帰旅の始まり
高濃度の瘴気に包まれて、誰もいなくなった渓谷の淵に、リィルは独り立っていた。
もう彼らはそこにはいない。きっと渓谷の先の魔界でも別れを惜しまずすぐに新しい旅を始めているだろう。それでも、リィルにはすぐにその場を離れるなどできなかった。
「……ケホッ、ゲホ…あ、汚れちゃった…」
ああ、本当に弱いなぁ。
しゃがみ込みながら血を気管から追い出し、少しだけ自嘲気味に笑うとようやく背を向けることができた。ふらつく足に力を入れながら、腰と肩のベルトで固定されたポーション鞄から薄緑色のポーションを取り出す。
「……ぷは」
相変わらずこの薬だけは苦い。もっとおいしく飲めるように改良する余地がある。ここから南に少し行ったところに魔族の町があったから、そこの宿屋で休む間にちょっと改良しよう。どうせこんな体じゃ長い旅は続けられないし、まして船で大陸を渡った日にはたどり着くまでに生きていられる気がしない。
ポーションの効果がすぐに出たのか、足取りも安定してまともに歩き出すことができた。渓谷から離れる程に瘴気は薄くなっていくはずだが、少なくともこの東大陸にいる間に瘴気から逃れることはできない。よってこの瘴気汚染止めポーションを飲みやすくするのは目下の課題である。
ぼんやりと考え事をしながらつい数時間前に通って来た道をたどる。そこには確かに5人分の足跡があるのに、帰る足跡は一つしか残らない。先刻まで仲間だったのに、私はもう仲間じゃない。足跡を見てそんな考えが浮かばないよう、上を見上げて歩く。瘴気の霧で空は見えない。
ぼーっと歩き続けていると薄くなった霧の先に建物が見えた。
「もう町か…えーっと…幽玄のローブ…幽玄のローブ…あれがないと人間だってバレちゃうんだけど…ケホッ…」
東大陸に渡るときに入手した便利道具の一つ、幽玄のローブ。もともとは冥界に渡れず現世に戻ってきたレイスと呼ばれる凶霊達が身に纏う衣だが、気配を消したり、異なる姿を見せたりと不思議な効果を発揮する。そのまま着用すると凶霊達の怨念に憑りつかれることになるが、白魔法に長けたソーネに浄化してもらったお陰で、普通の人でも着用できるようになっている。
レイスを狩るのは大変だったな。大魔戦争の影響で死んだ人たちの怨念が強まってたし、物体透過する能力も持ってたから、結局、弔花に使われるラウネビアの濃縮液を武器に塗って倒したんだったっけ。
・・・
「ガウスト!無暗に近寄るな!距離を取って実体化した時を狙え!」
「クソがっ!シュリト!こいつら武器しか実体化してこねえぞ!」
「ふむ…炎魔法上級のシュガ系も効かんか…どうしたもんか」
「浄化魔法も透過されるなんて聞いてないわよ…」
「リィル!危ない!」
「あっ、私のポーション鞄…!」
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!
「攻撃が当たった!?」
その時引き裂かれた鞄から飛び散ったのがのがラウネビアの濃縮液だった。
生きているものに対しては肉体の修復を促進する回復薬の役割を果たすラウネビアの濃縮液。傷の無いものが使うと過回復で腐ってしまうほどの修復能力を持つその特殊性から、古くより献花や弔花として用いられていた。
「そっか…濃縮されたラウネビアは欠損した体も復元できる…レイスがそれに触れると不完全な体が修復されて透過できなくなるんだ…シュリト!ガウスト!」
「わかったリィル!」「任せろ!」
二人は地面に転がったリィルの鞄を切って、或いは殴って中の濃縮液を自分の得物に塗布する。純粋な戦闘能力自体は普通の魔物と変わらないレイス達は透過能力を封じられた時点で勝ち目がなくなっていた。二人は息もつかせぬ速さでレイス達を撃退していく。濃縮液が消えれば鞄を攻撃して塗布しなおすだけで済む。
「タネがわかればワシらの出番はなさそうじゃの。お手柄じゃったな」
「そうね、防御魔法だけ掛けとこうかしら」
「ああ、私のポーション鞄が…」
「新しいの買いましょう。あ、マルコ、この霊布使えそうじゃない?」
「おお、ええのう!浄化すればいい素材になりそうじゃ!」
「私の鞄…お気に入り…二人にぼこぼこにされていく…」
・・・
諸悪の根源であるレイスよりも容赦なく鞄を痛めつけた二人に腹を立てた記憶がある。あの後丈夫なポーション鞄を近くの町で買ったんだった。
この鞄もすっかり汚れてるなぁ。あ、あった。こっちの鞄だったか。
「長い旅だったから、こっちの肩掛け鞄もすっかり色褪せちゃった…ポーション鞄みたくダメにならなかっただけましか……ケホっ」
幽玄のローブのひんやりとした肌触りに身を包み、魔族の町に向かって歩き出す。町に近づくと行商人のような一角の浅黒い肌をした魔族がすれ違ったが、こちらに気が付いている様子はなかった。町の中に入れば、瘴気の中でも気にすることなく魔族たちが暮らしている。もともとは人族の町だったが、魔界からの扉が開いた時から瘴気に満たされており、今は魔族しか住むことができない土地になっている。
(魔族みんなが悪い人ってわけじゃないんだよね…)
この町の過去の姿を見たことはないが、町は人族の頃と変わらずに管理されていることが一目でわかる。大通りの進んだところにある宿屋に入り、カウンターで鍵を受け取る。
「…仲間の見送りは終わったのかい?魔界に帰るなんて変わった輩がいたもんだ」
「……」
返事をせずに部屋に帰ると、置いて行ったポーションテーブルがリィルを迎える。煮凝らしたビトゥとガラサの匂いが鼻をツンとつく。鞄を置いてベッドの上に腰掛けると、静かな部屋が余計に際立った。
「………ケホッゲホッ」
泣かなかった。
泣かなかったよ。
耐えた。
別れるまでも、別れてからも、ずっとずっと泣かなかった。
皆きっと旅を続けてる。きっと泣いてない。私だけ泣く訳には行かない。
でも…
落ち着いた途端、いろいろなものがあふれ出してしまった。ここまでずっと一緒に来た仲間がいない。前と同じ一人に戻っただけなのに、もう私は一人に耐えきれなくなっていた。ここはまだ安全ではない。大きな声を出して泣くことは許されない。
「うぅっ…あぅ…げぅっうああっ」
溢れそうになる慟哭を痛む喉で押しつぶし、必死で理性を保つ。旅が終わってもやるべきことはたくさんある。むしろ、ここからがリィルにとっての旅である。帰旅は今からが始まりである。なのに、リィルの心は既に悲しさと悔しさと孤独が押しつぶしていた。




