のばら、思い出す
馬車に揺られること数時間。そろそろ腰が痛い。金持ちでも若くても大変なものなのね。
そんなふうに世界を眺められるようになった私は、長閑に広がる我が領地とやらを眺めていた。この辺りは農村地帯らしい。
「もう少しで町に入りますので、窓はお閉めになってくださいね」
隣には私と共にずっといるらしい侍女リリーがいる。
リリーという名前を聞いて、本来の我が子の名前が思い出される。
百合菜、どうしてるかしら? 制服のネクタイ、洗ったままだったけど、アイロン掛けたかしら……。
どうも、この世界の記憶を思い出すにはこの世界のものに触れる関わるが必要なようで、私の世界を思い出すには、言葉のきっかけが必要なようだ。
どちらにしても、戻る道はなさそうだけど。
色々混濁してきた私の中で、こちらの世界が夢なのか、あちらの世界が夢なのかそれすらよく分からないくらいになっているのだ。
長い夢からやっと醒めた。そう言われれば、納得してしまいそうなくらいに馴染んでいる。たった数時間なのに、とても不思議だ。
「リリー? 尋ねても良いかしら?」
そう、話し方すら無意識に体に添っていく。この世界って、魔法とか存在したりするのかしら……。ほら、よく聖女の力とか……。娘が言っていたもの。
あれが、聖女の婚約破棄なのかしら? それとも、悪役令嬢の方? ヒロインはシンシアだったのかしら?
ピンク色の縦巻きロールシンシアを思い出しながら、そんな過去に思いを馳せる。
「混乱なさるのは当然ですもの。私に分かることなら」
「ありがとう」
魔法のことはなかったら恥を掻きそうなので、私自身のことから。そう思いながら、どちらにしても聞くのなら、薄らぼんやり頭の今なのかもとも思い始める。
だけど、とりあえず、
幼い頃は? 何が好き? 何が嫌い?
自分の根幹を支える情報から。これは『のばら』のものなのか、『メルティローゼ』のものなのか、それを知っておきたかった。
そんな思い出の中に、魔法が得意だったとか苦手だったとかもあるかもしれない。
「私って、どんな子だったの? 今の私と全然違う? あんなに嫌われるような……」
でも、本当はたぶん、旦那と娘のことを忘れたくないから。ちゃんと別のものって思っておかなくちゃ、混濁の中の夢の奥になりそうで、怖かったのだ。
リックには驚いたけれど。だけど、その名前で家族を思い出したのだから良かったのだろう。
私の旦那は、元王寺 陸。読み方気を付けて呼んで、とよく言われていた。
その読み方で、学生の頃はよくからかったものだが、まさか私がその名字を名乗ろうとは、今と同じく、その頃は思いもしなかった。
「お察し致します」
郷愁に耽る私を婚約破棄のショックだと勘違いしたのは、無理もないだろう。どうも、本当にこの子、リック殿下のことを大好きだったみたいだし。
ほっそりした体には豪華すぎるようなドレスだって、彼の好みにちゃんと合わせて選んでいた。とても重たくて、ウエストを締め付けすぎて腰が折れそうなのに我慢してきていたような子。思わず自分を抱きしめてしまう。
こんなふうに抱きしめられたら、少しは変わっていたのだろうか。
気が強くて、素直に頼れなくて、意地を張っていて。プライドもあったんだろうけど……。
「お嬢様は小さなものが大好きでした。屋敷にある小さな花、ちいさな鳥。蝶なんかも良く愛でられておりました。社交界へ出掛けられるようになり、小物をご自分で選ばれることがあると、細々しすぎているとよくご両親に叱られているほど」
確かに、今身につけているものは素材を強調させるようなものばかり。大ぶりの紫石の付いた金のネックレスに、お揃いのイヤリング。大きなリボンが胸元で花を開かせており、フリルがふんだんに使われている重厚なドレス。宝石と同じ系統の髪色はハーフアップで編み込まれていた。
百合菜の髪も良くこうやって結ってあげていたなぁ……。
髪に触れると、それは自分で編んだ物だと知ることが出来た。
「これは自分で?」
「えぇ、それも覚えてらっしゃらないのですね」
「えぇ、今日のことは特に」
嘘だけれど。本当は今日のことだけじゃなくて、全部なんだけど。
「リック殿下との婚約以降のことは覚えているわ」
それも嘘だけど、もうそれは必要のない情報だろうから。
「そうですわね。お嬢様は必死になって殿下に見合うようになされておりました。そんなお嬢様は、よく私の髪も結ってくださっていましたよ」
「そう……『私』に戻れるかしら……」
だけど、髪を結うことが好きということも私を驚かせていた。
若い頃は美容師をしていたのだ。いつか独立して……と夢を見ていたけれど、百合菜を妊娠して、家庭に入ることを決意したんだよね。陸はサラリーマンだったし、そのまま扶養に入っちゃおうと思って。
だから、ブランクさえ埋めれば、ハサミと櫛さえあれば、なんとか食べていけるとは思っている。ちょうど、働き口を探そうとは思っていたところだし。
そう、思っていたところ。あっちの世界では求人を見ながら溜息しか出なかったけど。
問題は、この世界に髪結いの仕事があるのかどうかだけど。需要があるのかどうか、なのだけど。
そして、私も大ぶりのものよりも小ぶりのものが好きだった。小さな石が鏤められたようなペンダントや小さなダイヤの指輪は、陸がくれた物だ。今はないけど。
陸の髪はすぐに脂っぽくなるから、新婚当時はよく毛根から洗ってあげたけれど、最近は触るのも嫌だったなぁ。確か、昨日は大げんかをして、生ゴミ呼ばわりしてしまってて……。
あぁ、もう、謝る機会もないんだな……。
溜息にリリーが何とも言えない顔をするので、「気にしないで続けて」とお願いする。
「本当は甘い物が大好きで、よく菓子鉢を覗くお子様でした。でも最近は綺麗にならなくちゃ、と控えてらっしゃいましたから……」
あぁ、そんなのもあってストレス溜めちゃったのかなぁ……。甘い物は良いのよ。食べ過ぎなければ……。私が言えたことじゃないけど。
頑張って整えた体なんだね、これ。ちゃんと維持する。
この子、私が今ここにいるってことは死んじゃったのかしら?
頑張るからね。努力の結晶だものね。
そんな私に、リリーは優しく微笑み「後で甘い物をお部屋にお持ちしますね」と言ってくれた。
彼女とは仲良くやれそうな気がする。本来なら逆の立場の年齢だけど、すっかり頼ってしまいそうだ。
そうこうしているうちに、賑やかな町の門が見えてきた。
城下町のようなものみたい。いくつかの伯爵家も従える、大きな公爵領らしいから。
本当に、お姫様のようなお育ちだったのね。そう思い、言いつけ通り窓を下ろした。