会敵
魔界領に明確な昼夜はない。光を発する瘴気がずっと大地を照らしているし、瘴気の雲は陽の光も夜の闇もかき消してしまう。
だから街を発つタイミングは自分で決めるしかない。昨晩と同じ味気ないポタージュとパサパサのパンを食べて荷物を背負う。肩擦れしないようにヒモでしっかりと固定し、カウンターに鍵を返して外に出る。
「ケホっ…うぅ瘴気臭い…」
腐ったボールネギのような鼻を衝く匂いに顔をしかめる。今朝飲んだ瘴気汚染止めの薬のレシピを改善する方法を考える。瘴気汚染は体調に合わせて調合を変えなければならないし、有効と判断されている薬草がまだ見つかってないせいで常に自分が治験者にならざるを得ない。
カシト花の副作用で嗅覚が多少敏感になっているんだ。
人間領とか瘴気の薄いところならともかく、ここで使うのには向いてないかな。そういえば薬草なくなってきたな…新しいの集めなおさないと、魔族領じゃ気軽に買い物できないし…
今後の予定を立てながら町の門をくぐる。
現在極東の大陸のさらに東側。西にある人間領の王国に帰るためには北側の大陸を二つ超えるか南側の大陸一つと長い船旅で海を越えるしかない。こちらに来たときは人間領で貰った船を使って5人で海魔と戦いながら渡ってきた。剣士のシュリトと拳闘術のガウスト、魔法使いのマルコが襲ってくる海魔をなぎ倒し、白魔導士のソーネとリィルで船を保護し他の仲間が戦えるようにサポートする。寝ようと思ったら光る巨大ウツボ、ご飯を食べていたら槍トビウオ、一息ついたらオバケワカメ。まともに休む暇がないせいで疲れ切った全員がキレて『寝ずに働いてやる!3週間効く!超滋養強壮薬』を作ることになったのだ。しかしたった一人で海魔に挑むのは無謀そのもの、その上船を手に入れる当てもない。こちらに来た時の船を使ってしまえば魔界へ行った仲間がこちらに帰ってくるときの手段がなくなってしまう。
「仕方ない…北から行くかぁ~…ぁっげほっ…」
長く息を吐くと喉の奥にキリキリと針を刺すような痛みが走る。長いこと瘴気を浴び続けた気管がボロボロになっているのが分かる。浄化魔法のかかったマフラーを巻いて少しでも瘴気を吸い込まないように呼気を小さくし、地図と方位磁針を頼りに北西へ歩き出す。先ずは海岸線へたどり着ければいいのだが、ここからこの大陸の北西端まで1500里(約六千キロメートル)、魔法や獣車などを使ったとしても最低6ヶ月程度かかるだろう。
急ぐこともない。ゆっくり歩いていっても待つ人がいるわけでもない。気長にいこう。
「~~♪~~♫~」
王都を発った時に流行っていた有名な吟遊詩人の歌を小さくハミングしながら歩き続ける。声を出して歌いたいところだが、生憎今のリィルの喉はそんなに丈夫ではないし、下手に声を出しているといくら幽玄のローブを被っていても魔獣が寄ってくるかもしれない。
道が森の中に入るとわずかに瘴気が治まり、鬱蒼とした茂みと浄化された空気で、夜の暗さがほんの少しだけ取り戻されていた。
森の植物たちが瘴気を取り込み、純粋な魔力として放出するからだ。しかし、そのせいで森の植物は変質し、西側では見たこともない変異種の森になっている。こういった森で遭難したものは大抵植物の餌となって死を迎える。
これだけ変異していれば新しい植物が見つかるかも。少し探してみようかな。
変異種の森である事は悪いことばかりではない。新しい特性を備えた植物は新しい薬効を持つことがある。薬師として、新しい薬効を見逃すわけにはいかない。注意深くあたりを見渡しながら道を歩き続ける。
「…これみたことない…!」
リィルの目に留まったのは黒樫の根元に群生している小さい花である。その群生地の周囲だけは瘴気汚染が見られなかった。
「……」
腰につけていた一尺ほどの短杖を取り出し、花に凍結呪文をかける。汚染された植物は時折自発的攻撃性を発する場合がある。保存と拘束を兼ねて凍結呪文をかける。見た目はそれほど変化していないが、完全に動きが封じられているはずだ。
「んっ!…くっ!…うわっ!っ痛てて」
引っこ抜いた反動で尻もちをついてしまう。土のついたお尻を摩りながら立ち上がると、どうやら目を付けた花は球根を持つタイプだったようで、複数の小さい花が一つの大きい根から生えている…というよりも根っこが結合しているようにも見える。いくつか引き抜くとその植物を薬草袋の中に束ねてしっかりと口を締めてバックにしまう。再び背負いなおすとまた歩き始めた。
まずい…これいつになったら帰れるんだろう…あ、殻桐の変異種だ、ちょっと取っていこう。
森は薬の宝庫。森の中で迷わないように方位と進度を確認しつつ、木の根元、湧水池等をかき分けて薬草を採取する。リィルは次から次へと目移りしてしまい、気が付いた時には辺りが暗くなっていた。森の中は空気中の瘴気が少ないため夜が訪れる。慌てて集めた薬草を腰のポーチにしまって代わりにタープを取り出した。呪文で浮かして手近な樹の枝にかけて張りを付ける。
「釘が…刺さらない…」
樹皮が変質しているらしく魔法で無理やり打ち付けた釘が中ほどから折れ曲がってしまっている。仕方なくロープを結びつけ樹に括り付けて安定させる。寝るだけならタープがなくてもいいが、森の中で何の生物がいるか分からない。タープの外側には擬態効果の魔術がかかっているし、寝るときも幽玄のローブは外さない。それでも生体器官の発達した生物や魔術特性を備えた生物は簡単にすり抜けてくる。つまりは気休めでしかないということだ。
やっと張れた…一人だとスペース取らない代わりに時間がかかる…ていうか釘折れちゃったよ、どうしよう…まあ後でどこかの町で買えばいいかな。そうだ、念のため防御魔法張っておかないと。
タープから這い出て今夜の拠点となる樹の下で杖を構える。
「えーっと確か、エル…」
グルアアアアアアアアアアアアア!!!!
呪文を唱えようとした瞬間だった。血走った眼の黒い影に左腕が切り裂かれる。咄嗟に身を捻ったおかげで追撃を受けることはなかったが、左腕の傷は深く血があふれ出ている。犬のようなサイズの黒い影は闇夜に溶けるように消えてしまう。出血がひどくなる前に服の袖を裂いて傷口に縛り付ける。止血目的よりも血のにおいが充満すれば他の獣も寄ってきかねないからだ。
びっくりした…マルベツバキの種じゃないんだから急に飛んでこないでよ!…便利道具の入った肩掛け鞄は樹の下に置きっぱなしだし回復ポーションはみんなに渡しちゃった…杖はあるけど利き腕がこれじゃ…せめて姿が見えれば…
グルアアアアアアアアアアアアア!!!
とびかかってきた黒い影を月明りだけを頼りに躱し、ナイフを慣れない右腕で振るう。黒い影はすぐさま身を翻し、小さいナイフをすれ違いざまに尻尾で弾き飛ばされる。黒い影は闇に紛れ、リィルの周りを飛び回り始めた。
グケケケケケケケェッケケケ!!!
「…不意打ちが成功したくらいで…調子に乗るな!」
甲高い声で鳴きながら飛び回る黒い影に目を凝らす。姿は見えなくとも赤い瞳だけは流星のように尾を引いてリィルの周りを飛び囲んでいる。黒い影は高速で移動しながらもリィルの動きを監視しており、今下手な動きをすればすぐさま襲ってくるだろう。
クルアッ!!!
「ッ!」
隙を見て襲い掛かってきた黒い影を躱して腰のポーション鞄に手を入れて黄色い小瓶と青い試験管を引き抜くと、同時に試験管の栓をポンと指ではじき黄色い液体を影に向かって振りまいた。
クゲゲゲゲゲッ!!
「薬躱したのがそんなに嬉しい?でも私の勝ちだよ」
嘲笑うかのように奇声をあげる黒い影をよそに、青の小瓶の中身を飲み干すとタープの下へと腰を掛ける。黒い影は驚いたようにタープの外からリィルの姿を窺っているが既にリィルの眼中に黒い影はない。リィルにとっての戦闘はもうすでに終わっている。止血していた布を解き、置きっぱなしになっていた肩掛け鞄から包帯を取り出して消毒のポーションを振りかける。
痛てて…真っ先にやるべきだったぁ…毒持ってなくて助かった…血肉薬あったかな…はぁ~…しばらくは眠れないなぁ…
手のひらを握ったり開いたりを繰り返し包帯を巻いた腕がしっかりと動くのを確認すると、折り畳まれたボードのようなポーションテーブルを取り出す。
「おままごと」
呪文を唱えながら杖でボードをポンと叩くとカパカパと音を立てながらちょっとしたテーブル程の大きさに広がり、中央に三脚台が立つと下にランプの火が灯る。お気に入りの薬杓やそのほかの道具をテーブルに並べ、今日採取した薬草を準備する。
動物の声が響く森の中、リィルの周りだけはやけに静かだった。




