裏切りの恋人
その日兵役から帰ってきたトマスは、幼馴染で恋人のエニに出迎えられた。……隣に見知らぬ青年を伴う恋人に。
「どうして別れようなんていうんだエニ、せっかく帰ってこられたのに、どうして」
「ごめんなさいトマス、私あなたよりもこの人のほうが好きになってしまったの」
ありふれた別れ話。しかしトマスにとっては一大事。
「そんな! 捨てないでくれエニ! 手紙も書いた! プレゼントだって贈ったじゃないか!」
「あなたよりもこの人のほうが魅力的だし、稼ぎもあるの。ごめんなさい、私はこの人についていくわ」
そして村に帰ってきたトマスは失意の日々を過ごし、商人についていったエニは街に出て新しい恋に生きていくことになる。二人の道はここで分かたれた。
「もうどうなってもいい。家族ももういない。兵士に戻って戦場に行こう」
トマスは兵士に志願した。生きて帰れる見込みはない。だが何も考えないでいられるのならばそれでよかった。
「お嬢さん、私とお茶をいかが?」
「あら、素敵なお誘いね」
一方エニは街に出て充実した日々を過ごしていた。美しい彼女は忙しい彼の帰りを待つ間、声をかけられることも多い。己の美しさに自信を深めた彼女はさらに美貌に磨きをかけ、男たちを虜にしてゆく。
「昇進ですって? 俺なんかが?」
「そうだ。お前はよくやっている。英雄的な働きに将軍閣下もいたく感心しているそうだぞ」
トマスはよく戦った。敵に一番に突撃し、けして仲間を見捨てない。本人は死ぬつもりだった。だがその覚悟を決めている者の強さは戦場で良い方向に働いたのだ。
「そんな! どうしてだいエニ!」
「ごめんさない。でもわたし騎士様のほうが……」
エニはそれまでの男に満足できなくなっていた。街でであった騎士と恋に落ち、商人の彼氏とは別れた。将来を考えるようになった彼女は小さな商店を持つのがせいいっぱいの商人の男よりも、騎士爵とはいえ貴族の身分を持つ男の妻となるほうを選んだのだ。
「俺は、いや私は娘さんにふさわしいような男ではありません」
「なにをいう、貴様はよくやっている。それともこのワシの目が節穴だとでも申すか」
トマスは将軍のそばで戦ううちに戦功と人柄を認められ、将軍の娘の一人と結婚することになった。思ってもいなかった騎士としての生活の始まりである。
「ぜひ私と踊ってはくれませんか?」
「……はい、私でよければよろこんで」
エニは騎士の男の婚約者としてつれていかれた社交界で、貴族の男に見初められた。その後貴族は権力で騎士の男を激戦区へと送ってしまう。一人で過ごすエニは貴族の男に言い寄られてよろめいてしまった。
「思えば俺には今まで足りないものが多すぎた。君のためにふさわしい男になれるように頑張るよ」
「まあ、うれしいわ」
家族のできたトマスは勉学にも励んだ。妻との間に子供をもうけたトマスは一家の大黒柱として充実した生活を送る。貧相な村の若者だったトマスはそこにはもういなかった。
「あなた、次はいつ私のところへいらっしゃるの?」
「ははは、ゴメンよエニ。正妻がうるさくてね。でも愛しているのは君だけさ」
エニは貴族の男の何番目かの妻となっていた。いつか貴族の子を産み、自分が正妻になれるのだと信じて。
「死なないでくれ! 俺は、君のおかげで! 君のために!」
「ごめんなさいあなた。あの子達のことをよろしく頼みます」
トマスは病気で妻を失ってしまう。大きな不幸に打ちひしがれたが、残された子供達を立派に育て上げなければならない。それが妻との約束なのだ。……悲しみをこらえて立ち上がるトマスのことを周囲は目にかけた。その人々の助けもあって、トマスは昇進を重ねていく。
「ねえ、お願いです。この屋敷は寂しいわ。もっとあなたのそばに置いてください」
「……」
エニは焦っていた。貴族の男の子供が授からないのだ。正妻たちはすでに子供を産んでいる。エニの立場はどんどん弱くなっていき、若さを失いつつあるエニは子供を産める年齢の限界が近づいていた。
「もうお前達も一人前だな」
「父上のおかげです!」
トマスの子供達はすくすくと育ち、立派な青年と少女になっていた。息子は騎士として軍に入り、娘はとある男爵家への輿入れが決まっている。肩の荷を降ろせたような気分だった。
「そんな! 私はこれからどうしたらいいって言うの!」
「……もう君を養うことはできないよ」
エニは貴族の男に捨てられてしまう。中年に差し掛かったエニは途方に暮れた。
「そんなわけでね。とうとう男やもめになってしまったのさ」
「まあ、それは大変でしたね」
ここでとうとう、かつて村で分かれた二人の道は交わった。トマスは将軍として。エニは異なる名前を名乗る高級酒場のホステスとして。トマスは相手が誰だとは気づいていなかった。エニは気づいていた。いつしか二人は惹かれあうが、エニはけしてトマスに踏み込ませることはなかった。
「君はどうしてそんなに頑ななんだい?」
「……私は、あなたにふさわしい女ではありませんから」
そのうちトマスは将軍として何度目かの出征に旅立った。エニは無事を祈っていたが、戦争の勝利が報じられたと同時にトマスの大怪我の噂も聞こえてきた。
「ははは、ドジを踏んだよ。この有様では退役だ。君の元にも、もう来られないかな」
「……よろしければ、私にお世話をさせてください」
二人はトマスの領地で日々を過ごすことになった。周囲は勝利の立役者となったが片手と片足を失った英雄と、その召使いとして二人を見ていた。穏やかで優しい日々を二人で共に過ごしてゆく。
「君にはよくしてもらっている。後妻に迎えたいのだが」
「……申し訳ありません、旦那様。私はかつてあなたを裏切った女なのです」
そのころ二人は共に五十を越えていた。トマスは尽くしてくれるエニに話を何度か持ちかけたのだが、その何度目かでとうとう聞かされたのが、彼女がかつて自分が軍に志願することになったきっかけの幼馴染であるという話だった。
「エニ……君だったのか。だけど、もうそれは昔の話だ。もう俺は君の事はとっくに許しているのに」
「私が自分を許せないの。あなたを裏切った私は、男の条件だけを見るようになって、そのあとも裏切りを重ねたわ……。でも結局、何にも残らなかった。ごめんなさい。こうなってしまっては私はここにはいられないわね」
「待ってくれ」
「どうして引き止めるのですか? 私はあなたにひどいことをしました。それがきっかけであなたは何度も死にかけたって! そのころ私はあなたのことなんて忘れていた女なのですよ」
「……死にかけたのは君のせいじゃないし、君は再び出会ってからはあんなに俺に尽くしてくれたじゃないか」
「罪滅ぼしと生活のためです! ほら、私はこんなにひどい女なの……私のほかにも召使いはいるではないですか。もう、放っておいてください」
「君はまた裏切るのかい?」
「そんな! 私はあなたを裏切るつもりなんてありません!」
「いいや。君は裏切ろうとしているじゃないか。……自分の気持ちを。俺の目は節穴じゃないよ。罪滅ぼしの気持ちだけでここまでついてきて、これほどの献身ができるものか」
「そんな……だって、わたしは、あなたに……」
「俺達は人生の輝かしい時間を共に過ごすことはできなかったけれど。俺はまだあの村にいた頃の気持ちは思い出せるよ」
「それは……でも、辛い気持ちも思い出させてしまうじゃない」
「……さっきも言ったけど俺はもう許しているし、俺はあの出来事がなければ今の自分はここにいないと思ってるさ」
「私が辛いの。怖いのよ。あなたに、もう一度裏切られるかもしれないなんて目で見られたらとおもうと」
「……だったら、裏切るといい」
「え?」
「いまさら君に裏切られても、俺のこれまでの感謝の気持ちは変わらないさ。だから君はこれからまた、いつ俺を裏切ってもいいよ。俺はそれでも構わないんだ。……だから、いつか裏切るその日までは、俺のそばにいてくれないか」
「……なによそれ……ばかなひと」
二人は変わらぬ穏やかな日々を送る。結局結婚することはなかったが、トマスの子供や孫たちも、エニのことを実質的な後妻として認めていた。
「君には苦労をかけたね」
若い頃の無理と戦場の古傷がたたってトマスは死の床についた。
「俺が死んだら、この領地にあるあの小さな別荘とその周りの土地は君のものとして譲ることに決めてある。子供達の了解も得ているから、今後はそこで安らかに過ごしてほしい」
「……はい」
「よかった……これで安心して逝けるよ……」
トマスは死んだ。エニと、妻との子供や孫達に看取られての幸せな死だった。
「ほんとうに、ばかなひと……最後まで私を信じちゃってさ」
エニはトマスの眠るベッドのそばで一人になるとそう呟いた。すでに別荘は別のものに譲ることに決めてある。
「私はあなたに言われたとおりに、裏切ってあげますね」
次の日、トマスの子供達は、毒を飲んだエニがトマスのベッドにかしづくように倒れ伏し、死んでいるのを見つけた。遺書にはこれまでの人生の懺悔と、仕える主人の遺言を裏切って共に逝く旨の言葉が並んでいた。彼と彼女の顔は、安らかだった。
トマスの家族は、トマスを自分達の母親の墓の隣に葬ることにしていた。彼らはトマスの墓の隣にもう一つの墓を作り、エニをそこに葬った。
完