花時雨
1
自動車が行き交うスクランブル交差点を歩いている。もちろん自動車は私を避けたりしないし、私に気付きもしない。誰にも気づかれない、誰にも気づいてもらえない。心の中を支配していくこの感情は、虚しさか、寂しさか。やがて、交差点の中心にたどり着いて、足を止める。東京の街は音に溢れている。たとえ、私ひとり、泣こうが叫ぼうが、その声は誰にも届くことはなく、雑音にかき消されていくのだろう。息がつまる。鼓動が早くなる。息の仕方がわからない。いっそ消えてなくなりたいのに、生きることも死ぬこともできない私は、どうすればいいのだろう。
私の体は何にぶつかっても、切られても、傷一つつかないし、痛みも感じない。裸足のままいくら歩いても足は痛くならないし、そもそも歩いている、というより半分浮いているようなものだ。何かを触ることも持つこともできなければ、その感触もわからない。服は気がついたら着ていた白いワンピース以外は身につけられないらしい。オフホワイトの柔らかい布がたっぷり使われたシンプルなワンピースは、何かにひっかけても破れないし、風が吹いている(らしい)時も少しも翻ったり靡いたりしない。私は一切この世の影響を受けられないし、またこの世に影響を与えることもできないのだ。私はただ、どこに行くこともできず、さまよっている。
ーねぇ、ねぇってば、佳奈!ー
この場所に来るといつも思い出す。
ーねぇ、いや、いやだ、佳奈ー
苦しいのに、この苦しみを忘れるのは罪なような気がして、何度もこの場所に来てしまう。
ーな、か、な、いで。ー
喉が狭くなる。何かが胸とか喉とか、どっかに引っかかって、つっかえて出ていかない。叫びたいのに声が出ない。代わりに涙ばかりがとめどなく溢れてくる。
ーわ、ら、っ、て、ー
やめて。お願いだから。なんでそんなことを言うの。どうしてそんなに、穏やかな顔をしているの。
頭の中で反響する彼女の声は、悲しいほどに静かだった。
ーさ、く、らー
いかないで。
2
佳奈は、あまり学校に行けない私にできた、初めての、ちゃんと友人、と言える友人だった。たった1日、中学校の入学式に出ただけの私を、ちゃんと覚えていて、ちゃんとクラスメイトとして接してくれて、半端な同情も心無い慰めもせず、ただ普通に友だちでいてくれた。
佳奈は、私のいのちが残り1年であることを知る、家族以外の唯一の人間だった。
中学2年の春、佳奈と2人で出かけた。友だちと休日2人で、なんてことは初めてで、心躍るのと同時に、余命1年の私が突然外出が許されることの意味を、私はわかっていた。佳奈も多分わかっていただろう。佳奈と私は、外出の何日も前から、私の体調が急変した時の応急処置や、助けの求め方、救急車でお医者さんに伝えるべきことなど、事細かに注意をされた。ただ遊びに行くだけで、重い責任を背負わせてしまった佳奈にはすごく申し訳なくて、私は何度も謝った。でも佳奈は1度も嫌な顔をせず、「遊びに行くの楽しみだね」と屈託のない笑顔を私にみせてくれた。説明を聞く時もメモを取りながら、分からないところは質問しながら、真剣に聞いてくれていた。本当に嬉しかった。多分、私はあと1年で死ぬから、神様が一生分の愛情を佳奈に託して、私に急いで注いでくてるんだろうな、なんて思っていた。
当日の朝は、佳奈が病室まで迎えに来てくれた。外出に慣れていない私は、待ち合わせなんてしたら絶対に迷子になるし、万が一変な人に絡まれたりしたら大変、と佳奈が気遣っての事だった。待ち合わせというものに憧れがあった私には少し残念だったけど、佳奈の気遣いが嬉しかったし、佳奈の言う通りだと思ったので素直に従った。佳奈はそういう気遣いもできる優しい人だった。
佳奈は白いレースのブラウスにデニムのミニスカート、パステルピンクのスニーカーというシンプルながら女の子らしい服装だった。私に会いに来る時、佳奈はいつも学校帰りで制服を着ているから、私服を見ることができる機会はあまり多くはない。それにしても、佳奈は美人だから何を着ても似合う。お洒落をした佳奈はすごくきらきらしてて、私にはちょっと眩しすぎるくらいだった。大人になったらきっと、もっと美人になってるんだろうな、と思う。
佳奈は整った顔立ちには似合わない独特の趣味を持っていて、筆箱や文具、リュックサックのストラップはお世辞にも可愛いとは言えない癖の強いものばかりだった。そんな佳奈が、その日はまともな服を着ていたことがなんだか面白かった。後に、その日の服は普段絶対入らないような流行りの店で、お年玉貯金を全額はたいてマネキン買いしたものだと判明した。しかし、普段の独特な服装も、美人の佳奈が着るとそれなりに様になっているんだから面白いものだ。私はどんな服を着た佳奈も好きだな、と心の中で笑った。
雑踏の中を堂々と歩く佳奈に手を引かれ、私もわくわくしながら東京の街を歩く。私たちはまずスターバックスに入った。これは私のリクエストだった。友だちとスタバでおしゃべりしながらお洒落なドリンクを飲む。私がずっと前から憧れていたこと。意外なことに、佳奈もまだスタバは行ったことがなく、お互いドキドキしながら、念願のスタバデビューを果たしたのだった。私と佳奈は、初めての注文にあたふたしながら何とか注文を終えると、すぐに店員さんが優しく微笑みながらドリンクを手渡してくれた。その微笑みに少しドキッとする。お洒落なお店は店員さんまでお洒落なんだな、と感心する。
私はキャラメルフラペチーノ。佳奈はバニラクリームフラペチーノ。2人で顔を見合わせてにこにこしながら、穏やかなひとときを存分に味わう。
遊びに行く計画をたてていた時、佳奈がどうしても私と一緒に行きたいところがある、と言うので、その場所も行くことになった。安全のために主治医の先生、私の両親は場所を聞いているらしいけど、私は行くまでのお楽しみ、ということで何も聞かされていない。スタバを満喫したあとはそこに向かう。佳奈に案内してもらいながら10分ほど歩いた頃、佳奈は足を止めた。
「ここだよ」
佳奈の凛と澄んだ声が響く。
私の目の前には、満開の桜の木があった。その美しさに思わず息を呑む。今、私はどんな表情をしているのだろうか。感情が高ぶって、感動で声が出ない。いつも窓ガラス越しに遠目に見ることしか出来なかった桜の花。これほど近くで見るのは何年ぶりだろうか。
「綺麗…」
「どう?すごく綺麗でしょ?」
佳奈が自慢げに笑う。桜の花びらが舞い、佳奈を包む。私の瞳に映る佳奈はあまりにも綺麗で、少し視界が滲む。
「さくら」
私は、家族以外の人間に名前を読んでもらったことがほとんどない。その寂しさをわかっていたかのように、佳奈はよく私の名前を呼んでくれた。佳奈が呼んでくれる私の名前は、特別だった。私の名前な佳奈に呼ばれるために与えられたようなものだと思う。佳奈にその名前を呼ばれる時、私は初めて、私として生きることができる。
「佳奈」
嗚咽混じりに私は佳奈を呼んだ。
「うん」
佳奈はしっかりと頷いてくれた。
「ありがとう」
「うん」
「大好き」
「私も」
「佳奈」
「うん」
「私の分まで、幸せになってね」
外出許可が出たと言っても、一日の大半をベッドで過ごす私の体力を考え、佳奈と過ごせる時間はほんの2時間だった。幸せな時間はすぐに過ぎていく。約束の時間は刻々と迫る。この幸せな時間が永遠に続けばいいのに。そう思いながら、私と佳奈は2人で手を繋いで病院への道を往く。
最後に、私は「少し遠回りをして、スクランブル交差点を通って帰ってみたい」と佳奈に提案した。佳奈はわけを聞くことも無く、黙ってその提案を受け入れてくれた。
スクランブル交差点は、午後4時半になると夕方の情報番組で中継される。それをふと思い出したのだ。私がこんなふうに、普通の中学二年生の友だちとして、佳奈の横に並ぶことはもう二度と無いかもしれない。だから、最後に、私と佳奈の映像を残しておきたかった。佳奈との思い出の記録がほしかった。
歩くペースを上手く調節して、4時29分、スクランブル交差点に到着した。そして、4時30分ちょうど。信号が赤から青へと変わり、私たちは手を繋いでスクランブル交差点を歩く。
私たちがちょうど交差点の中心に差し掛かった時。1台の白い軽自動車が、信号停車する車の間を明らかに制限速度を超えたスピードで抜け、歩行者の行き交う交差点へと向かってくる。人々は悲鳴をあげ、パニックになり逃げ惑う。私と佳奈は固く手を繋いだまま、人の波に飲まれながら必死に逃げる。 その時。
「いたっ」
ドンッと言う音がして、誰かにぶつかられたことに気がつく。あ、転ぶ、と思った時にはもう遅く、私の体はバランスを保てずに派手に転んでしまった。その時に手が離れてしまったらしく、佳奈ともはぐれた。ふと顔をあげる。その刹那、私は自分の運命の全てを悟った。足が、転んだ痛みと恐怖で動かない。人間が強く死を意識した時、走馬灯のように記憶が蘇ると聞くが、あれは本当らしい。家族、疎遠になった友だち、主治医の先生、看護師さん。そして、佳奈。色んな思い出。嬉しかったこと。悲しかったこと。悔しかったこと。…あ、私、死ぬのか。そう思った時、頭に真っ先に浮かんだのは、佳奈の笑顔だった。
「佳奈…」
視界が滲んでぼやけてくる。車は加速してこちらに迫ってくる。
轢かれる、と目を強く閉じた。
「さくらぁ!!」
気がつくと、私は病院にいた。見慣れた、白い無機質な天井。私、ここで何してるんだっけ、とふと脳内の記憶を探る。
「佳奈!!」
私は今までにないくらいの大声で叫んだ。辺りを見回して初めて、ベッドの横にお医者さんと両親がいた事に気付く。
「ねぇ、佳奈!佳奈が!」
ひたすらに佳奈を呼ぶ私を、お医者さんは静かに制して淡々とした口調で言う。
「宮本佳奈さんは今緊急手術を行っています。ですが、打ち所が悪く、幸い搬送時は意識はありましたが、最悪の場合、ということもありえます。」
そんな説明はどうでもいいのだ。佳奈に会わせてほしい。佳奈に会いたい。言いたいことは山ほどあるのに、何一つ言葉になってくれない。
「佳奈!佳奈に、会わせて!佳奈のところに連れてって!私友だちなの!佳奈の親友なの!お願い!ねぇ!」
必死に叫ぶ私を見て、お医者さんは私の肩を掴んでベッドに寝かせる。
「落ち着いてください。今、宮本さんは手術中です。心配でしょうけど、今は待つしかないんです。」
心配なんて、そんなものじゃない。なんでわかってくれないの。怒りなのか、不安なのか、わけのわからない感情が、私の思考を支配する。久しぶりの外出に突然の事故。かなりの体力を消耗していたことに加え、極度の興奮状態だった私は、そのまま意識を失った。
「さくら、さくら」
翌日の夜9時頃、母親に起こされて目が覚める。私はまた飛び起きて「佳奈は?!」と母に必死に尋ねると、母は車椅子に乗るように言った。母に手伝ってもらってベッドから車椅子に移りながら、佳奈について話を聞く。やけに母の顔色が悪い気がするが、母も突然の出来事に疲れているんだろう。母の話によると、佳奈の手術は無事成功し、今朝意識が戻ったばかりとの事だった。母はすぐに私を起こそうとしたが、佳奈が「私は大丈夫ですから、目が覚めるまで待ってあげてください」と言ったらしい。とりあえず無事だったのなら安心だ。私はほっと一息つく。しかしその直後、母の話と今の状態の矛盾に気が付く。佳奈が、私が自然と目が覚めるまで待つと言ったのなら、私は、何故起こされたのか。その後、佳奈になにかあったのではないか。そう思った時、母が「落ち着いて聞いてね、」と口を開く。
「その後容体が急変して、佳奈ちゃんすごい高熱で、今どうにか意識はあるけど、ものすごく危険な状態なの。」
聞きながら顔から血の気が引いていくのがわかった。
「それで、もうこれで最後かもしれないって。だから会うなら今しかないって。お医者さんが…。」
言っている意味がわからない。数秒意識が固まったあと、私ははっと我に返って叫ぶ。
「早く!佳奈のとこ連れてって!」
病室の佳奈を見て、私は呆然とした。ベッドの上で目を薄く開き、弱々しく息をする佳奈は、包帯で至る所をぐるぐる巻きにされていて、すごく、脆く見えた。
佳奈と目が合った。すると、佳奈の目にみるみる涙が溜まって、溢れていった。
「さ、く、ら」
佳奈に呼ばれて、私は急いで車椅子を動かしてベッドの傍に行く。
「か、な、佳奈、佳奈!」
佳奈の存在を確かめるように私は何度も呼んだ。
「なんで私なんか助けたの?!私どうせ死ぬのよ?!ほっといても1年後には死んでるのよ?!どうしてそんな私を、佳奈が庇うの!佳奈が生きるべきなの!私じゃない、佳奈なの!私の分まで生きてよ!私の分まで幸せになってよ!なのに、なんであんなことするの、優しいにも程があるよ、ねぇ…」
次々と言いたいことが溢れてくる。嗚咽混じりに、叫ぶように、必死に。多分言葉にすらなってないその言葉を、佳奈は、静かに泣きながら聞いてくれていた。佳奈、佳奈と泣きじゃくる私を見て、佳奈はそっと手を私の頬にやる。そして、私をまっすぐ見つめて言った。
「さくら。
わたしはね、さくらと生きていたいの。」
私は何も言えなかった。私は当たり前のように命の期限を受け入れていた。と言うより、諦めていた。佳奈は、諦めないでいてくれたというのに。「生きて」と人任せに言う私に、佳奈は、「一緒に生きよう」と言ってくれているのだ。あぁ、私、馬鹿だな。私だって佳奈と生きていたいのに。自分が生きたいかどうかなんて、考えたこともなかった。
「私も、佳奈と生きたい」
そう言うと、佳奈は優しく笑ってくれた。今まで見た中で、1番綺麗な笑顔だった。そして、佳奈の手から力が抜けた。私はその手をもう一度握り直す。
「ねぇ、ねぇってば、佳奈!」
呼んでも佳奈はただこちらを見るだけ。
「ねぇ、いや、いやだ、佳奈」
佳奈の口が少しだけ開く。私はそれに縋り付くように佳奈の声に耳を傾ける。
「な、か、な、いで。」
「わ、ら、っ、て、」
「さ、く、ら」
彼女は、最後に私の名前を呼んで、この世を去った。私を、この世に残したまま。静かに息を引き取った佳奈は、悲しいほどに穏やかな顔をしていた。
その後、私は余命宣告を受けた日から、ちょうど1年と1日を生きて、呆気なく死んでしまった。佳奈の分まで一生懸命生きよう、と思えるほど私は前向きにはなれなかったし、病気は静かに私の体を蝕んでいたから、どちらにしろ私は死ぬ運命だったんだろうと思う。ちょうど1年と1日。もともと余命宣告なんてそれほど正確なものでは無いから、誤差がたった1日なんて、むしろ正確すぎる方だ。でも私は、この1日は、あまりにも早く逝ってしまった佳奈が、使い切れなかった寿命を私にプレゼントしてくれたものじゃないかって思っている。佳奈がくれた、私のたった15年の人生の最後の一日。私の最後は、静かで穏やかなものだった。
3
そして、佳奈が亡くなったあの日からちょうど1年。今に至る。今、私は驚いたことに幽霊になって佳奈と歩いた東京の街をさまよっていた。私は、生きていた頃は幽霊とかは信じない派だったけれど、人間もまだまだ知らないことばかりだな、なんて呑気なことを考えている。ふらふらと歩いていると、周りの人々が次々に傘を差すのを見て、雨が降りはじめたことに気がつく。当然、私は幽霊だから雨に濡れることもない。こうゆうとき、案外幽霊って便利だと思う。雨が降るのも気にせず、私はふらふらと進み続ける。そして、ある場所にたどり着く。私は立ち止まり、凛として咲き誇る、薄紅色の花を眺める。
「佳奈、今年も綺麗に咲いたね」
幽霊は、この世に未練が残る人間がなるらしい。私の未練。この桜を、生きて、もう一度見たかった。佳奈と一緒に。それはもう、叶わないけれど。
「佳奈、ありがとう」
私はそう呟いて、微笑む。身体がつま先から徐々に透明になって、消えていく。そして、ゆっくりと目を閉じる。
穏やかな雨の中で、桜は静かに、美しく散っていた。