第2話、列車
「──貴女どういうつもりッ!?」
会社の入り口で突然背後から声をかけられ振り返ると、全速力で走ってきたのか、ゼェハァと息切れを起こしながらこちらを睨み上げてくる女性がそこにいた。全く見ず知らずの女性……状況が飲み込めず困惑していると、女性の口から自分の上司の名が出てきた。
その名を耳にした途端、私──咲難始は全てを察し嫌悪感を抱き顔を歪めてしまった。
(なんで……自分が怒られなきゃいけないんですか……ッ)
心の中でそう呟き、怒りを堪え歯を食いしばった。
***
前回の任務先はとある山のトンネルだった。今日は別の場所とはいえとある山の駅と聞き、心の中でアロンザは“また山か”と思ってしまった。
この頃行き先が山ばかりだったため、いい加減同じような見慣れた景色を眺めるのにうんざりしていたのだが、心地よい夜風が体に触るこの感覚は嫌いじゃない。溜め息もつきたくなっていた気分の脳内もスッキリさせてくれた。
目的地の駅へ着くとアロンザはコートの左側の尻ポケットに左手を突っ込み、中から銀の腕輪を取り出し左手首に#嵌__はめ__#める。
この腕輪は“隠輪”……、これを付けると自分の姿が人間からは見えなくなる。前回のトンネルの時はうっかり隠輪を忘れてしまった。
あの時出会っていた人間が空太ではなく警察だったら、怪しまれてそのまま捕まり今頃は檻の中にいたかもしれない。その反省もあり、今日はきちんとこうして持ち歩いている。
駅員に姿を見られず改札をすんなり通り駅のホームに来ると、アロンザは近くのベンチに座り待機する。今夜は自殺者を自分から探すのではなく“待つ”のだ。
(そうだ、魂玉を作っておかなければ。)
アロンザはコートの左側の尻ポケットから、桃色の粉が入った布の袋を取り出した。トンネルの時と同じように、袋の紐を解き、紐に結ばれたカッターで自分の手の甲を少し切って血をポタポタと粉に落とす。
血の付いた部分の粉を指で掬い上げると固まっていて、軽く磨くと丸くツルツルとした錠剤のような物になる。二度目の説明だが、決して怪しい薬ではない。
一応もう一度説明しておこう。これは“魂玉”と呼ばれる削除者には必要不可欠な物、これを飲むと自殺者からあまり魂を削られないよう防止してくれる。これを飲む必要がある時は、自殺者の作り出した空間に入る場合か、または“自殺者の中”に入る場合のどちらかである。
そう、アロンザがこれから入る場所は──自殺者の“中”だ。
(……来たか)
プシュゥゥと音を響かせ自殺者という名の列車が到着し、アロンザは水無しで魂玉を一つ飲み込むと中へ入って行った。
この列車の姿は駅員には見る事ができないし、音も聞こえない。見る事も聞ける事もできる者はこの自殺者が狙ったホームにいる人間か、アロンザのように人ではない者だけだ。
列車の中をキョロキョロとじっくり見渡しながら歩いてみる。すると近くの座席に、干し柿のように干乾びた人間の女性が虚ろな瞳でダランと力無く座っていた。
「……犠牲者か、」
アロンザはとそう呟くと、干乾びた女性にゆっくりと近づき観察する。服からして何処かの学校の制服みたいだが、その姿は学生にしては見た目が八十代くらいに見えた。
「好奇心が自らを殺したか」
怪しげな列車が通ると噂を聞き、面白半分で来たのかとアロンザは想像するが、すぐに“そうとも限らないか”と察する。
学生の隣には鞄が置いてあり、その鞄は横に倒れていた。中から少し見えているクシャクシャのノートの切れ端には、手に取って読んだわけではないので少ししか読めなかったが、“列車に行け”と文字が書かれていた。
これもただの想像だが、内容は噂か何かで聞いたこの列車について本当なのか気になったクラスメイトの誰かが、“調べてこい”とこの学生に押し付けたのかもしれない。もしそうなら本当に気の毒だ。
(好奇心は自らだけでなく、時には誰かを滅ぼす事もある……か。)
時間は無限ではなく有限だ。長居をすれば自分の命も危ないため、早く自殺者を止めなければならない。アロンザはまた周りをよく見渡しながら歩き、前方を見てふと考える。
(運転士は居るのか……?)
この列車自体が自殺者なのだ。運転士が居るのか疑問に思うのは当然である。この自殺者を止める何かの手懸かりにならないかと思い運転席へ歩き出す。走りたいところだが、走行中は走ると体がよろつき危ない。もし転びそうになった隙に自殺者が襲ってきたら危険だ。
運転席へ着き中を覗き込むと運転士は居なかった。アロンザは目を閉じ考える。次に確認しなければいけない事は、自殺者がどうやって人間から魂を吸っているかだ。
先程見た学生は干乾びた姿をしていた。この自殺者は誘い込んだ人間の魂を吸い取り、それを養分として#蓄__たくわ__#えて動いているのだと想像する。問題はその魂をどうやって吸い取っているのか。
学生をまた調べてみる必要があると判断し、学生の座っていた座席へ戻ろうと振り向いたところで異変に気づく。
……焦げ臭いのだ。学生が座っているであろう方向から微かに煙が見え、アロンザはコートの右側尻ポケットからハンカチを取り出し、早歩きで急いで近づいた。
(これは……)
学生はまだそこに座っていたが、その体は燃えていた。数分もかからずに学生の全身は燃え尽きてしまい、残った物は少し焦げた鞄とノートだけだった。学生証もノートの切れ端も体と一緒に燃えてしまったらしく、この燃えた鞄が誰の物で何故この鞄の持ち主はこの列車に乗ったのか、もう誰にも知られる事はないだろう。
運転士がいるかどうかを確かめる前に、もう少しこの学生の状態を調べておけばよかったかと思ったが、そんな事を考えている余裕など今はない。こうしている間も少しずつではあるが、アロンザの魂は削られている。
「……他の人間を探すか」
他にも同じように犠牲者が座席に座っているかもしれない。周りを見渡し、他に人間が居るかどうか確認するために探す。
アロンザは歩いていた足をピタリと止める。少し距離があるが、前方にスーツ姿の女性がキョロキョロと周りを見渡しながらうろついていた。
先程アロンザがこの列車に入ってきた時に同じく入って来たのだろう。入ってくる時二十三時を過ぎていたと思われるため、この時間帯なら仕事帰りといったところか。……しかしどこか違和感がある。
アロンザのような人ではない者には相手のオーラでどんな種族かわかるもので、女性は死者でも天使でも妖怪でもなく、れっきとした生きた人間なのは間違いない。
では何が引っかかるのか……、アロンザは数秒間考えてすぐにわかった。アロンザは女性に近づき声をかけるが、女性はその声に気づいていないようで「ここ寒すぎ、氷みたいです。」と、列車内の気温の低さに両腕を擦りながら体を震わせてそう呟いた。
列車内が異常に寒いのは、此処が自殺者の中であるからだ。死者が近くに居る時寒気を感じるものだが、これは霊から発せられるもの。それが死者の体内なら当然その寒さは増す。
「それに……臭い。」
女性は寒気だけでなく次に左手で鼻を押さえてそう呟いた。臭いも寒気と同様に霊から発せられるもので、“何かが腐った生ゴミのような臭い”がする。
仕事で慣れているアロンザは動じないが、慣れていない人間からすると当然の反応だろう。
「あぁ、そうか」
アロンザは何故女性が自分の姿と声に気づかないのかと首を傾げていたが、よく考えたら今人間に姿を見られないように隠輪を付けていた事を思い出す。隠輪を外して左側の尻ポケットへ仕舞ってから、目の前にいる女性にもう一度「少しいいか」と声をかけると、女性は肩がビクリと跳ねた後にゆっくりとこちらを振り返り、声も出ない程に驚いた。
アロンザは見た目だけでも目立つ、その上槍という物騒な物まで持っているため、鎌ではないがぱっと見死神か何かと勘違いもするだろう。女性はあまりの恐怖に、転ぶかもしれない列車内にも関わらずその場を危なっかしく走り出した。
案の定女性はガンッと近くの握り棒に右腕をぶつけてしまいそのまま転がる。その様子を見たアロンザは呆れて深く溜め息を一つつき、女性に歩み寄る。針か何かを隠し持っていないか怪しまれないように、黒の革手袋を取ってから左手を差し出す。
「危ないだろう」
女性は握り棒にぶつけてしまった右腕を押さえながら暫くアロンザの顔を見ていたが、右腕を押さえるのをやめ恐る恐るアロンザの手を取り、起き上がらせてもらいながら礼を言った。
(やはり、荷物を持っていない。)
アロンザは革手袋をはめ直しながら、先程感じていた違和感を再確認する。女性は確かに社会人らしくスーツを着こなしているが、見たところ女性の近くに落ちているのは財布一つだけ。仕事帰りにしては荷物が少な過ぎる。
女性はアロンザが死神でもなく悪い存在でもないとわかると、混乱していたとはいえ自分のとった行動があまりにも失礼だった事に気づき、慌てた様子で頭を下げる。
「ごめんなさいっ!」
「当たり前の反応だろう……謝る必要はない。」
アロンザも女性が混乱していた事はわかっている。女性は恐る恐る顔を上げると気にしていない様子のアロンザを見てホッとする。
「貴方は何者なんですか?」
言ってしまった後に女性はすぐにその発言も失礼だったなと気づき反省する。知らない相手にいきなり“誰だ”と聞くなど自分は何様なのだろうと思い「わ、たしは咲難始と言います。……すみませんいきなりッ」と、律儀に名乗った上でまた謝罪をしてくる。普段なら言葉を選びながら会話もできるのだが、きっとこの異常な事態に冷静でいられないのだろう。
アロンザもそれに対して理解はしているため「謝らなくていい」と言った。
「それより、座席には座るな」
「え?」
アロンザはそう言うと、先程、始に歩み寄った時に見つけた“それ”の方へ行き、始は気になりアロンザについて行く。
それの所まで来ると、アロンザは始に見せるために座席に座っているそれを指差す。始はそれを見ると目を大きく開き、口元を両手で押さえながら後ろへ何歩か下がり尻もちをついてしまった。
アロンザが指を差したのは“犠牲者”だった。席がこんなにも沢山空いているのに座らない者はほぼいないだろう……この列車に入ってきた者は座席に迷いもなく座るがそれは罠、そこに座ればこの列車という名の自殺者の養分となり、魂を吸い取られて干乾びてしまう。
この犠牲者は座ってからそれ程日は経っていないように見えた。まだ完全に干乾びてはいないが、この犠牲者は見た目が五十代後半くらいなのに対し、服装は十代後半くらいの女性が着そうなお洒落な物だった。
「恐らくこの列車の座席に座ればこうなる。体は徐々に干乾びていき、最後には燃やされてしまう。」
始は言葉が出てこなくなり、犠牲者を見たまま固まっている。アロンザが「始」と呼ぶと、始は口を開けたまま何とも言えない表情でアロンザを見上げた。
それもそうだろう。始は普通の人間、おかしな空間に誘い込まれて、槍を持った不思議な存在に出会って、さらに不気味な干乾びたミイラのような物を目にして、混乱しないはずはない。此処が自殺者の体内だなんてわかる訳ない。
アロンザは始の左手首を右手で掴んで立ち上がらせる。アロンザは始を安心させるよう自分なりに柔らかい笑みを浮かべ、「お前を助けよう。」と言った。
その後に、アロンザはこの列車について説明する。
「理解できないだろうが、この列車は列車ではないんだ。」
始の眉間に皺が寄る……無理もない。いきなり「これは列車ではない」と言われれば普通の人間なら理解はできない。それでもアロンザは話を続ける。
「この列車は、元は自殺した人間だ」
「それはどういう……」
これだけではまだ意味がわからないだろう。アロンザは少しずつ説明した。
自殺した人間は千年間死んだ時と同じ死を繰り返す事、永遠にも思えてくる繰り返しに耐えられず、解放されたいという気持ちが“怨念”として体内に溜まっていき、自殺者は姿形を変えて暴走する事……。
始は何とか話についていこうと黙って顔に汗を浮かべながらも聞く、もしかすると始はアロンザを「この人は何を言っているんだろう」という目で見ていたのかもしれない。
今はそれでもいい。兎に角、この始を助けるためには座席を使わせない事だ。無理にでも話を聞かせて座らないように警告しておく。
「この列車の自殺者は、列車そのものに姿を変えるという暴走を起こしている。」
「それはつまり──」
「私達は今、自殺者の口の中に居るという事だ。」
始は口を開けたまま驚いた様子で固まった。数秒後小さく乾いた笑いが口から零れ、右手でこめかみ辺りを抱えながら自分の足元を見つめる。
いきなりそんな非現実的な事を言われても困惑する。だが非現実的な事が現在起こっているのも事実。始はどうしていいのかわからず、右手でこめかみ辺りを押さえながら髪を強く握り絞める。
「理解はしなくていい……ただ、座席を使うな。それから私の傍にいろ。」
「お兄さん──えと、お姉さんの傍に?」
始はアロンザの姿をぱっと見て、男のようなキリッとした目、顔、高身長……それから野太い声で男性だと思っていたらしい。改めてアロンザを見ると、女性らしい大きめの胸に細めの腰で女性だとわかった。
変な列車に乗り数十分で衝撃的な出来事を連続で見てしまったせいで、アロンザの姿をよく見ていなかったらしい。始は慌てて三度目の謝罪をすると、アロンザは「気にするな、慣れている。」と返した。本人は気にしていないようだが、女として言われたら自分は嫌だなと思うと、始は申し訳ない気持ちになった。
アロンザは始に背を向け、魂を取られている最中の犠牲者を見る。
「この自殺者を止める方法を今探している。運転士は居なかった。次に手懸かりになりそうなものはこの犠牲者だろう。犠牲者の共通点は"座席に座っている"……なら、そこを調べてみればいい。」
そう言うとアロンザは犠牲者の体をベリッと座席から引き剥がす。始は剥がされた後の犠牲者を見ると、声にならない悲鳴を上げる。
犠牲者の後頭部、背中、腰、尻に……、まるで巨大な薔薇の棘のような物が突き刺ささっていたのだ。棘はゴクリゴクリと音を立て、砕いた食べ物を喉に通すように犠牲者の“中身”を飲んでいる姿がそこにはあった。
歯と歯がぶつかり合いガチガチと音を立てて震わせる始は、早くもまた尻もちをつきそうになる。アロンザは槍でその棘を無慈悲に突き刺すと──ガタガタガタン! ギ、ギ、ギ、ギィィィィ~ッと、突然音を響かせながら列車が激しく暴れ出す。
二人はバランスを崩しそうになるが、アロンザは槍を棘に刺したまま始に振り返り「私に掴まれッ!!」と指示する。列車全体が激しく揺れてバランスが取れず混乱している始に、アロンザはまた怒鳴るように指示した。
「早く掴まれ!! 死にたいのかッ!!」
その言葉に始は我に返り、自分は“生きたい”のだと知る。一度気づかされると徐々に感情が高まっていき、両目に大粒の涙がじわりと浮かび右目の方からボロリと零れる。
***
遡る事一週間前……、始は新入社員としてここへ入社してきた。新生活と同時に職場にも早く慣れたくて必死な毎日、疲れる事も沢山あった。そんな少しでも心が折れそうな時に、"上司"がたまたま居酒屋で見かけた始に声をかけてきたのだ。
この上司がとんでもないパワハラ男だった──隣の席に座ってきては部下である彼女に対し、馴れ馴れしく距離を縮めるように話しかけてきては、勝手に始の分まで会計を済ませては、帰りに家まで送るとまで言ってきた。しかし流石に断った始に対し、「上司の親切心を無下にするのか」と言ってきて、拒否権を与えてはくれなかった。
結局、家にまでついてきた上司は酔っていたのか、なんとここで「茶の一つでも出せ」と家の中にまで入ろうとしてきた。始は何とか上司を中には入らせないよう必死に断り、タクシーを呼んで帰らせた。
その日以来、上司は始に付き纏うようになった。休憩所にいれば高確率で話しかけてくる。隙あらば食事に誘ってきて、……そこまではまだよかった。
「ゃ、……めてくださぃ……って!!」
「"やめて"? 今、俺にそう言ったのか……っ?!」
いきなり何を思ったのか、手首を掴めれた始は空きの部屋に連れ込まれ、上司から服を無理矢理脱がされそうになったのだ。それも"色目をつかってきたから、そういう事をしたかったのだろう。"とかいう理解不能な理由。上司は始が押し返しながら拒否すれば、上司は押し返された事よりも、"やめて"との発言に苛立ちを覚えたのか、始の胸ぐらを掴んで怒鳴ったのだ。
上司は頭に血が上り、嫌がらせにスマートフォンをポケットから取り出して、カメラ機能で服が肌蹴た姿の始に向けた。始は恐怖と羞恥心が同時に込め上げ声が出ず、そのまま両肩を抑え座り込んでしまう。怖くて……声が、全く……出せない。妙な震えが止まらない。
「……いい眺めだ……"これをばら撒かれたくなければ、"……わかるな……?」
上司のうっとりとした不気味な目と表情をちらりと見て、すぐに顔を背けてしまった……。
──それから、上司はあの日拒否された腹いせに他の部署で始のある事ない事を話し始めた。挙げ句の果てに、上司に女の影が見えた奥さんが、職場の前にまで来て始に怒りの表情を浮かべ、"どういうつもりだ"と怒鳴ってきたのだ。周囲の人間が、始を最低な女だとヒソヒソと話し始める。
始が……どんなにその時悔しかった事か……。
***
──始は死のうとしていたのだ。涙が顎の辺りまで伝うと、始は生きる事を決心したのかキリッとした目でアロンザを見上げて言う。
「生きたいですッ!!」
始は振り落とされないようアロンザにしっかりと後ろから抱き付くと、溜め込んでいたであろう気持ちをぶちまける。
「なんであんなクソ上司なんかのせいで私が死ななきゃいけないんだ!! セクハラしてきて脅迫されて、あんな奴のせいで私の人生を終わらせてやるもんか!! 馬鹿馬鹿しいッ!! 死ぬもんか……生きてやる!!」
始もこの列車である自殺者と同じで死ぬために此処に来たのだ。荷物が少なかったのもその理由、駅のホームに入るため財布だけを持っていた。列車に乗ったのは行く宛ても死ぬ場所も決まっていなかったからなんとなく乗った……といったところか。
しかし、どうやら適当に乗ってきて正解だったらしい。こうしてアロンザに出会い、本当は死にたくないのだと自覚し、生きる事を決心したのだから。
アロンザの話を信じるなら、自殺した後その者は千年間死んだ時と同じ死を繰り返す。そして段々永遠にも思えてくる繰り返しに耐えられず、怨念と呼ばれるものが体内に溜まり、この自殺者のようになってしまう。
アロンザは彼女の事情は知らないが、自殺にまで追い込む程に最低な上司だったのだろう。そんな相手のせいで何故このような思いをしなくてはならないのか、始は考えれば考える程馬鹿馬鹿しく思えてきた。
始は再度叫んだ──“生きてやる”と。アロンザは始から生きる気力が湧いてくるのを感じ、嬉しそうにフッと一瞬笑みを浮かべる。槍で突き刺していた棘からは、シュオシュオシュオと怨念が霧のように出てきて刃にどんどんと吸い込まれていく。
それを目にした始は“何これ”と言いかけるがやめる。この短時間で充分おかしな出来事を沢山目にしてきたのだ。今更何を見ても一々反応するだけ疲れる。
「次はあそこに座っている犠牲者の所へ移動する!! 掴まりながら一緒に走れ!!」
「……はいっ!!」
今は生きるために、アロンザの指示に従っていた方がいいだろうと判断する。始はアロンザに指示されるがままについて行く。アロンザは犠牲者を引き剥がし、棘が座席に引っ込む前に槍で突き刺す。怨念没収が済めばまたそれの繰り返し、始はその光景を近くで見ているだけだったが、彼女の荷物にはなりたくない。離れないようしっかりと抱き付いていた。
揺れは激しくなっていき、列車に変化が起きる。天井から何やらグパリという音が聞こえて二人は見上げた。
そこにはなんと、二つの巨大な赤い瞳の目がこちらを恨めしそうに睨んでいたのだ。白目の部分は墨のように黒く、体内を突かれて余程痛いのか眉間には深い皺が寄っていた。二つの目は地を這うような声で唸り出す。
これには流石の始も恐怖で悲鳴を上げてしまうが、アロンザに抱き付く両腕は離れなかった。
「自ら現れたか、どうだ、一寸法師に腹の中を突かれた鬼の気分だろうな。」
アロンザは“待っていた”と言いたげな表情で、弱点であろう二つの内の右目に槍を深く突き刺した。すぐに槍を抜いてもう片方の目にも深く突き刺すと、槍をぐりんぐりんと回すように押し付け左目を苦しめる。自殺者は悲痛な叫びを列車内に響かせ、大粒の墨汁のような涙を浮かべて床にボトボトと溢した。
グワンッグワンッグワンッとあり得ないくらいの激しい揺れを起こしだし、そろそろだと感じたアロンザは始を強く抱き締める。
「口を閉じていろ、舌を噛むぞ!!」
始は言われるがまま、口を固く閉じた。
──パッと、視界は列車内から黒が広がった世界に変わる。その黒は先程まで散々見てきた墨のような色ではなく、今まで見てきた非現実的な出来事を一瞬全て忘れさせ、頭の中を空っぽにしてくれる涼し気な優しい黒だった。
列車の姿など跡形も無く、突然消えた乗り物から投げ出される浮遊感を味わいながら始は夜空を目にする。……月が、とても綺麗だった。
二人は抱き合ったまま、地面や岩等に何度も体をぶつけながら転げ落ちる。
「……ぃっ……たぃ……ッ」
普通の人間ならば骨も折れているのだが、始は何故か掠り傷等で済んだらしい。少々時間をかけたが上半身を起こす。後頭部も強く打ってしまったのか、出血はしていなかったが激痛が走り、両手で後頭部を押さえる。
勿論全身も痛い。少し動かしただけでも痛みで顔を歪める。綺麗に着こなしていたスーツも土だらけになり汚れていた。
始はアロンザの無事を確認するため周りを見渡してみると、近くで倒れている彼女の姿が見えた。始はふらつきながらも立ち上がり、彼女に近づく。
「あの、……!?」
始は自分が掠り傷で済んだ理由を知る……列車から急に投げ出されて軽傷で済むはずもなく、アロンザのコートはあちこち破けており、そこから深い傷が見え血が滲み出てコートを染めていた。頭からもじわりと血が流れており、近くにあった岩にもべとりと血が付いていたので、恐らくそこにぶつけてしまったのだろう。
アロンザは自分の身を犠牲にして、始の体を軽傷で済むように抱き締めていたのだ。始は血の気が引きアロンザを揺さぶる……彼女がいなければ自分はどうする事もできず、最悪の場合何も知らずにあの列車の座席に座って、他の犠牲者の仲間になって干乾びていたかもしれない。
始にとって彼女は命の恩人、死なれては困る。始は必死に目を覚まさせようと何度も声をかけた。
「起きてくださいよ!! ……ッ」
名前を呼ぼうとしたが、始は彼女から名前も聞いていなかった。それでも諦めず、先程よりも大きな声で叫んだ。
「起きて……起きてってば!!」
その時、後ろからザリッと草を踏む音が聞こえた。ドクリと始の心臓が飛び跳ね、嫌な予感がしつつも恐る恐る後ろを振り向いてみる。
始は小さく「……ひっ」と怯えた様子で声が出た。そこにはガッポリと空洞になった両目の無い茶髪の女性がこちらを見て倒れていたのだ。先程の列車だった自殺者だろうか、手足は変な方向へ曲がっていた。
自殺者は“ひドい……ヒどいョ”と悲しそうな声でめそめそと泣く。
始は呆然としていた。自分は死ぬために此処へやってきた。自殺者に殺されるとは想像もつかなかったが、死ぬ結果は確かに自分が求めていた事だった。しかし今は違う……、本当は死にたくないのだとアロンザに気づかされた。
始は今生きたいと思っている。折角生きようと決めアロンザに助けられながらも生還したのに、こんな形であっけなく自殺者に殺されるのだろうかと思いつつ、ただの人間に自殺者に勝てるはずがない事も始は察していた。
信じられない速さで体を転がしながら向かってくる自殺者をただ眺める事しかできなくて、諦めて乾いた笑いが口から漏れた時だった──銃声が鳴り響く。
「……ぇ?」
始の真横で仰向けに倒れていたアロンザが、重傷なのにも関わらずぐるりと即俯せに体勢を変え、両手で銃を構え自殺者を撃ったのだ。その銃は槍が使えない状況の時のために装備していた物だった。
アロンザは生きていた。気絶していたが自殺者の気配を感じ目を覚まし、安静にしなくてはならないくらいの傷にかまわず無理に体を動かし、自殺者の額に穴を空けていた。自殺者の額からは残っていた怨念が出てきてアロンザの銃に吸い込まれていく。自殺者は元の場所へと戻るため消えていった。
始はハッとして、自殺者が撃たれた時横で銃を持つアロンザの手が少し見えたので、きっと助けてくれたのだろうとわかり、礼を言おうと彼女の方へ顔を向けるが……既に始の目にはアロンザの姿は見えていなかった。
「あれ? いない……。」
アロンザの左手首には隠輪がはめられていた。本来、天使や妖怪は必要以上に人間の前に姿を見せるべきではない。始の命を守りきった今、姿を見せる必要はもうなくなった。
俯き体勢のままは流石に辛いため、アロンザは再び仰向けになり右の手の甲を額にペタンと置いた。隣にまだ座っている始はポツリと呟く。
「そんな……まだ私お礼も何も言えてないのに、……ありがとうって!!」
アロンザはそれを聞いてフッと笑い、声が聞こえていない始にこう返した。
「聞こえてるさ」