私の役目
背後の恐怖から逃げるように燃え盛る屋敷を選び走りだしたミズキ。それはもはや無意識の中の選択だが、無謀な賭けだと気づくのにそう時間はかからなかった。
屋敷の方に来たところでミズキになすことはない。大人しく、ギルバートのいうように裏道の入り口で待つのが賢明な判断だったかもしれない。けれども、数歩進んだところで屋敷へ逃げる判断が正しいことを知らされる。背後を一瞥すると獲物を前にした魔獣ダークウルフが吠えながら追いかけている姿があったからだ。
「ひっ……」
青ざめた顔で、背後を確認しなければよかったという後悔。魔獣は赤い瞳の中にしっかりミズキを睨み定めていた。
どうして魔獣が屋敷の敷地内まで入ってこれるのか。本来ならば魔除の結界により近づいてこれないはずである。裏道でも同様のことがいえ、先程急に襲いかかってきたことも不自然さが極まれる。
しかし、そんな疑問を考える暇はない。数匹の魔獣はじりじりとミズキに近づいてきている。
逃げようと足を動かすが、まぬけなことにつまづいて転んでしまう。
間抜けなミズキ。ちゃんと身体の動かし方をするんだった。なんて後悔はもう遅い。魔獣は隙を見逃さず、一斉に飛びかかった。
死ぬ。そう覚悟して、目を瞑る。
その時、猛々しい声が割り込んだ。
魔獣の呻き声と、肉を貫く音が鳴った。
目を開くと、空に鮮血を散らしながらまるで舞うように戦う女性がいた。
「ちっ、こんなとこまで魔獣がっ」
その女性はクラクの屋敷の使用人が着る服装しており、長く靡かせた黒髪に似合うすらっとした高い体躯をしている女性。
ミズキは彼女を知っている。だが、ミズキの知っている彼女とは違う部分がある。今の彼女は右腕を失っていた。
「ヘレナっ!」
彼女の名を叫ぶ。ヘレナは片腕を失くしており、残った手で握った短刀で魔獣を追い払ったのだ。
名を呼ぶミズキに気づいたヘレナは倒れた魔獣どもを一瞥し、こちらに冷徹な眼差しを向けた。
不意にゾクリとする。ヘレナは無表情で凜然とした趣のある女性。元々目尻の上がった瞳は威圧を覚えるほどに強面である。
それを懐かしく思いながらも、今ミズキに向けられたそれは瞳で人を殺すような冷たさがあった。
「なんで戻ってきた?」
彼女は冷淡に言葉を紡ぐ。
ミズキは恐ろしくなって、上手く言葉を発せずにいた。どう答えれば良いのか、上手くまとまらない。
長い沈黙が、彼女の呆れたため息を引き出す。
「貴方が呪術師をここに招いたのですか?」
「え……」
呪術師。ギルバートも呟いていた知らない単語。
ミズキは判らないと首を振って返す。
「じゃあ、なんで呪術師がここにいたのですか?! 貴方が来てからです。オカシイことが起こり始めたのは」
何を言っているか一切わからなかった。ミズキに正体を気づくゆえはない。
はじめからそんな説明もされないし、親切な案内役もいなかったのだ。
叱責されたところで、未知な出来事を前にして、ミズキは子供のように涙を流すしかなかった。
「わからないよ……」
まるで少女。中身は無駄な二十七年を重ねた成人の女性。縋る相手のいない少女の言い訳だった。
ヘレナは沈黙し面をしかめた。
ヘレナから見れば二つ三つしか変わらない少女だ。なのに、その態度はまだまだ幼い子のようである。
誰かに導を敷いてもらい答えを作らなければ生きていけないような脆弱な少女。ミズキについてまったく聞かされていないわけではなかったし、ミズキがリリィと対面し会話していることから人柄を少しは推察していたつもりだった。けれども、その相手はあまりにも滑稽だった。
ヘレナは同じ奴隷出身と思えなかったのだ。
「……どうしてリリィ様はこんなのを選んだのですか」
ここにはいない人に対する呟き。呆れと嘆きを含ませたそれは虚しく口元を震わせた。
ヘレナはミズキから視線を外して、屋敷の方に踝を返した。
その様子をミズキは側から眺める。目尻に涙を浮かべ、彼女の動向を見送る。
ふと、ヘレナは足を止める。
「貴方はここで座っているだけですか?」
ヘレナは呆れて問う。
茫然とするミズキはその意味だけを頭の中で捉えて無意識に考える。目まぐるしい出来事の渦中で、ミズキは自力で立つことができない。といよりは、誰かに引っ張ってほしい、どうにかしてほしい。といった他力な思いが心底にあった。
だが、無意識の中でも冷静な部分も生まれていた。
裏道の先は魔獣がうろつき、屋敷は燃え盛りここに座っていてもいつ火の気が来るかわからない。
頼れるものは一つだろう。彼女は怖いけど、無愛想ながらも優しく教えてくれた思い出が積極性を作った。
「わ、私も連れて行って……」
自分じゃどうにもならない。自分だけじゃまた死んでしまう。死ぬのは嫌だから、懇願に似た呟きを発した。
ヘレナはキツい面で舌打ちする。舌打ちだけなら聴き慣れたものだけど、その軽蔑したような眼差しはミズキにとって恐怖だ。
ヘレナは面を背けていう。
「どうか私にも貴方を信じさせてください」
それだけいって、彼女は屋敷の方へと進む。
ミズキは心の中で複雑さを噛み締めて彼女の後ろに着いていった。
ヘレナの後ろについてく中、ミズキはただならぬ緊張を感じていた。
屋敷を案内されていた時は彼女の無愛想ぶりに気まずさを感じていたが、状況が状況だけにその気まずさはその時と比にならない。
ヘレナはミズキを信用しておらず、リリィが定めたミズキの立場を名目上従っているだけである。
彼女の顔つきは無表情だが、その面に怒りと迷いがあった。
気まずい中、ミズキはこのまま沈黙しているわけにはいかなかった。それはミズキが不在の間、この屋敷で何があったのか。それを問う必要がある。
ミズキは吃りながら言葉を発す。
「あ、あのどうして屋敷が……」
それ以上は続けず、ヘレナが問いを察してくれるよう期待を乗せた問い。
ヘレナはキツイ舌打ちをして答える。
「わかりません。けど、呪術師が関わっているのは確かです。一体いつから侵入していたのか」
と、彼女は後ろにいるミズキをじろりと睨み一瞥した。
睨みに怯みながらも、ミズキは言葉を続ける。
「そ、その呪術師ってなんなの?」
ヘレナは再び舌打ちする。威圧に似たそれは一々ミズキを怯えさせる。
「呪いを使い操る世界の敵です」
「世界の、敵?」
まるでイブのような話だ。イブは厄災で、イブの残穢は呪いの加護として人に憑くという。呪いの部分に置いて、ミズキの立場と似ているような気がした。
「貴方がその関係者という疑いがありますが」
「ど、どうして? 私、知らないよ!」
必死に否定をする。呪術師など聞いたのも初めてだし、それらしい怪しい人なども見たことない。
ヘレナは舌打ちをせず、深く息を吐いた。
「あの武器倉庫の前で貴方は呪術師と会話をしていました」
「え、ま、待ってよ。あれはヘレナじゃ……」
そう否定するが、あの時に出会ったヘレナには自分の中でも疑惑があった。不自然な笑み、それに行動もおかしな点があった。自分の中で、その不自然さをないものとしていたが彼女の言葉で確信する。
「あれは私に化けた呪術師です。おそらく変身の呪術を使ったのでしょう」
「え……」
誰かに化ける変身。ミズキの中で、一つ思案が混雑することになる。そして、新たな疑問も生まれる。
整理のできない疑問に当惑する中、ヘレナは何かを思い出してミズキにといた。
「貴方はあの時、どうして一度疑ったのですか?」
「え、それは……」
笑うヘレナを見たことなかったから。そう言えれば良かったけれど、今のヘレナとは初対面のはずである。具体的な説明はできない。かといって彼女を納得させる文言が思いつくわけではなく、目をそらして黙ってしまう。
疑惑の眼差しがミズキを貫く。ただでさえ、信用されていないのだ。
「いいです。深く問う時間はありませんし……」
呆れというよりは神妙な面差しをするヘレナ。ヘレナはそれ以上追求してこなかった。
会話はそこで終わる。これからどうするのか、ヘレナの片腕がなくなっていることなど問いたいことは浮かぶけど安易に、口にできなかった。
そう頭を悩ましていると、屋敷の方から息を切らして走ってくる女性が来た。
「ヘ、ヘレナ無事だったのね!」
見覚えのある八重歯が特徴的な女性はヘレナを見つけるなりそういうが、ヘレナの片腕がなくなっているのに気付いて言葉を訂正する。
「無事じゃないね……。何かあったの?!」
「これは逃げる際に失いました。それに……」
と、ヘレナは言いにくそうに言葉を濁す。
相手の女性は焦燥を交えある事に気づく。視線は一度、ヘレナ後方で顔を俯けるミズキに言ったが彼女が気になったのはそれ以外だ。
「アメリアさんは……?」
刹那、沈黙が流れる。
ヘレナは感情のない面を上げて告げた。
「私を逃すために殺されました」
その口調は淡々としていたが、肩を震わせていた。後ろから見る彼女の姿に悲壮が滲んでいる。
後ろで聞いているミズキもすんなりと話すヘレナに驚いたが、アメリアが殺されたという事実に一瞬フラついてしまう。
今何が起こっているのか。どうして、自分ではなくアメリアが死ぬ事になっているのか。
相手の女性は涙を浮かべたが、それを振り払って言葉を紡ぐ。
「ヘレナ、ここへ戻ってきたということは裏道の方は?」
「はい。やはり魔除の結界が破られているようです。先ほど、魔獣が敷地内に侵入していました」
「そう……」
相手の女性は考えをまとめるようにうなずく。
「傭兵の方へ連絡はしてくれましたか?」
「ええ、けどルバート様が不在みたいなの。それに不自然なことも……。とにかく、ササキさん達には街の方を守ってもらっています」
「……わかりました。アルマとハナは?」
「すでに結界の再構築に向かってるわ。何日も前からハナには結界の様子を見てもらっていたけど、こんな大規模で、しかも一瞬で崩すなんて並大抵の呪術師じゃないわ」
「そうですね……。もしかしたら呪術師は一人じゃないかもしれません。一人は変身能力を持った人です」
「変身ですって? それって……」
彼女の視線がヘレナとミズキの間で揺れ動く。
「大丈夫です。変身の条件はわかりませんが、呪術師から逃げる際、すでに解けかかっていたようですし屋敷の方へ向かっていました」
その経緯が、反対に相手の女性が本物だという確証にヘレナの中でなっていた。
「屋敷の方……」
そう言って、相手の女性もヘレナも同じように燃え盛る屋敷の方を見る。
「リリィ様……は?」
主人の所在を恐る恐る聞くヘレナ。
相手の女性は惑って答えた。
「ごめんなさい、わからないの。呪術師の襲撃の後、リリィ様一人屋敷に残られたから……」
「では、今リリィ様お一人で……」
ヘレナは初めて苦悶で表情を歪めた。
ヘレナ、そして特徴的な八重歯を持つ女性はメアリー。二人は、近くにミズキがいるにも関わらず二人だけで会話を繰り広げていた。
しかし、ここまでミズキはアメリアが死んだという事実を引きずっており彼女達の会話を上手く聞き取ってはいなかった。
ミズキはアメリアが死んだというのに、彼女達が普通に会話している事に憤りを覚えたのだ。
「なっ、なんで、そんな平然としていられるの!?」
ミズキはそう熱くなった。
ヘレナとメアリーの視線が集まる。二つの視線に戸惑うが、ミズキは熱を保ったまま続ける。
「一人死んだのに? なんで、そんな、そんな」
涙を流すミズキ。その姿は現実を受け止められない子供だ。
ヘレナは舌打ちをせずに顔を背けた。その代わりに、メアリーがぎこちない笑みを作ってミズキの前に近づいてきた。
「私たちは屋敷の使用人。まず考えるのは屋敷の事なの。そして、リリィ様。それが主との契約だから、悲しむのはその後よ」
自分に言い聞かせるような物言い。口元を震わせ、語調までも窮屈そうだ。
ミズキは愚問だったと後悔する。彼女たちは所詮屋敷の雇いで、主との契約を全うするのが筋である。
「あなたにも役目があるでしょう?」
「私に役目……?」
ミズキは戸惑った。
役目とはリリィの付き人という事なのか。だとしたら、少し後ろめたい。自分にそのような資格があるとは思えないからだ。
複雑な顔をするミズキを前にして、メアリーは苦笑した。その後ろで、横目で確認するヘレナの横顔が寂しそうに見えた。
メアリーはミズキから離れヘレナと再び向き直る。
「これから私はルベリナ様に伝達します。ヘレナはリリィ様の安否を」
「はい。ミズキ、行きますよ」
「え、え……うん」
有無を言わさず、ミズキは流されるままにヘレナと同行する事になる。
ミズキは当惑していた。自分に最もな役目などあるのだろうか。自分だけで精一杯の自分。正直、自信などない。他人のことを考えるなんて今までなかった。
けれども、
『昨日のミズキを信じます』
リリィはそう言った。今でも自分のことを信じてくれているのだろうか。
かつてない心情に、心が追いつかない。
戸惑う足はヘレナの背に引っ張られ、リリィの元へと向かった。




