第三話・北斗七星
ベンティスカ家の屋敷は、まず王都に一つ——それから領地に一つずつ存在する。
王都にある屋敷は、初代ベンティスカ子爵であるチャパロン・ベンティスカによって建てられた。一方で、領地の屋敷は、領民からベンティスカ子爵家に寄進されたものだ。本来ならば領地を与えられた貴族はそこへ新たに屋敷を建てる。しかし、少し前から住む者が居なくなっていた屋敷をチャパロンは取り壊すことなくそのまま使用した。
理由はもちろん、〝勿体無いから〟の一言に尽きる。取り壊すのにも、建て直すのにも、莫大な資金が必要だ。そこで新たな雇用を生み出したとしてもそれは一時的なものに過ぎないから、領民のためにはならない——ならばいっそのこと、新しく屋敷を建てずにそこにあるものをそのまま使うことで、その分の資金を公共事業などに当てる方がいいのではないかとチャパロンは考えたのだ。チャパロンのことをよく知らない貴族たちは、過去に建てられた屋敷を使い回す彼のことを貧乏性だとか貴族らしからぬだとか言って嘲笑ったが、チャパロンに爵位を与えたレボルシオン四世——当時のコンステラシオン国王だけは、彼の采配に深く頷いたものである。
何故なら——かつてその屋敷に住んでいたのは、コンステラシオン王国でも随一の魔術師と謳われた男だったのだから。
「家具の一部や、傷んでいた壁紙やカーテン、絨毯などは取り替えたけれどもだいたいはそのままにしてあるのよ」
「なるほど……だからこのような不思議な雰囲気なんてすね」
ベンティスカ領にある屋敷の廊下をツカツカと音を立てながら歩くトリエノの背中を、サビオは早歩きで追いかけた。足の長いトリエノは、その歩幅も大きくサビオはいつも小走りか、早歩きでなければ彼女に追いつけない。自分で足が遅いと分かっているアコニトなんてそもそもトリエノに追いかける気もないらしく、サビオが後ろを振り返っても見当たらなかった。
王都にある屋敷は高さがあったが、ベンティスカ領・リブラにある屋敷はとにかく広かった。方向感覚が優れていると自負しているサビオですらあっという間に迷いそうになるのは、いつまでも続く階段に、終わりを知らない廊下、そして数えることが出来ない部屋のせい——扉にはそれぞれ部屋の名前に因んだ動物が描かれているものの、どこがどの部屋なのか全く覚えられない。孔雀が描かれた扉がさっき見たばかりにも関わらず、数歩進んだ先にまた現れるのだから、サビオは頭を抱える。
「トリエノ様、トリエノ様……!!」
「なぁに……?」
「孔雀が描かれた扉は一体いくつあるのですか!?」
「そんなもの、一つに決まってるでしょう……」
サビオの問いかけに、トリエノは簡潔に答えると何をおかしなことを言っているのだと言わんばかりに振り返る。
「ここは偉大なる魔術師、オサ・マジョールが建てたと言われる屋敷……それぐらいで驚いていたら身が持たなくてよ……」
「えええ……???」
一体どんな屋敷に住んでいるのだとトリエノに言い返したくなったサビオだったが、足元のカーペットがまるで水面のように揺れたところを目の当たりにして思わず口を閉じる。そしてしばらくトリエノの後ろについて歩くと今度は別の問いをトリエノに投げかけた。
「あの……トリエノ様……」
「なぁに……?」
「浅学で大変恐縮なのですが……オサ・マジョールとは一体どのようなお方なのでしょうか……」
トリエノは、そんなサビオの疑問にピタリと足を止めればドレスの裾を翻しながら振り返る。
「興味があるのなら、自分で調べるといいわ……」
金色に光る鍵を握り締めて、怪しげな笑みを浮かべる彼女の目の前には、両翼を広げたフクロウが描かれており、今にもそこから飛び出してこようとしていた。その迫力にサビオは気圧されながらもトリエノの手の中にある鍵と、それからフクロウのクチバシの先にある鍵穴を見比べる。
「それは……ラファガ様から受け取られた鍵……?」
「そう……これは、この部屋の鍵なの……」
トリエノは、ゆっくりとその鍵穴に金色の鍵を差し込む。するとその鍵はトリエノが手を離した瞬間に小さなネズミに姿を変え、フクロウのクチバシにつまみ上げられる。
「ウワッ!?」
「フフフ……」
今にも絵の中から飛び出してきそうと思っていたフクロウは、いきなりその両翼を動かし始めたと思えばトリエノたちの頭上を羽ばたいてゆく。
「な……何が起こって……!!」
「落ち着いて……」
予想外の状況に思わず瞼を閉じてしまったサビオだったが、そんな彼の肩にトリエノの手が触れる。
「ただ、書庫への扉が開いただけよ」
「書庫……?」
怯えながらもサビオが恐る恐る片目を開けば——そこは確かに書庫だった。ただし、どこの貴族の屋敷にもあるような書庫ではない。それは王立図書館にも勝るとも劣らない、かつての屋敷の主人であったオサ・マジョールの魔術書庫であった。
「うわぁあああ……!!」
サビオは目の前の光景に感嘆の声を上げる。ぐるりと丸く部屋を取り囲んだ本棚はもちろんのこと、空中に浮かんだいくつものランタンが温かい光で大量の本の背表紙を照らしている様子は、あまりにも幻想的だ。王立図書館や、アカデミーある〝魔術師の図書館〟も立派なものであるのだが、ここまで見事な魔術書庫は他に現存していない。たった一度も〝魔術師の図書館〟と呼ばれるものを見たことがないサビオにとって、これが忘れられない光景の一つになるのも、当たり前のことだった。
「私の記憶が正しければ……この辺りにオサ・マジョールの自伝があったはず……」
オサ・マジョールについて知りたいと言っていたサビオのためにトリエノは彼の自伝が置かれているはずである書架に近寄っていく。そんな彼女にいくつかのランタンがふわりと浮かぶ高さを変えてついていく。まるで久々の来訪者を歓迎するかのような彼らの動きに、トリエノは微笑んだ。
彼女がこの書庫に足を踏み入れるのはおよそ十二年ぶりだった。幼い頃は、日がな一日中——それこそ時間の感覚を失うくらいずっとこの書庫に閉じこもって、本を読み耽っていたトリエノだったが、そのせいで歳近い友人もおらず、アカデミーにも通いたがらなくなってしまった。そこで両親は、書庫の扉を開ける為の鍵をトリエノから無理矢理取り上げてしまったのだ。
『いいですか、トリエノ——目立たない為にも、必要以上に知識を身に付けてはいけません。いいですね?』
開かなくなってしまった扉の前で泣き叫ぶトリエノを必死に取り押さえる父と、そんなトリエノに淑女としての心構えを言い聞かせる母——どちらも彼らなりに娘を愛していたし、こうしてトリエノが外へ出るしかなくなったことで幼馴染であるマルテとも出会うことが出来たのであるが、それでも当時のトリエノにとって書庫への入り口を閉ざされることは希望を奪われることに等しかった。書庫の床に寝転がりながら、本のページを捲っているときだけはトリエノは自らが何者かということを忘れることが出来たからだ。
トリエノ・ベンティスカ——ベンティスカ子爵家の令嬢にして、偉大なる祖父・チャパロンの血を濃く受け継いでしまった哀れな子。ぐんぐんと伸びていく手足と、呪われたかのように一切の光を通さない黒髪、そして鏡を覗く度に死にたくなるほど醜い顔——去年の誕生日に買ってもらった、薄桃色のドレスはもう似合わない。目立たず、地味な色の布を巻き付けられ、これ以上大きくなりませんように……と小柄な両親に願われる日々。幼いトリエノにとって現実はあまりにも悲惨なもので、マルテという新しい光が彼女の前に現れるまでは、この書庫にある本たちが彼女の心を支える友人だった。
(……久しぶりね)
旧友たちとの再会に、トリエノは彼らの背表紙を優しく撫でながら微笑んだ。それから一冊の本を手に取ると辺りをキョロキョロと見回しているサビオの元へと向かう。
「ほら、こちらよ……」
「わっ、トリエノ様……!!」
ヌッと死角から覗き込んでしまう癖が抜けないトリエノであったが、飲み込みが早いサビオはもうそれほど驚くこともない。彼はトリエノに何度も頭を下げるとオサ・マジョールの自伝を受け取った。辞書かと思うほど分厚い本をサビオが両手で抱えた姿を見てトリエノは満足そうに頷く。
「……あ、そういえばサビオは古代アストロノミア語は読めて——」
読書を始めようとするサビオから離れようとしたトリエノは、ふとその自伝の一部が古代語で書かれていたことを思い出した。古代アストロノミア語は、古代アストロノミアで使われていた言語でコンステラシオン語の源流でもあったが、それを読むことが出来る平民はほとんどおらず、古代アストロノミアが滅びてから二千年近く経っている現在では貴族ですらアカデミーできちんと学ばなければ読むことは出来ない。だからこそ王立刑務所の牢番を務めていたサビオが果たして古代語を読み解くことが出来るか、トリエノは心配したのだが——彼女はその問いを最後まで言い切ることは出来なかった。
「……………………」
サビオは、その場で自伝を開くと1ページ目から食い入るように眺めていた。本の世界へとあっという間に誘われてしまったらしい新しい使用人にトリエノはクスリと笑う。そして、彼女は「せめて座って読みなさい」と立ったままのサビオの背中を押して、椅子がある場所まで導いたのだった。
*
それから一週間ほど、トリエノは書庫にこもった。
といっても、王立図書館にも収められていないような貴重な本が揃っているオサ・マジョールの魔術書庫の中は時間の経過が外とは異なる為に、トリエノがその部屋で一週間過ごしたところで外に出れば一日しか経っていなかったのだから驚きである。
「大変だったのは私たちと、料理人たちです」
「はぁ……」
アコニトは、この一週間ずっと使われなかったトリエノのベッドを整えながらサビオに愚痴を垂れる。時間の流れが異なるせいで外から食事を運び込むタイミングも色々と難しい。一日に二十一食もの料理を作らなくてはならなかったベンティスカ家の料理人たちと、それを決まった時間に運び続けたアコニトの活躍のお陰でトリエノはもちろん、サビオも餓死せずに済んだのだが、トリエノに至ってはアコニトが無理矢理本を取り上げて食事の時間にきちんと食べ物を食べさせなければ、食事を摂るという行為ごと忘れてしまうのでそれはもう愚痴を垂れても仕方がないほど大変なことだったのだ。
「旦那様も奥様も……あれにはお困りになったでしょうね」
「はははは……」
幼い娘が乳母の目を盗んで屋敷から姿を消したと思ったら、腹の虫が泣き叫んでいることにも気付かずに無心で本のページを捲り続けている姿を目の当たりにした時のトリエノの両親の心境を想像して、サビオは身震いをした。彼女から書庫という場所と、本という友人を取り上げたことは決して良いことだったとは言えないが、娘を生かす為に彼らが考えた苦肉の策だったのかもしれない。恵まれた環境を生まれ持つ貴族と言えど、トリエノのような不思議な子を育てることは大変なことだったのだろう。
「それで、旦那様と奥様は書庫の鍵をラファガ様にお預けに?」
サビオは、ラファガがトリエノの為に書庫の鍵を持ち帰ってきたことに関してアコニトに問う。しかし、アコニトは古いシーツを畳みながら静かに首を横に振った。
「いいえ、あの鍵は一度質に流れました」
「質に!?」
あまりにも意外な返答にサビオは抱えていた花瓶を床に落としかけたが、なんとかギリギリのところで掴み直す。アコニトはそんなサビオの慌てっぷりに動じることはなく、畳み終わったシーツを白い袋の中に放り込んだ。
聞くところによると白色魔石の名産であるベンティスカ所領地・リブラにおいてその発掘量が著しく低下した年があり、困窮した二代目ベンティスカ子爵がこの屋敷にある骨董品をいくつか売り払ったり質に入れたりなどして凌いだことがあったそうだ。そこで魔術書庫の鍵もその魔術骨董的価値を鑑みて一時的に質に預けられていたのだが、ベンティスカ子爵がすっかりそのことを忘れてしまい、鍵が流れてしまった。それを知ったトリエノは兄にその行方を追って出来れば取り返して欲しいと頼み込んだ。
「ラファガ様が鍵を見つけたんですか!?」
「ええ、どこかの令嬢がその鍵をお持ちで、事情をお話しして譲って頂いたとか」
アコニトの話を聞いてサビオは瞬きを数回繰り返した。王都にある屋敷の玄関ホールで、仰々しい言動を繰り返し、頭を下げた妹を嗜めたラファガ——。
『それは、私のやり方だ』
妹と比べ、随分と小柄な体格と、その甘い顔を使った〝やり方〟とは一体どんなものだったのか、サビオは想像する。それは本来貴族にとってはとても難しい方法であるだろうと推測できた。しかし、ラファガにとってはそれが〝彼のやり方〟なのだ。無駄なプライドは捨てて、成し遂げるべき目的のためならばどんな〝役〟でも演じて見せる。
「……もしかして、ラファガ様って優秀なのでは?」
「家督を継ぐのは向いてらっしゃらないかもしれないけれど、そうですね」
後継者教育から逃げ回ってばかりの、ラファガの顔を思い出しながらアコニトは頷いた。サビオはその瞳を憧れに浸し、キラキラと輝かせているが、問題なのはラファガがベンティスカ家の嫡男であるにも関わらずちっとも家督を継ぎたがらないところだった。
『僕はいいさ、トリエノが継ぎたかったら継がせたらいい』
そう言って両親の期待からスルリと身をかわすラファガ——だが、例えトリエノが家督を継ぎたいと言い出してもおそらく彼女の願いが叶うことはない。
(残酷なことを仰る人……)
気楽にそんなことを口にするラファガを、アコニトは冷ややかな目で見つめていた。
「そういえばラファガ様はオサ・マジョール様にも似てらっしゃいますね!」
「ああ……」
サビオがラファガに対して憧れを膨らませる原因の一つとして、彼がオサ・マジョールの伝記を読んだことがあった。トリエノから渡された伝記は、馬鹿みたいに分厚かったが一週間もあればサビオも読み終えることが出来た。その伝記の中で描かれているオサ・マジョールの姿は、稀代の魔術師と呼ばれるに相応しい。体格に恵まれず、いつまで経っても子供のような姿であったといわれているオサ・マジョールだが、だからこそ彼の持つ物語は魅力的で、人々を冒険に駆り立てるような伝説をいくつも持っていた。
「女の子が無くした探し物をパッと手を叩くだけで見つけて、届けた話が好きなんですよ〜」
「そんな話があるんですか?」
「そうなんです!他にもドラゴンと戦ったり、困っている人々を救う話も沢山あったんですけど、その話が印象的で——」
どうやらすっかりオサ・マジョールの魅力に取り憑かれたらしいサビオは、伝記に書かれていたエピソードをいくつか抜粋してアコニトに語った。それは平民の間でも有名な〝おとぎ話〟であることもあれば、妙に現実的というか人間らしさが滲み出ているエピソードもある。アコニトも知らなかった話の中には、確かにラファガのようにオサ・マジョールが振る舞うものもあって、サビオがラファガとオサ・マジョールのイメージを混同してしまうのも仕方がないと思えた。
「手を叩くだけで欲しいものが出てきたらすごく便利ですよね!」
そうして無邪気な笑顔を浮かべながら花瓶の水を換えるサビオに、アコニトは真顔のまま答える。
「でも、物を出す魔術なら私も使えますよ」
「え!?」
驚いてまたもや花瓶を落としそうになるサビオの前で、アコニトは腕を真っ直ぐ差し出すと片手で筒を作るように軽く握る。
「——バモス、トゥリパン」
その掛け声と共にパッと現れたのは、赤と黄色と白の——可愛らしいトゥリパンの花束。
「わぁああああああ〜〜〜!?」
サビオは、叫び声を上げるとアコニトの手の中を覗き込んでそのトゥリパンの花とアコニトの顔を見比べる。
「ど、どうやったんですか!?」
「どうって……これが私が使える魔術なので……」
アコニトがサビオから水で満たされた花瓶を受け取りながら答えると彼は輝く瞳をアコニトに向ける。
「何が、どうなっているんですか?仕組みは?」
「え、いや……知りません……」
興味津々で質問を投げ掛けてくるサビオに若干顔を引き攣らせるアコニトは、受け取った花瓶にトゥリパンの花束を生けるとそれをトリエノの部屋に飾りに行く。その後ろをサビオもついていくが、彼はアコニトの答えに不満気だった。
「どうしてですか?魔術には、そのような結果を導き出す根拠と、理論が存在するんでしょう?」
だったら、何がどうなったのか説明だって出来るはず——と勝手にペラペラと語るサビオに、アコニトは急に立ち止まるとクルッと振り返る。
「あのですね……」
「はい!」
「……普通はそんなこと気にしないんですよ」
「はい?」
アコニトが披露した魔術の仕組みが知りたかったサビオにとって、その答えは予想外だった。
「確かに魔術には仕組みや根拠が存在すると聞きました。しかし、私たち、コンステラシオンの民は生まれながらにして当たり前のように魔術を扱えるんです」
アコニトの言う通り、コンステラシオンの民にとって〝魔術〟とは息をすることや排泄することと同じように、当たり前に出来ること。それをわざわざ一体どのような仕組みで……と考えるのはその魔術を極めようとする者の仕事であって、まともな人間なら普通は何も考えずに使っているものなのだと、アコニトは語る。
「貴方は、何故息をするのかとか何故食事をするのかとか……その理由を考えたことがありますか?」
アコニトの問いに、サビオはしばらく考え込む。
「……そういえば、改めて考えたことがありません」
「でしょう?」
サビオの答えに最もだと言わんばかりにアコニトは頷く。しかし、サビオはそこで会話を終わらせずに好奇心に満ちた瞳を輝かせながら言葉を続けた。
「でも、そう言われたら気になってきました!」
僕らは何故息をして、食事をし、排泄をするのか——そして、どうやって魔術を使うことが出来ているのか。何もかもが不思議で堪らないと言うサビオは、廊下を振り返ると書庫があるであろう方向へ視線を向ける。
「また、トリエノ様と一緒に調べてみようかな……」
そんなサビオの台詞に、アコニトは花瓶の端に垂れてきた水滴を拭き取りながら溜息を吐く。
「……トリエノ様が、貴方を雇った意味が少しだけ分かった気がします」
「ええ!?なんですか?」
ボソリとアコニトが呟くとサビオはその声に勢いよく飛びつく。
「僕、なんでトリエノ様にお声掛け頂いたのか全然分からないんですよ!アコニトさんは、わかるんですか!?」
「近いです」
「もちろん、有難いと思ってるんです!牢番の仕事も嫌ではなかったですが、ベンティスカ家にお仕えするようになってから面白いことがいっぱい起こるし!」
「近いですって」
「本当にトリエノ様はどうして僕なんかに声を掛けたんだろう……期待に応えられてるだろうかって書庫の中でもずっと考えてて……でも読書のお邪魔はしたくなかったので、聞けなかったんですよ〜!」
「だから近いッ!」
ペラペラと舌を回すサビオをアコニトは押し退けると今度はまた別の仕事に取り掛かる。一応、新人に使用人としての仕事を教えているつもりなのだが、なんだかお喋りがメインで研修が片手間になってきていると感じたアコニトは、サビオに口ではなく手を動かすように言い聞かせる。
「賢人は口を閉じておくものですもんね、了解しました!」
そう言って調子良く頷いたサビオはアコニトに言われた通りに部屋の掃除を始める。これでようやく仕事に集中出来ると思ったアコニトは、五個もある枕を全て新しいものへと替えていく。これも浄化に関する魔術を持っているメイドであれば、簡単に終わるのだろうな……と思いながらも手作業で進めていくうちに、ふとアコニトの頭の中に疑問が浮かんだ。
(何故私は、浄化魔術を使えないのだろうか……)
それは、今まで疑問に思ったことすらなかったことだ。アコニトは、当たり前のように生まれながらに備わっている自分の魔術を受け入れて、それを使いこなしてきたつもりだった。しかし、よくよく考えてみれば貴族など恵まれた血統の者が扱うのは魔術は一つではないし、平民の中でもいくつもの魔術を扱える者は存在した。ペルデ王子の現婚約者、アマンテもそのような類の人間である。彼らはアカデミーに通い、その魔術を磨いていくが——中には、魔術を極めようとアカデミーを卒業してから魔術院に進む者もいる。そこで詳しく魔術を学んだ者は自らが生まれながらに使える魔術以上の魔術を身に付けることが出来た。偉大なる魔術師、オサ・マジョールもまた生まれた時には魔術が三つしか使えなかったが、晩年には何百もの魔獣を使いこなしたとされている。それは魔術に理論が、そして仕組みが存在するからこそ、可能なのである。
(……もしかして、その仕組みとやらを学んだら誰でも生まれながらに持った魔術以外を使えるようになる?)
サビオの言葉が胸に引っ掛かったまま、アコニトはしばらく作業を続けていたが、ついにその手を止めて仕事に勤しむ新人の方へと問いかけた。
「……ねえ、サビオ」
「なんですか、アコニトさん」
サビオが顔を上げればアコニトは無表情のまま彼に問いかけた。
「トリエノ様は、書庫で一体何をお調べになっていたんですか?」
その質問にサビオはキョトンとしながらも答える。
「魔術と、その法律についてです」
どちらにも同じような仕組みがあるんですね、と笑うサビオにアコニトは指でこめかみを抑えた。
(……一体今度は何をやらかすおつもりなのだか)
主人の目論見を見抜くことが出来ないまま、アコニトは深い溜息を吐く。
「そういえば知ってましたか、アコニトさん。魔術の有無が皇位継承権や家督の相続にも大きく関わってくるそうですよ——」
そして、トリエノの元へ王宮からの手紙が届いたのはそれから三日後のことだった。