その果てにある絶望・前
むせかえる血の匂い。この場は狂気に支配されていた。
馬竜は頭を撥ねられ車を繋いだまま倒れている。すぐそばの地面には胸を貫かれ亡くなったルナリアが無残にも転がっている。
そうした状況を作り出した元凶は笑殺を浮かべていた。
ボッサボッサの白く長い髪を靡かせ、紫色の唇が歪んだ笑みを作る。彼女は名前のない少女、そして呪術師である。
その少女は以前会った時よりも異質な姿をしていた。
両腕はなく代わりに青白い黒炎が腕みたく付け根から生えている。異質な腕はまるでそれ自体が意志を持っているように動く。また細く長く伸びたりその先を鋭く唸らせている。
異質な腕はその性質でルナリアを貫き殺した。きっと馬竜の首を撥ねたのもその性質なのだろう。
少女の姿はより異様に、より狂気に変わり再び目の前に現れた。
ミズキは恐怖のあまりしばらく身体を動かせなかった。
「何かあったの?」
車の中で控えているリリィが疑心になって訊ねる。彼女の瞳には不安とミズキを心配する情が混ざり含蓄されていた。
ミズキはすぐに反応できなかった。リリィの声はしっかりと耳には届かず、未だ目の前の恐怖から動けずにいた。
リリィは後ろからでも、ミズキの恐怖に慄く顔色はうかがえた。ミズキの前に誰かがいるのだろうと推測して、その場から立ち上がろうとする。
と、ミズキはリリィが動こうとするのを本能的に察知し叫ぶ。
「そ、そこから動かないでっ!」
「え……」
戸惑うリリィ。ミズキの叫びはあまりに苦しそうで窮屈だった。
「誰かいるんでしょう!? 何があったの!?」
リリィは戸惑いながらも真意を迫る。ミズキは以前、青ざめていて視線が定まっていない。
「な、何もないよ……。何も……」
「何もないわけないでしょ……、そんな顔して……」
「っ……」
ミズキは沈黙する。
脆弱なミズキの庇護はあまりにも稚拙だ。そんなミズキを眺めていた少女が嘲るように面を歪めた。
「ねぇ、なんでお前守るよなフリしてんの?」
ミズキは不意に吃音的な言葉が口の端から漏れる。
「両手を左右に伸ばしてるけどさぁ、震えきってみっともないしさ。こっちをちゃんと見ないでなんで辺りばかりを散見してさぁ……」
と、少女は冷淡に言い放ち最後にこう締めくくる。
「お前の顔はここから逃げる策を考えているようにしか思えないなぁ」
「わ、私は……」
途端に言い訳じみたことを言いそうになるが留まった。
「まぁどちらにせよ、お前もお前の後ろにいる奴も殺すけどねぇぇぇぇぇぇ!!」
少女はいきなり激情を面に広げて青白い黒炎の腕を振り上げた。
「ひっ……」
反射的にその場で蹲るミズキ。
その背後で、ミズキの前にいる者の殺気を感じ取ったリリィが祈る仕草をして祈祷術を使う。
「あまねく加護よ、かのものを守りたまえ……」
その願いはリリィから白い光を生み出してミズキを覆う。
「死んでぇぇぇぇ」
少女の怒号と共に振り下ろされた腕は大きく変形し、まるで鉄槌でも振り下ろすようなそれは車の天井を剥がした。
木片が辺りに舞って散る。
車の天井は剥がれ二つの月が怪しくその場を照らしていた。
少女の攻撃の反動で、直撃はしなかったものの身体は吹き飛ばされ後方のリリィにぶつかってしまう。
当たった感触はあったが痛みはない。当たった箇所を撫でながら自分が白い光に覆われていたことに気づき、リリィの名を呼ぶ。
「リリィ! だ、大丈夫?!」
彼女の安否を伺う。彼女も身体に白い光を纏っており、ミズキと同じであれば痛みはなかっただろう。
リリィは小さく頷いて、丸い純朴な眼差しを上目でこちらを見た。
「ねぇ、何があったの? メシアは? それにどうして裏道に……」
まとまらない質問をするリリィ。天井が剥がれ外の状況が明瞭となった今、彼女の中で質問が矢継ぎ早に浮かび上がる。
そして、彼女の目に修道服を着た女性の遺体と首のない馬竜が映り自体の深刻さを呑み込んだ。
恐る恐る彼女の目は御者台の方を見た。この場で初めてそれを視認することになる。もう一人の呪術師の正体を。
リリィは一瞬だけ恐怖を面に染めた。だが、それは一瞬ですぐに無理をした笑みに変わる。
異質な呪術師の前に、身震いさせながら自分を守るとするミズキがいる。とてもじゃないが守るような柄とは思えない。けど、嬉しかった。でも、口にはできない。だって、それは無意味だったから。
「ミズキ、下がりなさい」
「リ、リリィ……」
青ざめた顔がリリィの方を向く。今にも怖くて逃げたそうな面差しをしている。
「ミズキでは無理だよ」
虚勢である。表情には出さない。
ミズキはそれに気づかない。気づかないが、その言葉に身体が反射的に動く。
その場からリリィの元に駆け寄って庇うように前から抱きしめる。
リリィは驚いて目を丸くさせた。そして、まるで母のような面持ちでミズキの頭を撫でる。
彼女は微笑にしてはぶっきらぼうな面でミズキの息苦しそうな顔に向く。視線は自然と、ミズキの首元に巻かれたローヤルチョーカーを一瞥したが忘れるように視線を戻した。
「この場でミズキを守れるのも私しかいない」
「だ、だめ、死んじゃうよ……」
ミズキの抱きしめる腕が強くなる。けれども、その温もりは震えていてミズキの恐怖が伝わってくる。
「このままじゃどっちも死んでしまう。なら、力のある私がミズキを守るのが最もでしょう?」
そう言って、ミズキの腕を緩ませる。リリィに絡めていた腕は案外簡単に解けてしまった。
リリィは小さな笑みを作って立ち上がる。
「ミズキ、あなたは生きなさい。生きて、今度は素敵な人と出会えることを願うね」
儚げな面差し。瞳にうっすらと透明な涙を浮かべていた。
ーーダメだ……、そう言わなきゃ……。
そばにいると決めた。彼女が自分を信用していたことを無碍にしてはいけない。そう決めたはずなのに、身体は震えて動いてくれない。
ミズキとリリィのやり取りを、異質となった名前のない少女が茶番を見るような嘲た目で傍観していた。
少女はすでに異質な腕を振り上げ殺す準備をしている。その動作に気づいてリリィは、手は結ばずに祈りのような言葉を呟く。
ミズキの身体は動いてくれない。座り込んだまま、その光景を眺めている。
動け、動け、そう頭の中で叫ぶが身体は正直だ。恐怖が身体を抑え付けていた。
ーー結局、私は変われないんだ……。
心の中にいる誰かが笑っている気がした。それは死の加護ではなく、きっと過去の、いや、自分自身だ。
才能はない。力があるわけではない。主人公らしい人徳があるわけもない。そんな奴が他人を守る? なんて烏滸がましい。浅ましく、愚かで、無様だ。
いつまでも死を怖がってさ。主人公なら言うだろうさ。何度だって君を助けるって。
そばにいる、なんて安い言葉だ。所詮、ーー宮崎瑞季とはその程度の人間なんだよ。
他人を言い訳にした。恐怖を言い訳にした。自分が動けない本当の理由は目の前の恐怖なんかじゃないことくらいわかっていた。
死にたくないからだ。
だから、リリィが自分の前に出た時、自分の中の本心が笑ったのだ。
それを自覚した時、自分の醜さに嘲笑として面に出る。涙が出る。
次の瞬間、名前のない少女はけたたましい雄叫びを上げて異質な腕を振り下ろした。
リリィは祈祷術を使い目の前に壁のようなものを空に作るが、異質な腕は壁など介せずにリリィの正面を裂いた。
衝撃でリリィは空に打ちあがる。肩から裂かれた皮膚の切れ目から鮮血が舞い散る。月の灯りに照らされ、それらが明瞭にミズキの瞳に焼きついた。
リリィは叫び声も上げずに即死した。彼女は心臓まで裂かれてしまったのだ。
「リリィ……」
心の中でごめんなさいと呟いた。けれども、それは無意味で、愚か。
愚かな喪失の中、カランと地に何かが落ちる。黒目を落とすと、そこには切れたローヤルチョーカーがあった。
リリィが死ぬとローヤルチョーカーは効力を失う。逆に、ローヤルチョーカーが切れて落ちたことがリリィの死を証明していた。
死には慣れない。リリィの遺体を見て、嘔吐感がこみ上げる。そして、吐いてしまう。胃に食物はなく、胃液だけがその場に吐き出された。
しかし、リリィが殺された今狼狽ている暇などない。
少女はすでにミズキを殺そうと、異質な腕を鋭く尖らせて構えている。
ミズキはそれを見る余裕などない。せっかく逃げてと言ってくれたのに、ミズキは未だこの場から逃げることはできていない。
リリィを犠牲にしておいて逃げることもできない無様なミズキ。
「お前、何がしたいの?」
と、少女がつまらなそうにいった。
ふと見上げると、少女は憤怒と狂気の顔つきはなかった。初めて少女の素顔を見た時とまんまで、情のかけらも無いお面のような顔だ。
虚無な目で見上げるが、少女はまるで興味なさそうに目を細めた。
だが、異質な腕は鋭利にしたままミズキを狙っている。その様は、虫を殺すようなものだった。
少女は雄叫びを上げずに腕をミズキの身体を貫こうと蠢く。ミズキは構えもせず、それを見据えるが腕の先はミズキの目の前で何かに掴まれたかのように制止した。
少女は情なく首を傾げる。と、鋭く尖りうねった腕の先が突然発火した。
少女は腕を引いて、発火した先を地に叩きつけて消化しようと試みるが火はどんどん燃え上がり少女の体躯へと目指していた。
腕を無策に辺りに叩きつけている間に、木造の車や周囲の森林にも火が移る。
火に踊らされる少女。火はついに炎となって、少女の身体を包みその身を焦がしてゆく。だが、それは実際の火のように溶かされてゆくのではなく表面が黒くコゲで支配されいく模様だった。
ついに少女は叫ぶが、コゲは全身を覆い炎が消失すると全身焦げた少女は塵となって風に流れた。
奇妙な光景にミズキは呆然とする。奇妙なのはそれだけはない。車や森に引火して、そのそばにいるミズキにはその影響を受けていないのだ。
燃え盛る車の中にいるはずなのに、ミズキにその火は影響しない。熱も感じないのだ。
ただただ車が塵となる姿を見上げているだけで、火はミズキだけを襲わない。
馬竜を包み、遺体となったルナリアも燃やし、リリィまでもが火で塵となる。
頭が狂いそうになる。何が起こっているのか判然としない。
ミズキは車の中から出てフラフラと歩き出した。何も考えてはいない。ただこの狂った現象から逃げ出したかった。
気づけばミズキは自分の衣服がなく、裸足で燃え盛る森林の中を途方もなく歩いて行く。
頭がぼんやりとする。自分ではないみたいだ。
前方から誰かの声がする。誰かが走ってきている。
「お、お前は誰だ……?」
手には酒瓶、全身銀製の鎧を装着した金髪の女性だ。
ミズキは彼女を知っている。ギルバート・アリア。酩酊の騎士たる忌み名を持つ人。
彼女は周囲の熱のせいも相まって、顔は酷く赤くなっていた。この場にいる人はみな焼かれるものだと思っていたが、彼女がすぐに焼かれていないのは彼女の周囲で舞っている淡い光のおかげだろうか。
ミズキの思慮は希薄だ。目の前に、人がいることくらいは知覚できていた。けれども、彼女に対する反応は鈍感で口はうまく動かない。
ギルバートはしゃっくりを交えて警戒してくる。
彼女は騎士なのに剣を持たない。本当は持っているのかもしれないが、今の彼女の手にあるのは酒瓶である。
壕での会議で、みなが揃えて頼りなそうにするのも頷ける。彼女では呪術師を相手取るなんてできなさそうだ。
そんな考えが心の奥底で浮かんでいると、ミズキの身体は不意に右手をギルバートの方へと向けた。
ミズキの意志ではなかった。身体が勝手に動いている。
次の瞬間、手の先から炎が噴き出した。
ギルバートは構え、逃げる姿勢をとっていた。しかし、ミズキの手から噴き出る炎はギルバートの逃げ道を防ぐように噴き出てギルバートの身を炎で包んだ。
ギルバートは淡い光のおかげかしばらく耐えていたが、淡い光が散ると共に彼女の身体は黒く焦げて塵となって消えていった。
森林の炎の中に佇むミズキの身体。彼女の顔は驚きもせず、その先を見据えていた。
ミズキとしての思慮が残っているミズキは別の恐怖感に苛まれる。
身体は再びどこかを目指して歩き出した。




