夢のあと
受話機から聞こえた指名に、泣きたいような、背筋が凍るような、そんな落ちつかない気分になった。聴覚に神経を集中させ、わざとらしくない程度に復唱する。
「ええ、そう、柳生さん。彼女、お元気かしら?」
想像していたのとは違ったらしい。呼び出した相手がすでに黄泉の国へ旅立ってしまったことを知らないお客からの注文の電話だった。おっとりとした話し方が電話線を通じて人柄を伝えてくる。寡黙で、聞き上手、さらに真摯な彼女のお客さんはとても上品な人ばかりだった。この人も例にもれずそのようだと推察する。声が震えそうになるのを堪え、辛うじて「柳生は退社しました」と伝える。だんだんと心臓の鼓動が煩くなる。冷たいそれを痕がつくまで耳に当て、音量を最大にする。それでも、まだ話者の声は聞きづらい。
「わたくしが代わりに用件をお伺い致します」
「…そうね、残念だわ」
明らかに落胆した声。社交辞令ではなく、心底そう思っていることがひしひしと伝わってきた。
受話機を置いたあとはしばらく呆けていた。忘れているはずがない。忘れるはずがない。ずっと頭の片隅にあって、忘れたくても忘れられない人。ふとした瞬間に、忘れるなと警鐘を鳴らすように彼女は脳裏に甦る。もう数年経つ。そろそろ忘れていいではないか、そう心の奥底で私が思っていたのを見透かしたかのように彼女は生者の口を借りて現れるのだ。忘れることは許さないとでも言うように。
聞き耳を立てていたらしい隣の席の同僚が不安そうに私を見つめていた。いつも笑顔の絶えない彼女が顔を強張らせるのはそう多くはない。入社一年先輩の彼女とは相応の付き合いがある。何を聞きたいのか、何が気になるのかは言葉に出されなくても理解できた。
「ただの注文の電話ですよ」
「でも、あの人の名前が…」
「久しぶりに注文したいってお客さんが連絡をくれたそうです。調べたら七年ぶりの発注ですから経緯を知らなくても仕方がありませんよ」
疑うような、どこか怯えるような目をしていた同僚に「確かに驚きましたが」と微苦笑を返し、少しお手洗いに行ってきますと言い残して席を外す。他の人も聞き耳を立てていて、詳細を知りたがっているような、何となくそんな居心地の悪さを感じたのだ。
休憩室のソファに身を沈め、ブラックコーヒーを一気に煽る。ひと口それが喉を通るたびに、数年前のことが少しずつ色づいて目前に迫ってきた。
柳生佐代子は、数年前に自死を選んだ上司である。神も坐す神聖な山奥、新緑美しい山の中、数十メートルはあろうかという橋の欄干から飛び降りて自ら命を絶ったのだ。