第37話 涙をこらえて
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レゼルが目を覚ましてから、六日が経った。
この六日間のレゼルの忙しさは並大抵ではなかった。
寝る暇もないとはまさしくこのことで、不眠不休で城じゅうを駆けずりまわっていた。
レゼルの机には毎日山のように書類が届けられ、彼女を机ごと埋めつくした。
俺も各国を旅し、国の内政に関して見聞きしたことを活かしてレゼルの相談に乗ったが、それでもとうてい終わるような仕事量ではない。
行政府の整備、法律の見直し、経済の立て直し……。
こと対人戦闘においては無敵を誇るレゼルも、慣れない政治に狼狽し、ある意味オスヴァルトと戦ったとき以上に疲弊しているように見えた。
鉄炎国家の軍が壊滅した今、表立って反旗を翻そうとする帝国移民は少なかった。
帝国へ帰ることを希望した者は自由に解放した。
カレドラル領に残ることを選んだ帝国移民も多かったが、やはり各地で住居を取りもどした旧カレドラル民とのいざこざは絶えなかった。
ここでは、聡明なホセがレゼルの使いとして各地をまわり、いざこざを要領よく治めてくれた。
そして七日目、レゼルが国民の前で演説する日がやってきた。
大聖堂前の広場に国民を集め、新生カレドラルの建国と、レゼルの女王就任を宣言することが目的だ。
俺は大聖堂と修道院群を結ぶ空中廊下をゆっくりと歩いていた。
レゼルの演説をする準備が整ったというので、激励しに行く途中だった。
その日は朝から雲ひとつなく晴れわたっていた。
霞なく遠くの景色まで見通すことができ、そよ風がどこからか牧草の香りを運んでくる。
今はもう、油を燃やした煙の匂いはしない。
俺はレゼルの居室の前にたどり着くと、部屋の扉をノックした。
もう二度と同じ轍は踏むまい。命にかかわるからな。
なかから返事があり、俺は扉をひらいた。
「あ、グレイスさん! おはようございます」
「おぉ、こりゃ驚いた。見違えるもんだな」
レゼルはお付きの巫女たちに化粧をしてもらい、ドレスを着ていた。
旧カレドラルの王族に代々伝わるドレスらしく、色彩豊かだが落ち着く色合いで、気品のただようドレスだ。
レゼルもやはり年ごろの娘らしく、久しぶりに美しく着飾れているのがうれしいらしい。
気分が高揚して頬が上気だっている。
「姫様……いえ、女王様!
うつくしゅうございますゾ!」
レゼルのすぐそばでは、ブラウジが娘の嫁入りを喜ぶ父親のごとく全力で泣いている。
自身の涙で溺れ死にしそうな勢いだ。
レゼルがはにかむように苦笑いしながら、「そんなに泣かないで」となだめている。
今日はシュフェルも化粧をして、ドレスを着ている。
最側近の者として、本番ではレゼルのドレスの裾を持ってともに歩く予定だ。
衣装の雰囲気がそうさせるのだろうか。
普段は猛獣のように殺気を振りまいている彼女が、今日は楚々としておとなしい。
こうして澄ましていると、ほんとうに人形のようだ。
さすがは貴族の出身、といったところか。
エルマさんも、娘たちの晴れ姿を見つめて、うれしそうにほほえんでいる。
「すごい人だかりだなぁ」
大聖堂のバルコニーへと続く狭い階段のなか、石造りの壁の小窓から広場の様子がうかがえた。
広場はあふれるほどの人だかりで、今か今かと女王の登場を待ち望み、おおいに盛りあがっている。
俺はレゼルたち一行に付いて階段を登っていく。
レゼルはドレスが引っかかって転ばぬよう、足元に集中していた。
意識して窓の外を見ないよう心掛けているようにも見えた。
俺はそんな彼女に、声をかける。
「いいか、レゼル。
ゆっくり落ち着いて、練習どおり、胸を張って大きな声で話すんだ。
そうすれば絶対に大丈夫。
国民の皆様の前でばっちり決めて、喜ばせてやれ」
レゼルは鷹揚として俺のほうを見返し、しっかりとうなずいた。
そしてついにバルコニーへの扉の前に立ち、お付きの巫女たちが扉をひらく。
レゼルの登場とともに民衆の熱狂は最高潮に達した。
いよいよ、演説の時だ。
ここから先に行くのは、レゼルとシュフェルだけ。
ふたりは歩調を合わせ、悠然と前へ進んでいく。
レゼルはバルコニーの先端に立った。
民衆の前に毅然として立つその姿は美しく、神々しくさえあった。
彼女は自分に熱い視線を向ける民衆の顔をゆっくりと見渡す。
そして大きくひとつ息を吸うと、自身の国の民たちに語りかけた。
「みっ、みっ、みっ、みみみみ皆さぶっ!」
――期待に満ちていた聴衆の顔は一瞬にして凍りついた。
当然、後ろでドレスの裾を持っていたシュフェルも、見守っていた俺たちも。
……噛んだ。
しかも散々詰まったうえに、盛大に噛んだ。とても痛そうだ。
なんとか体裁をとり繕っていたが、やはり相当緊張していたらしい。
レゼルは涙目になって両手で口を抑えている。
そして濡れそぼった子犬のような目で、こちらに助けを求めている。
そんな目で見るな。
俺はあんたを助ける天才かもしれないが、今回ばかりは無理だ。
あきらめてくれ。
いたたまれなくなり、俺は顔を背けた。
「姫様は慣れ親しんだ者たちの前では平気じゃが、たくさんの知らない人たちに囲まれるとめっぽう弱いんじゃ……」
俺の隣でブラウジが悲しげにつぶやく。
いつの間にか呼びかたが『姫様』に戻っているが、長年慣れ親しんだ呼びかたが抜けないのだろう。
『女王様』は呼びづらいからな。
レゼルは口を抑えたまましくしく泣いていたが、やがて徐々に聴衆のあいだに笑いが起こり、それはいつしか声援に変わっていた。
「がんばれー!」
「いいぞ、女王様ー!」
「かわいいー」
国じゅうの民の声援が、レゼルを暖かく包みこむ。
「あっ……」
目の前にあるのは、自分が守りぬいたもの、これから守るべきもの。
情けない姿を見せている場合じゃない。
レゼルは思わぬ声援にしばらく呆然としていたが、やがて意を決したように涙を拭き、もう一度大きく息を吸いこんだ。
「この場所にたどり着くまで、多くのともに戦ってくれた仲間を失いました!」
彼女がせいいっぱい叫ぶと、会場は静まった。
「皆さんのことも、長く長くお待たせしてしまいました!
でも、やっとここまで来れたから……。
やっと幸せを取りもどしたから……!
私が皆さんの幸せを、もう誰にも奪わせません!」
レゼルの眼からまた涙があふれだす。
レゼルは嗚咽で演説が途切れそうになりながらもこらえて、懸命に声を絞りだした。
「新生カレドラルの建国を宣言します!
そして、この空に!
私の……皆さんの、夢の国を造ることを!
今ここにっ、誓います!!」
レゼルの短くも、全身全霊をこめた演説が終わると、国民たちの鳴りやまぬ拍手がいつまでも会場に響きわたっていた。
ようやく総PV1000達成! アクセスしてくださった方々、誠にありがとうございます。
あまり『小説家になろう』らしくない作風かもしれませんが、完走するまでがんばります。
次回、第一部最終回です。
2022/5/22の19時以降にアップ予定です。何とぞよろしくお願いいたします。