朝の目覚めと薄毛の宿命
静かな住宅街。
古びた木造のアパートの一室に、薄明かりが差し込み、布団の中でユースケは半覚醒のまま時を刻んでいた。
外は五月の初春ながら、まだ冬の冷たさがわずかに残るものの、今日はなぜか心地よい温かみが感じられる。
だが、その温もりすら彼の心を和ませることはなかった。
「……あと5分だけ……」
と、ユースケは布団の中で自分にそう語りかける。
しかし、心の奥底で何かがざわめく音が聞こえるような気がして、ついに彼は目を覚ます決意を固めた。
布団を蹴り、足元の冷たい床に体を預けながら、彼は静かに立ち上がる。
部屋の中は、ゆっくりと昇る朝日の光に包まれており、薄いカーテン越しにやわらかな光が差し込む。
ユースケは、今日一日の始まりを感じると同時に、ふと鏡の前に向かった。
洗面所の鏡に映る自分の姿は、寝ぼけた目と、かすかな疲労の跡が見える。
だが、何よりも彼の視線を捉えたのは、頭頂部に広がる薄毛の現実だった。
指先をそっと走らせると、かつて豊かだった髪はすっかり薄くなり、冷たい地肌がむき出しになっている。
「また……こんな感じか」
小さく呟くと、ユースケは過ぎ去った若さや、父親譲りの体質を思い出し、ため息をついた。
かつては、抜け毛など気に留めることなく、ただ明るい未来に夢を馳せた日々があった。
しかし、近頃は時間の経過とともにその進行が目に見えて速くなっているように感じる。
育毛剤やサプリメントに頼っても、望んだほどの効果は現れず、ただ無情な現実を突きつけるだけだった。
「俺は…ただの男だ。こんな宿命をどうしようもないんだよな」
そう自分に言い聞かせながら、彼は洗面所で顔を洗い、歯を磨く。
冷たい水が顔に当たるたび、ほんの少しだけ覚醒していく感覚を味わい、しかしその一方で、自分の老いを実感するのだった。
朝食の支度に取りかかると、アパートの狭いキッチンからは、母の昔ながらの味噌汁の香りが漂っていた。
シンプルな和食の定番、温かいご飯と、ほのかな塩気を含んだ漬物。どこか懐かしく、安心感すら覚え
る瞬間であった。
しかし、ユースケの心にはどこか、埋めがたい虚無感があった。
「今日も一日、なんとか頑張るしかないな……」
と、ため息交じりに食卓を済ませ、彼は今日という日を生き抜く覚悟を固めた。
窓際に立ち、外の景色を見渡すと、札幌の街並みはまだ雪解けの名残と春の兆しが混在しており、遠くにそびえる山々は、まるで季節の変わり目を告げるかのように厳かだった。
だが、ユースケの胸中には、薄毛という宿命以上に、何か大きな不安が根付いているような気がしてならなかった。
「……今日も、俺にとっては変わらない日になるのか」
と、自らに言い聞かせながら、彼はゆっくりと服を身に着け、外の世界へと足を踏み出した。
ユースケがアパートのドアを開けると、そこにはいつものように静かな北国の朝が広がっていた。
外は五月の北海道らしく、寒さと暖かさが入り混じった微妙な空気が漂い、足元の雪はほとんど溶けかけていた。
しかし、今日の朝は、なぜか普段とは違った異常なほどの眩しさを帯びていた。
歩道を歩きながら、ユースケはふと自分の足元に目をやった。
普段ならはっきりと映る自分のシルエットが、今日はどこかぼやけ、薄く、まるで光に溶け込んでしまっているかのように見えた。
「俺だけ、こんな風に…見えてるのか?」
その疑問が、彼の心に不安を呼び起こす。
通勤路には、駅に向かう人々のざわめきがあった。
スーツ姿の会社員、学生たち、そして古びたバス停の下で待つ老婦人。
すべてはいつも通りであるはずなのに、ユースケの感覚だけが、何か異様なものを捉えている。
彼はスマホを取り出し、天気予報のアプリを確認する。画面に表示された数字に、彼は眉をひそめた。
「本日、40度……5月にしては、ありえない暑さだ」
と、思わず声に出してしまい、隣で待っていた通勤客が一瞬こちらを見たが、すぐにそれは忘れ去られる。
電車に乗り込み、窓から流れる風景に目をやる。
遠くの山々、街中のビル群、そして雪解け水が輝く歩道。そのすべてが、今日の朝を特別なものに変えているような感覚に陥る。
「……この光、何かおかしくないか?」
と、内心で問いかけながらも、ユースケは疑念を押し殺し、いつものように会社へと向かうために駅の改札をくぐった。