやっかいな貨物だ。しかし、そのおかげで給料も支給され、それを持って飲みに上陸することもできる。
夕食後一休みして、八時のサンパンで上陸する。サードエンジャーと操機員の星野がタラップにいた。
三人でサンパンに乗った。本来は本八戸駅までだが、飲み屋のある長横町まで行って貰う。漁港の町でもあるせいで、人口の割には飲み屋の賑やかな町だ。
サードエンジャーが、自分のなじみの店に行こうと星野と私を誘った。「シャングリラ」という店のさなえママに通っているようだ。
「ママがサードエンジャーの好みですか?」
「うん、通っているんだけどね」
「じゃ、あんまりじゃましないように、もう少ししたら消えますから」
頃合いを見計らって、星野と私はシャングリアを出て別れた。星野も自分が通っている店があるようだ。
私は前航から行くようになった「モナリザ」へ向かった。そこには、ちょっとふっくらしてかわいい真由美がいる。
「いらっしゃい。あ、お久しぶり、水越さん」
「うん」
「どうしてたの?ずっと来てくれなかったから。浮気してたでしょ?」
「こっちに出張がないと来れないからさ」
「あれ?水越さん、サラリーマンだったの?」
「そうだよ」
「この前、船乗りだって言わなかった?酔ってて覚えてないんでしょ?結婚してるというのも聞いたわよ」
どうやら自分でばらしていたようだ。たわいのない遊びだが、最初は陸の人間のように振る舞う。あとで実は船乗りだよ、というのが好きなのだ。別に隠したいわけではなく、むしろ誇りにしている。船は私の単なる職業に留まらず、私の青春であり、人生そのものであり、男の生き方でさえある。
「ボトル、これでいいのよね?」
ひらがなでみずこしと書いてある。
「うん。真由美ちゃんも飲もう」
「はーい。いただきます。元気でした?」
「うん、元気だったよ。」
「なにかおつまみは?」
「卵焼きある?」
「あるわよ。ちょっと待ってね」
「真由美ちゃんが作るの?」
「ううん。頼んでくるだけ。私の作ったのが食べたい?」
「いや、そばにいてくれた方がいい」
「あ、卵焼き作れないと思ってるでしょう」
「そうじゃなくて、卵焼くよりここにいて欲しいんだよ」
「あ、うまくかわした」
「そんなこと無いよ。真由美ちゃんはかわいいからさ」
「うん、知ってたよ。みんな言うから」
「ははは・・・お世辞だよ」
「あ、ひどーい」
「今度さ、飯食いに行こうよ」
「そうね。いつ?」
「今日」
「えー、今日は無理よ」
「デート?」
「そうじゃないけど、急に言われても」
「じゃ、明日?」
「明日はお休みなの」
「ホント?」
「本当よ。明後日ならいいけど」
「店は何時まで?」
「二時までよ」
「ふーん。眠くなるなぁー」
「嫌になったんでしょう?」
「そんなことはない。じゃあさ、明後日は少し遅く来るから」
明後日の夕食を一緒にする約束を取り付けたことで、その後は気分良く酔って一二〇〇時頃に店を出てタクシーで船に帰った。運転手には、八太郎の五万トン岸壁といえば直ぐに分かる。
翌日、もちろん上陸する。着岸しているのだから、ワッチ以外の若い乗組員はほとんど飲みに行く。
タラップにサードエンジャーとサロンの長倉、セーラーの大串がいる。四人で上陸した。
昨日のサードエンジャーへのお返しに、四人を私の知っている店に誘った。モナリザではない。もう一件、誰を連れて行ってもいい店がある。そこには目当ての女の子がいるわけではなく、ただ気楽に飲めるだけの店で、このような場合重宝する。
一時間ほどで、みんな自分の店に行くために消えていった。
今晩はモナリザに行っても真由美はいない。どこかもう一軒常連になれる店を開拓することにした。
それほど高くないスナック、それほどみすぼらしくない店、かわいい子がいるところ、そう簡単には見つかるはずもない。ドアを開けてみなければ中は見えない。結局、行き当たりばったりで入ってみるしかない。
ルージュ、ありきたりの名前だ。だが、期待して、入ってみることにした。女性が三人。ひとりは年齢からすればママだろう。あとのふたり、取り立ててかわいくもないが、みにくくもない。通いたい店にはならないだろう。店の名前がもったいない。それでも水割りを四、五杯飲んだ。その夜は二軒で終わりして、船に帰った。
八戸停泊四日目。無線部はもうやることがない。
電波は有限の資源であり、不必要な電波は発射してはいけないことになっている。つまり、入港中は通信士は不要なのだ。だが、それでも日中は無線室にいなければならない。
諸外国の船では、入港中は通信士は休みになるらしい。入港したら無線局は閉局しなければならいので、仕事が無いからだ。合理的だ。
着岸していれば陸から電話線を引くことができ、また船に設備されている船舶電話と呼ばれるコイン式の公衆無線電話も利用できるので、遠距離用のモールス送受信機は不要であり、使用してはならない。
保守作業を行うことはある。レーダー、航海士が使うが通信士が修理する。方位がずれたら、レーダーマストに登って調整する。定期交換部品があって使用時間を記録しているが、現実には壊れるまで使う。
無線用アンテナを張り替えることもある。アンテナは日本語で空中線。銅線を張ってあるが、劣化するので切断する前に張り替える。交換時は、コーターマスターやセーラーにアンテナマストに登って貰う。
今のところ、特に保守作業は無い。局長と雑談することになる。局長から昨年晴新丸でプルトニウムを運んだ話を聞いた。
船員交代が終わって、本社から訪船した船舶部長が乗組員全員を集めて、次航はフランスから内地にプルトニウムを運ぶ、荷主は動燃、動力炉・核燃料開発事業団という舌を噛みそうな組織、アメリカ海軍が護衛する、この航海は家族にも秘密、今から下船は認めない、と言われたとのこと。聞くだけで嫌な感じだ。
何故この様ないろいろな意味で大変な貨物、航海が中核六社、少なくとも外労協所属の会社でもなくて、あえてなのか、中小労の会社に依頼されたか?
運輸省の海運集約という政策があった。
日本海運界は中核六社があって、その他の会社は中核の系列となっている。
外労協は外交船主労務協会、中核六社を含む大手の船主団体、営業を持っていて自社で荷主を見つけ配船、運航する。
中小労は中小船主労務協会、外労協の系列に連なる中小会社で、営業を持たず、船体に船員を乗せて系列の親会社に差し出して運航して貰う。
中核六社は、日本郵船と三菱海運が合併した日本郵船、三菱は名前を残さなかった。二社の名前を並べた、山下汽船と新日本汽船が合併した山下新日本汽船、大阪商船と三井船舶が合併した大阪商船三井船舶。新たな社名とした、川崎汽船、昭和海運、ジャパンライン。
この政策に参画しない三光汽船など一匹狼も存在した。
満州鉄道の海上輸送部門であった大連汽船、その残党が日本で立ち上げた東邦海運と日本製鉄船舶部が分離した日鉄汽船が合併したのが新和海運。東邦海運の内航近海輸送子会社から遠洋に発展したのが晴海船舶。
船の煙突をファンネルという。ディーゼルエンジンの時代になっても、石炭を燃やしていたころの名残で、更に船体とのバランスを考慮して、必要以上に太いファンネルが設けられている。ファンネルには船社のロゴが描かれ、これをファンネルマークという。一般に中小労の船は、外労協親会社のファンネルマークを描く。晴海船舶・晴新丸のファンネルにも、親会社新和海運の青字に白いSが描かれている。これが親会社、子会社の関係。ちなみにネルソン丸は、郵船四〇%、新和二〇%、晴海四〇%の共有持ち分で、ファンネルマークは郵船の二引き、あるいは二本鉢巻きと言われる白地に赤い線が二本。
日本のナショナルフラッグシップカンパニー、中核六社の中心といえばNYK、Nippon Yusen Kaisha。その系列にある外労協の新和海運、その系列にある中小労の晴海船舶の晴新丸にフランスで再処理された核燃料プルトニウム輸送という白羽の矢が当たった、と考えるのは穿ち過ぎか。新和海運はNYKからみて、系列中の非系列といわれる細い繋がりで、やっかいな貨物が新和海運に降りて、さらに一〇〇%子会社の晴海船舶にお鉢が回ってきた、と勘ぐらなければ理解できない。
晴新丸は撒積船で速度は一四ノット程度。コンテナ船なら二四ノット程度、航海日数が格段に短くなり、航海のあらゆるリスクが減る。ところがコンテナ船を持っているのは外労協に所属する大手のみ。在来船なら運賃は安くなるだろうが、軍艦で護衛させる必要があるならコンテナ船を使うべき。コンテナ船を保有する船社に断られたのか?
飛行機ではダメなのか。飛行時間は航海日数に比してべらぼうに短い。あらゆるリスクも小さいと考えたくなるが、飛行機が墜落しても破壊しない核燃料容器は製造できないらしい。船が沈んでも浮かぶ容器は容易に製造できる。それに、アメリカ海軍がルアーブル港、大西洋、パナマ運河、太平洋、日本領海まで護衛するとなればテロリストは手も足も出ない、ということのようだ。
晴新丸、コールサイン8KVP、総トン数で一万トンをわずかに超える小さい船。
まだ中小労には普及していないインマルサット衛星通信設備を二セット、NNSSもこの航海のために装備したという。
インマルサット衛星を使えば即時に陸上と電話連絡が出来る。
動燃の暗号名はカミュ。フランスで再処理されたプルトニウムを引き取りに行くから、フランスのブランデーメーカーの名前を取ったのか?
NNSS、Navy Navigation Satellite System、アメリカ海軍艦船の航行援助のために開発された測位システムであるが、無償で全世界の民間商船にも開放されている。誤差は一〇〇メートル程度。外航船は全長が一〇〇メートル以上はあるから、実際上は誤差とは言えない程の精度だ。
熟練した航海士による、六分儀による天測の誤差は、二から三マイル(三・七から五・五キロメートル)であるという。これも大洋航行では充分な精度。
さらに最近は次世代のGPS、Global Positioning System、全地球的測位システムの衛星が打ち上げられつつある。このシステムは誤差数十メートルであるが、民間には有償で、しかも意図的に誤差を一〇〇メートル程度に大きくして開放すると言われている。アメリカの軍だけが最高精度で使用するのだろう。
どれがプルトニウムか分からないように、同じ形状外観のダミーのコンテナをいくつも積載した。
海上保安官が護衛の為に乗船した。当初拳銃で武装していたが、キャプテンが物騒なモノを携帯するなと保安官に申し渡し、保安官は諒承したという。お互いに平和呆けと言えば良いのか。あるいは、アメリカ軍が護衛しているから保安官の護衛はお飾りなのか。それにしても、自国の貨物は自国でできる限りの警備をすべきだ。アメリカ軍に対する礼儀でもあろう。
NHKがこのプルトニウム輸送を取材するため、晴新丸に衛星電話を掛けた。電話を受けた局長は、カミュでしょ?と確認した。プルトニウム輸送のために搭載した衛星通信装置、陸上から電話があるとしたら荷主のカミュ、船体オーナーの晴海船舶、運行オペレータの新和海運以外は想定できない。あるいは、護衛の米海軍からの可能性もあるか。しかし、護衛艦はVHF無線電話の到達距離内にいるから、あえて衛星を使う必要は無い。
NHKは放送で、パナマ運河に到着予定は一九日、これを『お友達に会うのはピッチャー・キャッチャー』という暗号で通信したと放送した。アメリカのお友達のパナマ運河、ピッチャーが一、キャッチャーが九で一九日。
しかしこれは、正しくない。無線通信では、普通語ではないものを暗号ではなく暗語という。この航海で暗語は三種類用意され、ピッチャー・キャッチャーは使われなかった暗語だと局長は教えてくれた。即ちNHKは、いわゆる裏を取ることをせずに、結果的に嘘を放送した。通信はその内容だけではなく存在さえ秘密であるから、通信士が通信の秘密を第三者に漏洩することは無い。
通信は迅速さより正確さだ。不正確な通信は害悪である。通信士の国家試験では、一文字間違うごとに三点減点、送信または受信出来ない三文字までごとに一点減点。間違うよりは時間を掛けることに寛容だ。
放送は迅速さ、あるいは話題作り、金儲け、スポンサーの意向、世論への迎合、権力への忖度などのために不正確、あるは虚偽が許容、時に奨励、あるいは要求される。ドキュメンタリーにさえ、演出と呼ぶ仕込みやヤラセが当然の世界。
通信には人の命がかかることがあるが、放送は娯楽。放送の内容は秘密では無いので誰がどう利用してもよいが、利用されてはならない。
タイタニックが当時の遭難信号CQDおよび新たに決められたSOSを発信したのは一九一二年四月一四日。世界初のラジオ放送は一九二〇年一一月二日。電波はまず人の命を守る通信に利用され、その後娯楽である放送にも利用された。
実は放送は、権力の暴走を国民に伝える力を秘めている、と言うことを秘めたままにしている。
NHKは公共放送局であるとして視聴者から金を取ったあげくに、嘘を放送した。金を払って嘘を押し付けられる視聴者は好い面の皮だが、それに気づかない者も多い。
一六三〇時に夕食を摂り、少し眠った。二一三〇時、サンパンは終わっているので船舶電話でタクシーを呼んで上陸した。
今日はモナリザに直行する。
「いらっしゃい」
「うん」
「本当に来たのね」
「そりゃ来るよ。デートの日だから」
「なにご馳走して貰おうかな」
「いいよ、なんでも」
「水越さん、まだお店が終わるまでかなり時間があるけど大丈夫?」
「うん。晩飯のあと船でちょっと寝てきたから」
「あ、ずるーい」
「ははは・・・そんなこと言ったって、真由美ちゃんは毎日夕方迄寝てられるんだろうけど、俺は朝の七時半に起きてるんだから」
「えー、夕方までは寝てないわよ」
「ふーん、じゃ、何時に起きるの?」
「一一時から一二時くらいよ。だって、お店が二時まででしょ。時間通り終わっても帰ったら三時、お風呂入ったりちょっと夜食食べると直ぐ四時になっちゃうし。寝るのが四時から五時の間だから、お昼までに起きるのは偉いでしょう」
「偉いかどうかは知らないけど、まぁ、起きてから掃除とか洗濯とかやることあるだろうからね」
「そうよ。だから、お客さんとお店が終わってからご飯なんかに行くと大変なのよ」
「あ、そうか。じゃ、今日、止めとく?」
「ばか。水越さんの事じゃないわよ」
「なんだか、あんまり遅くまでつき合わせちゃ悪いような気がしてきた」
「作戦成功」
「ははは・・・じゃ、今日は飯食って早めに帰るようにしよう」
彼女の希望で、私だけ閉店直前に店を出て、近くの朝までやっている喫茶店で待ち合わせた。二時一五分ころ彼女が来て、ラーメン屋に連れて行かれた。飲んだあとのラーメンはうまいという。ラーメンを食って、三時少し前に別れて、タクシーを拾って船に戻って直ぐに寝た。
本当に空腹を満たすだけの夜食デートだったが、まぁ、店がはねたあとにふたりで会えたのだから第一段階突破としておこう。
翌日は、とは言ってもラーメンを食って帰ってきた当日だが、さすがに眠い。それでも出掛けてしまうのが船乗りだ。今航は今日と明日しか上陸できないのだから。
ただ、やはり体力が続かない。二日ともモナリザへ直行し三時間ほど飲んで、船に戻った。第二段階は次航に取っておくことにした。余りしつこくしても逆効果かもしれない、という計算もある。
八戸を出港した。今夜はゆっくり眠れるという安堵感がある。なにも無理をして毎日上陸しなくてもいいようなものだが、せっかく入港しているのだからと、ついつい出港まで毎日飲みに行ってしまう。だから、出港して上陸が不可能になると、正直ほっとする。
静かだ。船内には常にエンジンの振動と運転音はあるが、無線室は比較的環境がよい。海上人命安全条約は、無線室を可能な限り船の上部に設置するように求めている。つまり、船底にあるエンジンルームからは最も遠い位置にあるのだ。最後まで遭難通信を行うためだろう。
ハウスの最上部はブリッジ。そこで、航海士とコーターマスターが航海当直をしている。その下のデッキに無線室がある。つまり、無線室はハウスの最上部から二番目。ポートサイドに無線室、隣が局長の部屋、その隣が次席である私の部屋、その隣でスターボードサイドがキャプテンの部屋だ。だからこのデッキを英語ではキャプテンズデッキ(船長甲板)と呼ぶ。
エンジンの連続的な運転音には慣れている。振動も航海速力で走っている限りはそう大きなものではない。スロー(低速)やハーフ(半速)のような中途半端な速度の方が振動は大きい。
海が凪いでいれば、新しい鉛筆が机の上に立つ。それくらい船体はほとんど揺れない。このままの平穏な航海が続いてくれればと思う。
いつもの通り、現地代理店、鉱山会社、カスタムズブローカーへ入港予定などを連絡する国際電報を発信する。
また在マニラ日本大使館へ、フィリピンコーストガードによる本船警備を依頼する電報も発信する。リオツバはモロ族解放戦線という反政府ゲリラの活動地区であるとされており、フィリピン政府はコーストガードを展開している。
強制的に、入港する船舶はコーストガードによる警備を依頼しなければならず、それは有償。上陸禁止区域ではないので、どれほどゲリラの危険があるのかは疑わしい。外貨を稼ぐ口実と考えられなくもない。とにかく毎航海、迷彩服、ジャングルブーツ、M一六アサルトライフルと手榴弾で武装したコーストガード二名が本船をガードする。
反政府ゲリラが出没したのは数年前までで、逆に最近はゲリラに対処するために駐留している政府軍の横暴に住民は手を焼いているという話も聞いたが。
フィリピン、パラワン島、リオツバ港。
検疫官やエージェントとも顔なじみになった。スムースに入港手続きが終わり、いつもの通りのお土産を渡す。アメリカタバコ二〇〇本とリンゴ三個だ。リオツバではリンゴが貴重品で、とても喜ばれる。日本のリンゴは大きさと美しさで驚かれ、親戚を呼んでリンゴパーティをやる家もあるという。
今航は、本船主催ですき焼きパーティーを行った。ニッケル鉱山、ニッケル鉱石乾燥工場の主だったメンバーを本船に招待し、本船側からはサロン士官が出席した。
サロン士官とは、キャプテン、チョッサー、チェンジャー、ファーセンジャー、局長の五人。三航海に一回程度親睦会として開催している。
陸から、蛇の肉がお土産に持ち込まれた。胴体の直径が一〇センチから一五センチもあるようなヘビが鉱山にいて、ブルドーザーのキャタピラーでひき殺すという。ダンプのタイヤではダメらしい。その白い肉を持ってきた。夕食時、乗組員全員に焼き肉のようにして食べられるように用意されたが、私は遠慮した。
二日後、すき焼きパーティーのお返しに、ブタの丸焼きパーティーが陸で開催された。今回は珍しくメスロン士官も招待された。
メスロン士官とは、セコンドオッサー、サードオッサー、セコンドエンジャー、サードエンジャー、次席(二等通信士)の五人。陸からは家族も参加するため、バランス上本船側もいつもより人数を増やしたかったようだ。
ブタの丸焼きは、ブタを縦に串刺しにして一日かけて丸焼きにする料理で、当地では最高級の料理であり最大のもてなしということだ。
朝から焼いたというブタがそのままの姿でテーブルに載っている。耳も鼻も手足も付いたまま、うまそうな色に焼けている。
私はビールではなくジンライムをもらった。すっきりして暑い当地にぴったりだ。豚もうまかった。
荷役は順調に進み、一週間後八戸に向けて出港した。
ワッチ、ワッチの繰り返しの単調な時間を過ごす。しかし、このワッチが船の安全を守っている。
海難事故は、数十億から時にはそれ以上の損害を引き起こす。例えば本船のようにデッドウェイト四一,〇〇〇トンの船体構造の単純な鉱石運搬船でも、建造費は四十億円にもなる。貨物はニッケル鉱石四〇,〇〇〇トンで一二〇万ドル。仮に自動車専用船で、一五〇万円の車を三,五〇〇台積んでいたら五〇億円を超える。燃料重油が海に漏れ出した場合は、漁業補償や漏れた油の回収費用が加算される。
もちろん事故の物的損害は保険で補填される。しかし、自分たちの命もかかっているのだ。これは金には換えられない。
航海士は本船の位置を確認し、機関士はエンジンを回し、通信士は情報を収集し、それぞれ航海の安全に貢献している。もちろん甲板部員、機関部員、賄いも欠かせない。
リオツバを出港して三日目に低気圧に遭い、かなりローリングした。片舷二五度以上傾いている。スターボードとポートに二五度ずつ合計で五〇度も揺れると、その揺れに逆らって体を支えるだけで疲労するし、腹も減る。
波はハンドレール(手すり)を越えてアッパーデッキに押し寄せる。
無線室では床に固定したイスに座って体を船首尾方向に対して体を斜めにし、足の踏ん張りでバランスを取りながら、左手で電報用紙を持ち右手でキー(電鍵)を叩いてモールスを送る。
食事の時は、食器が滑らないように濡らしたテーブルクロスの上に食器が置かれる。その食器から、おかずが飛び出さないようにしなければならない。時には食べるのを中断して、皿やみそ汁の椀を持ち上げてこぼさないようにする。もっとローリングが激しい場合は、荒天食といっておにぎりになるそうだが、まだ経験はない。
風呂のお湯も湯船からこぼれているだろうし、滑って危ないので入浴は止めておく。
もっと小さい揺れならベッドの上で体を斜めにすれば転がらないが、今日は体を壁にくっつけて、毛布を丸く巻いたものを壁の反対側に置いて壁と毛布に挟まって寝る。念のため、ベッドの壁の反対側に板を立てる。荒天の場合に人が床に落ちないように、板を立てられるようになっている。これだけ揺れると、一杯飲んだ後でもなかなか寝付けない。航海は遊びではないと思い知らされる。
八戸入港。
三週間ぶりの内地。まずはモナリザへ顔を出す。
真由美はいた。
「いらっしゃい、水越さん。今日入港したの?」
「うん。久しぶり」
「そうね!元気だったの?」
「うん。真由美ちゃんは?」
「水越さんが来なくて、寂しかった」
「ははは・・・なに言ってんだか」
「セールストーク。分かった?」
「かわいくないなぁー」
真由美が水割りを作って出す。
「はい、どうぞ」
「真由美ちゃんも飲んでいいよ」
「はーい、戴きます」
「また、晩飯に行こうよ」
「今日?」
「いつでもいい。入港している間に」
「明日でもいいわよ」
「じゃ、そうしよう。明日ならまだ体力があるから」
「え?なにそれ?」
「毎日一二時、一時まで飲んでるとつらいからさ」
「あ、そうか。朝、普通に起きるんだもんね」
「うん。だから今日は早めに帰るよ」
「えー!寂しいなぁー」
「セールストーク!」
「あ、分かっちゃった?」
一一時過ぎにモナリザを出て、タクシーを拾い船に戻った。
翌日、海運局へ行き船員交代の雇い入れ、雇い止め手続きを行った。
そのあと郵便局へ寄り、休暇下船した乗組員の船員手帳を簡易書留で自宅宛郵送した。
ついでに、海運局指定病院で船員健康診断を受け、コレラと天然痘の予防接種も受けた。健診は年に一回受診して船員手帳に合格の証明を貰い、コレラは六ヶ月毎、天然痘は二年毎に予防接種を受けて、イエローカードに証明を貰う。アフリカや中南米航路では一〇年間有効の黄熱病の予防接種も要求される。イエローカードは国際的な証明書であるから、病院名のスタンプ(ゴム印)だけでなく医師のサイン(署名)が必要だ。
数年前にWHO(世界保健機関)は天然痘の撲滅を宣言したが、予防接種はいつ迄必要なのだろう。
最後に、船まで配達してくれる本屋で船内文庫を二〇,〇〇〇円分購入して今回の入港中にやらなければならない仕事を全て終えた。
夕食を摂って少し眠った。目覚ましで起きて、最終の八時のサンパンで上陸した。
「いらっしゃい」
「うん」
「今日はなに食べに行く?」
「船で晩飯食って、まだ腹減ってないから考えられないよ。真由美ちゃんは?」
「そうねぇ、私もわかんない。あとでお腹空いたら考えましょ」
八時半から二時まで五時間半も一軒の店で飲むのは長い。座りっぱなしで尻が痛くもなる。飲んで、酔って、眠くなって、一旦酔いが覚めて、また酔ってくる。
やっと二時。前航の時と同じ喫茶店に行って真由美を待つ。ブラックコーヒーで酔いと眠気を覚まそうとするが効かない。
「お待たせ。行きましょう」
真由美が来て、直ぐに喫茶店を出た。
「今回はどこに連れて行くつもり?」
「お寿司やさんでもいい?」
「うん、いいよ」
「知ってる店があるの。二、三分よ」
彼女は店で立ちっぱなしだったせいか、お腹がすいているようだ。私はアルコールのせいか、それほど空腹ではない。ふたりでビールを一本頼み、それぞれいくつか寿司をつまんだ。
「このあとも一緒にいられるか?」
「え、どういうこと?」
「朝まで一緒にいようってことだよ」
「えー、ダメよ」
「そうか」
「ごめんね」
「いいさ」
ふられてしまった。まぁ、人生はおとぎ話じゃないんだから、そううまく行くわけがない。
翌日からも毎日、出港するまでモナリザには顔を出した。また次航に誘ってみるつもりだ。
八戸を出港した。
キャプテンにエージェントから、別の船もリオツバに向かうという情報が入った。リオツバの貨物と言えばニッケル鉱石以外には無い。荷主は当然ながら大平洋金属。当社だけでは荷主の必要量を賄えないので、スポットで他の船社がニッケルを運搬することもある。問題は荷役。他船が本船より速く入港したら、本船は一週間無駄な時間を過ごすことになる。
いつもなら揚げ荷の最後はブルドーザーをクレーンで吊ってホールドに下ろし、残っている鉱石をブルで寄せ集めてきれいに揚げきる。今回は早く出港するためにそれを止めて、四つのホールド合計で数トン程度か、揚げきること無く出港した。リオツバに早く入港した方が荷役の権利を得て、船の運行効率が上がるから、七昼夜競走するつもりなのだ。
荷主の都合で契約よりも船の出港が遅れた場合、荷主がデマレージ(滞船料)を船会社に支払う。逆に早く出港できた場合、船会社がデスパッチ(早出料)を荷主に支払う。一般にデスパッチはデマレージの半分である。今回のような場合は、どうなるのだろうか。揚げ荷が少ない分の運賃は減額されると思うが、いつかチョッサーに訊いてみるか。
航海中、船は六時間毎に気象観測を行う。観測時間が通信士の当直時間内であれば即時に最寄りの無線局へOBS(気象電報)という取扱で、観測データを送信する。日本では一般海岸局が、アメリカではコーストガードの無線局が気象電報を受け付ける。次の天気図の作成に間に合うのが望ましいので、そのとき通信しやすい局を選んでなるべく早く送信する。このデータが数時間後に天気図となり、船の安全航行に寄与するのだ。
デッキにはカンカンという仕事がある。ハンマーで船体をカンカン叩いて錆落としをすること。錆を落としたら錆止めを塗り、さらにペンキを塗る。せっかくカンカンをやっても放置したら直ぐにまた潮気で錆びてしまう。カンカン、錆止め、ペンキと数日先までの天気予報が重要で、この様な意味でも自分で観測した気象情報は有効に利用される。
OBSは国内、国際とも無料だ。
天気は西から東に移る。アメリカではシカゴの天気が三日後にはニューヨークに来る、と言われている。今日現在のシカゴの天気が、三日後のニューヨークの天気予報になるのだ。
気象観測データはWMO(世界気象機関)を通じて、世界中がお互いに交換する。ところが、日本の西にソビエトと中国がある。気象観測データは軍事情報でもある為、ソビエトと中国は正確な気象情報をWMOに提供していないと聞いたことがある。もし、ソビエトと中国が正確な情報を公開すれば、日本の天気予報の確度が上がると言う。両国が共産主義を放棄すれば、異常とも言える秘密主義も解消されるだろう。
船舶局は遭難通信や気象電報の他にコマーシャル通信、つまり有料の商業通信も扱う。船会社から船への運航に関する連絡や、家族から乗組員への私的な通信などである。もちろん、船から陸上に宛てて送信することも出来る。
コマーシャル通信は、国内通信はNTT(Nippon Telegraph & Telephone、電電公社)から、国際通信はKDD(Kokusai Denshin Denwa、国際電信電話株式会社)から業務委託を受けて行う、という形だ。無線室にはNTTとKDDの電報に押す日付スタンプがある。なぜか、NTTのスタンプは黒で、KDDのスタンプは赤で押す。
通信料、つまり電報料、電話料は船舶局ではなくNTTとKDDが収受する。ただし、国際通信の場合の料金はGF(Gold Franc、ゴールドフラン)という架空の貨幣単位で計算され、シップチャージ(船舶局料)、コーストチャージ(海岸局料)、ランドライン(電信料)と三本立てになっており、この内のシップチャージはその船舶、つまり船会社の収入となる。一GFは一二〇円。
フィリピン、パラワン島、リオツバ。
本船が速く着いた。一週間の無為な沖待ちをせずに済むのは、会社にとっても乗組員にとってもありがたい。
サードオッサー、サードエンジャーと三人で上陸した。鉱石をダンプからバージに積み換えているところにOMICの日本人駐在員坂本さんがいた。
OMICとは海外貨物検査株式会社(Overseas Merchandise Inspection Company)のことで、彼は本船に積み込むニッケルの検数をしていたのだ。
坂本さんが、鉱山会社の日本人駐在員宿舎を訪ねてみてはどうかと勧めるので行ってみることにした。坂本さんの他に四人の日本人が鉱山の技術指導や重機の修理の為に駐在しており、先航のブタの丸焼きパーティーで会っている。
ニッケルを運ぶダンプに便乗するのは危険だと言うことで、坂本さんがジープで町まで送ってくれた。町とは言っても、ニッケル鉱山と乾燥工場の従業員及び家族の居住地だ。あとは、インドネシアと密輸をして生計を立てているというモスレムの住民が暮らす一角がある。
塀の中の住居は全てニッケル鉱山と乾燥工場の社宅だという。
ひときわ大きく目立っているのが駐在員宿舎だ。
メイドが四人いた。料理担当、掃除担当、洗濯担当の三人が会社の経費で、さらにもうひとりを、観賞用と冗談を言っていたが駐在員で費用を分担して雇用しているという。
ビールやジンライムをご馳走になって、駐在の苦労話を聞いた。
家族を同伴できる環境ではない、フィリピン人従業員も家族をマニラに置いている人が多い、とのこと。
メイドは、全員英語を話せるのはいいが、そうめんなどの日本料理を教えるのに時間がかかった、最初のうちは、作った料理をうまいと褒めると喜んで、翌日も同じものを作るので閉口した、など。
リオツバを出港した。
端艇訓練が行われた。全員ボートデッキ(端艇甲板)に集合だ。次席通信士の私はライフジャケット(救命胴衣)を着用し非常時持ち出しの全乗組員の船員手帳を持って、ポートサイドのエンジンの無いライフボートの前に走った。スターボードサイドのライフボートにだけエンジンが付いている。
チョッサーの指揮で、スターボードサイドのライフボートを途中まで降下させた。本船は航海しているので、海面までは降ろせない。訓練はここまでだ。ライフボートをエアーモータで格納位置まで巻き上げて、訓練は終了した。
圧縮空気を駆動源とするエアーモータを使うのは、本船を放棄する状態では発電機が停止している可能性があるからか、あるいは電気モータでは配線やモータ自体が塩害で錆びてしまうからか。
休暇下船の電報が来た。前航、八戸入港中に休暇申請をしておいたのが承認された。
私が船乗りになる数年前、労働協約が最も船員にとって有利だった頃は年間八ヶ月乗船、残りの四ヶ月が休暇だった。二日乗船したら一日休みがもらえると考えると、休みが多いように思えるかもしれない。実は陸上サラリーマンの週休二日制と同じだ。四ヶ月というのは一二〇日、その程度の休日は陸上では平均的だ。船員の場合、まとまって三ヶ月、四ヶ月となるから多いように見えるだけなのだ。
オイルショックによる世界的な景気の冷え込みで海上輸送貨物も激減し、労働協約が後退して年間一二〇日の休暇が九〇日に減った。
海上労働者には全日本海員組合、通信士には船舶通信士労働組合という二つの労組があり、ユニオンショップ制となっている。その組合も妥協せざるを得なかったのだ。
年間九〇日の休暇は決して多くはない。一旦乗船したら、下船するまで休みはほとんどない。乗船中の船乗りには曜日の感覚はない。土曜や日曜に休めるわけではないから、今日が何曜日であろうと関係ない。
青森県八戸港。
入港手続き、代理店から船用金を受け取り、給料支給を行ったところで交代の二等通信士が無線室へ来た。
引き継ぎを行い、キャプテン、局長、司厨長、仲の良かったサードエンジャー、サードオッサー、サロン、その他すれ違う全員に挨拶をしてタラップを下りた。
三時のサンパンで上陸し、まずホテルを確保した。まっすぐ家に帰ってもいいのだが、途中までしか行けない。一晩飲んで明日の朝から移動することに決めたのだ。
軽い夕食を摂ってモナリザへ行った。
「あ、水越さん、いらっしゃい」
「休暇になったよ」
「え?」
「休暇下船。明日、うちに帰る」
「あ、そうなの。良かったわね」
「そうか。寂しいとか何とか言ってくれると期待してたんだけど。セールストークでも」
「そりゃ寂しいけど、だけど水越さんはうちに帰れるのがうれしいでしょう?」
「仕事をしたあとの休暇だからね。しばらくは休みたいよ」
「またいつか来るでしょう?」
「分からない。休暇が終わったあとどの船に乗るかはそのときの状況次第。自分じゃ決められないし、希望も出来ない。三ヶ月後に来るかもしれないし、五年後も来ないかもしれない」
「そう。そう聞くと寂しいわ」
「今晩も飯一緒に食える?」
「ええ、いいわよ」
「飯のあともあいてる?」
「水越さん、明日帰るんでしょう。悪いことしないで帰る方がいいんじゃない?」
「真由美ちゃんを好きなんだよ」
「でも、一番は奥さんでしょう」
「今は真由美ちゃん」
「それは奥さんがここにいなくて、私がいるからね」
お見通しのようだ。休暇が決まった今は、真由美に執着は無い。逆に休暇だからこそ、断られて安心したようなものだ。きっと、真由美の言うとおり、彼女とも他のどの女ともなにもなくて、ひとみのところに帰るのが一番だろう。
今夜は飲んで酔って、目覚ましをかけないで眠り、洋光丸の疲れを落として、明日の朝目覚めたら家に帰ろう。
家に帰ったらひとみを思いっきり抱きしめて、キスをしよう。ひとみが一番だ。女はひとみだけでいい。たったひとり、本当に好きな女がいればいい。
ひとみ以外の女とセックスしたところでそれは遊び、楽しくもないし気持ちよくもない。ひとみとのセックスは、他の女とのセックスと違って人生の喜びを得られる。
不思議だ。セックスそれ自体はたいしたことではないが、誰とするかによって全く違うものになる。
船乗りという仕事のためにひとみと一緒にいられないというのは、何か間違っている。仕事は人生のためにあるのであって、仕事をするために人生があるのではない。それなのに、今は仕事のために人生を犠牲にしている。
ひとみと結婚するまでは船が俺の人生だったが、もう船を辞めた方がいいかもしれない。今度の休暇中にその結論をだそう。
ひとみの決心
「もしもし、恵子?幸恵よ。ねぇ、明日、来てくれる?」
「どうしたの?」
「あのね、この頃金曜日、お客さんが多いの。だからきっと明日も忙しくなると思うの。助けてくれない?」
「わかった。いいわよ。七時からでいい?」
「うん。それからね、無理じゃなければ終わりはなるべく遅くして欲しいの」
「そうねぇ、いいわよ。どうせ哲夫がいなくて暇だから」
「ありがとう。ごめんね。じゃ、お願い」
「うん、じゃ、明日ね」
スナック、銀の扉のママ幸恵は私の友達。普段から、店で使っている恵子という名前で私を呼ぶ。
お店は六時に開けるけど、実際には準備を始める時間。早いお客さんでも七時過ぎだから、七時にお店に入っても大丈夫。終わるのは一時。たまには幸恵のために一時までがんばってもいいかな。帰りは幸恵の車で送って貰えばいい。
翌日の金曜日、幸恵が予想したとおりお店にはお客さんがいっぱい来た。若い人も来たし、それなりに人生を過ごしてきた人も。
若い人は元気があって話題も楽しいけど、たまには落ち着いた人と話すのもいい。もちろん紳士じゃなきゃイヤだけど。
正直に言うと、ある程度の年齢に達した人は、それなりの服装や言葉遣い、経済的な余裕も伴っていることが魅力の条件ね。だって若い人には、若いという魅力があるのだから。だけど、あんまりやんちゃなのや子供っぽいのは遠慮したいけど。
この人は四〇代半ばかしら?
「いらっしゃい。」
「うん」
「ボトル置いています?」
「いや。まず、ビールを貰おう」
「はい。どうぞ」
「・・・・・」
「どうぞ、チャームです」
「うん」
「なにかおつまみ頼みます?」
「いや」
「初めてですか、この店?」
「うん」
「私、恵子です。よろしく」
「ビール飲む?」
「あ、戴きまーす。すいませーん、かんぱーい」
「なにか食べたかったら頼んでもいいよ」
「あ、でもいいです。まだ早いからお腹空いてませんから」
「あんまり売り上げに熱心じゃないな」
「いいんです。アルバイトですから。ビールもう一本出します?」
「いや、ウィスキー、ロックでもらおう。シーバスリーガルがあるね」
「ボトル入れます?」
「いや、いい」
「はい、シングルですか。ダブル?」
「ダブル」
「はい、シーバス、ロック、ダブルとチェイサーです」
「うん。恵子ちゃんだったっけ?ちょっとかわいいね」
「ははは・・・お客さんそんなこと言わない人かと思いました。突然言うんですね」
「滅多に言わないよ。滅多にいないから、かわいい子は」
「ありがとうございます」
「恵子ちゃん、ビールが好きなら飲んでいいよ」
「あ、いえ、いいです。お客さんがウィスキー飲んでるのに違うものは頼めませんから」
「店の方針?」
「いいえ、そういうわけでもないですけど」
「ウィスキーは飲める?」
「はい、ロックは飲めませんけど水割りなら」
「じゃあ一本入れよう」
「いいんですか?」
「いいさ」
「ありがとうございます。シーバスリーガルでいいですか?」
「うん」
ボトルのタグに名前を書いて貰わなくちゃ。
「では、これにお名前お願いします」
お客さんは久保と書いた。
「久保さんというんですね」
「うん」
うん、ばっかり。無口なのかな。だけど、私も飲めるようにボトルを入れてくれた。意外と優しい人かもしれない。
「久保さんは何やってる人ですか?」
「まぁ、公務員だね」
「あー、そうなんですか。でも、公務員でもいろいろあるじゃないですか。どんな公務員なんですか?」
「普通の公務員」
「あははは・・・普通の公務員ですか」
優しそうな目をした公務員の久保さんは、ロックをさらに二杯飲んで帰っていった。私が訊いたことには答えるけど、自分からは話さない人みたい。たまには静かなお客さんもいいわ。
「あ、いらっしゃい。久保さんですよね」
「覚えていた?」
「はい。この前ボトル入れて貰いましたから、しっかり覚えてます」
「・・・」
覚えていたと言ったら少しにやっとして、かわいい笑顔。
「ロックでいいんですよね」
「うん。君も飲んでいいよ」
「私の名前、覚えてないでしょう?」
「店のドアを開けるまでは覚えていた」
「あははは・・・久保さん、上手ね。恵子です。良かったら覚えておいて」
「どうせ本名じゃないだろうからね」
冷めた人ね。
「でも、お店では恵子ですから」
「結婚してる?」
「最近は独身です」
「うん?離婚したってこと?」
「結婚してますけど、いまは独身みたいなものなんですよ」
「別居してるのか?」
「どうしても離婚させたいみたいですね」
「よく分からないから」
「単身赴任というのもあるでしょう」
「そういうことか」
「そういうことです」
「何故一緒に行かなかった?」
「一緒に行けないとこなんです」
「海外駐在?」
「そうですね、海外も含めてです」
「また分からなくなってきた」
「夫は船乗りなんです。外国航路の」
「そうか」
「仲はいいんですよ。離婚も別居もあり得ません。本当はこんな店じゃ独身て言った方がいいんでしょうけど、私はアルバイトなので、別に私目当てに通って貰わなくてもいいんです」
「迷惑?」
「そんなことはありません。うれしいですよ。しつこくない人は大歓迎です」
「気をつけよう」
「久保さんは大丈夫そうです。逆にちょっと冷たい感じがするくらい。冷たいのとは違うかな。無口ですよね」
「そう?」
「ほら。返事がね、いつも短いの」
「ぺらぺらしゃべる男の方がいい?」
「人に依ります。久保さんはその方が似合ってると思う。きっとカラオケとかもやらないんでしょう?」
「男はそう簡単に人前で歌ったり踊ったりしないものだと思う。それより、あとどれくらい独身が続く予定?」
「さぁ。早ければ一ヶ月くらいで休暇になるかもしれないんですけど」
「寂しいだろうね」
「寂しいですよ」
「船を辞めて貰えば?」
「私も考えているんです。頼んでみようかなって」
「自分の夫に何かを頼むのに、迷う必要はないと思う」
そうだわ。夫婦として話してみるだけだから別に遠慮することはないわ。今度の休暇中に話してみよう。
寂しいと言うより空しいと言う気がする。いつも一緒にいられたらいいのに。仕事は船ばっかりじゃない。哲夫の夢が船乗りだったのは知ってるけど、ずっと船でなくてもいいのに。もう夢は実現したんだから。
「いらっしゃい」
「うん」
「久保さんのボトル、この前より減ってるような感じ」
「この前来たとき、恵子ちゃんはいなかった」
「あ、そうなんですか。いつもありがとうございます。私、週に二、三日しか出ないんです。ごめんなさい」
「そういえばアルバイトだって聞いたかな」
「はい」
「暇だから?」
「そうですね。それとママが友達で気楽だから」
「ふーん」
「よく外で飲むんですか?」
「時々」
「家では飲まないんですか?」
「毎日」
「奥さんも飲むんですか?」
「うん」
「いいですね、一緒に飲める奥さんで」
「どっちでもいい」
「なんだか投げやりな感じ。倦怠期ですか」
「きっと深い倦怠期だ」
「倦怠期に浅いとか深いとかあるんですか?初めて聞いたわ」
「倦怠期を乗り越えられる夫婦と、乗り越えられない夫婦はいるだろうね」
「久保さんのところは深刻なんですか?」
「絶望的だ」
「そんな暗い顔で言ったら本気にしますよ」
「信じてくれと頼む事じゃないね」
「本当なんですか?私たちもいつかそうなるのかな?」
「どうかな?全部の夫婦が倦怠期を持つかどうかは分からない。けんかはしても、倦怠期のない夫婦だってあるかもしれない」
「あ、そうですよね。久保さんのところはどうしてそうなっちゃったんですか?」
「子供が生まれてから、母親として子供に掛かりっきりになった」
「小さいうちは手がかかるから、奥さんも大変だったんでしょう?」
「小さいうちはいいけど、ずっとだ」
「お子さん、いくつなんですか?」
「中学二年生」
「じゃ、もう全然手はかからないでしょう」
「うん。今は子供にべったりって訳じゃないけど、子供にかこつけて夫婦の関わりを避けている」
「一緒に出掛けたりとか、あんまり会話も無いとかってことですか?」
「うん、何もない」
「久保さん、こんなこと訊いていいのかな。もしかして夜もですか?」
「昼も夜もだよ」
「久保さんが浮気したとか、そんなことはないんですか?」
「無い」
「怒らないで下さいね。逆に奥さんに好きな人が出来たとか?」
「知らない。どういう理由でも、俺を避けている理由がはっきりするなら、その方がいい」
「倦怠期と言えば倦怠期なのかな?」
「うんざりするよ」
「久保さんも奥さんに飽きているんですか?」
「いや、そんなことはない。一緒に出掛けたいとも思うし、話しもしたいと思う。だけど、たまに誘っても断られてばっかりいたらうんざりするよ」
「そしたらもう誘うのもイヤになったり?」
「そうだ」
「私は夫が家にいなくて寂しいけど、久保さんは奥さんが家にいるのに寂しいんですね」
「ふっ・・・そうだね。人生、うまく行かないものだ」
久保さんが最初無口な感じがしたのは、こんな悩みを持っていたからなのかもしれない。元々は優しい人みたい。きっと今だって、奥さんとの仲を修復できるならしたいようだもの。
「いらっしゃい」
「やぁ、元気?」
「はい、元気出すしかないです。久保さんは元気ですか?」
「元気ないけど、元気なふり」
「ははは・・・でも、元気そうですよ」
「さぁ、一緒に飲もうか」
「あ、戴いていいですか。すいません」
「まだ、帰ってこないの?」
「夫ですか?この前の入港中に、休暇申請を出したって電話がありました。まだ、どうなるか分かりませんけど、今頃船は日本に向かっているはずです」
「そう。休暇になるといいね」
「はい」
「いいね、素直で。それに、会いたいって気持ちがうらやましい」
「だって、結婚してからも一緒にいない時間の方が多いんですよ」
「そうか。倦怠期なんかになる暇がないか」
「ちょっとしたけんかくらいはしますけど」
「直ぐに仲直りする?」
「そうですね。もったいないですから、時間が」
「せっかく一緒にいるんだからね」
「久保さんも船に乗る?」
「そしたら娘の母親は大喜びだろうな。毎日俺がいないんだから」
「えー、そんなこと無いでしょう」
「きっとそうだよ」
「ね、久保さんて本当に浮気したこと無いんですか?」
「無いよ」
「どうして?」
「そう簡単に相手が見つかるものじゃない」
「久保さん、結構ハンサムですよ。私のタイプかも」
「外交辞令は誰でも言うよ。その先がない」
「久保さんが、奥さん以外の人に興味がないんでしょう?」
「あるさ。浮気して何かが変わるなら悪いことじゃないって思ってるくらいだ」
「それは、奥さんを振り向かせるって意味?」
「うん」
「やっぱり、一番は奥さんなんですね」
「まぁ、うまくやれるものならやっていきたいとは思う」
「久保さんていい人ね」
「もう一つ。浮気して自分の気持ちをそっちに置いておいて、自分が家庭に余り期待しない様にするという効果もあるかもしれない」
「それは、寂しさなんかをその彼女とつき合うことで埋めて、家では今まで通り奥さんが冷たくても我慢して行くってことですか?」
「恵子ちゃん、頭いいね。そうだ」
「うーん。それでも、子供のためには家庭が維持できるけど、やっぱり寂しいですよね」
「うん」
「久保さん、もしチャンスがあったら浮気する?」
「しない理由は無い」
久保さん、だんだん親しみのある話し方になってきたみたい。もしかしたら結構楽しい人かもしれない。
「いらっしゃい」
「まだ、ボトル残ってる?」
「少し残ってますけど、今日で終わっちゃいますね。良かったら入れて下さい。お願いしまーす」
「商売熱心だね」
「久保さんと話をするのが楽しいから」
「なんだかプロらしくなってきたな」
「そんなんじゃないです。久保さんのお話、勉強になるから」
「なんでもいいけど、それ一緒に飲んでしまおう」
「はい。じゃ、がんばりましょう」
「毎週金曜日は店に出るように決まってる?」
「別に決まってはいません。ただ、金曜日はお客さんが多いので、私も店に出ることが多いです」
「そうか。俺もほとんど金曜だから、この店に来るのは。だから恵子ちゃんに会えるのか」
「なんとなく私も、金曜は来るようにしていたんですよ」
「俺に会いたくて?」
「ちょっとだけ、あるかも」
「ちょっとだけ、か」
「あははは・・・その後いかがですか?」
「なにが?」
「奥さんとの仲」
「何も変わらないさ。ということは、少しずつ悪化してるって事だろうな」
「え、どうしてですか?」
「危機的な夫婦の仲が良くならないで現状維持ってのは、時間が経つほど悪い方向に行くって事にならないかな?」
「あ、そうか。そうかもしれませんね」
「何かショックみたいなものがあって、急激に変わらない限りダメのような気がする」
「もうひとり子供を作るのはどうですか?」
「それ以前の段階。子供を作るどころか、手も握らないんだよ」
「なんだか冗談みたいだけど」
「うん、冗談だったらいいけど」
「人ごとみたい」
「人ごとだよ」
「諦めてるんですか?」
「半分以上」
「でも、まだ奥さんが好きなんでしょう?」
「いや。子供がいるから。それだけ」
「そういう優しいところが、久保さんらしい」
「優柔不断なんだよ」
「そうやってわざと憎まれ口きくのも久保さん」
「褒めすぎだ」
「あら、ボトル空いちゃった」
「入れてもらおうか」
「ボトルを入れてくれる久保さんが一番好き」
「ふっ・・・恵子ちゃん、かわいいな。見てくれだけを言っているんじゃないよ」
普通なら暗い話なのに、久保さんが話すとそんな感じがしない。不思議なキャラクター。ボトル入れたから、まだ当分来てくれそうだわ。
「いらっしゃい」
「やぁ」
「お元気でした?」
「うん、変わりない」
「と言うことはお元気ですね」
「そうかな」
「もう。相変わらずぶっきらぼうですね」
「相変わらずかわいいね」
「あらー、珍しいこと。久保さんらしくないわ」
「俺の何を知っていると思っている?」
「残念ながら奥さんと仲良くないって事よ。一番大きな事でしょう」
「もう、一番大きな事ではなくなってるよ」
「誰かガールフレンドでも見つかったんですか?」
「まさか」
「奥さんを愛してるから?」
「それも、まさか、だ」
「いつまでも今のままじゃつらいでしょう」
「恵子ちゃんこそ、寂しくてつらいだろう?」
「はい。正直、寂しいです」
「浮気したことは?」
「えー!ありませんよ!」
「浮気したいと思ったことは?」
「ないです!」
「じゃ、浮気に興味はある?」
「もう、久保さん、しつこいんだから。だけど、本当のこというと、浮気って言えるかどうか分からないんですけど、男の人とドライブに行ったことはあるんです」
「ドライブの次は?」
「もう会っていません。相手の人も奥さんがいて、お互い何もしないで家に帰りましょうって言ったら分かってくれたんです」
「土壇場で怖じ気づいた」
「やっぱり、怖くなって。というよりふたりとも胸を張って家に帰りたかったの」
「いい女だな」
「え?どういう意味ですか?」
「言葉の通りの意味だよ」
「別の人と、映画を見に行ったこともあるんです」
「そして、映画を見て帰ってきた?」
「実は、キスされちゃったんです」
「ほう」
「突然で、ほんの一瞬、あっという間だったの」
「後悔してる?」
「今でも、後ろめたいわ」
「かわいい女だ」
「え?」
「そんなことで後ろめたいなんて、かわいいよ」
「浮気性のイヤな女でしょ」
「恵子ちゃんの気持ちも分かるし、相手の男の気持ちも分かる」
「相手の男の気持ちって?」
「誰だって恵子ちゃんとキスしたと思うさ」
「あら、口説いているの?」
「分からない」
「なーに、それ。がっかりだわ」
「口説かれたい?」
「私も、分かりません」
「だけど、人の奥さんだしね」
「いやなんですか?」
「恵子ちゃんの家庭がうまく行っていないわけじゃないから」
「いい人ですね、久保さん」
「旦那が居ないすきに盗むのは最低だよ」
「居たら?」
「堂々と口説ける」
「きっと久保さんは、奥さんとうまくいってなくても浮気なんかしないで、ちゃんと離婚してから次の人を探すんでしょう?」
「チャンスがあれば、無駄にはしない」
「ドライブとか映画は、私にとってのチャンスだったのかなぁ?」
「旦那とうまくいっているのに、そんな無駄なことをする必要はないと思う」
「あら、久保さんは無駄にはしないって言って、私のは無駄なことですか?」
「なんの意味も無いことだよ。寂しいからって、そんなことしてもそれは偽りの人生だ」
「そうですね。夫がそばにいたら考えもしないことだわ」
「ずっとそばにいてくれるように頼めばいい」
「そうします。今度海から帰ってきたら」
(終)




