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第二話・突風

 コンステラシオン王国は、資源豊かな土地に建てられた八〇〇年の歴史を持つ国である。


しかし、建国史にはその起源を、さらに二〇〇年遡り、女神・アトモスフェラによる恵みがこの地に降り注いだところからコンステラシオンは始まったと記載されている。その女神の恵みこそが、この国の地中の奥深くに埋まっている魔石であった。古の時代を生きた魔力を持った生物たちの魂が閉じ込められているという魔石は、宝石としての美しさが飛び抜けていることはもちろん、魔道具を動かす為の貴重なエネルギーでもある。その為、いつしかコンステラシオンには優秀な魔術師たちが集い、狭い国土ながらもこの八百年間……どの国からの侵攻も寄せ付けず、コンステラシオンは栄え続けてきた。


 そんなコンステラシオン王国の民として、生まれたからには魔術の一つや二つ、使えなければ話にならない。平民ですら生まれながらに少なくとも一つは魔術を持ち、それを生かして日々の営みを行っている。また貴族は、その恵まれた血統をもってして、いくつもの魔術を操ることが出来た。そして、王族となれば——その高貴なる魂に刻まれた、ありとあらゆる魔術を使いこなし、この国を治める者として相応しいと人々に認めさせなければならなかった。



 それが、コンステラシオン王国において王族として生まれた者の義務である。



 しかし、たった一人だけ……その義務を放り投げようとしている者がいた。




 彼女の名は、アウロラ・コンステラシオン。


 別名——眠り姫である。




「——面を上げよ」


 眠気を誘う、おっとりとした声が王宮の一角に響いた。贅沢にも魔石を含んだ石材で作られた寝台の上に横たわる女性は、その七色に光る髪をばさりと流せば扇子で口元を隠すこともなく立派なあくびを披露する。


「それで、子爵風情が私に何の用ですの……?」



 退屈そうに寝台にしなだれかかるアウロラ王女は、自分の目の前で膝を折る令嬢を視界の端に捉えながらも今にも眠ってしまいそうだった。その姿は王族に課せられた義務もまともにこなせない、出来損ないの王女として皆が噂する通りの姿である。



(——だとしても……なんで、こんな簡単に王女との謁見が叶うんだ……?)



 しかも、何故僕まで……?と悶々とするサビオは大理石で出来た床をひたすらじっと眺めながら、雇い主の後ろに大人しく控えていた。



「お目通り叶いまして、光栄でございます」



 その声はくぐもることを知らず、王女のために作られた広い部屋の中でもよく通った。重たい瞼を伏せていたアウロラも、思わず片目を開く。



「王国の空を彩る、聖なる光にご挨拶申し上げます」



 サビオの視界の端で深緑色のドレスの裾が揺れる。



「——私、トリエノ・ベンティスカと申します」


 磨き上げられた大理石に映る、その堂々とした立ち姿はかつて栄光を極めたガラクシア公爵家の令嬢、マルテ・ガラクシアを思い出させた。しかし、小柄な彼女とは対照的にトリエノの背丈はアウロラが部屋の隅に飾っているアセイトゥナの木にも負けず劣らず高い。それこそ、数段上に置かれた寝台に横たわるアウロラをここからでも見下ろしてしまいそうになる程。



「……随分と大きい令嬢だこと」

 


 アウロラは、目を細めながら前髪を大きく掻き上げた。その仕草にアウロラの後ろで控えている侍女たちにも緊張感が走る。気分屋で、プライドの高いアウロラ王女の機嫌を損ねた令嬢の中には、社交界を追放——あるいは、その一族に与えられた爵位ごと奪われた者も過去にいたからだ。たかだか子爵家の娘が、アウロラを見下ろすことなどあってはならない。


(ど……どうか……どうか、その身を屈めるのです……トリエノ・ベンティスカ——!!)


 アウロラ王女に仕える、筆頭侍女であるオルテンシアはトリエノがその無駄に高い背丈を縮めて、アウロラに礼を尽くすことを祈った。しかし、トリエノはその背中を丸める気配もなければ、アウロラの前で膝を折る気配もない。



 ただ、立っている。



 かつて、この部屋でアウロラ・コンステラシオンとマルテ・ガラクシアが対峙したときのように。



(……一体、トリエノ様はアウロラ王女と何をお話しされるつもりなんだろうか……???)



 トリエノと、アウロラは視線を逸らさずに見つめ合う。そんな二人の姿を大理石越しに眺めながらサビオはごくりと唾を飲み込んだ。





 ——落雷と、極光。



 果たして二つの光のどちらがこの空を制するのか、サビオには見当もつかなかった。



 *



 このコンステラシオン王立刑務所にて牢番をしていた新兵が、従者としてベンティスカ家に仕えるようになったのは今から僅か一週間前の話であった。



「おおおお……???」


 鎧を脱ぎ捨て、ベンティスカ家のメイドが用意した使用人の制服に着替えたサビオは、屋敷を案内されながらその小さな口を開きっぱなしにしていた。



「そんなにずっと口を開けていたら虫に飛び込まれますよ」



 トリエノ付きメイドであるアコニトが嗜めるとサビオは慌てて口元を手で押さえた。その様子にアコニトは溜息を吐きながら「愚か者が賢く見られたいならば口を閉じていろ」と口酸っぱく唱えていた先代のベンティスカ子爵の話をした。



「その……トリエノ様のお祖父様がこのお屋敷を建てられたんですか……」

「そうですよ」



 サビオが尋ねればアコニトは自慢げに頷く。



「大旦那様は、それはそれは偉大な方でした——」



 アコニトの一族は、先々代からベンティスカ家に仕えており、アコニトの母はトリエノの父の世話役であり、そのまた母であるアコニトの祖母はトリエノの祖父——チャパロン・ベンティスカに仕えたのだという。そのチャパロンこそ、ベンティスカ子爵家に爵位に見合わぬほどの栄光をもたらした男だった。



「こう言ってはなんですが……子爵家の屋敷にしては大き過ぎませんか……」

「確かに」



 笑うアコニトの隣で、サビオは首が痛くなるほど上を向く。そうでもしなければ、この屋敷の天井を拝むことすらできないからだ。例え、トリエノが背筋を正した状態で飛び跳ねたとしても決してその頭を打ち付けることはないほど高い天井と、サビオが広間と間違えたほど広い廊下は、チャパロンが権勢を奮っていた頃のベンティスカの栄光を物語っている。



「大旦那様は、トリエノ様より背が高くていらっしゃいました」

「トリエノ様より!?」



 衝撃的な事実にサビオは仰け反った。トリエノの背丈は、十分過ぎるほど高い。それこそ、他の貴族の屋敷ではドアをくぐるときにも身を屈める必要があるほどだ。馬車も特注品でなければそこらじゅうに身体の一部を打ち付けてしまう。しかし、そんなトリエノよりも背が高いチャパロンとは、どれほどの巨漢であったのか——想像を膨らませるサビオが息を飲むとアコニトが立ち止まる。



「ほら、あれを」

「あれ?」



 彼女が視線で指し示す方向をサビオが目で追えば、廊下の突き当たりに絵画が掲げてあった。それはこれ以上近付けば全体が見えなくなるほど巨大で、縦は天井に届くほどの高さがある。描かれているのは家族の姿——ベンティスカ一族の肖像画である。額縁の中にずらりと並ぶ貴族たちを前にサビオは眉を顰めた。



「な……なんか一人だけ、デカくないですか……???」

「それが大旦那様です」

「ひぇ……」



 アコニトの返答にサビオが青褪めたのも当然だった。小柄な貴族たちに囲まれるチャパロンは、まるで丘の上に生えたアレールセの木だ。その幹は太いわけではない。しかし地に張り巡らされた根がしっかりとしているのか、空に向かって突き立つ針葉樹を思わせる姿は例えどんな嵐が吹き荒れようと倒れることはないと信じさせるほど威厳があった。人々が見上げるに相応しい、堂々たる立ち姿。アコニトが立派な方というのも、分かる。また飛び抜けた背丈に気を取られがちだが、よく見れば彼の顔もまたその荘厳な雰囲気に関わっていることにサビオは気付いた。骨張ってはいるものの、すっきりとした顔立ちで一つ一つのパーツの配置のバランスが良く、相対する者に程よい緊張感を与える。サビオも目の前にいるのは実物ではなく、絵画であることはわかっているのだが、つい見惚れる。



「男前ですねえ……」



 サビオが感嘆の溜息を漏らせば、アコニトはしばらく沈黙を舌の上で転がした後にボソリと呟く。



「……貴方はそう思うのですね」

「え?」



 サビオは小さく首を傾げるが、アコニトはそれ以上、チャパロンの顔立ちについて言及することはなかった。代わりに話し始めたのは、ベンティスカ家の血統についてだ。



「……チャパロン様は、この国の生まれではないのですか?」

「正確に言えば違います」



 アコニトは、チャパロンが他国からコンステラシオンに渡ってきた移民の一人であるとサビオに説明した。チャパロンが幼少期を過ごしたのは、コンステラシオンからして北方に位置するセリオン帝国だった。チャパロンの母は、コンステラシオンからセリオンの貴族の元へと嫁いだが、戦争で夫を失った。その後、チャパロンの兄が、家督を継ぎ、チャパロンに爵位は与えられなかった。帝国の法の下では、チャパロンの父が死没した後にコンステラシオン出身の母から生まれたチャパロンが爵位を得ることは叶わなかったのである。



「それでコンステラシオンに……」

「そうです」



 アコニトは、サビオの隣で肖像画を見上げる。



「大旦那様は、自らの血の力を活かせるコンステラシオンに渡るとその手腕を遺憾なく発揮されました」



 爵位を授かるまでは多くの魔道具の生産に携わり、その偉業が王室に認められて子爵として認められてからは領地経営にも積極的に勤しんだ——その結果、子爵の地位には収まりきれぬほどの富と名声と栄光を手にした。



「大旦那様は正式な場においても王族の前で着帽と着席を許されました」



 アコニトが自慢げに微笑むが、サビオはいまいちピンと来ていない。



「それは……凄いことなんですか……??」

「……本来ならば、伯爵以上のものにしか与えられない特権です」

「ほ、ほぁ〜〜〜〜!?」



 アコニトによる簡潔な説明でようやくチャパロンの凄さを理解したのか、サビオは口をカパッと開いたまま間抜けな声を出す。それを横から眺めるアコニトは「だからそうして口を開いたままにするのは——」と嗜めようとしたが、最後まで言い切る前にこちらへ近付いてくる気配に気付いた。



「とても立派なお祖父様だったけど……コンステラシオンにおいて重要なのは、その血統の歴史……」



 じっとりと湿った声にサビオが勢いよく振り返れば、広い廊下の真ん中に長い髪を振り乱した女がニヤッと微笑みながら立っている。



「つまり、ベンティスカ家もコンステラシオンにおいては所詮は新興貴族というわけね……」



 自嘲気味に口元を歪ませる女性を前にして、アコニトはエプロンドレスの裾を摘んで一礼する。それから、彼女の皮肉めいた言い回しに言い返した。



「子爵家においてこの特権を持ち続けているのはベンティスカ家のみです」

「王族の前に出ることも滅多にないのに?もはや必要のない特権だわ」

「これからあるかもしれませんよ」

「あら、では一体誰が王宮に呼ばれる予定なのかしら……」



 なんとしてでもチャパロン・ベンティエスカの栄光を否定したくないアコニトに対して、その血を受け継ぐ孫は実に冷静に自らに与えられた特権について語る。



「お祖父様が立派過ぎるあまりにお父様は中央から遠ざけられた……いまや、ベンティエスカを支えているのは過去の栄光のみ……」



 彼女は、不機嫌そうな表情を浮かべるアコニト、と口を開けっ放しにしたままのサビオの間に立つと肖像画を見上げる。絵画の中にいるほとんどの貴族を彼女は見下ろすことが出来たが、唯一チャパロンだけはそれが叶わない。



「せめてお兄様がもう少しマトモでいらっしゃったら……」



 憂いを浮かべる令嬢は、乱れた髪を整えて耳の後ろにかけた。するとチャパロンによく似た顔立ちがあらわになる。スッと通った鼻筋に、薄い唇。意志が強そうな切長の瞳。全体のバランスは良いが、小柄で幼い顔立ちを好むコンステラシオンにおいては誰もが見上げるほどの背丈と黒々とした髪色も相まって例えお世辞でも美しいとは言われない。



(……トリエノ様は、チャパロン様の血を色濃く受け継がれたのだな…………)



 そんなトリエノ・ベンティスカの横顔を、恍惚とした表情で眺めるのは、あの王立刑務所にて彼女に声を掛けられた元兵士だった。トリエノは、彼から放たれる熱い視線に気付くとそちらに顔を向けて、クスッと微笑む。



「賢人は口を閉じている方が似合ってよ?」



 トリエノは、人差し指を立てるとその開きっぱなしの口を咎めるようにサビオの唇に触れた。



「ひゃ……ひゃい……」



 サビオが慌てて口を閉じて頷けば、トリエノは彼に微笑み返した。それからアコニトの方へと視線を向けると兄の行方を尋ねる。



「それで、本当に帰ってくるの?」

「お手紙ではそのように」

「いつ?」

「〝クラベルの花が萎れ、夕陽が傾きかける頃〟とだけ……」



 アコニトがトリエノの兄から届いた手紙の内容を抜粋すると妹は呆れたように目をぐるりと回した。



「どうしてお兄様は、いつもそうなの……」

「恋文はお上手ですよ」

「でしょうとも」



 何の事情もしらないサビオがうっかり最後に口を挟めば、アコニトがジトッ……と新しい使用人のことを睨み付ける。その視線に気まずさを覚えたサビオは〝賢人は口を閉じておく〟という言葉を心の中で何度も繰り返した。



「出来る限り早く来てもらわなくてはいけないのに……」

「いっそのこと鍵を壊すか、王立図書館をあたってみては?」

「前者はともかく、後者では意味がないの」



 しかし、どうしても気になってしまう。


 トリエノが何故兄の到着を心待ちにしているのか、そしてアコニトが壊すことを提案した〝鍵〟とはどこの鍵なのか、王立図書館をあたるとはどういう意味なのか——。



 そうしてサビオが無言でぐるぐると思考を回しているうちに、廊下をバタバタと駆けてくる足音が聞こえてきた。サビオとトリエノが同時にそちらを振り返れば、そこには息を切らしながら叫ぶメイドの姿がある。



「——ラファガ様がお戻りになりました!!」



 その言葉に、トリエノはドレスの裾をたくしあげればいきなり廊下を駆け出した。その後ろ姿はぐんぐんと遠ざかっていく。サビオも慌てて彼女の後を追って走り出したが、アコニトはその場から特に動く気はなかった。例え走ってもトリエノの足に追いつくはずがないと思っていたからである。



「……軽食の準備しておかなくては」



 従順で忠実なメイドは、これから先の展開を予測して自分がするべき仕事を思い付くとゆっくりとキッチンに向かって歩き出した。



 *



 後にサビオは、トリエノ・ベンティスカとラファガ・ベンティスカの再会について、こう語った。



 ——これほど似ていない兄妹が彼ら以外にこの世界に居るだろうかと。




「おぉ、トリエノ・ベンティスカ——我が愛しの妹よ〜!!」



 明るい茶髪を掻き上げる優男は、階段を駆け下りてくる妹に向かって両手を広げた。白いスーツに身を包んだ彼は、サビオよりも少しばかり背が高いくらいでコンステラシオンの男の中でも小柄な方だろう。しかし、その数多の女を狂わせてきたであろう甘い顔立ちと、ちょっと胡散臭くも聞こえる魅力的な声が彼のあらゆる欠点を覆い隠してきた。



「この兄、ラファガの胸に抱かれにおいで……!」



 彼は自分よりも背が高いトリエノが階段の数段上から飛び降りても受け止める気でいた。それほどまでに妹を愛していた——というより、妹を愛する自分を愛していた。例え、ここで彼がトリエノの巨体に押し潰されて怪我をしたときても嫌な顔を一つ浮かべずに「お前は無事かい、トリエノ……」と甘く囁き掛けた後、彼を看病する為に屋敷に押し掛けてくる貴族の令嬢たちに麗しい兄妹の絆について語って聞かせただろう。このような、いささか自己愛が過ぎる兄の性格にトリエノは助けられてきたと同時に苦しめられてきた。



「おかえりなさいませ、お兄様」



 トリエノは、階段から飛び降りることなく一番下までその足で降り切ると兄が広げた両腕を無視して大きな手を彼の前に差し出した。



「鍵を下さい、お兄様」

「なぁんと!!」



 その淡々とした妹の態度にラファガは叫んだ。



「……三年ぶりに兄と再会したにも関わらず、二言目にはそれかい?トリエノ・ベンティエスカ!!」



 大袈裟に仰反るラファガに対して、トリエノは真顔だった。彼としては感動的な兄妹の再会を望んでいたらしいが、現実はそうはならなかった。そもそもトリエノにとって兄であるラファガは特に恋しい存在でも何でもない。



「ちゃんとした手紙を送れるようになってから文句を言ってください、お兄様」

「なぁんと!!」



 トリエノの小言に、またもやラファガは叫んだ。その声がまた無駄に芝居ががっているせいか、トリエノの神経を逆撫でするのだが、ラファガは全く気付いていない様子。



「美しい手紙だったろう?」

「私は読んでおりません、お兄様」

「なぁんと!!」



 ラファガは、額に手の甲を当てると二、三歩後ろによろけた。それをサビオは、まるで役者のような動きをする人だな……と思いながら眺めていたのだが、当たらずとも遠からずである。なにしろラファガは、家督を受け継ぐことを拒否して後継者教育から逃げ出した挙句、貴族ながら地方の劇場で舞台に立っていたからである。何故、中央の劇場ではなく貴族なのかと言えば彼の演技が王立劇場に足を運ぶ観客を満足させるレベルに達していない——というのが答えであった。だが、ラファガは諦めていない。



「我が愛しの妹……トリエノ……何故、お前の為に愛を込めて綴った手紙を読んでくれていないのか……」



 悲哀に満ちた演技を披露するラファガは、玄関ホールに膝を折り、その手を天高く差し出す。しかし、その指の先はトリエノの腰の高さにも達していない。手足が長いトリエノとは対照的に、ラファガは役者に相応しい体格に恵まれていなかった。



「お兄様、そういうのはいいので早く鍵を——」

「トリエノ!!」



 兄の悪ふざけを前にして苛立ちを隠せなくなったトリエノの名前をラファガは大声で叫ぶ。その声の通りの良さだけは、チャパロンに似ていた。



「私の美しき妹、トリエノ・ベンティスカよ」



 ラファガはゆっくりと床から立ち上がるとトリエノを見上げながら微笑んだ。その笑顔には、心優しい兄の心が宿る。彼は、この国の基準では決して美人とは言えない妹を昔から〝美しい〟と褒め称え続ける。身長がにょきにょきと伸び出し、あっという間にサイズが合わなくなるドレスに父と母が顔を引き攣らせるようになっても、着るものが間に合わずにベッドシーツに包まりながらトリエノが泣いていた時も、ラファガはトリエノを〝お前はいつでも美しいよ〟と囁いて、花を贈った。



「……目的を達成するには人の心を掴まなくてはいけないよ」



 ラファガは、トリエノが求める鍵ではなくクラベルの花を彼女に差し出した。その花が持つ赤は、トリエノとラファガが持つ瞳の色とそっくりだった。小さく縮こまりながら泣くトリエノの傍で、ラファガはこの花を見せて、覚えたばかりの詩や戯曲の台詞を語って聞かせたものだ。



「無理難題を通す時こそ、大掛かりな演出が必要になるものだ」



 論理や仕組みも重要だが、最後に物事を大きく動かすのは人間の情であると彼は語った。それは偉大なるチャパロン・ベンティスカの口癖の一つであった。ラファガ・ベンティスカは、その見た目こそチャパロンちっとも似ていないが、祖父から大切なことをいくつも学んでいた。常識に囚われるな、夢を追え、理想を求めよ、目に見えるものだけが真実ではない——。



「お前が何かを成し遂げる気であるのなら、この兄も協力しよう……しかし、それはお前に人の心を動かす力がなければこれから先はどうにもならない」



 それがお前に出来るかとラファガが尋ねれば、トリエノは無言で兄の顔を見下ろした。それから、ドレスの裾を摘んでそっと腰を下げると淑女としての礼を兄へと尽くす。




「トリエノ・ベンティスカからの、一生の一度の願いでございます」




 トリエノの喉から搾り出される声は、震えていた。




「どうか……どうか、この哀れな妹に……お兄様のご慈悲を……」




 斜め後ろに控えていたサビオはその声を聞いて驚いた。あれほど堂々としていたトリエノの後ろ姿が急に寂しそうに見え、彼女が今にも泣きそうに思えたからだ。サビオは、慌てて彼女に駆け寄ろうとする。しかし、ラファガが彼に向けて指を立ててそれを止める。




「——トリエノ」




 目の前で頭を下げる妹を見下ろした兄は、その頭をコツンと小突く。



「え?」



 顔を上げたトリエノはゆっくりと首を横に振るラファガと目が合った。彼は、トリエノの演技にチッチッチッ……と舌を鳴らせばわざとらしく肩を竦める。




「——それは、私のやり方だ」




 トリエノの演技にダメ出しをするラファガは、役者として妹に助言をする。




「お前はお前だけのやり方を見つけなくてはならない」




 私やマルテ嬢の真似だけではダメだと言い聞かせるラファガは、トリエノを真っ直ぐ立たせれば彼女の姿を四方八方からじっくりと眺めながら一周する。



「その恵まれた背丈、長い手足——お祖父様によく似た顔立ちを生かさなくてどうする!」



 ラファガは、トリエノの黒髪に指を絡めればパッと手を離した。そして彼女の目の前に戻ってくると優しく微笑み掛ける。



「お前なら出来るはずだよ」



 そう言いながら、ラファガが差し出したクラベルの花は、トリエノの細い指が触れた途端——ポンっと弾けた。そして、気付けば金色に輝く鍵へと姿を変えている。



 それこそがトリエノが求めていた、次の一手に繋がる鍵。




「ここは兄妹の情に免じてあげよう」



 ラファガは、トリエノにそれを受け取らせると屋敷の奥へと歩き出す。



「……また道に迷ったら、この兄に頼りたまえ!」


 

そして階段を駆け上がるとその途中で振り返り、大袈裟にスーツのジャケットを翻した。その姿は、まるで舞台の一場面——。




「このラファガ・ベンティスカにな!!!」




 そう言い残すとラファガはその名の通りに突風の如く、トリエノの目の前から去っていった。




 玄関に取り残されたのは、トリエノと——サビオの二人だけ。思わずサビオがトリエノの方を振り返ると彼女は自分の掌に比べれば随分と小さな鍵を握り締めながら吹き出した。



「おかしな人でしょう?」

「あ……ええっと……」



 トリエノからの問いかけにサビオは微笑む。




「絶対に悪い人では……ないですね……」




 その答えにトリエノは、小さく頷いた。

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