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第一話・落雷

 エンハンブレ王立刑務所は、コンステラシオン王国の都・ティエラの外れに位置していた。


高貴なる者がその血を穢すような罪を犯した時、彼らはこの牢に入れられる。絢爛豪華なドレスや装飾品は全て徴収され、罪人に与えられるのは麻で編まれた服のみ。今まで社交界の華として崇められてきた、どんな貴族であろうともその粗末な服では見る影もない……と思われた。


 しかし、ガラクシア公爵家の令嬢——マルテだけは違った。彼女の魂が持つ輝きは、その冷たい鉄格子の中でも失われることはなく、むしろ薄暗い地下を煌々と照らす。酷く座り心地の悪い石で出来た椅子に背筋を正して座っている彼女の姿を一目だけでもよいから拝もうと見回りの兵は執拗にその牢の前をすれ違う。



「あれが稀代の悪女だって?」

「何かの間違いじゃないか……」



 気品漂うマルテの姿を視界の端に捉えながら兵たちはコソコソと囁き合う。



「あんなに小さくてお可愛らしいのに……」

「色も白くて、あのちっちゃな窓から差し込む陽に照らされた金髪なんかソル・イーロかと疑ったよ」

「女神の生まれ変わりに違いねえ……」



 彼らは、彼女が犯した罪も知らずにそんな会話を交わす。もちろん、そのささやきはマルテにも聞こえていたのだが、彼女はそれに対して異を唱えることはない。彼女はただ祈っていた。自分の食事の為に与えられたパンを小さな窓へと供え、その前で膝をついたマルテは胸の前で両手を組む。その信心深いマルテの姿に、兵たちはさらに心を打たれた。



「彼女が、マルテ様が……罪人なわけがねえ……!!」



 老兵が掠れた声で呟けば、周りの者たちとウンウンと頷いた。



「そうだ、そうだ……!」

「違いねえ……!」

「マルテ様は、こんなところで裁かれるべきお人じゃないさ!」

「全くもって全ての意見に同意致しますわ……」



 そんな兵たちの荒々しい叫びにじっとりと湿った声が混じる。



「……ん?」



 そのことに気付いたのは、まだこの刑務所に左遷——異動して、一ヶ月も経っていない新兵であるサビオだった。



「いま、どなたか……若い女性の方の声が……」



 サビオがサイズの合っていない兜を押し上げながら辺りを見回すが、どこにも女性の姿はない。もちろん、このエンハンブレ王立刑務所に務める兵士たちはほとんどが男であるし、見回りを担当する兵に女はいない。だからこの場に女がいるはずがないのだ。



「なんだぁ、サビオ……オメエもマルテ様の美しさに酔っちまったかァ〜?」



 調子のいい中年兵のノマダがサビオのことを笑うが、彼は訝しむことをやめない。



「いや、確かに聞こえたんですよ……こう、なんというか……じっとりした、女の人の声が……」



 食い下がるサビオに兵士たちはしらけた顔をする、



「馬鹿言えよ、サビオ」

「こんなところにマルテ様以外の女がいるはずがねえだろ」



 呆れる兵士たちは、サビオのことを軽く小突いた。その拍子にサビオの身体はよろめいた。真面目な彼は皆が着込んでいない重い鎧を真面目に着込んでおり、ちょっと押されるだけでも後ろに転げそうになる。そんな彼が尻餅をつかずに済んだのは何か壁のようなものに背中が当たったからだった。



 もしも、それが本当に牢獄の壁だったのならばサビオの鎧はガシャンと音を立てただろうが、全く音は鳴らなかった。それどころか、小さく鎧が軋む音すら壁に吸い込まれる。サビオは鈍色の鎧越しの感覚ながらそれが固い壁ではない、別のものだと察していた。



 しかし、まさかそれが〝人〟だとは気付かない。




「——あのぉ」



 じっとりと、湿った声がサビオの頭上から降りてくる。



「ここに……マルテ・ガラクシア様がいらっしゃるとお聞きしたのですがぁ……」



 柳の枝のように伸びた黒々とした髪が、サビオの肩に絡みつく。



「どこに……いらっしゃるのでしょう……」



 白くて細長い、魚の骨のような指が傾いた兜の位置を直す。ようやく開けた視界からサビオが声の主を見上げると彼女は僅かに開いた前髪の隙間からニコッと微笑む。




 まるで、死神ラ・ムエルテのように——。




「こ……こちらです……」



 同僚たちが叫び声を上げて逃げ惑う中、サビオが顔色を悪くしながらも彼女をマルテが収監されている牢まで案内出来たのは彼の生涯で最も偉大な行いとなった。



 *



 小さな窓から陽が差し込む牢で祈りを捧げていたマルテは、自分の背中に影が落ちたことに気付くと折っていた膝を伸ばして、立ち上がった。



「——何故来たの?」



 銀で作った鈴が鳴るような声で問うマルテに、牢の前に立った女はわなわなと唇を震わせるだけで何も答えない。それに痺れを切らせたマルテは、彼女がいる方を振り返る。



「私が尋ねたことに答えなさい、トルエノ・ベンティスカ」



 マルテは目の前にいる女を見上げながら鉄格子を握った。彼女が名前を呼んだのは、ベンティスカ子爵家の令嬢。社交界にその名を轟かせているわけでもなく、政治的な地位を確立しているわけでもなく、爵位もそれほどまで高くない。平凡な貴族、ベンティスカ家。その末の娘こそがトルエノだった。彼女もまたパッとしない家名と同じく特に目立たぬ令嬢であった。しかし、そう思っているのはおそらく一部のものたちだけ——。



「ま……マルテさまぁ……!!」



 彼女が伸ばした手はいとも簡単に鉄格子の間をすり抜けるとマルテの背中に回った。その腕の長さにマルテはギョッとするが、そこから逃れようとはしない。



「わた……わたくし……悔しゅうございますぅ〜〜〜〜ッ!!」



 わぁ〜んッと人目も気にせず泣き喚くトリエノにマルテは耳を塞ぐ。



「悪いのは第二王子様とアマンテとかいう立場も弁えぬ女であって、マルテ様ではございません〜〜〜ッ!!」

「そ、そうね……私も、そう思うのだけれど……」

「それなのにどうしてこのような仕打ちをマルテ様がァ〜〜〜〜ッ!!」

「分かっているわ……だから落ち着いて……」

「どお゛じでぇ゛ッ〜〜〜〜!??」

「分かった、分かったから!いい加減、鉄格子ごと私を抱き締めるのはおやめなさい……!!」



 泣き叫ぶトルエノに抱き締められながら、マルテは必死に彼女を慰める。その異様な光景をサビオは遠巻きに眺めていた。






 それからトルエノが落ち着くまで、30分掛かりました。





「……取り乱して、申し訳ございませんでした」



 深々と頭を下げるトルエノに、マルテは呆れながらも彼女を責めるつもりはなかった。



「いいからはしたない真似はおやめなさい……」



 両膝を折り、床に頭を擦り付ける勢いのトリエノを見下ろしながらマルテは「全く見苦しいのだから……」と溜息を吐いた。



「牢にいる私ならともかく何故お前がそこまで追い詰められているのか分からないわ」



 マルテがゆったりと腕を組みながら鉄格子の前を歩くとトリエノは頭を上げ、その問いに答えようとする。



「それはですねぇ——!!」

「キャッ!?」



 しかし、頭を上げるときの勢いが良過ぎたのか振り乱される髪にマルテは悲鳴を上げて後ずさった。失礼な態度かと思われるだろうが、遠くから眺めているだけのサビオですらビクッと肩を揺らすほどの挙動だったのだから、目の前に立っているマルテが小さな悲鳴だけで済ませたのは奇跡的なことだと言えた。幼い頃からトリエノと親しんでいたことだけはある。



「……その動きをおやめなさいと言ってるでしょう」

「申し訳ございません……マルテ様しかいないから気が緩んでしまいました……」



 令嬢らしからぬ不可解な動きをするトリエノのことをマルテは昔から面白がっていたものの、人の多いところでその動きは控えるようにと口酸っぱく言い聞かせていた。それはもちろん、そのおかしな動きのせいでトリエノが他の令嬢や子息たちから笑われたり、虐められたりしないようにする為だ。



 もしもそんなことがあればマルテは、幼馴染であるトリエノのことを庇うつもりではあった。それでも生まれた時から王族との婚約が決まっているような名家の出であるマルテが、単なる子爵家の娘であるトリエノと必要以上に親しくしているところを見せるのはリスクが大きかった。だから社交界ではもちろん、貴族の間でもマルテとトリエノが幼馴染であることを知っている者はほとんどいない。世間的に見ればマルテは王子の婚約者であり、トリエノはその取り巻きに過ぎなかったのだ。



 しかし、こうしてマルテが牢に入れられた後に彼女を尋ねてきたのはトリエノしかいない。マルテの取り巻きの中でも最後列にしか並んだことがないトリエノだったが、マルテとの身分を超えた友情は本物だった。



 そう、本物ゆえに——トリエノは、こうしてマルテが刑務所に送られたことについて当人以上に取り乱してしまったのだ。




「あああ……おいたわしいことですわ……王国の光……唯一無二のソル・イーロをお持ちになるマルテ様が……こんな……こんな……迷路みたいな場所にいらっしゃるなんて……!」

「随分とここに辿り着くまで迷ったのね、トリエノ……」



 唇を噛み締めて悔しさをあらわにするトリエノにマルテは苦笑いを浮かべる。マルテの言う通り、トリエノはまだ日が昇る前に屋敷を出て、早朝にはここに着いていたはずだというのにマルテの前に現れたのは午後を過ぎてからであった。親切な青年に助けられたお陰でなんとかなったとトリエノはマルテに報告しながらスンスンと鼻を鳴らす。



「マルテ様しかいらっしゃらないのでしたら、一番手前の牢で宜しいのでは?何故わざわざこんな奥に?」

「お黙りなさい」



 トリエノの余計な一言にマルテはピシャリと言ってのけると持っていないはずの扇子で手のひらをパチンと打つフリをする。それはマルテの身に幼い頃から刻み込まれた、淑女としての仕草だった。



「……私だってこうなるとは思いもしなかったわ」



 遠くを見つめるマルテの瞳に、寂しさと虚しさが宿る。



「マルテ様……」



 マルテの横顔を眺めながらトリエノは眉を顰めた。牢に入る前よりも少しばかり痩せた彼女は、本来ならばこんなところに居てはいけない人物であった。しかし、こうなってしまったのは全て——彼女の元婚約者であり、この国の王子でもあるペルデ第二王子と、アマンテと呼ばれる平民上がりの美少女のせいであった。





『恥を知りなさいッ!!』


 マルテがアマンテの頬を打とうとして、間違ってペルデの頬を叩いた瞬間、天国のように美しい庭園で開かれたお茶会は地獄へと変わった。小さく響いた悲鳴は、アマンテではなくマルテのもので、彼女は赤くなった手のひらとペルデ皇子の頬を見比べてわなわなと唇を震わせた。


『私……そんなつもりでは……』


 王族に手を上げたつもりではなかったとマルテが弁明したところで、その場が収まる気配はなかった。その現場を目撃していたのは、王室主催のお茶会に出席した貴族全員で、その中にはトリエノも、マルテの母であるガラクシア公爵夫人も含まれていた。ガラクシア公爵夫人は娘が頬を赤らめた皇子の前で肩を震わせる姿を見るやいなや駆け出すと王子の前で弁明した。


『殿下——私の娘は、貴方様を心よりお慕いしているからこそ、その後ろにいる娘に感情をあらわにしてしまっただけでございます!』


 マルテがその手を振り上げたのは、貴方の頬を打つ為ではなく、またペルデ王子の後ろに隠れているアマンテに危害を加える為ではなかった……これはただの事故であったと、ガラクシア公爵夫人は繰り返したが、ペルデ王子がその言葉に耳を傾けることはなかった。


 何の騒ぎだと後から現れた国王夫妻にガラクシア公爵夫人は縋ろうとしたものの、彼らは公爵夫人の話よりも息子の話を信じた。それはおそらく王妃であるレイナがマルテよりもアマンテを気に入っていたことが関係するだろう。レイナは、扇子を口元に当てるとマルテのことを野蛮と謗り、それからアマンテの肩をこれ見よがしに抱いて見せたのだ。多くの貴族の前で。




『アマンテこそがペルデの妻にふさわしい』




 そう宣言された時の、アマンテの微笑みをマルテも、そしてトリエノも忘れることはない。





 それはあまりにも邪悪で、醜悪過ぎた。




 それから数日後——マルテは、ガラクシア家に押し掛けた王族の近衛隊によって取り押さえられ、エンハンブレ王立刑務所に送られた。その罪は、皇族に危害を加えた上に、国家転覆を企んでいたというこじつけにもほどがあるものだった。





「——おかしいですわ」



 トリエノがその手のひらを床に叩きつけるとブツブツと呟く。



「あのお茶会の時、マルテ様はペルデ王子の婚約者でいらっしゃいました……それにも関わらず皇子と通じたのはアマンテ嬢ではありませんか!」



 アマンテはロシオ男爵家の令嬢ではあるが、ロシオ男爵の実の娘ではない。彼女が平民出身であり、その見目の麗しさと、魔術の才能によりロシオ家に養女として迎えられたのは貴族の誰しもが知っている話。そんな彼女と、ペルデ王子が婚約したことで平民たちが喜びに湧いたという噂だが、アマンテの性格と振る舞いには問題がある。そもそも当時婚約者であったマルテがいる場において、恐れ多くもペルデ王子と通じようとしたことはあり得ないことだった。



「あんなところで……はしたなくもペルデ王子を誘惑するだなんて……」



 アマンテは、マルテに見られていることを知っていながらペルデを植え込みの影に連れ込んだ。そしてその場に居合わせてしまったらせっかく飲んだばかりの紅茶も全て吐き出してしまいたくなるような、酷い光景を披露したのだ。アマンテも、ペルデ王子も、美男美女であるものの、あそこまで醜悪なラブシーンもこの世に二つと存在しないだろう。むしろ、そんな場面を目撃しておきながらアマンテの頬を打とうとしたマルテにトリエノは感服していた。彼女はペルデの婚約者としての役目を全うとしていただけだ。愛しい婚約者に集る蝿を叩き落としていったい何が悪いのか——。



「マルテ様の性格を知っていれば、あのように煽ったらどうなるかアマンテ嬢も分かっていたはず……」

「うるさいわねぇ……」



 思考を止めることなく、ブツブツと呟き続けているトリエノにマルテはわざとらしく咳払いをする。マルテは自分が激情家であることの自覚は十分にあった。だから幼い頃からいつも理性的に振る舞えるように訓練していた。


 食事を気に入らないからと言って皿をひっくり返すこともしなければ、シェフを変えるように要求したりもしない。ましてや自らが持つ才能をひけらかし、人前で魔術を使うなんてもってのほか!淑女としての振る舞いを続け、使用人たちを労い、無駄な浪費も抑えた。その上で影響力のある貴族との交流は欠かさず、王子の婚約者としての相応しい令嬢たるために奔走した。だからこそ彼女が自らが主催したサロンは、社交界にその存在をはっきりと刻み込み、身分が高くて教養に満ちた素晴らしい淑女たちが集う場所として他の貴族から羨望の視線を向けられ続けてきた。彼女に憧れる女の子たちの中には、王子の妹君であるアウロラ王女もおり、マルテの主催するお茶会に招待された際には未だかつてないほど喜んだという噂もあるくらい……。    



 とにかくマルテの努力は、短気という欠点を覆い隠すほどに凄まじいものだった。



「どう考えても王室にとってもマルテ様を手放すのは惜しいはず……中央議会における影響力を強めるにはガラクシア家との婚姻が不可欠……アマンテ嬢を婚約者として迎えたからとて、貴族の支持は得られない……ましてや、彼女は貴族ではありながらも平民出身であることが知られている……これは貴族同士の婚姻を基盤とする血統主義が揺らぎかねない……」



 その努力を踏み躙り、アマンテを選んだ王子と、王妃の選択を信じられないトリエノは先程からずっと俯いたまま口を動かし続けている。その様子はまるで呪いをかける魔女のようで気味が悪い。



「さっきから床に向かってブツブツと……聞きづらいわ、ちゃんと立ってしっかり物を申しなさい」

「ハ……ハイ!」



 マルテの真っ当な指摘に、トリエノは瞬く間に態度を改めた。ドレスが汚れることも厭わずに折っていた膝と、丸まっていた背筋を伸ばせばポキポキと凄まじい音を立てながらトリエノの背丈はグンッと伸びる。その様子を眺めて、マルテは呆然とした。



「顔が……見えないわ……」



 トリエノの頭はマルテの視界から完全に消え、鉄格子から見えるのは首から下のみだった。



「申し訳ございません……」



 トリエノは、マルテに謝りながらキュッと背中を丸めた。それでようやくマルテもトリエノの顔が見られたのであるが、遠くで彼女たちを見守っていたサビオは呆気に取られていた。



(あ……あんなに背が高い……令嬢がいるなんて……)



 先程、サビオが彼女を案内していた時も随分と背が高いと思っていたのだが、その時はまだトリエノは背中を丸めていた状態だった。トリエノがその背筋を伸ばしてしまえば、その頭が天井についてしまうし、もしも牢に入れられたなら身を丸めておかなければ身体が収まりきらないだろう。それほどまでにトリエノの背丈は高かった。それはもう女性としてずば抜けているだけではなく、このコンステラシオン王国においても滅多に見かけぬ長身だった。



(僕は美しいと思うけれども……この国ではそうではないのだろうな……)



 サビオは、トリエノの丸まった背中を眺めながら唇を噛み締める。コンステラシオン王国では男性の背中に隠れられるような小さな女性が美しいとされているため、マルテやアマンテのように大変小柄な女性が尊ばれた。それに対してトリエノはむしろ男がその後ろに隠れられるほどの巨人——未だに彼女に婚約者がいないことも納得がいってしまう。サビオの言う通り、顔立ちは決して醜いものではなく、むしろ整っている方であろうが、そこに幼さはない。そんな大人びた顔立ちを隠すように伸ばされた黒髪は、これまた男だけではなく人々を遠ざける一因となっていた。




 トリエノ・ベンティスカとの絆を育むことが叶ったのは、恐れも知らぬ賢人——マルテ・ガラクシアのみ。




「トリエノ」



 マルテは、幼馴染を見上げるとそっと小さな手を差し出した。



「これは仕方がないことなのです」



 凛とした口調で続けるマルテは、トリエノを慰めるようにその頬を撫でた。



「私が知らず知らずのうちにペルデ王子をはじめとする王族の方々の恨みを買っていたのでしょう……上手く立ち回っていたつもりですが、そうではなかった……」



 彼女の寂しそうな瞳に、トリエノの顔が映る。



「あの瞬間、湧き上がった激情を抑えきれずに罠にかかってしまった私が悪いのです……」



 マルテは自らを責めて、瞼を閉じた。



「期待してくださったお父様……お母様には、申し訳ないことを……」



 そうして娘が婚約を破棄され、刑務所に送られたことによって立場を悪くしたであろう家族のことを想って、マルテは涙をポロポロと落とした。それはトリエノにとって世界一美しい涙であった。




「…………目立ち過ぎてしまったのかもね」




 そんなマルテの言葉にトリエノはハッと目を見開いた。誰よりも美しく、堂々としたマルテ——いつでもどこでもトリエノの世界の中心は、マルテ・ガラクシアであった。トリエノが迷子になりそうな時でも、華々しいマルテの姿が視界に入れば彼女についていけばいいのだとトリエノを安心させてくれた。誰かの影に隠れてしまえるような小柄なマルテは、〝私は誰の影にもならない〟と言わんばかりに太陽の光をたっぷりと浴びてキラキラと輝く金髪を靡かせながら、人々を——そしてトリエノを導いてくれた。



 そんな彼女が王子や、王妃の影の中でニタニタと笑みを浮かべるような女——アマンテによって闇の中に突き落とされるなんてあってはならない。



 彼女の努力が、人生が、生き様が——この世界に否定されるなど、あり得ない




『…………目立ち過ぎてしまったのかもね』

『目立ってはダメよ、トリエノ——』




 自分に何重にも掛けられた鎖によってマルテが絡め取られる瞬間など、トリエノは見たくなかった。




 だからこそ、この瞬間にトリエノは自分に掛けられた鎖ごと、マルテの自由な心を縛り付けようとしていたものを引きちぎった。






「——それは違いますわ、マルテ様」

「え?」



 今までの地を這うような声ではなく、ハキハキとした聞き取りやすい声がマルテの耳に届く。それはマルテも久々に聞いた——トリエノの本来の声だ。誰からも聞き取りやすく、よく通ってしまう声は、〝目立たぬように〟するには不都合だった。しかしもう関係ない。




「マルテ様の行いを否定するものこそ、間違っているのです」




 スッと音もなく背筋を正したトリエノは、身を屈めることなく一歩引くと美しい立ち姿をマルテの前で披露する。その気品溢れる立ち方こそトリエノがマルテから学んだものであった。




「貴方様は、国のため……ご家族のため……そして元婚約者様のために尽力してまいりました……それは正しい行いだったと私は考えております」




 伸びていた前髪を左右に分け、耳の後ろにかけたトリエノはギュッと扇子を握り締めると目を伏せた。


 


「しかし、私だけがそう思っているだけでは足りません……」




 それから深い溜息を吐くと再びその眼を開く。






「——認めさせなければ」






 瞳の色は、燃え上がる炎を思わせるような赤。





「この世界に」





 激情の、赤。



 マルテが大好きな色だった。







「……そ、そうは言っても……トリエノ、貴方に何が出来ると言うの……!?」



 マルテはトリエノの変化に驚きながらもそんな彼女の発言を憂いた。自分のせいでトリエノもまで厄介ごとに巻き込まれるのは御免だった。自分がこうなってしまった以上、せめてトリエノだけでも幸せな人生を歩んで欲しいというのが、幼馴染としての願いだったからだ。しかし、トリエノにとっての幸せはマルテの存在が認められるような世界でなければ、実現しない。



 そのためにはまずトリエノがこの世界を変える必要があった。




「いくらでもありますわ、マルテ様」



 トリエノはニッコリと微笑んだ。その笑い方も、マルテによく似ている。彼女の側にずっと控えていたからこそ、トリエノはマルテの仕草が無意識のうちに染みついていた。


 トリエノは扇子を口元に当てれば、目を細める。



「……ただし、少々目立ってしまいますけれど」



 それもまたマルテが身の程知らずの令嬢を咎める際に浮かべた表情そっくりだったが——トリエノが見下ろしていたのは、ひとりの令嬢だけではない。




 この世界だった。




「まずは、ここからマルテ様をお救いしないといけませんね!」

「え、ええ……???」



 嬉々とするトリエノに、マルテは何が何やらよく分からなかった。トリエノが来たら、自分のことはいいから別の影響力のある令嬢に取り入るように色々と指示を出す気であったのに、どうやらトリエノの目標はすっかり変わってしまったようだ。自分をこの檻から出すことなど出来るはずがない——と思うのに、何故かトリエノなら出来るのではないかと思ってしまう。マルテは、その不思議な感覚に首を傾げる。


 そんなマルテの前で、トリエノは長いドレスの裾を翻す。目立たぬように深緑色の生地で特別に作らせたドレスは、むしろ今はトリエノのスタイルの良さを際立たせている。



「それでは早速仕事に着手致しますのでこれにて失礼いたします、マルテ様!」

「仕事って何を……」

「定期的に報告には参りますからね!」

「だから何をする気だと私は尋ねて……」

「次、お会いするときには牢の外で!」

「ちょっと、私の話を聞きなさいよッ!!」



 マルテは鉄格子を掴んで、トリエノの背中に向かって叫んだが、トリエノはマルテの方を振り返って無邪気な笑みを浮かべるばかりで何も答えなかった。



「……何を……しようというのよ……?」



 そうしてひとり牢の中に取り残されて呆然とするマルテがトリエノの置き土産に気付くまではあと30分ほど掛かるだろう。



「なんなのよぉ〜ッ!?」




 それもこれもトリエノにとっては計算の範囲内だった。


 *



「さて、また案内してくれるかしら?」

「は、ハイ……!!」



 マルテとの話を(一方的に)終えたトリエノに声を掛けられたサビオは、行きと同じようにトリエノのことを刑務所の出口まで案内した。成長期真っ盛りでまだ小さなサビオと並べば、トリエノの背丈はさらに目立ち、他の兵士たちは遠巻きに彼女のことを眺めてはコソコソと何かを囁き合った。しかし、上機嫌なトリエノは、彼らの噂話など一切気にしない。そんな鼻歌でも歌い始めそうな横顔をサビオは見上げながら、ボーッと顔を赤らめる。



「それでは……これで!」



 地下から地上へとトリエノを導いたサビオは、相変わらずサイズの合っていない兜を脇に抱えて深々と頭を下げた。これでサビオの仕事は終わり。再びトリエノがマルテの面会に来なければ、サビオと顔を合わせることはない。そのことを残念に思いながらサビオはトリエノのドレスの裾を見ていた。



 しかし、トリエノはいつまで経ってもその場から立ち去る気配はない。




「…………トリエノ様?」



 全く動かないドレスの裾に首を傾げたサビオがゆっくりとその顔を上げれば、トリエノがその身を屈めてサビオのことを覗き込んでいることに気付いた。



「わっ!?」



 小さな悲鳴を上げたサビオは、小突かれたわけでもないのに足をもつれさせて後ろに転げそうになった。至近距離にあるトリエノの顔に、初対面の時とは別の意味で驚いたのである。



 しかし、そんなサビオが尻餅をつくことはなかった。



 何故なら転ぶ直前、トリエノがサビオの手をしっかりと掴んでいたからである。




「——ねえ、貴方?」




 トリエノは微笑む。

 それは、マルテによく似た笑みだ。



 こういう笑みを浮かべた時のマルテは、周りがアッと驚くようなことをする。それは、その笑みをトリエノが浮かべた場合でも同じことであった。



「私の元で働かない?」



 その誘いにサビオは、トリエノに片手でその身体を支えられながら目を見開く。



「…………えっ!?」



 驚くサビオに、トリエノはフフッ……と笑いを溢す。




 トリエノ・ベンティスカ——彼女は、落雷を由来とするその名に恥じぬような嵐をこの世界に巻き起こそうとしていた。



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