逃げて、逃げて、たどり着いた場所だから
プロローグ
小学生の時、なぜこんな簡単な事を周りの人は出来ないのかと疑問していた。
勉強も運動も出来て、周りからも人気がある。先生からは、あんなよく出来た子なんで他にいないなんて褒めていたくらいだ。
だから、その少女は思ったのだ。
すごいのは自分で、周りはすごくないのだとーー。
思えば、宮崎瑞季の挫折はここから始まったのだった。
自分はすごいのだから努力をしなかった。努力せずとも勉強は出来たし、運動も出来ていたのだ。それこそ怠慢で怠惰だが、自分を天才だと疑わないは天才だからこそ出来ているものだと錯覚していた。
異変は現れた。中学に上がった頃だ。
今まで出来ていた勉強や運動は周りが追い抜いていたのだ。
しかし、どうして? とは思わなかった。天才とて周りに追い抜かれることもあると達観していたのだ。
まだ焦りには変わらない。余裕に構えていて、何をせずとも勉強も運動も為せているものだと思い込んでいた。追い抜かれようが、自分はいつかみんなより先に進むのだとーーああ、すでにいつかなんて言い訳が彼女の中であった。
そのいつかはいつやってくるのか。宮崎瑞季は高校受験に失敗することになる。
他人から責められる。他の子はちゃんとやってきているのに、あんたは何もせずにだらだら何をしていたの、と。
違うよ。私はできるはずなんだよ。だって出来ていたから。
いや、お前は何も出来ていない。だから、失敗したんだ。
宮崎瑞季は失敗を今度は他人のせいにした。小学生の頃に出来た慢心は失敗を皮切りに大きく歪に捻じ曲がる。自分は出来ていたから、それを生かせない他人が悪いのだとそう思ったのだ。
そう思っただけで口にはしない。周りの非難する言葉は無愛想に受け止めていた。そうやってやってく内に、周りから呆れられ、興味をもたれなくなった。
滑り止めで行った高校でも、これといって思い出もなく大学もそれほど頭の良い場所に進学出来たわけでもない。
いつしか自分のことを天才とは思わなくなったが、自分が堕落した原因を周りのせいにし始めた。
なんでも出来ていた小学生。空想は手の中にあるのだと疑わなかった。だが、いつしか空想は手の中から逃げてしまってそれを思い描くこともできなくなった。
知り合いは前へと進んでいく。恋人ができた? 良いところに就職できた? ーー私は?
消極的な姿勢にすっかり様変わりしてしまった宮崎瑞季。嫌な人生だ、なんて非難して叶えもしない願望を浮かべる。
自分から動くことはない。もはや、流されるだけの人生だ。
こんな人生に意味があるのだろうか?
その疑問から、宮崎瑞季は死にたいと思うようになった。
それなりの就職活動で得た就職先で同じような日々を繰り返す。あと何十年続くのだろう、と考える。いつか誰かに嫁いで、働かなくても良い生活になると思っていた。けど、宮崎瑞季を好きになる人物はいつまで経っても現れなかった。
死にたい、死にたいーー死ねない。
矛盾を抱えたまま怠惰な人生を歩むものだと思っていた。転機は急に訪れたのだ。
世界から自分という存在が忘れられ、まるで異世界にでも放り込まれたような現象が起きたのだ。
現実が逃避するように、逃げて、逃げて、その先が死に場所として選んだとある屋上。だが、世界から忘れられようとも宮崎瑞季は死ななかった。
死にたいと思っても死ねない。死を目の前にすると怖くて、結局惰性に生を縋ってるだけだった。
死ねない宮崎瑞季は死の加護に導かれて、異世界へと転生した。すべてが変わると思った。でも、実際は死の加護の呪いのせいで怖い思いしかしていない。
死からは逃れられない。何度も何度も死んだ。死にたいと思って死ねない女性は何度も死ぬという異様な経験をしてきた。
宮崎瑞季は散々逃げてきた。逃げて、逃げて、ここへ来た。もう逃げられない場所まで、どうしようもなくて、彼女は塞ぎ込んだ。
ここは白い場所。空もなく地面もなく、ただただ白い模様が広がった場所。
何もない場所。この場所は誰かの精神のような所だ。そして、死を生の狭間ともいえる。
白い空間の中で、一人の女性が蹲っていた。膝を抱えて塞ぎ込む。その姿はよれたスーツで身に纏い、手入れされていない薄汚れた長髪を垂らしている。目元はクマができていてみっともない、化粧もそこそこで綺麗ともいえない。彼女は元の宮崎瑞季だ。
宮崎瑞季を面倒な双眸で眺めるものがいた。
全身黒の装束を着ているその様は白い空間と比べ対照的だ。その女性は衣服こそ黒で飾られているが、露出している肌はまっさらで髪も白く靡かせている。
彼女は、まるでそこに可哀想な子供がいるかのように面をしかめて口を開く。
「呼び出されるつもりはなかったのだけれど、それだけお前の思いが強いということなのですかね」
彼女は独り言を呟くように吐いた。
「すべてが終わってからお前と会うつもりでしたがーー躓きましたか、宮崎瑞季?」
彼女は問いかける。
宮崎瑞季は膝を抱えている。そのまま顔だけを上げる。振り向きもせず、暗い面差しは重たい口を開いた。
「……もういやだよ」
か細く震えた弱音。その答えを想像通りだと言わんばかりに、黒い装束を纏った女性は嘲笑した。
「そう……くすっ、弱音を吐くために私を呼んだのですか?」
と、彼女は囁くようにいう。
「……呼んだ?」
反射的に瑞季は問い返す。
「お前が私を呼んだのです。だから、こうして対話している。次に会うのはある場所との約束でしたけど、お前が私を呼ぶ力の方が強かった。お前は曲がりなりにも器だということでしたね」
淡々とした物言いで説明する。
その説明に瑞季は頷きもせずに、膝を抱えたまま顔をあげなかった。
意識下では、どうでもいい話だったからだ。
黒装束の女は母のような面持ちで小さな笑みを刻む。
小さな歩幅で、座り込む瑞季の元に近づきそっと白く長い手で後ろから抱擁した。
「お前はつくづく愛らしい。逃げ着いてなお、弱音を吐く自己愛の強さ。ああ、なんて愛らしいのでしょう」
側から聞いて褒められた台詞ではないが、彼女は随分愛おしそうに囁く。
彼女から伝わるぬくもりは冷たかったが、抱きしめる力や頭を撫でる素振りは愛を注ぐ母そのものだった。
「不条理だったのでしょう? 理解不能だったのでしょう? それでも頑張って死から逃れようとしたのでしょう? 残念だったねぇ、お前はまだ頑張りが足りないんだね」
「やめてよ……」
か細く拒絶する。
「死が怖いのは当たり前。世界が変わったところで簡単にヒーローなんかになれやしない。誰かを助けようなんて烏滸がましい。たかだが転生したからといって生まれ変わるなんていう綺麗事……。ああ、お前は違うよ。だから、いいんだよ。私の愛慕を受けるに相応しい」
「やめて!」
瑞季は強く拒絶した。
黒装束の女は驚きもせず瑞季の挙動を見据える。
「どうして私なの?! どうしてこんな思いをしなきゃいけないの?!」
心の奥底からの糾弾だった。だが、それは黒装束の女にとって二度目。愚問だった。
「いやだよ……、怖いよ……」
徐々に言葉は弱く震えていく。
「痛いのはいやだ……、苦しいのはいやだ……。いやだよぉ……」
まるで子供のような呻き。宮崎瑞季は二十七年という人生を歩んでいるはずだ。けれども、その精神は年相応に成長しきれていない子供で、少女だった。
涙を流して苦悶を顕にする瑞季に、黒装束の女は瑞季の髪を優しく撫でた。
「…………お前が弱音を吐いて、涙を流して媚びても、誰も助けてはくれません」
優しい素振りとは裏腹に、彼女が口にしたのは厳しい言葉だった。
瑞季の涙は驚きが勝って一瞬止まる。望んでいた言葉ではなかったからだ。
「どんなに怖くとも、どんなに恐ろしくとも、死はお前を懇篤に尽くしてはくれません。お前はーー」
「なによ! それ!?」
瑞季は声を荒げた。
自身を抱擁する腕を振り解き、その場を経って黒装束の女の方を振り向く。
怒気を孕ませた面だが、不安と恐怖が滲み出ている。瞳には涙を目一杯浮かべ、口元は震えている。
「このまま死なせてよ! もう生きたくない! 死にたい! 死にたい! 死にたい!!」
そう叫んでいる内に、言葉の力がなくなっていく。
死にたい。そう口にしているが、死ぬ恐怖を知っている手前、その言葉の重さを身に染みて感じる。
瑞季は奇異な経験をしている。死んでは、戻って、死んでは戻る。その繰り返し。本当はもう死にたくないのだ。だけど、目の前の女は再び生が待っていることを瞳の奥で伝えている。
数奇な運命、そして残酷な運命。今まで逃げてきた宮崎瑞季の運命出会った。
また始まる。ここでどんなに叫んでも、目の前の女は感情を微動しない。
「これは言うべきではないのですがーー」
黒装束の女ーー死の加護は訥々と言葉を紡ぎ始める。
「無様でも、愚かでも、怖くても、恐ろしくても、縋りなさい。地べた這いつくばっても、縋って、縋って、お前がやれなかったことを叶えなさい」
死の加護は、説諭するような口ぶりで言う。
それはこれから死に立ち向かう者に対しては荒唐無稽な言葉。
何度も死から戻ってきて、やり直していくーーなんて物語の主人公のような出来事だ。でも、その力を持った瑞季は到底主人公とはいえない弱虫で、力の所在を間違っているような気がする。
どうして瑞季を選んだのか。彼女は未だはっきりと答えてくれない。ただ瑞季が彼女にとって好みだからと曖昧である。
宮崎瑞季に、死から戻る能力など身に余る。
瑞季は震えている。目が覚めるような感覚。それはこれから再び始まるーー覚醒する合図だった。
死の加護は微笑を刻んでいた。その加護の名前とはかけ離れた暖かい笑み。
「……でも、死にたくない。痛くて、苦しくて、寂しい……」
瑞季はやはり弱音を吐く。
「お前は後悔していないのですか?」
「え?」
死の加護の不意をついた問いかけに、瑞季は唖然とする。
「何度も死んでお前は後悔していたのですか? お前は死ぬまで様々な経験をしているはず」
「後悔……」
そう問われ、瑞季は考える。
最初の七回の死は、ほとんど意味を分からず死んで、死ぬ苦しみだけしか残っていない。
それからの死は、必死で逃げたり、錯誤して死を回避しようとしたけどできなくて。
その中で、何があったか。
「リリィ……」
自分の目の前で彼女は死んだ。身を呈して彼女は死を選んだ。その時に、自分の醜さや卑しさを知った。
リリィは自分を信じていた。信じていたからこそ、彼女は最後まで瑞季のことを考えて行動していた。
後悔があるとするならば、彼女をちゃんと信じていなかったことだ。
リリィが自分を信じているのに、自分は彼女を信じきれていない。
そばにいるとルバートに誓った言葉。あの時の言葉がどんなに陳腐だったか知らされる。でも、目の前でリリィが死んで、ルバートも死んでーーそんな彼女らと一緒にいられたらと願うことは愚かだろうか。
宮崎瑞季の人生、誰かに信じてもらえることなんてなかった。誰かと一緒にいたいと思うことはなかった。
この世界に来て、死をもう一度やり直せるという力を得た。そばにいるという願いを死の加護のいうように、縋ってでも叶えてみせる。
彼女らに答えられるチャンスがあるのに、それを無下にしようとしていた。
瑞季は心の中で、ごめんなさいと呟く。
そう今度は死から逃げるのではない。彼女たちと一緒にいるために頑張ろう。
瑞季の顔つきは未だに怖くて仕方ない面をしている。けれども、瞳には決意が秘められていた。まだ弱々しくて、誰かを助けるなんていう主人公らしいものではない。
死の加護は静かな笑みを作る。
白い空間が朽ちてゆく、そろそろ瑞季は目を覚めるだろう。
死の加護は、瑞季に聞こえないようにいう。
「もっと先の未来、お前がいつかーーーーと思えるように」
彼女の言葉の区切りが白い空間の終わりを合図した。そして、宮崎瑞季は再び世界に蘇った。
固いベッド。少しだけ冷たい毛布。
月明かりが差し込む小部屋で、ミズキは再び目を覚ます。
全てを記憶し、凄惨な出来事も脳裏に焼きついて恐怖がまず先に思い浮かぶ。けど、瞳に浮かべる涙は恐怖から来るものではなく後悔からくる涙だった。
「ごめんなさい……」
小さく呟いた。
目元を抑えて、涙を堪える。
ごめんなさい。ごめんなさい、と心の中で反芻する。
ミズキは主人公になれない。死に立ち向かうなんて格好いいことなんてできない。
後悔があって、恐怖があって、それでも立ちはだかる現実に向かい合わなければならない。
あまりにも弱く、あまりにも拙い。
弱々しい謝罪の言葉から始まる三度目の夜。
それはほんのちょっぴりであるが、覚悟が秘められていることはいうまでもなかった。




