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イヴの世界  作者: あこ
序章 無垢な少女
1/107

現実は終わり、夢が始まる

 

 世間は夏休みだという。

 テレビをつければ、夏のプール特集だとか、遠方のグルメ紹介とか……などうざったいほど流れている。ただでさえ暑いというのに、それを心労まで増すとはどうにも遺憾極まりない。

 そんな話に乗るのは、純粋な子供か浮かれた大学生だ。彼らが一目は憚らず騒ぐ姿が目に浮かぶ。はあーホントうざいな。

 そういう彼らに限って分別ある大人へと成長する。なぜって、それがどういった行為なのか自ら知見しているからだ。いじめっ子が誠意ある大人になると一緒のことだ。逆にそれがない人っていうのは、立場を理屈にして成長しない。いつまもでウジウジ生きている――私もその一人だ。

 私はなにもしなかった一人だ。それゆえに、周囲に対して卑屈になる。

 それがどんなに無碍であるかは理解している。

 それでも卑下して語るのが弱者として認識してしまっている自分の浅はかさなのである。

 人生って何だろ……。自然に生活してきて、これといって特別なアクションを起こしたわけでもない人生。氾濫もなければ、透き通ったわけでもない川のような人生。その終着点は当然、海なわけだけど私の場合はそれが見通せていない――そんなものだと思う。

 就職のために並々の自分にあった大学に行って、箔をつけたと思えば、就職したとしてもそれを役に立てるとは限らない。あるのは知識で、社会に必要なのはコミュニティと行動力、そして順応だ。

 残念ながら、私に秀でたコミュニティはない。それをゼミとかで培えればよかったかもしれないけど、人との関わりは苦手だ。大学生になっても、相変わらずそれには逃げていてて、社会に出ても逃げている。

 誰にも障られたくない。だから、それを怖がって拒絶する。

 そのくせ、意識が高いだとか言ってそれらの行為を馬鹿にする。

 醜いな、ホント……。常々理解している。理解したからといって、現状を変えられるかといえば無理だ。だって、もう二十七だし現状打破なんて言葉は似合わない。並外れた行為をするのは若者のすることだ。年齢を重ねるごとにそれが怖くなる。責任だってあるし、失うものが大きすぎる。

 これからも私は流れていくしかないのだ。

 私は……そのような事を……考えて眠るのだ。涙を流して眠るのだ。


     


 いつも通りの天井で目覚める。相変わらず私は寝相が悪くて、起きる場所は服やゴミの散らかったベッド下の床である。

「朝……?」

 目覚ましが鳴っていない。おかしいな。ちゃんとつけていたはずなのにな。自分でも寝起きの悪さは承知している。低血圧だと、脳内に行き渡る血液が起きた直後にすんなり入らずに覚醒しないということだ。そのためにも、今まで使っていた携帯を置いておいて、それを何台もを目覚ましとして使っている。だけど、そのどれもが鳴っている音はなかった。

 まさか寝たまま止めたのだろうか。いや、私にそんな器用な事はできないはずだ。それに何台も連続に消すなんて器用も程がある。

 私はぼっさぼっさの髪をくしゃくしゃと掻き毟ると、一台ずつ携帯機を確認していった。まず一台、充電切れている。

 まあ、これはよくあったことだ。古い携帯だ。目覚まし代わりに使っているとはいえ、律儀にちゃんと充電はしないことが多い。

 さて、ほかの台だ。ひとつずつ確認していくに――どれも充電切れている。

 ……ま、こんな日もあるよね。仕方ない。本命は現在の機種だ。それを確認すると、突如ポップアップが表示される。

『SIMが挿入されていません』

 SIMってなんだっけ? 眠くて判然としていなく、それを閉じて目覚ましを確認すると目覚ましを止めていたようだ。

 つまり、私は正常に起きれていないのかな。時間は――十時十七分……。

「――ッは、や、やばい!」

 急に覚醒をする。事の重大さに気づいた。

 と、とにかく、会社に電話を入れないと……。そう思って電話の履歴から部長の名を探そうとするが、履歴が残っていない。

 いつの間に私は履歴を消したんだ。まあいいや、電話帳から、と思って部長の名を探るが電話帳に部長の名はなかった。それどころか、電話帳は真っ白だった。

「え……なにこれ」

 なんかのドッキリ? こんな喪女に仕掛けても面白くないと思うけど……。なんで、データ消えているの?

 考えても仕方ないとにかく会社にかけなきゃいけない。えと、事務の番号は……とボーっとした頭からひねり出して番号を打ち出してかけた。

「ああ……もう、なんなのよ……」

 と、事務に電話をかけるが、受話器から聞こえたのは数秒の電子音と切れた音だった。

 つながらない。そんなはずは……そういえば、さっきSIMって……。思い出した。SIMって、端末の通信するためのカードじゃなかったっけ。と、側面のカバーをはずしてその位置を確認するとSIMがなかった。

 嘘……。これつい最近変えたばっかりなのに。つい最近にして、すでに画面を割ってしまった携帯。どうしてか、SIMがない。

 わかんない、わかんない。わかんない。なにこれ夢?! 夢なの!?

 そうやって現実逃避できれば、どんなにいいか。そう思って、早急にスーツに着替え始める。

 わからないけど、会社には行かないと……。

 その使命感から、いつも通り見た目だけを整えて、しっかり家の鍵を閉めて家を出た。

 ああ、もう! 目覚ましは鳴らないし、電話はつながらないし、最悪っ! 今日は、不幸な日だ。

「あつっ……」

 家のドアを急いで締め、マンションから外に出るなり、夏の暑さが私を襲った。

 ああー、日焼け止め塗るの忘れたし……。ああ、もう、最悪だ。

 じりじりとした暑さが黒服のスーツを暖める。一応の半袖といっても、暑さは最悪な出来事も相まって際立って感じた。目が霞んで、蜃気楼でも見えそうな暑さだ。

 若干フラフラした足取りで、ヒールで地面を踏んで歩いていく。目指すのは最寄の駅だ。時間帯のせいか、近くの大通りを通る人は少なかった。

 人ごみがないと、呼吸が楽だな。それでも、暑さは変わらないんだけど。といっても、そんなの気にしている暇ないくらいの危機だ。足は少々速く動かしている。ヒールだから、躊躇はしているけど。

 最寄の駅について、電子マネーカードで構内へと入ろうとする。しかし、残高がなかったのか改札向こうへと通してくれなかった。

 ビーッといった機械音に、少々恥ずかしく思いながら券売機でチャージしようか迷って結果普通に片道の切符を購入して構内へと入り、電車に乗り込んだ。

 はあ、やっと一息……。そう思える状況でもないけど。

 携帯を起動すると、やはりSIMが挿入されていないと表示される。なんで、ないんだろう。私、勝手に抜いちゃったりしちゃったのかな。そんな記憶ないけど、それ以外ありえなさそうなためにそう思うしかなかった。

 しばらくして、電車は会社のある駅に到着する。出口で待って、乗降口が開いた瞬間に構内を走って出て行った。

 早速、会社の方へと向かう。会社のエントランスに入って、かばんからIC付き社員証を取り出して玄関口の電子盤に触れる。……しかし、玄関の開くピッとした音が聞こえない。

 急いでいるのに、機械の不良かな……。

 私は受付に入室の確認を取ることにした。

「あの社員証で入れないみたいなんですけど……」

 と、玄関を指差して、落ち着いた様子の受付の女性に聞く。

「こちらの社員の方ですか? では、社員証を提示いただけますでしょうか?」

 と、言われたため私はぱっと彼女の前に出した。

「えーと、確認しますね」

 彼女はそういって、パソコン画面を凝視する。パソコンの周辺機器としてつけられているバーコードリーダーを持つと、社員証のバーコード部分をあてがって入力していた。

 こういう瞬間って何かあるんじゃないかって無意識に緊張してしまう。別に疚しいこともないはずなのに、

 数秒の沈黙と、キーボードのカタカタ音の後受け付けの女性は口を開いた。

「……あの申し上げにくいのですが、こちらに貴方様の記録がございません」

「え……」

「入社も、退職された記録もなく。こちらは模造品でしょうか?」

「そ、そんな……。私はちゃんとここに勤めて……」

「ですが、社内の記録にないものを通すわけにはいきません。申し訳ありませんが、お引取りございます」

 彼女は冷淡に対応をして、私に模造品といわれた社員証を返された。

「え、ちょ、ちょっと――」

 そう咎めようと声を荒げようとすると、受付の彼女はキッと目尻を細くさせて睨んできた。それに思わずヒヤッとして、私は泣く泣く退散を強いられた。

 意味がわからない。社員証には、株式会社○×△商業の社員であるとしっかり明記されている。社員としては、確かにあまり立派な働きをした記憶はないし、上司や同僚に対してのお茶汲みばかりをしていたけど列記としたちゃんとした社員のはずだ。あの受付の子が首に下げていた社員証と同じつくりで、間違っていないはずなのに……。

 心臓に悪いドッキリだ。そう思うしかない。そう思わないと、こんな不明な出来事に精神的な対処はできない。

 そうだ! きっと近頃連勤が続くから、上司が直接に言わず間接的に休暇を与えてくれているのかもしれない。これは酷く悪趣味なやり方ではあるものの、そう違いない。

 私は無理に笑顔を繕って、会社から出ると全力でどこかへ行こうと思った。

 お金を使う機会もなかったし、都心に出てバックとか、ネックレスとか、ああ、後、服とか靴もいいかも。服は、煌びやかなドレスみたいなのにしよう。見せる相手もいないけど、良い男が寄ってくるかも! 靴は……そうだなー。ヒールよりブーツとかいい! あんまり履かないし、編み上げのハーフブーツとかいい。

 いい化粧品とか、香りの良い香水とか。今まで、おしゃれしなかった分おしゃれして、満喫しよう。

 それがいい。

 私は電車に乗って、都心へと向かうことにした。

 慣れない都心のブランド品のお店が並ぶ通りに到着。どのブランドも素敵で、大抵のお店は色んなアイテムを扱っている。ブランドの違いって言ったら、まあーなんだろ。価格かな? わかんないけど、適当なブランドのお店を選んで店内に入っていく。

 中は、高級宝石店のような佇まいだ。そんなたとえも、ブランドも高級品なのだから当たり前の風格なんだけど、とにかく私には場違いにしか思えなかった。

 早く帰りたい。そう思って、店内を物色していると一人の店員が話しかけてくる。お店でありがちな、営業だ。

 薦めてきたのはキャミサロペットというワンピースだった。服の名前らしき言葉と、専門的な用語を織り交ぜられて薦められるけど、そもそもキャミサロペットっていうのがわかんないから。キャミソールとサロペットの合成語なの?

 キャミはトップの薄着みたいなので、サロペットはパンツから履いて肩に紐かけるものだ。キャミサロペットはパンツ部分がスカートになっているものが多いようだ。キャミ部分があるから胸元まで覆われる。

 それの何がいいって、体型をカバーできるからだそうで、私の腹部を見て薦めないでよ……。体型カバーって間接的に私のことデブっていってんじゃん。平均的にみれば細身だからね。

 内心、そう思案を繰り広げていようとも店員の薦めを断る力量はない。言葉流されるままに、クレジットで切って店を出た。

 ま、まあ……いいんじゃない? これで私もおしゃレベルがあがった感じ?

 こっからこんな感じで、いろいろ買っていこう! とにかく、嫌なことを忘れるために。

 次にネックレスを買い。ブーツを買い、バックを買い。私は帰宅する。どれも、店員の思うままに買った商品だ。優柔不断の私には、そうされたほうが楽なのだ。

 両手に商品を持って電車に乗って、家に帰る。

 そういえば、これって夢なんじゃないかな。今は夕方。普通ならば、まだ会社でパソコン相手ににらめっこしているころだろう。時たま、上司に呼び出されて、お茶を汲んで来いって言われてるそんな時間だ。

 先ほど駅構内を見渡したら、ビジネススーツの人が多く存在した。帰宅ラッシュというやつだ。一般企業なら、とっくに就業し、社員を帰らせている。いつもの私は……こんなに早く帰れない。

 夢。豪遊できるなんてありえない。夢だ、これは。とてもリアルな夢。

 電車を降りて、まるで明晰夢でも見ているような感覚で帰路をたどった。

 自宅マンションにたどり着き、自身の部屋へとふらついて向かう。家にたどり着き、鍵を取り出して鍵穴に差し込んで捻る――と、違和感があった。

「?」

 ひねってから、ドアノブを握って開けようとするが開かない。どうやら、私は開けて出て行ったようだ。まあ、急いでいたからなー、開けてそのまま出て行ったのか。

 そう思って、もう一度鍵を差し込み捻る。すると、扉は開き中に入ろうとするが――おかしい。自分の部屋に入ったはずなのに他人の部屋に入った感覚がした。

 玄関を見ると、靴が乱雑にある。飾りのあるヒールとか――男のシューズとか? えと、なんでこんなものあんの。ヒールに関しては見覚えがない。こんなにちっちゃいサイズじゃない。

 部屋の先をここから見るに、部屋の奥から艶やかな声と興奮した息遣いが聞こえている。

 女の声が聞こえた。発音を漏らすように、誰か来たみたいだよ、と。

 男の声が聞こえた。若干舌打ちを混じらせて、知らねえよすぐいくからよちょっと待て、と。

 私の家でなにやってんのよ。意味わかんない。意味わかんない。

 躊躇っている。私の家のはずなのにためらってしまっている。

 鼓動が鳴りやまない。しばらくして、ずかずかと激しい音を鳴らして、下着一枚履いた状態で半裸の男が玄関先まで出てきた。

「……っち、んだよ、ババア。勝手に入ってくんなよ!!」

 荒らげていう男。すると、彼の声に驚いた彼女らしき女がバスタオルを全身に覆って玄関先まで出てきた。

「ど、どしたのタカシ? だ、だれこの人? タカシもしかして?!」

「ちっげえから! んな、ブス相手すっかよ。お前だけっだつうの、ナオミ」

「そうだよね! わかったら、早く帰ってよ、おばさん! ……あ、それルイ・ヴィ○ンのやつじゃない?!」

 女は罵倒した後、私の荷物に気づいて指差していった。

「あ? ナオミ欲しいのか?」

「うん、ほっしい! ねえ、おばさん、頂戴!」

「え、こ、これは……」と、戸惑っていると、男は無理やり私から荷物全部を取り上げて女にあげた。

「サンキュー、お姉さん。これナオミにくれるために入ってきたんだよな?」

「いや、違う……」

「いやーん、ありがと、お姉さん! 私のために!」

「よかったな、ナオミ」

 否定しようと思ったが、男がこちらを凶気で睨んでくるため言葉は出なかった。

「オレら、お楽しみだから、悪いけど帰ってくんね、おら!」

 と、躱す反射もなく男の容赦ない蹴りにやられて外へと出された。

 女はこちらを一瞥することなく、手に入れたバックやネックレスなどを物色して部屋奥へと戻り、男はこちらを見下げて扉を乱暴に締め鍵を閉めた。

 なにこれ。

 もう一度入ろうにも、仕事カバンまで奪われてしまった鍵がない。警察に連絡しようにも、携帯も財布もない。

 完璧に、私は何もなく外へと放りだされた。

 えと、夢だよね。そういえば、名札どうなっているんだろう。302号室の札は、私の名であるはずなんだけど――違っていた。別の名前になっている。

 どういうこと? 私は今朝この部屋から出て会社に行ったはずなんだけど!?

 わからない。わからない。

 私はしばらく、家の前に立ち尽くし、頬をとりあえずつねって見た。夢である確認だ。だけど、痛いだけで覚めた様子はなかった。

 嘘、嘘、嘘。夢に違いないはずなのに、夢じゃないの!?

 わからない。きっと、確認の方法が間違っているんだ。夢の確認に頬をつねるなんて、ありきたりで現実ではそんなの有効打じゃないはずだ。だから、いっそ飛び降りるのはどうだろうか。

 どうせ、これは夢なんだし、大丈夫だよね。

 私はそう決めて、マンション屋上へと向かった。

 マンションの屋上への行き方は、まず最上階へと行き、そこから階段を使っていく。屋上へは重厚な扉が邪魔しているけど、これは夢だから扉は開くはずだ。そう思って、扉に手をかけて押すと、扉は普通に開いた。

 やっぱこれ夢なんだ。

 屋上に入って空を見上げると、太陽はすでに隠れ月が見え隠れしていた。

 気づけば夜。最悪な始まりから、こんなにすぐ日が暮れるとは時の流れは早いものだ。年を取ると、それが幾分にも感じて儚く思う。

「…………」

 若い頃、色々やればよかったな。

 なんだろう、この思案。ホントに死ぬみたいな想像だ。別に死ぬわけじゃなくて、夢から覚めるために飛び込むのになんで辛気臭いことを考えているのだろうか。

 わけわかんない……。

 夢から覚めると、仕事の毎日が始まるんだろうな。追われて、追われ続けて、きっと一人で終わる人生。

 人の関係が苦手だからって、ずっと受身の姿勢で奇跡が降りてくるのを待って――このまま死ねばいいのかも。

 フェンスをよじ登って、屋上の淵へと立った。丁度、月の見える位置。私は、月に見られて落ちていくのだ。

 下を見ると、ここがどんなに高い位置であるかが知らされる。落ちてしまえば、体中の骨が粉砕し、内蔵は潰れ、苦しみながら死ぬだろうか。多分、即死にはならない。ある程度の感覚があって意識が消えるくらいで――怖いな。

 死ぬ瞬間を想像してしまっている。足がすくんでしまっている。なんで、死ぬなんて思っているの。これは夢からの脱却なんだよ。死ぬわけじゃない。夢から覚めるため、なのに私は怯えてしまっている。

 足があと一歩宙へと踏み出せない。

 怖い。怖いっ……。

――その時だった。私の力では何かが、私を宙へと放り出したのは。

「えっ……」

 すぐ落ちるはずなのに、感覚はとんでもなく鋭くなっていって一瞬私は宙に浮かんでいるような感覚を味わう。足は間違いなく、空を蹴り、身体は月夜に浮かんでいる。そうこう考えていると、身体は大きく捻って上空を見上げる体勢に変わった。

 綺麗な夜空だ。雲が少なくて、満月が地上を照らしている。美しいな。そう思っていると、唐突な雨が降り出す。

 昼間は、雨なんか感じさせないほど晴天を示していた。きっと、天気予報だって、傘を持たずに遠出するのに最適なお天気になるでしょう、なんて夏休みの特集の一部で言っている。地上では、唐突な雨を嘆く人たちの声が聞こえていた。

 雨を嘆く、か。私は今、まさに落ちているはずなのに、彼らが嘆くのは降りしきる雨だった。この場合、どう考えても屋上から落ちる人間の姿を見上げるものだと思う。

 まるで、私の存在がなくなったみたい。私の存在が認知されていないみたいだ。

――涙が出た。

 ホント、わけわからない。いつものように起きて、いつものように仕事にいって、いつものように仕事に疲れて眠って、またいつもの朝が来る。そのはずなのに、私は今なにをしているの?

 気づいていた。これは夢なんかじゃなくて、この世界にとって不必要な私を千差万別して消去しているんだ。きっとそうに違いない。

 こんな私にはピッタリな結末だ。

 最後の最後に、死ぬ勇気のない私のために誰かが空へ突き落とした。誰かといえば、それは神様のようなもので、憎い私を心底嫌って背を押したのだろう。

 私は、屋上の誰かに手を伸ばしていた。届きはしない。段々と高度は下がっていって、そこからは遠ざかっていく。ただ、何か一つ文句でも言ってやろうと、そいつの胸ぐら掴んで大声で糾弾してやろうと、虚しく手を伸ばしていたのだ。

「――――ッ」

 と、再び妙な違和感に駆られた。

 その違和感、安易なもので私は宙で停止していた。私だけじゃない。雨まで停止し、降りしきる雨の雨粒が一粒一粒、連続して流れているのが止まって見えた。

 止まっている。声も聞こえなくなっている。自分の声さえ発せなくて、月夜の空で私は浮かんで止まっている。

 不思議な感覚。何に表現しようとも、的確な例が浮かばない。云えることは、その状況に私は恐怖していたことだ。

 わけわかんない――あ、これって口癖かも。はは……、しょうがないじゃん。わけわからないんだもん。

 もう殺してよ。こんな意味わかんないことしないでさ。

 屋上の誰かがすっと動き出した瞬間、私の身体は重力を一気に感じて、意識するまでもなく私は地上に到達し――死んだ。




 花の蜜の香りがする。小学生くらいの頃に、好奇心で花びらの中を鼻で探って嗅いだ匂いだ。蜜は甘いといわれて、実際に吸って見ると、舌が感じた味は草のような虫のようなとにかく甘いといった味覚はなかった。

 ここはどこだろう? 天国かな。想像する天国にしては、身体の節々に棘が刺さったみたいに痛い。その痛さに耐えかねて起き上がって見てみるにそこは――満面、白バラの平原だった。

「……え、ここは?」

 そう思って、手に力を入れて立ち上がるとき白バラの棘にあたって手を痛めた。痛みの原因は、白バラのせいであった。

 刺に刺さらないように、慎重に立ち上がって周りを見るにどこもかしこも白バラが咲き誇っていた。それだけ見るに、あたり一面、白い景色。幻想的だ。

 私は、再び夢を見ているのか。はたまた、ここが死の終着点なのか。終着点だとして、まさかここが天国だなんて不親切なものだ。せめて、案内役くらいそばにいさせて欲しい。

 誰かいるような気配もなく、私はとりあえず気をつけて歩こうとしたとき、グーっとお腹がなった。

 あ、食べてなかったな。そういえば。天国のくせに、空腹感は生前から受け継ぐものなのか。

 そう疑心になって、何かないかと探していると、遠くの丘のほうに一本の木が生っているのに気づいて駆け寄った。

 駆け寄って見ると、それはリンゴの木のようだ。まるで、私のために用意されていたかのようにリンゴの実が一個だけ生っていた。

 実のまま食べたことないけど、このままで食べている人もいるから大丈夫だよね。

 キョロキョロと一旦、周囲を確認して、リンゴを手にしようとした時、

「それを手にするな」

 お声がかかり、私は怯えながらゆっくりと背後を伺った。そこには、白馬に乗った全身鎧を見に包んだ人が立っていた。

 ま、まさか王子様的な人?! すごい天国は! 格好いい人と巡り合わせてくれるなんて。

 白馬に乗ったその人は華麗に馬から降りて、こちらに近づいてきた。近づくにつれ、その人の背の高い体躯をしっかり伺える。

「こんな場所に全裸でいるとは、一体どういうわけだい?」

「全裸?」

 そういわれ、自分の身体を見ると何も着ていなかった。

 うっ、天国ってやつは身ぐるみ全部剥がして放り出すのか。私は、思わず恥ずかしく腕で胸元と股を隠した。そすると、鎧を着たその人は、背にあるマントを脱いで私に渡してくれた。

「これで覆うといい」

「あ、ありがと……」

 ますます惚れた。早く、その姿を見せてほしいな……。

「あ、あのあなたのお名前は?」

 そう聞くと、その人は小さく頷いて兜に手をかけた。つ、ついにお顔を見れるのね!

 そう期待すると、兜の中から出てきた顔は素敵で綺麗な顔をした――女の人だった。

「私の名は、ルバート・エリザベス。クラクの屋敷に使える傭兵だよ」

 騎士かと思ったら傭兵だった。

「え、あ、そうなんですか……」

 声が女っぽかったから怪しいと思ったんだよね……。こんな格好いい。女の人がいるなんて、天国ってやつは……。

「君の名前を聞かせてもらえるか? 素敵なお嬢さん」

 お嬢さん、だなんて二十七になって初めて言われた。嬉しい。

「えーと、宮崎瑞希です」

「ミヤザキミズキか。わかった。ミズキ。馬に乗ってくれ、詳しいことは屋敷で聞こう」

「え、……わ、わかりました」

 彼女の言っている屋敷とは何のことなんだろうか。よくわかんないけど、天国の屋敷的なところかな。でも、クラク? の屋敷的なこと言っていたから、なんか他にもあるようないいざまだなー。

 よくわからないまま、馬に一人で乗れない私をエリザベスは担いで乗せてくれると、彼女も馬に乗って白馬は前進を始めた。

 ふーむ……、これは夢だ。これは間違いなく夢だ。現実からスタートした夢で、私は未だ。

 夢を見続けているようです。  

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