メルティローゼ、目覚める
えっ、なに、なに、このぶよぶよで動くのにも不自由な感じの体。実際に動けませんし。そして、この管と口を覆う硬いもの。さっきから聞こえるこの謎のピッピッは、新種の小鳥の囀り?
えっ、どなた?
急に視界に入ってきた白い衣服に口を白い布で覆った男性に驚いていたら、その男性が「奇跡かもしれない」と慌てて消えて、別の男性と現れた。こちらも整ったお顔とは言い難いですが、良さそうな身なりをなさっていますわね。そこそこの家の方なのでしょう。
「のばら~目が覚めて良かった~」
どうなさったのか、分からないけれど、私のことを泣くほど心配してくださっているようだわ。
「おかあさん……よかったぁ。バスが突っ込んだって聞いて……」
申し訳ありませんが、私、あなたを生んだ覚えはありませんわよ。きっと人違いでしょうね。
「ごめん。ほんとごめん。けんか腰だったとは言え、昨日は酷いこと言って……君にバスがぶつかってもバスが吹っ飛ばされるだなんて、ほんと酷いよ。ごめん、まさか、本当にぶつかるなんて……でも、良かった、うん、良かった」
こちらも申し訳ないのですが、私、あなたとけんかするほどの仲だとは思えないのですけれど……。そんなことを思っていると、先ほどの白い衣服の男性が私の口を覆っていた緑色のものをどけた。なんだかよく分からないけれど、さっきから「全て正常、奇跡としか考えられない」ばかり言っている。
私にとっては奇跡どころか、婚約破棄されて絶望の中に……あったはずなんだけど。
確かに、このぶよぶよの絶望感はあの衝撃に匹敵するとも取れなくはありませんけど……。
私に飛びついてきた二人は、あたりまえのようにして私の膝の辺りでぐしょぐしょ泣いて、よく分からないことばかり言っているけど。だけど、バスって……まぁ、そんな乗り物があるのですね。なんだかよく分からないものですが、馬車などよりも快適そうですわ。これはいったい誰の記憶なのでしょうね。だけど、動けるようになりましたら、ぜひ、乗車させていただきたいものです。
ところで本当にどうなさったの? 私は、確か、婚約を破棄されて、その衝撃で頭が真っ白になって……その先は本当に覚えていないのだけど……。いいえ、私はいったい誰なのかしら? よく覚えていませんわ。
だけど、本当にどうなさったの? そう思い、管につながった腕を伸ばし、生んだ覚えもないその娘の頭を撫でると、この体にある記憶に触った。
こちらが唯一の旦那様で、こちらが、ぶよぶよのこの方唯一の娘……なのね……。まったく見知らぬお顔だけれど、確かにそうらしいわ。
私、と言いますか、このぶよぶよのご家族なのですね。
それをきっかけに『のばら』と呼ばれた私は、彼らに関する記憶も思い出した。
毎日私だけを見てくれる旦那様とちょっと反抗期の可愛い娘。こんな反抗くらい身分も弁えないシンシアに比べればかわいいものね。分かってくれないから拗ねていらっしゃるんでしょう?
まぁ、本当は適度にかまって欲しいのね。ほんと良い子だわ。
よく見れば、つぶらでかわいいお目々ですこと。まるで小鳥のようじゃない。コトリちゃんと呼ぼうかしら。泣き声はビービーで、かわいいとは言いがたいですけれど。
そう思っていると、また新しい記憶に触れる。
「行ってらっしゃい」と「おかえり」を繰り返す、平凡だけど必ずやってくる裏切らない毎日。彼らのために作る夕飯。美味しそうに食べてくれる彼。「ただいま」の声に「おなかへった~」と私を頼る可愛い娘。あら、ユリナというのね。『ユリ』とは、お花のお名前なのね。『ナ』は小鳥の好きなお野菜なのね。面白いお名前ね。
かわいい小鳥のユリナだわ。
娘として思えなくても、侍女のひとりとしてかわいがってあげましょう。
それにしても、あの大きいだけで何も見えていない緑の瞳と桃色の髪色通りの脳内お花畑娘シンシア。思い出すだけでも吐き気がするわ。そして、そんな女に現を抜かしたリック殿下。こちらを思い出すだけでも腹が立つ。
涼やかな瞳に流れる金髪は、本当に見せかけだけの色味のものだったわ。本当に気色悪いわ。あげく、私が悪いと言い出すなんて、本当にどうかしている。
どうして、リック様の白馬にあの女が一緒に乗れるというの? あの場所は私のものなのに。
乗りたいからって乗っていい場所ではありませんことよ。
そうよ、女腹の私じゃ心許ないなんて。確かに女の子が生まれる方が多い家系でしてよ。だけど、シンシアを抱き寄せながら、にこやかに馬を操るあんな姿を見せられて、側妃を置くならシンシアのような女性なんて言うから。冗談にも程があるわ。あんな成り上がりの男爵令嬢。平民と変わらないじゃない。私は由緒正しき公爵家の血筋よ。そうよ、彼らみたいに、どんなぶよぶよでも、私だけを見てくれないと。
「もうお泣きにならないで。私は大丈夫ですから」
リック様とは全然違う。いっそ清々しい程の容姿でも、この男のように、胡麻のような小さな瞳と泥油のような真っ黒な髪だったとしても、殿下に比べれば清涼感極まりないわ。
「まぁ、リクというお名前なの?」
「のばら、大丈夫? うん、陸だよ。元王寺 陸。君は、元王寺 のばらでしょう? 分かんないの? なんか雰囲気も変わったような気もするけど……平気なの? 痛いところない? お医者さん呼んでこようか?」
泣きはらした目の彼が、娘と同じく小動物のようにちょこんと私を見つめる。そうね、手懐かないリック様なんかよりずっとかわいいわ。こんなぶよぶよな女をこんなに想ってくれる殿方なんて、そういないもの。この体の持ち主は、よほど愛されていたのね。
それにしても『のばら』という女。
私が入ったがために、お亡くなりになってしまわれたのかしら。申し訳ないことをしてしまったようね。
そうね、預かったからには、立派なレディにして差し上げませんとね。のばら、私、ちゃんとこの娘を育ててあげますわ。
「やっぱり、どこか?」
陸の声に、ふと我に返る。きょとんとしているその顔はどう見てもリックに似ても似つかないもの。
「ふふ、大丈夫。ほんとうの清々しいお方ね」
だけど、このぶよぶよを引き締めることは始めましょう。さすがに、みっともないわ。それに、記憶によれば、若い頃は美人だったと自負されているようですし。磨いて差し上げるのも良い戯れになりましょう。
それに……。小動物のような二人は、手をかければ見栄えも良くなり、きっとかわいくなるでしょうしね。
「屋敷に帰るのが楽しみだわ」
「屋敷?……。う、うん。頭は大丈夫なんだよね。先生も脳波も正常って言ってたし……。うん、早く元気になってうちに帰ろう」
自分の妻が宇宙人に見えて仕方がない陸のことなど、メルティローゼは全く気にしなかった。