第1話、トンネル
挿絵:雪野鈴竜・背景:あやえも研究所
「……はぁ、」
自分の恋人が約束の場所に来ない事を、女性──真美はわかりきっていたので深く溜め息をつく。恋人は初めからその気がなくとも承諾してしまう癖があり、なんやかんやと先延ばしにしては結局行かないという流れを作る。彼女はそれを知っていても、あえて待ち合わせの場所で待機していた。真美が何故あえて来ない彼を理解しつつこの場所へ来たのか……答えは実にくだらない。
これは意地だった。"自分は待ち合わせの場所にまで来たけど、貴方はすっぽかしたよね。"と後々思い知らせたいとかいう小さな理由だ。実際は彼が後悔しない可能性の方が高いだろうが、"それでも"……だった。
ところで、彼女が今どんなところで待ち合わせをしているのか、七月とはいえ日が沈めば少々肌寒くなるこの時間に現在、真美は人気のない山奥に来ていた。あと数歩先には大きなトンネル……とても楽しい場所とは言えない薄気味悪い雰囲気が漂っている。肌寒いとはいっても、外を歩けばべたりとした汗が滲み出る程度には暑い、その上、虫よけスプレーも撒いて家を出てきたので、嫌な感じに身体中コーティングされたようで不快感を覚えた。
スマートフォンを鞄から取り出し、真美はチャットアプリ、"ニニンショトォク"を開いた。恋人との個人チャットをタップし、『今、トンネルにいるからね。』とメッセージを飛ばす。……数十分経っても彼からの返信は既読さえ付かなかった。これもわかりきってはいた事、真美はただ自分が不貞腐れているだけだという事も自覚しているし、彼が自分の趣味のオカルトジャンルに対して興味がないのも知っている。だからこの心霊スポットにも来ない。
ただ、普段彼のしたい事に付き合っているから、たまには自分の趣味にも付き合ってほしかったという我が儘だった。仕方ないながらも一緒に付き合ってくれる様子が見たくて、でも……。
(悪い奴ではないし、寧ろ優しい時も沢山あるんだけどね。)
真美は空を見上げる。この日は少し曇っていて殆ど星が見えなくて、自分の心情を映しているようだった。……さっさとこのトンネルに入って、適当にスマホで動画撮影でもしながら歩いたあとに出よう。真美はニニンショトォクを閉じて、カメラ機能に切り替えてトンネルに向かう。
「……っ」
目の前にまで近づいたところで、違和感を覚える。……なんだろう、何が引っ掛かるのだろう。彼女はまだ気づいていないが、このトンネルは入り口から一歩トンネル内に踏み出す地面の境界が無い……? 一歩踏み出せば底なしの大穴にでも即落下してしまいそうな程、"くっきりと"、墨汁よりも黒い色に染まっていた。
彼女は足の指先から頭の天辺にかけて一時的に動かなくなってしまう。本能的に、脳内で警報が鳴り響いた。真美は徐々に両肩が震え出し、歯と歯がぶつかり合いガチガチと聞こえるか聞こえないかの音を鳴らす。"入ってはいけない。"──意地とかプライドとか以前に、理由もわからずこの場を今すぐにでも走り去りたかった。
(ぁれ、……まって、)
足が、前へゆっくりと動く。
(まって、……待ってってば!!)
抵抗する。脳内で何度も動くなと指令を出す。自分の身体だ、言う事を聞くはずなのだ。
(……ねぇ、)
先程から、右頬辺りに、よく見えないが二つの目がある気がする。こちらを、じっ……と、ジッと。
(…………だれ?)
声が右頬にかかった感覚がして、耳に入った……"イ、ィ、ナ、ァ、"と……。
***
この世界は、“天界”・“現世”・“冥界”の三つの世界で安定している。
一つ目の世界は“現世”、人類が現在暮らしていると認識している世界の事。
二つ目の世界は“天界”、人類とは違い天使と呼ばれる者達が住む世界の事。
三つ目の世界は“冥界”、人類や天使とは違い妖怪と呼ばれる者達が住む世界の事。
現世で人が死ねば魂だけの状態になり、天界か冥界のどちらかへ行き転生する。大きな罪を犯さなかった魂は天界へ送られていき、大きな罪を犯した魂は冥界へ送られていく。
天界行きの魂は好きなだけ天界で過ごしていられる。魂に肉体はないので天界で溢れるという事はなく、その姿も現れたい時に現す事ができる。
冥界行きの魂は妖怪達に確保され地獄と呼ばれる場所に連れて行かれる。魂に肉体はないが、痛みと苦しみを味わいながら罪を償わなければいけないため、肉体が与えられる。
大体の魂はこの二つの場所に分けられるが、例外も中にはある。……それが“自殺者”だ。
自殺者とは、わかりやすく説明をすると自ら死を選んだ者達の事である。自殺をする人々には様々な事情もあり、精神的な苦痛や生きる事に疲れてしまったり、誰かに追い込まれ自ら死ぬしかなかった者も中にはいる。
しかし、例えどんな事情や理由があろうと、天界に存在している“神”がそれを許さない。魂は神によって作られ生死を繰り返す。その魂を自ら捨てる行為は神への冒涜となり、自殺者には地獄とは別の方法で罪を償わせる。
自殺者は自ら死んだ罪で“千年間死んだ時と同じ死を繰り返す”のだ。ちなみに、自殺者は転生も許されないため、その魂は償い終えてもその場で消されてしまう。自殺者は永遠のように感じる死の苦しみに耐えきれず、時には姿形も歪な物に変わり狂暴化する。
暴走した自殺者は、無関係の生きた人間やまだ妖怪達に確保されていない彷徨う霊達を喰ったりする。自殺者達は無関係の者達を喰っている間だけ苦しみから解放され、自由に行動ができるからだ。
勿論、暴走した自殺者達を放置する訳にはいかない。こういう時に暴走を止める者達も存在する。
自殺者の魂の管理を任されている組織──“削除者”、削除者は天使達の職業の一つである。暴走した自殺者を抑え、千年間償い終えた魂を削除する。
挿絵:雪野鈴竜
──此処はとある山の坂道、外は信じられない程に暑かった。彼方此方の木にはジンジンと蝉達が騒いでいて、その鳴き声がさらに暑さを増している気さえした。そんなクッキーでも焼いているオーブンの中にいるような暑さの中、灰色の分厚いコートに黒の革手袋という組み合わせで長い坂を登っている者が一人いた。
白髪の後ろ髪は一つの三つ編みに纏めてあり、長さは足首の少し上くらいまである。目つきは鋭く、その瞳はシトリンのような金色だった。顔だけ見ると男性にも見えるが、胸は大きくウエストも引き締まった体型を見ると女性だとわかる。それだけでも目立つ見た目なのだが、さらに右手には槍まで握られていた。
彼女の名はアロンザ、人間ではない。人類が住む現世と呼ばれたこの世界ではなく、天界という別の世界からやって来た天使だ。その天使が現世に何の用があるのか、それは一つしかない。
ただの山登りのためではなく、今彼女は仕事でこの世界に来ていた。仕事で現世に来る天使の職業といえば……“削除者”だ。
「この辺りのはずだが……。」
アロンザはそう呟けば、地図が表示されたスマートフォンをたまに確認しつつ坂をまた登り始める。暫く登り進めていると、一台の車がアロンザの近くで停車した。
蝉の鳴くこの暑い中、見ていて暑苦しい服装を着ているだけでも目立つのに、右手には槍まで握られているのだから充分に怪しい。大体の者なら関わりたくないだろうが、その者は気になったのだろう車の窓を開けてアロンザに声をかけてきた。
「兄ちゃんそこで何して……あれ、女の子? しかもコスプレさん?」
見た目は二十代前半だろうか、金髪に染めた髪に耳にはピアス、上は紫のTシャツに下はダボダボのズボンという見るからに軽そうな男だった。男は一瞬アロンザを男性だと思ったらしく、体の形からして女性だとわかっては驚いた。
アロンザは丁度いいと思い「道を教えてほしい」と今自分が向かおうとしている場所を男に聞くと、男は彼女の声を聞いてさらに驚き目を丸くした。それもそうだろう……アロンザの声はまるで男性のように、寧ろ男性にしか聞こえない野太い声だった。
しかし、男は切り替えが早くすぐにニカニカと笑みを浮かべながら聞いてもいない名前を名乗り出し、一気に馴れ馴れしい態度になる。
「オレオレ、空太! 良かったらこれからさぁ~あ? 海にでも行かね? こぉんな山ァ歩いててもつまらなくね?」
アロンザは空太が言い終わるのを待った後に、「この近くに廃トンネルがあると聞いたのだが……」と聞いてみた。“廃トンネル”……、それを耳にした途端に空太の目は大きく開いて固まり、ブツブツと鳥肌を全身に立たせた。“まさか……冗談だろ?”とでも言うような顔で空太は聞き返す。
「コスプレさん。それマジで言ってんの?」
「あぁ、仕事でな。」
空太は「遊びならやめておけ」と顔に嫌な汗を浮かべながら忠告するが、アロンザは表情一つ変えずに彼の目をしっかりと見たまま、トンネルについて詳しい話を待った。それを見て空太は溜め息を一つつき、渋々トンネルについて話し始めた。
「あそこは本当に戻れなくなるんだ」
空太の言葉にアロンザはさらに真剣な顔つきになり、目を細める。
「聞かせてもらおう。」
近くに車を停車させた後、空太はズボンの右側ポケットから煙草の箱を取り出す。箱の中から煙草を一本抜き取り、火を付けようと右側のポケットからライターも取り出した。ライターを親指で何度も動かそうとするが震えてしまいなかなか付けられず、やっと火が付けられたのは十秒後くらいだった。
深く吸い込んだ煙を口からゆっくりと吹く、顔や腕には暑さだけではないだろう怯えの混じった汗が沢山浮かんでいた。顔からは血の気が引き、唇を震えさせながら空太は口を開く。
「あそこで……俺の彼女が“喰われた”んだ。」
「“喰われた”?」
空太の話によれば、そのトンネルは“人食いトンネル”と呼ばれているらしい。不思議なことに、トンネルへ入った者は翌日──入り口の近くに“その者の服だけが”捨てられているのだという。
「服だけなんだよッ!! それ以外はねぇんだッ!!」
空太は彼女の服だけが残されていたトンネルの入り口を思い出し声を荒げ車を殴った。ふと、アロンザは疑問に思い「何故、お前の恋人はトンネルへ?」と聞くと、空太は開いている窓から左手を突っ込み、車の中にあるドリンクホルダーから飲みかけの缶コーヒーを取り出した。缶に口を付けて一気にゴキュリゴキュリと喉を鳴らしてコーヒーを飲み干し、落ち着いてからまた話し出す。
どうやら彼女はオカルト好きで、ある日空太に“一緒にあのトンネルで動画を撮ろうよ”と誘ってきたらしい。オカルトに興味もなく気乗りしなかった空太はなんやかんやと返事を曖昧に返していたが、彼女は空太が行かなくても一人で行く気だったらしく、翌日にはトンネルに行ったのだという……。
空太は服だけが見つかった時の事を思い出したのか、涙を流し右手で両目をゴシゴシと擦って拭う。未だに彼女の事が忘れられないらしい……いや、“忘れられないから”、彼女が消えたトンネルの近くにこうしてまたやって来てしまうのだろう。見た目は軽そうな男性だが、それだけ好きだったのだろう。
そう想像はできるが、一応気になりアロンザは聞いてしまう。
「何故お前は未だにこの廃トンネル近くに来ていたんだ?」
空太は暫く黙った後に、口を開く。
「罪悪感……だと思う。俺が真美にはっきりと“行かないし、あんまそういうとこ行くな”って言っとけば……ッ」
真美というのが彼女の名前だろう。“自分の中途半端な対応が、彼女を殺してしまったのかもしれない。”……そう何度も思い返しては、後悔してしまう。もしかすると彼女が帰ってくるかもしれないと、そんなありえない期待も持って、空太は今日もまた此処へ来てしまうのだ。
空太からトンネルの話を聞き、間違いなく此処のトンネルに暴走した自殺者がいるだろうと確信したアロンザは、最後に道を聞いてから空太と別れ背を向ける。
歩き出してから数秒後──ガンッと大きな音が鳴り響き、アロンザは音のした方向へ振り返ると目を丸くさせた。
先程までは壊れていなかったガードレールが壊れていたのだ。何があったのか近くまで歩いて下を見下ろすと、空太が乗っていた車が下で煙を出しながら潰れていた。……自殺だ。
(また一人、自殺者が増えたか……。)
自殺者は死んだ時と同じその場所で千年間死を繰り返す。千年経てば転生もできず、削除者がやって来てその場で魂を跡形もなく消される。
千年間死を繰り返す自殺者は、その永遠のように感じられる繰り返しに耐えられず、痛みと苦しみから解放されたいという気持ちを体内に溜め込む。それが“怨念”と呼ばれるもので、怨念を溜め込むと暴走し、見境なく生きた人間や他の霊を"喰おうと"する。
自殺者は暴走している間だけ痛みと苦しみから解放されるため、必死に抵抗するだろう。そして空太も、今日から千年間耐えなければならない。
アロンザが今日来たのも、廃トンネルにいるであろう暴走した自殺者の怨念を没収するためだ。
廃トンネル前に到着すると、アロンザは真っすぐとトンネルの中を見つめる。中は闇に包まれており、一度入ったら二度と出られないようにも感じた。アロンザはコートの左側の尻ポケットから、布の袋を取り出す。袋の紐にはカッターも結ばれていた。
(一歩踏み出す度に、魂がかなり削られるな。)
袋の紐を解くと中には桃色の粉が入っていた。その上から自分の手の甲を紐に結ばれたままのカッターで少し切って、血をポタポタと落とす。血の付いた部分の粉を指で掬い上げると固まっていて、指で軽く磨くと丸くツルツルとした錠剤のような物になる。これは決して怪しい薬ではない。
これは“魂玉”……、これを飲むと自殺者からあまり魂を削られないよう防止してくれる。だがどちらにしろ長居は危険、早めに任務は終わらせるべきだろう。
魂玉を一粒口に放り込み、コートの右側の尻ポケットから水が入ったペットボトルを取り出す。ペットボトルのキャップを外した後に口を付けると、水で魂玉を流し込む。アロンザはペットボトルを見つめ、“暫く水分補給はできないだろうな”と思った。
自殺者の作り出した空間は時間の流れが早く、予め持ってきた食料も腐るのが早い。歩いている途中飲食で食中毒でも起こしたら間抜け過ぎる。トンネル内での一日が外では十年って事もあり得るのだ。
少し飲んだペットボトルの水を、トンネルの入り口近くに咲いていた花達にドボドボとくれてやる。カラになったペットボトルは花の近くに置いた。
置かれたペットボトルを見つめながら、“戻ってくる頃、この小さな花達はどのくらいまで成長しているのだろうか”とアロンザは考えていた。
──トンネル内に入り十歩目、既にアロンザは魂をかなり削られていた。少し息苦しく、顔には汗が浮かぶ。まだ十歩目だというのに後ろはいつの間にか入り口が見えなくなっていて、周りは完全に闇に包まれており自分の姿さえ見えなくなっていた。
歩けば魂が削られる。無駄に彼方此方移動せずに、後は自殺者が自ら襲い掛かってくるのを待つ。アロンザは持っていた愛用の槍を構えてその場で待機する。
もしこのまま自殺者が、アロンザが自ら歩いてこなければ攻撃してこないタイプなら……、それは絶望的だろう。アロンザは魂をこれ以上削られればかなり不利だと判断して歩けずにいるのだから。
勝利の場合は、敵が自ら襲い掛かってきた時だ。向かってくる相手にアロンザは狙いを定めて敵を倒し全ての怨念を没収。元の何もないトンネルに戻り、削られた分の魂も体に戻って来る。
敗北の場合は、魂が持たず命が尽きた時だ。歩いていない間も魂は少しずつ削れているのだから、敵が死体となったアロンザの体を食べるだろう。
空気は凍えそうな程寒く、聞こえてくるのは微かな風の音だけ、何が出てくるかもわからず何も見えない視界。歩けばコツンコツンと自分の足音だけが響くこの状況は、大体の者なら孤独感や恐怖心に全身が包まれ気が狂いそうになるだろう。
アロンザは削除者だ。この仕事を選んだ時から常に死と隣り合わせだという事は覚悟しているため、取り乱さなかった。
──二十四時間が経過。時間をかけながら魂が削られていく中、あれからアロンザはその場から一歩も動いていなかった。
その場に居るだけでも魂が削られるのなら移動しても同じではないかと思われるが、動けば動かなかった時より魂の消費が激しいため、移動していたら今頃体は干乾びていただろう。
アロンザは二粒目の魂玉を水無しで飲み込む。魂玉は残り四粒、一粒で一日分だとすると体は後四日は持つ。普通の人間なら精神的にも肉体的にももう耐えきれず、出口も見つかるはずもないのに彼方此方走り回ったり、必死に助けを求め叫んだりもするだろう。自殺者の思う壺という訳だ。
……しかし、どうやらこの勝負はアロンザの勝利のようだ。アロンザは一瞬感じた目の前の気配に、構えていた槍を使い一突きで“それ”を仕留める。
一瞬で目の前まで向かってこれた敵の速さは認めよう……しかし残念だ。痺れを切らし隙が出たのか一瞬でも気配を出してしまった事、それから真横や後ろからではなく真正面に向かってきた事だ。解放されて自由の身になっても所詮自殺者、頭で考える程の脳はないので当然か……アロンザの槍はしっかりと自殺者の胸を貫いていた。
胸の大きさからして女性だと思われる。その表情は歪ながらも“やっと苦しみから逃れたのに、また繰り返しに戻ってしまうのは嫌だ”と、声の出ない口をパクパクと金魚のように開けたり閉じたりしながら、真っ黒な目からタラリと血の涙を流していた。
「……ッ!!」
アロンザの脳内に、この自殺者のものと思われる記憶が流れ込んできた──アロンザは、"きっと、この自殺者にも事情があったのだろう"と、せめてもの慈悲を込めて見届けようと大人しく記憶を受け入れた……。
***
女性──恵子は裕福な家庭に育った。両親からは欲しい物があればごねなくても買い与えてくれる……まさに餌を待つのが当然の雛鳥。だからだろうか、彼女には"友人"と呼べる存在がいなかった。
両親から新作のゲームを買って貰うと、クラスメイト達は恵子の机を囲んでは『どんなゲームだった?』『楽しかった?』と聞いてきた。恵子は嬉しくて皆を家に誘い、思う存分遊ばせた。漫画を買えば貸してとやってきて、可愛いアクセサリーを買えば貸してとやってきた。
恵子は嬉しそうな皆の笑顔が大好きだった――卒業する数日前までは。
「けーこちゃんのマンガ、まだ返してないやっ」
教室の前まで来て、扉に手を伸ばそうとして手が止まった。もうすぐ卒業式、皆とも別々の学校になるので寂しいと感じていた恵子は、つい、自分の名前が出てコッソリと聞いてしまう。何故コッソリと自分は聞いているのだろう? それは皆が自分に対しどう思っているか気になったから。何で気になっている? 怖いから、なんで怖いの? それは……それは、いや、薄々は感じていた。
"いいんじゃない? あの子お金持ちだし。"──大丈夫、まだ傷ついていない。まだ……。
「お金持ってる子ってサイコーだよねえ! いくらでも遊べちゃうっ! けーこちゃんはつまんないケド!」
やっぱり、だ……。
──恵子は、自分が特別可愛いとも思っていないし、面白いとも思っていなかった。お金があるというだけで、友達という名の中身空っぽのプレゼントボックスになり果てていた自分に対し、虚しさと苛立ちが募った。"ならば、勉強を頑張ろう。"兎に角、周囲に何でもいいから認めてほしかった。
……周囲はまた集まってくれた。恵子は嬉しくて皆に勉強を教えた。教えたらみんな、すぐに離れた。わからなくなればまた集まってきた。違和感、なんだこれ、知っている。これは、……。中学に入学しても、結局友達はできなかった。
それから高校でも友達はできなかった恵子は、そのまま大学へ進んだ。そこで一人の男子が話しかけてきて、きっとまた何か自分に不純な動機があるに違いないと思った。今度こそ傷つかないよう恵子は警戒して、初めは彼を拒絶していた。
だが、彼は諦めず普通に接してくれた。恵子は段々、彼は今までと違うと思い始めたのだ。
「恵子の事、真面目に考えたい。だから、返事を待ってほしい。」
惚れた弱みというやつか、恵子はプライドも捨てて思い切って告白をした。どうせ断られると思っていただけに、意外な返事に自らの耳を疑った。目をまん丸にして顔を上げると、爽やかな笑みを浮かべた彼の姿がそこにはあった。そのような返事をされたら、期待せざるを得ないではないか。
……しかし、いつからだろうか、彼の口から段々とこんな単語が出てくるようになった。
「飼い犬が、……病気で手術する事になったんだ……その費用が……。」
「た、ぃへんだね。じゃあ、わ……たしが、」
信じた。
「婆さんがもう長くなくてさ、最後に旅行行きたいらしくて、金が……。」
「……そう、だね。思い出作らなきゃね。……よければ、出すよ?」
わたしは信じた。
「父さんがッ! 事故で!」
「……わかった。」
──ねぇ、信じたョ?
「サリちゃんっ! 欲しがってたバッグ買ったよ!」
「ぇ、……いや、困るんだけど。じ、自分で買うって……。」
「いいからいいからっ!!」
……彼は、片想い相手に振り向いてほしくて貢いでいた。なんて、なんてむなしいのだろうか、ワタシは彼がスきで、ぉ、カネかねをぁ、げてたぉニ。なんで、ぉもシろぉいね、いっぽぅ通行じゃないカッ、なんてバ、かばかしィンだろうっ! し、んでャ、う、ぉ、前のよくとおる道知ってぅ! おま、ェの車、で、……! じん、セぃ、おまェのじんせぇこわしてやるッ……!!
***
──トンネル内の暗闇が少しずつ晴れ、出口から光が差し込む。アロンザはしっかりと、自殺者となり果ててしまった彼女の全てを見届けた。自殺者の胸から槍を抜き取ると、体内に溜め込んでいた全ての怨念が黒い霧となって出てきては、槍の刃に吸収されていく。自殺者が今まで削っていたアロンザの魂も、アロンザの胸へ戻っていき吸収されていった。
自殺者は死んだ時と同じ方法で死をまた繰り返すために、体が勝手に動き元の場所へ移動する。トンネルの入り口前の横だ。そこで自分を轢いてくれる車を待っている。
どうやら彼女の自殺方法は、トンネルからやって来た車に轢かれたやり方らしい。車が来なくても、自殺者を何度も轢き殺すために幻の車が現れる。幻といっても痛さは本物だ。
トンネルから出ると入り口近くには沢山の花達が咲いていた。花達は最初に見た時より少しだけ成長している。置いたはずのペットボトルは風にでも飛ばされたのか無くなっていた。
あれから一ヵ月くらいは経ったのだろうかとアロンザが考えていると、漸く疲れがドッと出てきたのか体がふらつく。前へ倒れようとするアロンザの所に一人の削除者と思われる男性が急いで向かって来て、アロンザを両手で支えた。
「お疲れ様です……姉さん」
左目を隠した白髪の前髪に、アロンザと同じ灰色の分厚いコートの制服を着ている。
この男性の名はエルネスト、アロンザの弟である。長年家族として付き合ってきた仲なのか、エルネストはアロンザがそろそろ任務を終える頃だろうと察して迎えに来たらしい。
アロンザの疲れた姿を見て、エルネストは微笑む。
「……本当に無茶をする。」
そう言いながらエルネストはアロンザに肩を貸す。近くにペガサスの馬車が待機していた。
ペガサスの馬車とは、その名の通り普通の馬車ではなくペガサスを使った馬車だ。現世では普通の馬を使うが、普通の馬では空を飛べないため翼のあるペガサスを利用し、現世・天界・冥界を行き来する。現世でいうタクシーみたいな存在だ。
任務も無事に完了した。天界に帰り姉の体を休ませなければならない。エルネストはアロンザの体に気を使いながらゆっくりと歩き、ペガサスの馬車へ向かう。
馬車まであと三歩くらいのところだった──アロンザがエルネストから離れて咄嗟に槍を構える。エルネストもすぐに気づいたらしく「姉さん……!」と声を上げる。
少し離れた距離から車がこちらに向かって走ってくる。中に居るのは……トンネルに入る前にアロンザが会話した相手である空太だった。その目はトンネル内にいた暴走した自殺者と同じく真っ黒に染まっている。どうやら怨念が溜まりに溜まってしまったらしい。
アロンザは槍を構えたまま集中する……。真正面に迫ってきた車の窓に飛び乗り、窓越しからバリンと槍で突き破り空太の額をしっかりと貫いた。空太の怨念は先程の女性自殺者のように、槍の刃に吸収されていく。アロンザはすぐに槍を引き抜くと乗っていた車からジャンプする。
車はそのままトンネルの壁に激しく音を響かせて衝突し、アロンザは道路に着地をするとそのまま前へ倒れた。
車からは煙がシュオシュオと出ていて、数秒後に空太は車と共に消える。そしてまた彼は元の位置に車と共に戻り、ガードレールの無い方向へ走って落下を繰り返す。
「ご苦労様です。」
エルネストはアロンザにまた肩を貸し、今度こそ馬車へ向かう。アロンザは「ステーキが食べたいな」と空腹をエルネストに訴えると、エルネストは「帰りにスーパーに寄って牛肉を買って、帰宅したら焼きますか。」と言いながら笑った。