おまけ「のばら、マーラーを知ること」
メルティローゼはひとりでくつろぐ特別タイムに、のばらはパート先の休憩時に珈琲を飲むことが習慣だった。
もちろん、婚約後のローゼはその飲み物も控え、レディの嗜みとしてお茶を飲むようにしていたのだが、お店の方も少しずつ軌道に乗り始めているのだからと、リリーがローゼに珈琲を用意したことで、疑いを持たれた、ということになったのだろう。
「あら、珈琲? 嬉しい。リリーありがとう」
香りから発せられたローゼのその言葉に、リリーはまた首を傾げていた。
この飲み物は『こーひー』ではなく『マーラーの施し』なのだ。いや、マーラーの施しだけではない。あの婚約破棄の後から、ローゼの発する言葉の中に、リリーの知らない単語が含まれていることが多々あるのだ。
リリーはそんなことを思いながら、ローゼと共にそのマーラーの施しをいただくことにする。
偉大な水の神様であるライラの神獣マーラーが人類に与えたとされる、赤い木の実からなる、飲み物。ライラの生き血とも言われるものである。
しかし、それは人類に与えられた施しなのだ。だから、親しみを込めたり、略したりして『マーラー』や『施し』と呼ばれることもあるが、決して『こーひー』ではない。
そのため、リリーは時々、本当にこの方はメルティローゼ様なのだろうか、と思ってしまうのだ。
だから、半分は無意識にマーラーの施しを準備したとも言えるのかもしれない。
しかし、もしローゼでなかったのだとしても、それを突き付けるつもりもない。
ただ、知っておきたいだけなのだ。
見た目は完全にお嬢様なのだから。
ただ、知りたいだけ。
そうリリーが思うのは、リリーにとってのローゼが本当の娘のように思えるからだった。ローゼが生まれた頃は、ちょうど公爵家の跡継ぎ問題が勃発しており、現公爵夫妻は子どもに目を向けるどころではなく、ローゼのお世話のすべてをリリーがしていたと言って、過言でなかったのだ。
だから、こうして時々彼女を試したくなるのだろう。
なるのだが、今のところ、すべてが彼女自身なのだろうなという答えしか得られない。
共に買い物へ行っても、ローゼが好みそうだなと思うものを手に取り、お店に来る商談相手に対して腹を立てそうだなと思うことには、腹を立てている。
だから、これは単なる違和感……それを確かめたくて、試してしまう。
リリーは信じたくて、ローゼの顔を見つめていた。
そんなローゼは、ちょこっとそのマーラーの施しを舐めた後、眉を顰めた。
「ねぇ、リリー」
「どうなされました?」
ごくりと息を潜め、リリーは彼女の言葉を待つ。
「ここにミルクをたっぷり、蜂蜜も入れてもいいかしら。苦くて飲めない……だめ? 太っちゃう?」
リリーは大きく息を吐き出した。
「いいえ、少しくらい大丈夫ですよ」
あぁ、やっぱりお嬢様なんだな。
「お嬢様、リリーは『こーひー』という飲み物を知りません。この飲み物は『マーラー』 水神ライラ様の神獣の名を持つ神聖な飲み物なのもお忘れなのですか?」
だから、安心して指摘しても良いのだ。
「えっ、そうだった?」
「えぇ、そうなのですよ。神獣マーラーはライラ様とつながる重要なシンボルなのですから、おぼえておいてくださらないと。ほら、あの蛇口だってそうでございましょう?」
そうよ。指摘をしたからって、お嬢様を失うわけではない。
「えっ、あれ、マーライオンじゃなかったの?」
こうやって、不思議なことばかり言うようにはなってはいるけど、根底はお嬢様に間違いない。だから、お支えしなければ……。これは、私に与えられたライラ様からの使命なのかもしれないわ。
「えぇ、マーラーです。お嬢様、もし分からないことがありましたら、まずリリーにお尋ねください。お嬢様に何があったのかは知りかねますが、リリーはお嬢様の味方でございますので」
「う、うん……」
自信がなくなると小さくなってしまうのも、幼い頃から変わらない。
だから、リリーは「ミルクと蜂蜜を持って参りますね」と立ち上がり、もう一度自分に言い聞かせるのだ。
元気であればいいわ。そうよ、リック殿下と一緒にいた頃のお嬢様よりも、ずっとお嬢様っぽいのだもの、と。




