第四話・極光
コンステラシオン王国においてドレスと言えば、フリルやレースがふんだんに施されたものだった。
大きなリボンや、何段にも重ねられたレースは、体格の小柄さを強調するのに役に立った。さらにコルセットでウエストを締め付け、重ね履きしたパニエによってスカートを膨らませ、その裾からチラリと見える小さな足にはヒールを履いた。それによって自分は、誰かの支えがなければ転んでしまうような〝守られるべき存在〟であると女性はアピールしたのである。コンステラシオンにおける美女の条件とは、弱きもの、小さきものとしての見られることであったからだ。だから貴族の令嬢たちは、幼い頃から踵が真っ赤に染まるまで細いヒールで歩く練習をして、夏場は蒸れて仕方がないのを我慢しながら分厚いパニエを履き、元々細い腰を小枝のように見せるために息が出来なくなるほどきつく締め付けてきた。そう、全ては適齢期までに、婚約者を——今にも転びそうな身体を支え、その背の後ろに身を隠させてくれる誰かを見つける為に。
『なんて、馬鹿馬鹿しいデザインなの?』
そんな伝統をうっかり打ち破ってしまったのは、ペルデ王子の元婚約者——マルテ・ガラクシアだった。
『こんなにレースやらリボンやらをつけていたらせっかく私が取り寄せた生地が見えないじゃないの!』
マルテが、コンステラシオンの伝統に沿ったドレスを用意した王室御用達のデザイナーを追い返し、隣国から連れてきた仕立て屋に新たにドレスを作り直させたことは貴族の令嬢たちにとって衝撃的な出来事であった。
彼女はドレスから余計なレースとリボンを取っ払うとコルセットも締めず、通気性のいいパニエを一枚だけ履くと高くとも太くて安定感のあるヒールで歩いた。それはまさに革命——今までの伝統から完全に逸脱したそのスタイルに最初こそ反発する貴族たちも多かったが、ドレスの生地や模様に拘ったお陰で見た目も悪くなく、何よりも伝統的なドレスよりもはるかに着心地が良かったので、若い令嬢たちを中心に〝マルテ・スタイル〟は徐々に浸透していった。そうして社交界における新たなファッションリーダーとなったマルテは、一体どこからこのような斬新なスタイルを編み出したのか頻繁に問われたが、〝単なる思い付きですわ……〟と微笑むばかりでそのアイデアの源泉について決して口を破ることはなかった。
しかし、そんな彼女の視線の先にはひとりの令嬢の存在がいたことを忘れてはならない。
その者こそ、トリエノ・ベンティスカ——。
小柄な体格を強調する為に作られた、コンステラシオン伝統のドレスを着て外を歩けば、皆から指をさされて笑われ、その度に深く傷付いてきた哀れな少女だった。
「トリエノ様、馬車のご準備が整いました——」
そう言いながら屋敷の廊下を駆けてきたサビオは、孔雀の描かれた扉の向こうから現れた主人の姿を見て、息を呑んだ。
「あら、ありがとう……」
どうやら低い声を出すのが癖になっているのか、じっとりと湿った声でトリエノは使用人に返事をする。しかし、その見た目はいつものトリエノとは大きく異なった。
「お……お美しいですね……」
トリエノが身に纏っていたのは、遠くから見れば林に立つ木々と見間違えてしまいそうになるような深緑色の、地味なドレスではない。
真冬の夜空を想起させるような深い青が染み込んだ、とろりとした柔らかな生地で仕立てられたドレス——繊細な刺繍が施された薄いレースが首から鎖骨辺りまでを包み、ドレープ状のスカートの長さは床に達した。また彼女の腕にピタリと吸い付いた袖は手の甲までを覆い隠し、何やらキラキラと輝いている。コンステラシオンの古き伝統を打ち破った、〝マルテ・スタイル〟を受け継ぎながらも、さらに洗練されたデザインへと進化したドレスをトリエノは見事に着こなしていた。
「フフッ……お世辞だとしても褒められると気分が上がりますわね……」
サビオがうっかり漏らした褒め言葉をトリエノはさらりと受け流せば、その場でくるりと回ってみせた。するとドレスの裾が控えめにふわりと膨らんだ。そして袖と同じように星屑のような光がキラキラと煌めき、サビオの視線を奪う。
「輝いてます!」
「でしょうね……」
目を見開いて、その感動を表現するサビオであったが、トリエノの反応は冷ややかだった。というのも、サビオがドレスを着こなすトリエノ自身が輝いていると表現したつもりであるのに対し、トリエノはドレスの裾や袖に散りばめられている魔石のカケラが輝いていることを彼が指摘したと受け取ったからであった。
それらのカケラは魔石を採掘したり加工したりする際に生まれてしまうもので、魔道具のエネルギー源として利用できないことはもちろん、貴族の装飾品としても使われていない。平民が営む店に格安で卸されることが多いが、そこでも細かく砕いてガラスや粘土に混ぜ込んでそれから作られる日用品の強度を強めたり、魔力に反応して発光・発熱する性質を利用して簡易的なランタンや暖房器具の代わりとして使われたりするぐらいで、このように衣服のデザインに取り入れられることなどはなかった。おそらくトリエノのドレスが初めての例だろう。
「私としてはもう少し控えめでよかったのですが……マルテ様が地味なドレスでは王女殿下に話すら聞いてもらえないと仰って……」
「マルテ様が?」
煌びやかなドレスに落ち着かない様子で語るトリエノにサビオが片眉を持ち上げる。
「王女殿下に拝謁させて頂くのであれば、新しくドレスを作りなさい——とデザイン画を送ってくださったのよ……」
サビオと共に馬車まで歩きながらトリエノは、このドレスをデザインしたのがマルテ・ガラクシアであること、そして彼女から手紙が届いたことを明かした。その手紙の内容は、王族との謁見の際の作法であったり、新しいドレスをどのように仕立ててればいいのかという指示であったりした。
「マルテ様は、魔石のカケラではなくダイヤモンドを裾に縫い付けるように仰っていたのですが、流石にそこまでは……」
「た……たしかに……」
公爵令嬢ゆえに子爵令嬢とは異なる金銭感覚を持つマルテが描いたデザインをトリエノは一部アレンジしてドレスに仕立てた。純粋な魔石よりは、魔力を持たない宝石の方が安価とはいえ、一時期は調度品を質に入れねばならぬほど困窮した経験もあるベンティスカ家には娘のドレスにそこまでの資金を割く余裕はない。だからこそ、トリエノはマルテのデザインをなるべく損なわぬようにしながらも予算を抑えられるように魔石のカケラを使うという案をなんとか絞り出したのだ。果たしてそれは成功と言えよう。トリエノが玄関を出ると陽の光を受けた魔石のカケラはその輝きを強める。
「お足元にお気を付けて……」
「ありがとう」
王宮へと向かう為の馬車に乗り込むトリエノに手を貸した使用人に彼女は微笑んだ。その表情もいつもは長い髪に邪魔されてしまうのだが、王族の前で顔を隠すこと、髪を掻き上げることは無礼にあたる為、そうならぬように結い上げていた。お陰でサビオにもトリエノの顔がよく見える。
(真昼の空の下でも輝いてらっしゃる……)
ドレスではなく、トリエノの笑顔に見惚れていたサビオは彼女を見送る為に馬車の脇に立っていた。
しかし、いつまで経っても馬車は走り出さない。それどころか、トリエノはサビオの手を握ったままキョトンとしている。
「……あの、トリエノ様?」
何だか嫌な予感がしたサビオが主人の名前を呼べば、トリエノは訝しげな視線を彼に返す。
「なにしているの、早くお乗りなさい?」
「ハイ?」
思わず間抜けな声で聞き返したサビオは、トリエノに強引に手を引き寄せられたかと思えば——トリエノの真向かいに座らされた。
すなわち、それは馬車の中に引き摺り込まれたということである。
「ええ……と……?」
状況が上手く飲み込めないままサビオが瞬きを繰り返しているとバタンッと扉が閉じる音がして馬車はゆっくりと動き始める。その窓からは相変わらず無表情なアコニトが二人に向かって手を振っている姿が見えた。
トリエノは、兄が用意したよそいきの服をきちんと着こなすサビオの姿に頷くとニッコリと口角の端を持ち上げた。
「もちろん、あなたも行くのよ——王宮へ。」
そんなトリエノの無慈悲な一言と、馬車の揺れのせいでサビオは自分の舌を思いっきり噛む。
(な……なんで……僕まで……!?)
こうして元王立刑務所の牢番は、僅か二週間足らずで王宮へと足を踏み入れる羽目になったのである。
*
ひとりの子爵令嬢とその御付きを乗せた馬車が辿り着いた王宮は、それはもう見事なところだった。
庭園には色とりどりの季節の花が咲き乱れ、その中央には巨大な噴水と、そこからぐるりと庭を一周する水路がある。また白を基調としながらも魔石を至る所に散りばめられた宮殿はコンステラシオンの豊かさを象徴し、トリエノがどんなに手を伸ばしても何度飛び跳ねても決して届かぬ天井にはコンステラシオン王室の華々しい歴史がステンドグラスに描かれ、通りすがる柱の一本一本にコンステラシオンの建国に携わったとされる神々の彫刻が施されていた。もちろん、彼らの瞳にも魔石が嵌められており、王宮の一角にある王女の元へと向かう客人に文字通りその目を光らせている。サビオがちらりと横に視線を逃せば、戦の神に睨みつけられた。
(こ……怖いよぉ……!!)
その厳しい視線に、サビオは先ほどやっと治まったはずの吐き気を再び思い出す。王宮に向かう為の馬車は、ベンティスカの屋敷から山を越え、谷を越え、そして空を越えて王宮の前まで辿り着いた。こんな豪華な馬車に乗ったことがないと最初こそはしゃいでいたサビオも突然の浮遊感に襲われた途端に怯え、窓の外の景色を覗いて驚いた。自分たちが乗っている馬車が地ではなく、空を駆けていたからである。もちろん、サビオは空を飛ぶ馬車も乗ったことがない。
『お、おええええッ…………!!』
『さ……サビオ、大丈夫ですの!?』
空馬車酔いをしてしまったサビオは、トリエノの看病によってなんとか吐瀉物を撒き散らすことは防いだが、王宮に着いた後も緊張でずっと吐きそうだった。この香りで何とか凌いで……とトリエノが渡してくれたナラハンハの香りがするハンカチがなければ、この美しい大理石の床をサビオは汚してしまっていただろう。そして今度は牢番としてではなく、罪人として刑務所行きになっていたはずだ。それを防いでくれたトリエノに、サビオはいくら感謝しても感謝し足りなかった。
(本当に……なんてお優しいお方なんだ……)
そうしてうるうると目を潤ませるサビオの近くに、もしもマルテが居たら「そもそもお前を無理矢理王宮に連れてきたのは、トリエノではなくって!?」と突っ込んでくれたのだろうが、残念ながらこの場にはトリエノと、そのトリエノを王女の元へと案内する宮廷役人しかおらず、マルテは牢の中で小さなくしゃみをするだけに留まった。
「へっくち……! あぁ……もう、寒い日はいつもこれよ……」
牢番から差し入れられた毛布に包まれたマルテは、牢にある小さな窓から空を見上げた。少しずつ傾いていく陽に目を細めながら彼女は幼馴染のことを想う。
「……本当に、上手くいくのかしら?」
トリエノと再会した日、彼女が残していった置き土産に気付いたマルテはこの日の為に手紙を送った。それは無事にトリエノの元に届き、彼女が王女に謁見するにあたっての準備を整える為に活用された。王宮でのマナーに、見劣りしないドレス。そして——最後の切り札。
「まあ、信じるしかないわね……」
マルテは穏やかな笑みを浮かべながらも、万が一トリエノが自分と同じように刑務所へと送られた際には、隣の牢に入れるように交渉してみようと考えていた。
一方、その頃——トリエノたちはようやく王女殿下がおわす、王宮の離れに辿り着いた。入口からここまで来るまでで、既に町ひとつ分を横断したかのような疲労感がトリエノとサビオの二人を襲うが、問題はここからであった。
「……随分と大きい令嬢だこと」
アウロラ王女の前でつつがなく挨拶を済ませたトリエノであったが、彼女は王族の前で起立せずに着席したままでよいという祖父が与えられた特権を無視して立ち上がればその高い背丈で王女を見下ろした。それに対して、王女はトリエノが控えるところから数段上に置かれた寝台に寝転がったまま口元に閉じた扇子の先を当てると眉を顰める。
(い、一体……何が起きてるんだ……)
サビオは、トリエノの後ろで膝を折り、顔を伏せたまま大理石の床越しに二人の姿を固唾を飲んで見守っていた。子爵家の使用人であるサビオは、本来ならば王族との謁見が叶わない身分であるが故に決してその瞳に王族の姿を直接映してはいけなかった。だからこうして頭を下げ続け、磨き上げられた床に映っている二人の姿を眺めているのだが——そんな彼の身に異変が起こった。
「……そういえば、貴方のことを何度か見かけたことがあるわ」
おっとりとしたアウロラ王女の声が部屋の中に響き渡ると共に、サビオの頭の上に重たい泥が落ちてくるような感覚を覚えた。
(これは……なんだ……?)
首の後ろからつむじにかけてドロドロと広がっていく感覚は、次第にサビオの意識を包み込む。
「マルテ嬢のサロンにいつも参加されていた方よね……?」
「ご存じ頂き、大変光栄でございます……」
確かに二人の声がサビオの耳にも届いているのだが、少しずつ遠のいていくのだ。まるで自分が水の中へと沈められていくように彼女たちの声がサビオにはくぐもって聞こえる。
「背中を丸めていても他の令嬢たちより頭一つ出ていたでしょう……きちんと立ち上がったらどれほど高くなるのか、ずっと考えていたの……」
「さようでございますか……」
「ええ、想像していたよりも随分と高くて驚いたわ……」
バサリと開いた扇子で口元を覆いながらクスクスと笑うアウロラの声はとても可愛らしいが、サビオはもうその声を聞いていられなかった。彼女の声こそが、頭の上に伸し掛かる泥を生み出しているのだと気付いた時にはもう遅い。こっくりこっくりと頭を揺らして船を漕ぎ始めたサビオは、そのまま夢の世界へと渡る為にその意識と共に現実という港を出てしまった。
「——そこからで、届きますか?」
深い眠りに飲まれていたサビオが目覚めさせたのは、王宮の一角に落ちた雷だった。よく通る声は、重たい瞼も一瞬で持ち上げる。サビオが、思わず顔を上げればそこには堂々とした態度で一枚の紙を王女の前へと差し出すトリエノ・ベンティスカの姿があった。
「これは、寝台の上から手を伸ばしても届きませんよ?」
王族の輝かしい歴史を照らしていたはずの陽が傾いた後、この部屋を照らしてくれるのは壁に埋め込まれた魔石たちだ。シャンデリアも、ランタンも存在しない部屋で魔道具の一つとして機能する魔石は淡い光を放っている。それは蝋燭の光のように頼りなく、美しいアウロラの顔を満足に照らすことは出来ない。
しかし、トリエノの纏うドレスは薄暗い部屋の中でも輝いていた。彼女のドレスの裾や袖に縫い付けられた魔石のカケラが持つ輝きは、壁に埋め込まれた純粋な魔石よりも強い。昼間に浴びた陽の光を内側に溜め込み、夜になってそれらを放出しているのだ。この性質は、今から五百年以上前に既に判明しており、〝偉大なるオサ・マジョールが記せし、グリモリオ - 魔石の性質と、その仕組み 25 -〟(全128巻)の1584ページにもきちんと記載されている事実だったが、当然ながらそれに目を付けたのは者はいなかった。
トリエノ・ベンティスカ以外には。
「——アウロラ王女殿下」
トリエノの胸元には、数種類の魔石のカケラを集めたブローチがあった。それらはそれぞれ異なる色を持ち、吸い込んだ光をそれぞれが持つ色に染め上げて、吐き出している。その輝きは、陽の光に照らされていたアウロラ王女の七色の髪の如き美しさである。しかし、今のアウロラ王女の髪は、そのブローチにも劣っていた。夕陽や、魔石の光だけでは彼女の髪を輝かせるには十分ではないのだ。
「これからも王宮の離れで、寝台に寝転がったまま、一生をお過ごしになられる気ですか?」
アウロラが輝く為に必要なのは、陽の光。
だからこそ何者の影に隠れてはならなかった。
「それが貴方の望みですか?」
七色の光に照らされるトリエノは、大きく瞼を持ち上げ、目を見開いた。その瞳の色は、赤——マルテ・ガラクシアが好んで身に付けたとされる色であり、初めて彼女がアウロラ王女に謁見した日に着ていたドレスの色だった。
『それが貴方の望みですか?』
その日、マルテ・ガラクシアはアウロラ王女を見上げながらも同時に見下ろしていた。我儘なアウロラ・コンステラシオンは、社交界の華となったマルテを王宮に呼びつけると自分をそのサロンに招待しろと迫ったのである。もちろん、王族との結婚が控えており、いずれはアウロラの義姉となるマルテのサロンにアウロラが参加することは悪くない提案だった。アウロラと親しいことを貴族たちにアピールすることは、マルテの影響力をさらに強めることにもなるし、とある理由で今まで誰のサロンからも招待を受けたことがないアウロラにとってもその存在を社交界に知らしめることが出来る。お互いにメリットしかない。
しかし、マルテはすぐに首を縦に振らなかった。
『本当にそれでいいのですか?』
アウロラは賢かった。だからこそ彼女はマルテの言葉の真意をすぐに悟り、顔を赤らめた。
『な、なんと無礼な——!!』
アウロラはそう叫んで寝台の上から立ち上がりかけ、それからその足を床につける前にまた寝台に顔を伏せてしまう。押し寄せる感情に上手く身体を動かすことが出来ず、悔し涙を流しながらアウロラは寝台を殴った。そんなアウロラの姿に同情しながらもマルテは、声を掛ける。
『……そこからでは、何も届きませんよ』
立ち上がらなくては……とマルテはアウロラを励ますつもりで言葉を続けた。しかし、小さくて愛らしく、魔術の才もあるマルテからの言葉は、アウロラの心には届かない。アウロラは寝台に顔を伏せたまま嗚咽が漏らした。
『なにも……何も知らないくせに……ッ!!』
うわぁああッ……!!と泣き叫ぶアウロラの髪は七色に輝き、マルテのソル・イーロと見紛うほどの金髪にも負けず劣らず美しかった。しかし、その美しさを知っている者たちはほんのひと握り——多くの民たちは、アウロラを〝出来損ないの眠り姫〟としか思っていない。
『私だって……私だってぇ……!』
幼い子供のようにジタバタと暴れるアウロラを前にしてマルテはこれ以上何も出来なかった。その日は、侍女たちに追い出されるように癇癪がおさまらない王女の前から去ると改めてお茶会の招待状を王宮の一角に送った。噂によるとアウロラはその招待状に寝台から転げ落ちるほど喜んだとされているが——そのお茶会にアウロラが現れることはなかった。
「それが貴方の望みですか?」
それは、あの日と全く同じ問い。
しかし、まったく別の意味を持っていた。
トリエノが纏う、マルテとは対照的な青いドレスは、アウロラにも似合うだろう。いや、特別に作らせた寝台でなければその長い手足がはみ出してしまう彼女だからこそ、きっとこのドレスが似合う。
トリエノは、そのことを分かっていた。
「貴方が望むのなら、お力になります」
クイッと顎を引いたトリエノは、マルテ・ガラクシアのサインが入った手紙を突き出しながらアウロラに語り掛ける。
「これは取引です」
トリエノは、決して頭を下げなかった。お願いもしなかった。弱々しい態度を見せず、その長身を恥じることなく真っ直ぐと立ち、背筋を正し続けた。そんな堂々とした態度が不敬であると断じられるならば仕方がない。甘んじて受け入れようという覚悟が、トリエノにはあった。
『お前はお前だけのやり方を見つけなくてはならない』
兄に出された宿題に、やっと答えを出すことが出来たトリエノは自信たっぷりに口角を持ち上げる。相手が誰であろうとも彼女は誰かの影に隠れることはない。例え薄暗い部屋の中でも俯くことはない。むしろ、深い青い染められた夜空だからこそ落雷が引き立つ。
「——どうしますか?」
これこそが、トリエノのやり方だった。
「…………アハハハハハッ!」
トリエノの問いかけに、アウロラは大声を上げて笑い出した。それから、横たわっていた寝台からその身を起こせばゆっくりと素足を冷たい大理石の床につける。そうして彼女の足が触れた床に途端、大理石の中に埋まっていた魔石たちが眩い光を放ち始めた。
「——いいでしょう」
ぶわりと風もないのに波打つアウロラの髪は、その内側から白く——次第に七色に輝き始める。その美しさにトリエノやサビオはもちろん、後ろで控えていた侍女たちも呆然とする。
「その取引に応じます」
棒のように細い両足で立ち上がったアウロラは、よろめきながらも一歩ずつ進んでいく。慌てて筆頭侍女であるオルテンシアが飛び出して王女を支えようとしたがアウロラは、その手を借りなかった。深く息を吐き出しながら両手を広げてバランスを取り、辿々しくしか動かない両足の代わりに魔術で身体を支える。
「気に入ったわ、トリエノ・ベンティスカ」
トリエノの前まで降りてきたアウロラは、彼女と変わらぬ目線で子爵令嬢のことを睨み付けるとその手の中にある手紙を奪い取った。
「いいえ、貴方のことはこう呼びましょう」
そして、トリエノ・ベンティスカの顔を覗き込みながらアウロラ・コンステラシオンは意地悪そうな笑みを浮かべる。
「——落雷の令嬢」
美しいオーロラが覆う夜空を、稲妻が横切った。
*
コンステラシオンの空で起きた異常気象は新聞の記事になった。
天候を司る魔術師たちは、百年に一度の奇跡だと騒ぎ立てると取材に来た新聞記者たちに、これは女神のお告げだとか、飢饉が防がれたとか、新たなる指導者が現れる兆しだとか、捲し立てたが、実際の記事は十五面の隅の方に小さく取り上げられただけだった。何故なら、コンステラシオン王国はそんな様子のおかしい空が気にならなくなるほど衝撃的なニュースに持ちきりであったからだ。
「——〝アウロラ王女、王位継承者争いに立つ〟……ねえ……」
とある貴族の屋敷、日当たりが良い部屋で椅子に腰掛けていたひとりの令嬢は今朝の新聞を広げながら溜息を吐いた。
「何が何やらちっとも追いつけないわ……」
ずるずると背もたれから滑り落ちた彼女は、広げたままの新聞の端から豊かな金髪を溢した。それが彼女の傍に置かれた紅茶に触れそうになったことに気付いた使用人が、慌ててティーカップをテーブルの上からずらして避難させる。
「そりゃあ、つい最近まで牢の中に居たのですから仕方がありませんよ……」
サビオが苦笑いを浮かべると新聞から視線を上げたマルテ・ガラクシアが眉を顰める。
「仕方がないですって?」
「は、はい……」
サビオはサビオなりにフォローしたつもりだったのだが、どうやらむしろ気難しいマルテの機嫌を損ねたらしい。彼女は丁寧に新聞を折り畳むと背筋を正して彼に説教をする。
「あのね、私はサロンを開いていた頃は社交界の誰よりも耳が早かったのよ……牢中でも情報収集には余念がなかった……その私が追い付けないと言っていることの意味をきちんと考えたのかしら?」
「い、いえ……その……」
口早に責め立てられて後退るサビオに、返す言葉もない。貴族にしてはおっとりとした穏やかな気性であるトリエノと普段接しているせいで、マルテのような快活で気性が荒い令嬢との上手いコミュニケーションの仕方を彼は知らなかった。そもそも牢の中にいるときは、まるで聖女かと思うほどに清廉で落ち着いていたというのに陽の下に出てきた途端にこんな調子で無茶苦茶なことを言い出すマルテにサビオの方こそ何もかもに追いつけない。
「そもそもどうしてあの時の牢番がトリエノの下で働いているのかしら?何か特別な魔術でも使えて?」
「あ……いや、その……僕は……」
「マルテ様〜♡」
すっかり目を回していたサビオを救ったのは、やはりトリエノ・ベンティスカだった。彼女は大量の茶菓子を盛った銀のトレイを抱えて、マルテがいる部屋に飛び込んでくるとそのまま滑らかな動きでマルテの前に傅いた。
「王都で流行りの茶菓子をご準備致しましたの……」
「そうなの?」
「どこも本来は売り切れの品でございますが、全てマルテ様の為に予約しておいたのですよ……」
「あら、悪いわね!」
特別扱いされること、そして甘いものが大好きなマルテは、あっという間に機嫌を直すと差し出された菓子を眺めながらどれにしようかと指で甘い匂いを掻き回す。その様子にホッと胸を撫で下ろしたサビオは、トリエノの後ろへと下がると黙って穏やかな午後に交わされる令嬢たちの会話に耳を傾けていた。
マルテ・ガラクシアが釈放された理由は、王族に与えられた恩赦の権利をアウロラ・コンステラシオンが行使したからであった。今まで女性であった為に王位継承権を主張してこなったアウロラ・コンステラシオンは、恩赦の勅書としてような宣言を出した。
『——アウロラ・ルーナベスペルティーナ・コンステラシオンは、ここに王位継承者第三位としての権利を行使し、マルテ・ブリジャール・ガラクシアの釈放を認め、王立審議会での裁きを受けさせることを宣言する』
これによって中央議会は大騒ぎになった。もちろん、王族への不敬罪によって収監されたマルテ・ガラクシアに恩赦の権利を行使したことも市井においては大きく話題になったが、貴族たちにとって問題なのはそこではなかった。重要なのは、恩赦の勅書に含まれていた〝王位継承権第三位として〟という部分である。王族として、という言葉でも十分効力を発揮するにも関わらず、アウロラは敢えて〝王位継承権第三位〟という文言を使った。それはすなわち、今まで王位継承権を主張してこなかったアウロラ王女が、王位継承権争いに飛び込んできたことと同義だった。
そして、それを裏付けるかのようにアウロラ王女は、彼女主催のサロンを開いた。今まで社交界にも顔を出さず、貴族の令嬢たちや商団とのツテもないアウロラ王女がサロンを主催することなど不可能に近い——しかし、サロンは成功した。その理由は明らかで、そのサロンに加わった面々、サロンの伝統作法、準備されたお茶の種類や選ばれた菓子までマルテ・ガラクシアが開いたサロンと全く同じであったからだ。まるでアウロラ王女がマルテ・ガラクシアのサロンをそっくりそのまま受け継いだかのように——。
「それが一つ目の策でした」
空になったティーカップに紅茶を注ぎ直すトリエノに、マルテは微笑んだ。
「だから私にサロンを自分に譲るように言伝を残したのね」
「はい」
「そして、私が譲ったサロンはトリエノからアウロラ王女殿下へと渡った……」
トリエノの置き土産として残された手紙に書かれていた指示に従ったマルテは、サロンの主催をトリエノに委ねるとの旨を記載した手紙をサインとガラクシア家の印章付きで送った。これによって正式な書類となった手紙をトリエノはアウロラに突き付けたのだ。
サロンに所属することと、サロンを主催することでは大きく社交界への影響が異なる。サロンとはすなわち派閥と同義——大きなサロンに所属すればそこから入ってくる情報量も増え、令嬢同士で連帯することも可能であるし、強固な後ろ盾も生まれる。マルテが主催していたサロンは、社交界においても王妃が主催するサロンと、第一王子の婚約者が主催するサロンと肩を並べ、三大派閥の一つに数えられるほど大きいものだった。だからこそかつてのアウロラもマルテが主催するサロンに参加したがったのだが——王族である彼女がサロンを主催せずにどこかのサロンに所属することでその継承権を放棄したと思われてしまう。それを危惧したマルテはアウロラを自分のサロンに参加させることを躊躇ったのだ。
『本当にそれでいいのですか?』
あの時、アウロラ王女がその問いに答えられなかった理由もそこにある。彼女は、決して王位継承権を放棄したかったわけではない。かつてコンステラシオン王国に君臨したとされる〝女王〟に憧れていた彼女は、自分も兄達と並び立てるのではないかと思っていた。そして、こうして彼女が自らサロンを主催したことで彼女は王位継承権を主張し、継承者争いに名乗りを挙げることが叶ったのだ——。
「でも、それだけで王女殿下が動くとは思えないわ……」
サロンの譲渡は、交渉の条件としては十分だった。しかし、マルテは納得しない。そのような野心を心の内に顰めているアウロラが、王位継承権を主張する手立てだけを与えられたからといって、トリエノの取引に乗ってくるとは思えなかったのだ。もちろん、トリエノも同じように考えた。だからこそ、もう一つの案もちゃんと用意してあったのだ。
「マルテ様は、アウロラ王女殿下とお会いする際に何か異変を感じませんでしたか?」
「異変?」
トリエノの問いにマルテは過去に記憶を遡った。アウロラに王宮に呼び出された日——初めて彼女と会話を交わした時のことを思い出したマルテは、ふと思い当たることを口にする。
「そういえば、とても眠かったわね……」
マルテの言葉に後ろで控えていたサビオが目を見開いた。それはもちろん、彼も同じ異変をその身に感じていたからだ。
「ええ、そうなんです」
トリエノは力強く頷くとティーカップを口元に持っていく。そのカップに注がれた紅茶から漂うのは、目覚めを良くする柑橘系の爽やかな香りだ。
「それがアウロラ王女の力なのですよ——」
アウロラが眠り姫と呼ばれているのは、二つの理由があった。一つは、いつまでも寝台の上で眠りこけており、ちっとも王族の務めを果たさないから。もう一つは、彼女と顔を合わせた者のほとんどがしばらく会話を交わしているうちにぐっすりと眠ってしまって、ちっとも王族の務めを果たせないから。
「アウロラ王女殿下は、魔力回路失調症だと思われます」
「……魔力回路失調症?」
聞き馴染みのない病名に首を傾げるマルテに、トリエノは詳しい説明をする。
魔力回路失調症とは、文字通り魔力回路に不調が見られるようになる病のことである。原因は様々であるが、神経に沿うような形で身体に張り巡る魔力回路の機能が著しく低下することであり、それによって魔術の暴走が引き起こされるのだ。アウロラの場合は、自分の意志とは関係なく他者との会話を通して相手を眠らせてしまう魔術が発動してしまっていた。
「なるほど……それであんなに眠かったのね!」
マルテは、自らの魔力量が多いのでギリギリ眠ってしまわずに済んだが、それは王族にも劣らないほどの魔力を持つ彼女が特別なだけで大抵の貴族たちはアウロラの魔術によって彼女の声を聞いているうちに眠ってしまう。これでは会議やお茶会にもまともに参加出来ない上に、王族としての公務も務まらない。そんなアウロラ王女の体質を改善しようと宮廷魔術師達は尽力したが、どうにもならず、治療師も医者もすっかり匙を投げた。
しかし、トリエノは違う。
「これを解決する方法は、魔力回路を正すことです」
一時期、同じ病に悩んだとされる者を治療した記録がオサ・マジョールの魔術書庫に残っていた。それを莫大な書物の中から見つけ出したトリエノは、アウロラに当時の治療法を伝授したのだ。
『陽の光を浴びて下さい』
『……は?』
『それと規則正しい生活と、適度な運動——睡眠は十分かと思いますが、なるべく朝と昼は起きて夜に寝てください』
『え?』
『腸内環境を整える為に脂っぽい食事は控えて、ジョグールなどをデザートに……』
『ちょっと待ちなさい!』
『なんでしょう?』
至極当たり前のことを言い出すトリエノに、アウロラは食って掛かった。
『そんなことで私の病が治ると思って!?』
今までどんな者でも治せなかったのに——と叫ぶアウロラを相手にトリエノは淡々と答えた。
『——治ります』
そう言い切ったトリエノは、寝台の上で寝転がったままのアウロラを見下ろしながらため息を吐く。
『そもそも私が申し上げたことの一つでも出来ているのですか?』
『いえ……それは……』
視線を泳がせるアウロラは、自らの生活習慣振り返って顔を青くした。王宮の隅に追いやられ、眠り姫などと馬鹿にされることに腹を立てているうちに外に出なくなり、薄暗い部屋の中でボーッとしている毎日。果実や菓子を齧り、たまに紅茶を啜り、まともな食事も取らずに眠りたい時に眠り、起きたい時に起きている。腸内環境も劣悪で、唐突に原因不明の腹痛に悩まされたかと思えば痛みが無くなった途端に暴飲暴食を繰り返す——そんな過剰なストレスと、荒れ果てた生活によってアウロラの魔力回路はボロボロになっていた。
ちっとも目を合わせてくれないアウロラに、トリエノはこう言い放った。
『——ご文句は、私が言った通りの生活をこなせてから仰ってください』
『う、うわぁああああ〜〜〜〜ん!!』
乳母にも叱られたことがないのに〜ッ!!と喚くアウロラに、後ろで控えている侍女たちは重い瞼を擦りながら(よく言ってくれた……!)と心の中でガッツポーズをしていた。
「……それで、治ったの?」
「少なくとも改善はしたようです」
トリエノはマルテが畳んだ新聞を改めて広げれば、アウロラ王女のインタビューを指差した。
『もう〝眠り姫〟とは呼ばせませんわ——』
紙面の中で七色の髪を輝かせたアウロラ王女は、どのように食生活の改善したか、乱れた生活習慣を正したかについて語り、この一週間で自らが主催したサロンでのお茶会に三回も参加し、他国の貴族たちとも交流したと記者の質問に答えている。
『——その素敵なドレスはどちらで?』
『ああ、このドレスは私が自らデザインしたものなんです。どうか〝アウロラ・スタイル〟とでもお呼びください……』
トリエノが謁見の際に来ていった深い青色のドレスと酷似した形の、銀色のドレスに身を包んだアウロラの姿には怠惰な印象は全く残っておらず、その笑顔は自信で満ち溢れていた。どうやらお茶会や会議などで寝落ちてしまった貴族は確認されていないらしく、魔術暴走は着実に改善しているらしい。
これにはトリエノもニッコリだが、それに対してマルテは眉間に深い皺を寄せている。
「……む、ムカつくわぁ〜〜〜〜ッ!!」
あれは、私がトリエノの為にデザインしたドレスなのに!!と騒ぎ立てるマルテの背中を優しく撫でながら、子爵令嬢は怒りに満ちた公爵令嬢を宥める。
「まあまあ、こちらのドレスも含めて交渉の材料でしたので……」
「だとしても、〝アウロラ・スタイル〟はないでしょう!?」
マルテは、アウロラから恩赦を受けたことなどすっかり忘れて椅子から立ち上がると新聞の一面を春の陽射しに透かした。するとその裏面の隅に小さく書かれている『マルテ・ガラクシア、釈放』の見出しとアウロラの顔が重なる。それでもアウロラの笑顔が曇ることはない。
『私の親友である、落雷の令嬢に最大の感謝を——』
その一言で締め括るアウロラに、マルテは真っ赤なドレスの裾を揺らしながら噛み付いた。
「私の親友ですことよッ〜〜〜〜〜!!!」
バリーンッと紙面を真っ二つに引き裂くマルテに、トリエノは満面の笑みを浮かべていた。