屋敷の一日、その最後
1
静寂を割いて水滴がぽつぽつと落ちる。
その音が別の煩わしい何かに聞こえてミズキは気分を悪くしていた。
自室に備わった洗面場にて、ミズキは鏡に映る自分とにらめっこしていた。屋敷から戻って、夕食をリリィと取ったまではよかったが今現在気分悪くした自分の顔を見る羽目になっていた。
夕食後はリリィと加護についての先日の続きをするつもりだったのに、こうして気分の悪さを鏡を前にして露呈しているのはリリィの気遣いでもある。彼女は今日は訓練はいいから、早く自室に戻りミラに診て貰うことを促してきた。
さて、その間、ミズキは何度かすでに嘔吐をしていた。そのたびに蛇口を捻って嘔吐物を流したり面を洗ったりしていた。それでもやつれた自分の顔が鏡から覗き込むのだから不安が募ってしかたない。
(な、なんなのコレ……)
所在のわからない不安。手は震え、眼は揺れている。
「失礼するのです」
ノックもなく入室する合図が扉の向こうから聞こえた。聞いたことある声に、背筋がゾワリとする。
ミズキは近くのタオルで顔を拭って洗面場を出て、入ってきた人物と応対した。自然と顔つきをゆがませると、相手は嘲笑に口角をゆがませいう。
「おお、酷い顔ですね――イヴに愛されている人」
「――っ」
不意に黙殺する。彼女のせいだ。彼女のいう言葉が不安にさせる。意味のわかない言葉で、理解できない単語を並べて。
そのような顔つきを読み取られたのか、彼女は幼女らしくない不純な笑みを浮かべて続ける。
「意味のわかっていない顔だ。まあ、いい。それも含め私はここへ来たのだ」
ルラはびしっと小さな指先をミズキに差し向けていう。
「ほら、さっさとそこに横になるのです」
横柄な物言いである。幼女ではあるが見た目以上に生きている柄という、少女趣味に似たドレスを着こなしている上に女王のような耳飾をつけている姿から考えれば様になった口調ではある。
促されるままにベッドの上に横になる。
ルラは近くの座椅子をベッド近くに寄せるとそこに腰を下ろした。
「アメリアの頼みですからね。とりあえず、貴方の状態を調べましょう。『話』はそれからです」
小奇麗な笑みを刻んで、彼女はミズキの胸元に手を当て探るように動かし始めた。
生唾を飲み込む緊張感。自分の状態を測る小さな手よりも、先にある『話』に対するものだ。
ルラは真剣な顔つきで手のひらを宙で揺れ動かしている。ほのかに薄紅の発光を手のひらとミズキの体の間でしている。その発光のせいか、身体が火照ったように感じる。
これが魔法というもなのかと、いつの間にか冷静に考えられるようになった頭をめぐらせていた。
しばらくして、その発光は消えルラは小さく息を吐いた。
「記憶に混迷が見られるようですね」
(それは自分でもわかっているんだけど……)
わかりきったことを言われ少しがっくりする。
「ただの混迷とは言い難い。狙った記憶だけを残し消失させたような……」
彼女は一人考えるように唸る。
「そんなことできるの?」
状態を調べ終わり、ミズキはベッドに腰掛けるように座る。
「率直に言えばできます。ですが、それは高等の魔法、もしくは純度の高い魔法薬――後、宝物という線もありますが……あ」
「心当たりあるの?」
そういった顔つきを見せるからつい追求してしまった。
ルラは不敵に笑うとすんなりと答えてくれた。
「ええ、『記憶逃れの水滴』という宝物があるのですね」
「どういうものなのそれ……」
恐る恐る尋ねると、ルラは嘲笑を傾けることなく真っ直ぐな視線を上げた。
「本人にとっての悪夢を消し去る宝物です。まあ、つまり悪夢とは忌まわしい過去、記憶」
幼女らしからぬ声色。さも恐ろしげな呪言を詠唱するがの如く魔術師。
(……いや、この人魔術師なんだっけ? 大賢者とかいう偉い人。それにしても、『記憶逃れの水滴』大層な名前だけど)
いい加減、幼女から離れたほうがいいかもしれない。相手にしている人物は雲のような存在だと。
「貴方の首元にある『ローヤルチョーカー』と同じA級品の宝物ですよ」
「位とかあるんだ」
不意に首元を触る。
「私はA級品以上の宝物しか集めない、そーいうこだわりでね。ちなみにS級品ともなると国宝レベルものになる」
得意げに話すルラ。
S級品で国宝となれば、きっとアメリアが話していたクラクの秘宝もその類なのだろう。
宝物番ルラ。秘宝を守ること、好みの宝物を集めること、もしくはその両方が彼女の役目なのか。それはミズキの知るところではない。が、
「宝物番なのに――」
「盗まれているって?」
言葉を先読みされて言われる。
「貴方思い違いされているから言いますけど、『ローヤルチョーカー』は人に頼まれて出しておいたものですよ。ついでに『記憶逃れの水滴』も」
「え……」
その物言いはそのまま受け取って良いものだろうか。そのまま受け取ったとして、この意地悪なルラは知っていて話していたことになる。
視線を彼女に合わせると、予想通り意地の悪い笑みを傾けていた。
「ルバートに頼まれましてね。『ローヤルチョーカー』はいたずらな姫様に持っていかれましたけど」
――ルバート・エリザベス……。
先ほどのルバートの好意とは程遠い面を思い出す。あれはミズキに対する嫌悪だった。
だが、それは違和感の一つでもある。ルバートはミズキを拾ってきた張本人だ。街へ連れて行き屋敷へ招いたのは彼女で、初日の彼女にそのような面は感じられなかった。
しかし、ルラがいうように服従させる『ローヤルチョーカー』と特定の記憶を消す『記憶逃れの水滴』を彼女が所望したのなら。
「……意味が分からない」
うなだれてしまう。
「イブでしたね。ごめんなさいね、つい意地悪をして言ってしまったの。なにせ加護の呪いなんて珍しいからね」
「加護の呪い?」
加護とつくからには良いものと思っていたがそうではないらしい。
「加護には祝福と呪いがあるのです。ま、加護は人の思いそれに見初められ守られるというのは祝福に違いありません。ですが、その中でもイブの残滓と言われる思いに見初められた者――それは呪いそのものです」
「イブが災厄だから?」
ルラは神妙に頷いて見せた。
いい気はしない。加護の分類ではあるらしいが、呪いときたもんだ。
イブに愛されている――その意味が判った気がする。加護には祝福と呪いがあって、それぞれ思いの元が違うということだ。祝福が万人たる根源としたら、呪いは災厄なるイブを根源としている。
だから、ミズキはイブに愛されていると揶揄されているらしい。
どちらにせよ不愉快な話だ。イブを知らないミズキにとって不安を助長させるものに過ぎない。
「……ん?」
ここで新たな疑問が沸く。
ルラはまるで加護を見抜いているような口ぶりをしていた。だが、それはミズキの知っている加護の性質と違う。リリィから教えてもらった加護は他人から認知されないものだという。その原則を破って認知しているなんて、きっとそういう加護なのだろう、と考える。
ミズキの疑惑めいた眼差しに気づいたルラが口を開く。
「『識別の加護』、私に宿る加護が見抜き教えてくれたのです」
ルラは顔を横向けて宙に微笑みをかけるような仕草をしていう。まるでそこに誰かいるような彼女の姿に疑問が浮かぶが、その理由を察していた。
「そこに加護がいるの?」
加護とは本人以外に視認できない。本人は近くであったり夢で現れるというが、彼女の場合は近くにいる存在みたいだ。
「そうですよ。あなたにも名前を教えれば見る事ができるのです」
「名前? 識別の加護じゃないの?」
「それは加護としての性質です」
人みたいに名前を持つ加護。想像するにリリィが修練するときに会話していた小さな加護とは別の大きな加護なのだろう。
彼女からそうした話を持ち出したのだから名前を教えてくれるのかと期待したが、悪戯な笑みが応えだった。
ミズキは肩透かしを食らった気分で面を持ち直した。
「……その加護で私に忌まわしい加護があるのを見抜いたんだよね。どういう加護か教えて欲しい」
不安の一抹が少しでも和らぐかもしれない。そんな淡い期待を抱いて問う。
が、ルラは難しそうな顔つきで答える。
「残念だけど判らないのです。識別の加護ならその性質も見抜けるはずなんですが……」
彼女はミズキに確認するように見上げてくる。
これ以上不安にさせないで欲しいところだけど、もったいぶられるのはもっと不安を煽る結果になる。
生唾を飲み込んで、彼女の口ごもった言葉に首を振ると彼女は話を続けた。
「力が強い加護ほど他者からの視認ができなくなるのです。先ほど、名前を知ることによって視認できるようになるといいましたが、私の加護が見抜けないとなると名前を知っても視認できない類だと推測します」
「それって……」
やけに無表情な顔つきが不安を誘う。
まだ加護というものが具体的にどういったものか判然としないミズキにとって確たる疑心があるわけではないが、ひとついえることがある。
彼女のような幼女の皮を被った堪能な女のいうことだ。きっとミズキの中にある忌まわしいそれは並大抵のものじゃないのだろう。
「あなたをまた不安にさせることになりますが……」
彼女は言葉の先を躊躇していう。
もはやこれ以上の取り越し苦労など小さなものだ。もう十分に不安にさせておいて、口ごもるほうが不愉快だ。
覚悟を決めた面で構えると、ルラは一息で言い放った。
「『犠牲』『束縛』そして、『死』。イブの残滓の中でも呪いの強い三つだといわれています。別名でイブの傾慕」
彼女の冷徹な物言いに、ミズキは肩を震わす。彼女の言い方のせいか、並べられた三つの用語の一つに強く反応したせいか。とかく『死』を聞いたとき、他人事ではない直感を得た。
「どういうもの、なの……」
言葉は震えていた。呪いというからには良くないものだと本能的に感じ取っていたからだ。
ルラは小さく息を吐いて訥訥と話す。
「正確には判りません。ただ言葉通りの呪いだと聞いています」
そして、彼女は淡々と声低く告げる。
「犠牲は物だけでなく他者や命までもを犠牲にし力を得、束縛は絶対なる制約を自他者に差し向け、死は死を呼び寄せ何度も死という苦痛を味わう。というものらしいです」
「そんなもの加護とかじゃなくてただの呪いじゃないですか……」
加護に祝福と呪いがあると前提されたところで、彼女から告げられた呪いの代表格はとんでもないものだ。それすら加護に値するなんて定義はどうなっているのか。
「言ったのです。加護は見初められて成り立つもの。加護は自分から受けられるものじゃないのです。加護からの一方的なもの、それは祝福も呪いも同じです」
頭がこんがらがる。きっと記憶を失ってなくとも同じような思いをしたと思う。
加護の定義を深く考えるより、彼女の言葉を定義として捉えたほうが考え方としては楽だろう。
加護は人に慕い見初める一方的なもので、それが愛すべき祝福か、憎むべき呪いか。そう軽く認識するのが妥当というものだ。
して、ミズキはその後者に見初められているわけだが。不気味さはより一層増した。
「最悪だ……」
陳腐な感想ではあるが、すべてを噛み砕いて認知したところでその一言に尽きるというものだ。
ルラは哀れむように瞬きして口を開いた。
「そんなに落ち込むことはない」
説得力ない台詞に険な視線を送る。彼女はそれに気付いて視線を逸らし、咳をしてその場を立ち背を向けた。
「私が言う事ではないけど、あなたの精神状態は私の一言でどうこうなっているものではないのです。忌わしいイブに見初められているって、無知なあなたじゃ表面上の理解でしかない――増して嘔吐するほどのストレスは死の苦痛ほどでなければ……」
彼女は訪問前にミズキが嘔吐していたことを見抜いて言及し言葉を並べる。その最中、彼女の中で一つ信じがたい仮説が浮かび上がった。
彼女は顔をしかめミズキのほうを見つめる。しかし、彼女はその真意を口にすることなく、一人納得してドアに手をかけた。
「ちょっと! 何不穏なこと言って立ち去ろうとしているの?!」
手を伸ばして制止しようと試みる。ルラは一度手にかけた扉から手を離して、視線をこちらに向けずいう。
「ごめんなさいのです……。少し考えをまとめることにするのです。中途半端なことをあなたに伝えたところで、きっと理解も受け入れることもできないのですね」
「でも……」
彼女の半端な言い回しのほうがミズキの不安を助長している。そんなこと曖昧にイブの話を持ち出しその最中に落とし込んだ本人さえ理解しているだろうに、彼女はハッキリした言及を避けた。
ただルラはどことなく申し訳なさそうに目線をおろしている。そこから感じ取れる罪悪感がミズキの不安をほんのちょっとだけ緩和させてくれる。それでも胸の中に残り続ける鉛はいつまでも留まったままではあるが……。
ルラの今までの表情の変遷からしてこれ以上の追求に躊躇が生まれた。
「記憶がないのです。それに、不安の所在が混迷しているのです。その原因を追究するより考え方を変えるほうが今のあなたには最善だと思うのです」
ミズキのほうを見ずに代替案を口にした。ミズキの状態をお手上げ、面倒といった思案からではなく現状を定めての策だ。
「記憶って、その記憶……なんちゃらっていうやつで消されたんならどうにかならないの?」
イブに対する嫌悪はミズキの心情次第だが、記憶は話しから推測するに『記憶逃れの水滴』という宝物のせいだろう。せめて、記憶を戻せれば、と期待を抱くが返ってきたのは今のルラの表情通りの苦々しいものだった。
「『記憶逃れの水滴』、宝物なのです。残念なのですね。記憶逃れの水滴はもう一度使用することで効果を打ち消すことができるのですが、それを持つルバートから拝借しなければいけないのです」
その事実にミズキは絶望する。先ほど、ルバートからはとてつもない嫌悪感を向けられた後だ。それに、ミズキの記憶を元から消すつもりでその宝物を使ったとしたらならばなおさら。理由はどうであれ、ミズキは記憶を戻す手段を失ったといえる。
それゆえに、ルラの代替案は今の状況に的確だった。
「そういうわけですから、私は調べものができたので戻るのです。アメリアには身体的には異常なしと報告しておくのですね」
と、彼女は扉に再び手をかけ開いてから続けざまに言葉を紡ぐ。
「内面に関しては……あなた自身の問題なのでお手上げなのですね。助言するなら、少しは現環境に慣れるよう柔軟な発想でここに馴染むのが一番なのですね」
そういって彼女はミズキの部屋から出ていった。
ミズキはただ会話をしていただけなのに急激な疲労感に見舞われる。不安の所在も、記憶の行方も、ミズキ自身ではどうにもできない位置にある。ルラの助言が不安を軽減したかと言われると難しい話しだが、結果的に考え事は増え余計に思慮が混在し気持ちが悪い。
ベッドで寝そべり天井を見上げた。そこに答えでもないかと見つめるが、もちろんあるわけがない。
まるで、悪夢でも見ているようだ。
夢は意味不明だ。起承転結もなければ、一貫性のないストーリーが一方的に繰り広げられて明けた瞬間に無に帰すもの。そこに悪が潜めば、覚めてなお気持ちの悪い感覚を身体が覚えている。それを悪夢だと考える。
だけど、夢は夢。覚めてしばらく経てばすべて忘れる。
これもまた夢だったらいいのに。
目を瞑ってまた開いた時、そこはいつもどおり屈託な朝を向かえ、不安な足取りが会社へと向かうそんな日々――会社ってなんだ?
「……え?」
ベッドで寝そべりまぶたを閉じたはずのミズキは次に亜然とした声を出していた。
文字通り目を瞑ってまた開いた時、彼女が次に目にしていたのは、二つの月の浮かぶ天空だった。
何度か見た景色――リリィが見上げていた二つの月の景色よりも不気味な夜中を演出しているような。月明かりがどこか赤く見えて、夜に赤を混ぜて訪れたような錯覚をする。
一度身体を動かすとその不気味さが一層ます。ガシャンと鉄製の二つが擦れる音がした。もう一度動かす、とまたなる。焦燥からか、何度も何度も鉄の擦れる音が嫌なくらいに頭に響く。
身体は察している。本能とは別の本質的な部分がこの状況を察している。
どこかの丘の一本木。昼間ならばきっとピクニックに最適な場所で、夜中ならばロマンチックを演じてくれるに違いない場所。ただ不気味な帳と一本木にミズキと共に巻き付かれた鉄製の鎖さえなければ、そのような余裕もあっただろうに。
「だ、誰か……。や、いやだっ」
ミズキは半ば理性を失っていた。そのせいかその口調は、まるでこの先の結末を知っているようだ。
だが、今のミズキにそれを熟知する余裕などない。これから現れる人物に対する抵抗だけがミズキの面に描かれている。
そして、それは唐突に鳴る。先ほどまで自室にいたはずのミズキの転換のように強かに鳴った。
「もう覚めたんだ。もぉう少しだけ寝ていれば綺麗な夢のまま終われたのに。ああ……残念、実に残念」
言葉とは裏腹に悦を入り混ぜた声色は、まるで道化のように不気味だ。ミズキが知る声と比べれば幾分芯が弱く不安定な音。もしミズキが狂人と面識あるならそう例えるほどに耳障りな声だ。
知っているはずなのに知らない。滑稽な倒錯ぶりを思慮に浮かべたところで、ミズキは取り乱して鎖から逃げようと試みる。
腕に鎖の痕をつけようが、喉が潰れるまで叫ぼうが、暴れ逃げようとするミズキは無力だと察しても死ぬまでもがいて見せる。それこそ皮肉なくらいに。
音は近くにくる。道化に染まった声はにじり寄るような足音にかえて迫っている。
そして、ミズキは思わずそれと目が合ってしまう。
「あ、あ、あ……」
言葉を忘れたみたいに、口をぱくぱくさせる。死を前にしてまな板の上の魚。
そんなミズキの姿に、相手は嗤った。
「可愛らしい姿…….。こんなのが、こんなのが、こんなのがっ……。あはっ、あははは」
激情、非情、愛情、情の区別など知らない溶けきった面だ。その声も面と同じように統一性のない台詞を並べる。
整った顔立ち、女性ならばみな憧れる凜然とした姿。それが彼女の第一印象で、ミズキも例に漏れず見惚れたものーーが、ここにいる相手はそれと反するものだ。とても見ておけるものじゃない。
ルバート・エリザベスの本性なんて。
彼女は荒く息を吐いて、白い手を暴れるミズキの頬に触れる。
反射的に顔を揺さぶって撥ねようとしても、彼女の深紅に染まった瞳を前にして硬直してしまう。
「あぁ、綺麗な肌ぁ」
深紅な瞳に光悦を浮かべ、うっとりとした眼差しがミズキの強張った瞳を貫くように見つめてくる。
彼女の情の動きはまったく一貫性のないものだ。情緒不安定で、まるで子供のよう。
底の見えない邪悪に、ただただ恐怖に従うしかない。このまま何もせずに手を離して、と願ったところで彼女の行動は想像だにしないことだった。
深紅の瞳を伏せたと思えば、唸るような声をあげ頬を撫でているはずの手から爪先が伸びて掴まれる。それは段々と強くなって、肉が抉られるくらいに爪は頬の皮膚を刺してそのまま頰の肉を抉り取るほどの力が伝わる。
激しい痛みだ。痛みは強くなるほどに熱を帯びて全身を駆け巡る。その痛みを剥がそうともがくが、手は木の幹に鎖と共に縛られどうにもできない。どうにもできなくて、なおさら激痛は強かものになる。
叫び声など虚しく、相手の雄叫びと共に彼女の腕は頬から引き剥がすようにしなって離れた。彼女の手には剥ぎ取った頬の肉が握られていた。
「ーーーーーーーーぁぁ」
声を奪われたように口の中がキミ悪い。血とよだれが絶え間なく出来上がった穴と口先から溢れて流れていく。痛みは麻痺しているのか、意識が飛んでしまったのか感覚が消えていた。
「あぁごめんねぇ。とても綺麗だったから欲しかったんだ」
欲を隠さない賊のような言い様。彼女は血に包まれた剥ぎ取った肉を手の中で弄ぶと、その場で地に捨てた。
「ーーでも、もういいやぁ」
彼女の子供のような行動に何の叫びも届かない。
これがあのルバート・エリザベス。
細長いリンゴをくれた。町から人望ある姿を見た。リリィを叱るある種、母のような面があった。
そのどれもが嘘? いや、そんなもので知った気になったつもりになっていた。人の本質なんて表面じゃわかるはずない。そんなことよく知っているはずだ。
アメリアから聞いたルバートは酷くイブを嫌っている。ルラからも言われたルバートはイブに対して他者が知れぬ憎悪があるのだと。
ーー私がイブの残滓に愛されているから?
理不尽なことだ。どうして勝手に見初められ、他人の憎みを買わなければならない。
ふふふ、ミズキは嘲っていた。もはや、ミズキのそれかも分からない。頭ん中で痛みの熱と共に巡る誰かの嘲笑。
ミズキは自分とも他者ともいえない声を頭の中に響かせ、この一日の最後を迎えようとしていた。
あけおめ!
ってことで久しぶりの投稿になります。。。




