予兆
プロローグ
夢とはいつだってハッキリしないものだ。
天空に浮かぶ幻想を抱こうが、度し難い悪夢にうなされようが目を開け覚醒した瞬間になかったことになる。必死に、逡巡させたところで徒労に終わる。夢は夢の中だけで完結して、現実に持ち込めるものではない――それが夢だと疑わなかった。
「は…………」
ミズキ――宮崎瑞樹は夢の中で阿吽を零す。虚空に浮いたかのような浮遊感に驚嘆する。上手く声を出せているのか、はたまた自分自身が存在していることさえ不明瞭で不快だ。
しかして、この虚空見覚えがあった。
ムカつくくらい綺麗な月夜が天空に浮かんで、その目下でビルの合間を無様に落ちていくーー虚空で停止した瑞樹の状況。よぉく夢の中で記憶を辿ってみれば分かることだ。これは世界が変わる前の状況だ。
世界が変わったのか、世界を移動したのか。ハッキリ分かることではないが、とかく気づいたことがある。
瑞樹は今、宮崎瑞樹としての記憶を戻している。同時に、寝る前の行動や状況が希薄に思い出せない。
(私、この後死ぬはずじゃ……)
理不尽な世界から不可解な現実から追い出されるよう逃げた先がこの場所だ。虚空に一歩踏み出せない勇気を《誰かの手》によって吐き出された。その結果、虚空を舞い、雨中に混じった自分が地へと衝突する。そのはずなのに、この光景は二度目である。
不思議を通り越して不気味な感覚。それが嫌に現実感として身体が受け入れているから奇妙で気持ちが悪い。
地を目前とした虚空で停止するのは、死を目前にして半端に生かされているみたいだ。いつ死ぬのか、どう死ぬのか。死ぬ未来がハッキリしているはずなのに、まだ死ねない自分に恐怖する。この状況は、胸を撃ち抜くくらい痛苦な状況なのである。
早く殺してくれ、その思いさえも明瞭に頭ん中で考えている。いつ死ぬ? いつ死ぬ? いつ――――死にたくない。長い時間の末に身体は重力を思い出して落ちていく。
ぐしゃり――、恐怖と絶望を一緒くたにした面が死んだ。
「――はっ、はあ……はあ……、んぐっ」
嫌な汗と共に目覚める。呼吸は荒く、身体は凍えたように重い。そして、
「はあ、はあ……、? なに、ここ?」
目覚めたと思った頭は疑念で埋め尽くされた。確かに覚めた瞳は視界に不明なものを捉えていたのだ。
何もない場所。白い場所。宮崎瑞樹だけがいる世界。
悪夢を見た居心地の悪さと気持ちの悪い空間に嘔吐感がこみ上げる。これも夢の延長戦だというならば、この妙な現実感はなんだろうか。気味の悪いことに、もう夢では片付けられないくらいに頭が自覚してしまっている。
不安と戦慄。説明しようのない状況に、当惑は必死だった。
「――やっと――目覚め――――おめでとう」
ふと白い空間で瑞樹ではない声が鳴った。
ハッキリしない声だ。断片的にしか聞き取れない。どこから聞こえているかも分からない。耳朶から捉えているものなのか、頭が直接聞いているものなのか。そう錯覚するほどに不安定な声だった。
「誰なの……?」
意思疎通できるものなのか判らないが、自然と疑問はついて出た。
「私は――加護。――の頃から――愛して、あなたは――」
返答は来た。だが、先ほどと同様にとぎれとぎれの言葉に内容を聞き取れない。
一つだけ聞き覚えのある単語があった。加護というやつだ。まだ曖昧で不明瞭であるが、加護は知っているような気がした。
「誰、かいる?」
不意に視線を感じた。正面を見ると人のような姿がいる――錯覚がある。おかしなことだ。いると思う、のようなハッキリしない知覚にモヤモヤする。けれども、不完全な知覚でその存在を認めざるえない。この白い空間自体が不可解なのだ。現実とも幻想ともいえぬ狭間にいる瑞樹は不安定ながらそれを受け入れていかなければならなかった。
と、その視線が笑った気がした。
「――――次は話せるね」
「……え」
途端に白い空間が闇に堕ちたみたいに真っ暗に染まった。誰かは判らない視線や自分自身までもが闇に染まっていく。死んで消えてなくなるという感覚を例えるならば、きっとこんなものじゃないかと想像する。肢体が別の何かに奪われ侵食されるような。
恐怖心が蘇る。何度も何度も味わったような死――。
――死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない……。
――お前は何を知っている? お前は誰なんだ?
――知らない。知らない。何も知らない、私は……。
――恨むんならイブを恨んでくれ。私は、世界はイブを許さない。お前が未来のイブならここで死んでくれ。さようなら、ミヤザキミズキ。
「――はっ、はあ、はあ……」
目が覚めた。今度は本当に目覚めたのか。ベッドから起きて早々に疑念が生じた。
何度も夢を見ていたみたいで現実の区別がつかない。夢の中で、繰り返し繰り返し同じ夢を見ていたような――妙な体験に寒気がする。
身体は震える。胸が直接握られたように痛い。如何に肢体は正常なはずなのに、痛苦な吐息が漏れている。
――あれは全部、夢……?
徐々に、夢の内容が頭の中から消えていく。痛みの錯覚も夢のまどろみと一緒になって収まっていく。
「……どうされました?」
「え……」
虚を突いて声がかけられた。振り向くと端然とした面差しで、額に汗を滲ませるミズキを覗き込むアメリア・ルイスがいた。
彼女は不思議そうに瞳を白黒させて、僅かに面を歪めていう。
「酷い汗、何か怖い夢でも見ていたんですか?」
「怖い……夢?」
――そうだ。夢だ。夢、幻、嘘……。
ルイスの言葉は胸の中にできた錘を軽くした。
「そう、だね。私、怖い夢見てた……」
「まったく初日からその調子じゃ困ります。あなたが拾われた身でそれ以前に何があったかは知りませんが、まあいいでしょう。今日から屋敷内の清掃に連れて行きます」
「は、はい……」
出来るだけ不安を隠しつつ答える。ルイスはすっかり呆れたような面で、ため息を零しくるぶしを返した。
「着替えが終わったら詰め所に来てください。場所は……わかりますよね?」
説明が面倒だというまなざしが訴えかけてくる。昨日に屋敷の大体の場所は案内されたからミズキは自然と首を縦に振って返事した。
「今日は忙しいですよ。屋敷内の清掃もそうですが、時間があれば――」
「クラクの街を見て回るんですよね、買い物ついでにっ!」
無意識にルイスの言葉を続けていた。今日が忙しい日だと知っての焦燥から、そういっていた。だが、その言葉がオカシイ事に気づくのに時間は必要なかった。
ルイスは驚いて目を丸くさせたのだ。
「そうですが……よくわかりましたね。ええ、従者となれば街を出歩くこともあるでしょう。クラクの宮殿、その従者として勤める以上、恥のないようにして頂きたいですから。それに、あなたはリリィ様の付き人に選ばれた身ですからね」
言葉が釣って出る前に、彼女は少しだけ感心したように話をした。不意に、首に巻かれたチョーカーに手が伸びた。
「忙しいと言いましたがそう焦らなくていいですよ。今日だけで全部できると思いませんし。とりあえず湯浴みをしてその汗を流してきたらどうですか。身体を綺麗にしたら、深呼吸をして息を整えて、身嗜みに気をつけてください。それくらいは待ちます」
ルイスは母のような微笑みを向けた。彼女は淡々として表情に動きがあまりない。だから、稀な微笑にほんのりと顔を赤くさせた。
がたんと、扉を閉める音が残響する。ちょっとだけ優しい香りが部屋に残っていた。
そのような現実感とは反面、ミズキは地に足が着かない感覚が残っている。未だに夢の中にいるようなふわふわしたような感覚。気持ちの悪い感覚。
ルイスが言葉を止めることなく紡いでいる間は忘れられていた感覚だ。言葉にすればわかる。
――既視感だ。
いつ自分は、クラクの街を見て回ることを知っていた? 聞いていた?
記憶がない。忘れているからか? 判らない。判らないが――夢の中に答えがあるならば、それは……。
瞳が虚ろになる。胸が締め付けられる。身体が前に進もうとしてくれない。
この身体は何を知っている? 何を感じた? 頭の中だけ置いてきぼりにされたみたいだ。その違和感は、この身体はまるで自分のものじゃないようで不愉快だ。
せめて、この違和感や気味の悪い感覚が予兆でない事を祈るばかりだ。
その前に、震えた足が動いてくれるよう勇気を振り絞らなければならない。
今日は百合の日みたいですね。
だからといって、何か用意しているわけじゃないですけど…。
うちの好きな百合は地味×ギャルです。