氷の上のワルツ
「こんなところで呆けてどうした。彼氏にでも振られたか」
飲み終わった缶コーヒーを手の中で持て余していると頭上から影が下りてきた。まさに愉快だというような楽しげな声だが、気に障るような不快なものではない。むしろ、懐かしささえ覚えるのは長くその声を聞いていなかったからである。
「私に彼氏がいないと知っててそんなことを言うなんて随分酷いですね」
ソファに背を預けて足をのばし、声の主-芝崎知也さんに抗議を示す。恰幅の良い彼はそれだけで存在感があるが、特別なことがない限り普段は威圧をさほど感じさせなかった。彼は早朝野球でほどよく焼けた顔をさらに綻ばせる。
「そうそう、それそれ。元気そうで安心したよ」
ソファに座っている様子が疲れて見えたそうだ。なるほど、それに間違いはなかったが、彼が心配する類のものではなかったらしくからからと笑う。茶番のような挨拶だが嫌いではない。私の営業部時代に佐代子さんの下でともにチームを組んでいた芝崎さんは、いまでも都合が合えば酒を飲みに行くくらいには親しい先輩である。しかし、彼は私がいる本社勤務ではなく、遠方の営業所に籍がある。本社へはよほどのことがない限り用がないはずだ。その疑問が顔に出ていたらしく、彼は口を開いた。
「今日、明日と休みをもらって帰って来たんだ。柳生さんのお参りに行きたくてな」
「…そうでしたか…」
「どうだ、お前も」
言外に意図するのは「来い」という強い勧誘だった。責任感の強い彼は、毎年命日になると彼女の最期の場所へ花を供えに行くのだ。私たち会社の人間が彼女の墓参りに行くことは、いまだ遺族から許されていないからである。
私は考えるそぶりも見せずに頭を振った。答えはあの日からずっと決まっている。私があの場所へ行くことは二度とない。
「まだ行く気はないか」
「まだ、ではなく、ずっと、です」
「ずっと、なんて願いは叶わない。もう三年…人間、区切りがないと前に進みづらいものだ」
それくらい私も理解しているつもりだ。だが、あの場所を思い出し、想像するだけで心が寒々とする。何度も夢に出てくるのだ。佐代子さんが立っていただろう場所に私が立っており、私の意志とは無関係に飛び降りてしまう。山野の美しい緑を胸に抱いて、空に羽ばたき、水に包まれる。上下感覚がわからなくなって、どんどん沈んでいく。深く、深く、どこまでも暗い水の底。それは幻想的な夢だったが、孤独で、寂しく、苦しい。
あまり気負うなよ、と彼の声は優しかった。上司の死によって生まれた妙な絆のようなものは互いに意識していた。彼の去り際、迷いに迷った末、芝崎さんを呼びとめる。
「あの場所でお参りしてしまったら佐代子さんを忘れてしまうような気がするんです。区切りをつけたくないんです」
本当は忘れてしまいたい。楽しかった記憶だけを刻んで、悲劇をなかったことにしたい。だが、それはまさしく彼女を殺す行為なのだ。ならば、彼女をせめて自分の心の中で生かそう。
逆光の中、首をこちらへ向けた後、体を振り返えらせる。芝崎さんの仕草が一瞬だけ佐代子さんに見えた。たったそれだけなのに悲しみが波のように胸に押し寄せる。どうして、どうして、どうして。貴女の影は気が付けばどこにでもいるのに、肝心の貴女に会えないのはどうしてなのか。
「俺はな、そのために参るんだ。いつも柳生さんのことだけを考えてもいられない。時間が過ぎればなおさらだ。だから、せめて今日だけは思い出す。一年間忘れててすみません、でも一年後もこうして思いだします、って。極楽であなたが幸福であることを祈っています、とも」
今度こそ彼は休憩室を去った。ひとりで行けないならいつでも連れていくという言葉を残して。
私も腰を上げ、座席へと戻る。さきほどまでフロアに漂っていた微妙な空気はもはやなかった。皆、日常の仕事を捌いている間にとりとめもないこととして流れていってしまったらしい。それに少しの安堵と寂寥を感じたのは私のわがままだろうか。