第九章 白き巫女 第九話
旅立ちの朝がやって来た。寝室の扉がそっと開き、白が小さな顔をのぞかせた。アイリーンはまだベッドで眠っている。足音を忍ばせて部屋に入り、ベッドの傍の椅子にちょこんと腰掛けると、少女は静かにアイリーンが目を覚ますのを待った。
アイリーンはすぐに目覚め、白の気配に気付くと、小さく伸びをして言った。
「…おはよう、しろちゃん」
「……おはようです、…あいりーん」
身体を起こしたアイリーンは恥ずかしそうに小さく言う。
「……いやだわ、寝坊してしまったのかしら。…しろちゃんは早く起きたのね、いらっしゃい」
白は椅子から下りると手を差し出したアイリーンの前に立つ。けれど少女はその胸に抱き締められる事はせずに、手に持った紙を見ながらはっきりと告げる。
「…あいりーん、てがみを、かきました。…よみますから、きいてください」
一瞬驚きの表情を浮かべたアイリーンはすぐに表情を引き締め、居住まいを正すと背筋を伸ばして少女に頷き掛けた。
この日の朝、白は随分と早起きをし、自分の決意を紙に書き起こしていた。人と接触を持たずに暮らして来た為に、会話という物に慣れていなかった少女は、頭に浮かぶ考えをうまく言葉に出来なかった。そこで白は伝えたい事を一旦紙に書き留め、それを読むという方法を思い付いたのだった。両手でしっかりと便箋を持ち、白はゆっくりとそれを読み上げて行く。
「…あいりーん。わたしは、みりあむさまと、いっしょに、いたいです。ここに、いたいです。…でも、あいりーんとも、いっしょに、いたいです。…どっちも、だいじです。どっちも、たからものです。…いっぱい、かんがえました。…きめました。…わたしは、みりあむさまと、います。…ここに、のこります」
アイリーンの瞳から涙の雫が一筋こぼれ落ちた。それに気付いた白はわずかに言葉につまったが、そのまま続きを読み上げる。途中で止めなどしたら、とても最後まで読み切れなくなるだろうと思っていた。
「…みりあむさまは、ひとり、です。ともだちが、いない、です。…でも、あいりーんは、たくさんいます。しん、が、います。くららと、ふろーねが、います。あかいかみのひとも、います。きしさまも、たくさん、います。…わたしは、みりあむさまの、そばにいます。…わたしは、みりあむさまを、たすけたい、です。…ごめんなさい」
両手を固く握り締め、涙を流すアイリーンは何度も小さく頷き、白のその決意に心を打ち震わせていた。幼いこの少女は、自分の大切な友人が淋しい暮らしをしている事を思いやり、それを助ける為に、知る人も居ないこの国に一人残ろうと決心したのだ。かすかに震える声で白が残りを読んで行く。
「…あいりーん、やさしくしてくれて、ありがとう。…おふろにはいってくれて、ありがとう。…ごはんをたべさせて、くれて、ありがとう。いっしょにねてくれて、ありがとう。…わたしを、まもって、くれて、…ありがとう。……いっしょに、いけなくて、……ごめんなさい。……あいりーんの、…こどもに、なれなくて、……ごめん…なさい…。……おわり、…で…す」
白の深紅の瞳から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちる。アイリーンはベッドから滑り落ちるように床に膝を付き、しっかりと少女を抱き締めた。「…ごめんなさい、…ごめんなさい」と、何度も呟く白の頭を撫で、その耳に優しく囁く。
「……何も、あやまらなくても…いいのですよ。……よく、決心したわね。…しろちゃんはえらいわね。……ミリアム様を助けてあげたいのですね。……えらいわね、…本当にえらいわね」
顔を上げ、夜着の袖で白の涙を拭うアイリーン。白い頬に両手を添え、目を見開いてじっとその顔を見つめ、少女の瞳を記憶に刻み込む。白が小さく言った。
「…あいりーん。……だいすき、です。……たからもの、…です」
「…しろちゃん」
再び少女を抱き締めたアイリーンは、涙を堪えて告げる。それは、自分自身に言い聞かせる言葉の様にも聞こえた。
「大丈夫ですよ、何も心配する事はありません。…どんなに離れていても、わたくしは一日だってしろちゃんの事を忘れたりしませんからね。…ずっと、ずっと、わたくしの大切な宝物ですからね。…大丈夫、…大丈夫ですから。……だいじょう…ぶ……」
扉の外でシンがクララとフローネを押し止める。彼はベッドを抜け出した白を追い、同じ様に朝早くから起きていた。白の求める便箋とペンを用意してやったのもシンであり、少女の書き上げたその内容を大方知っていた。
彼は二人の為に朝食の時間を少し遅らせてもらおうと考え、しばらくの間寝室に誰も入らぬように、扉の前に静かに立った。悲しげに俯き、目頭を押さえるクララとフローネの姿から、彼女達も同じ思いである事が伺えた。
昨夜、アイリーンは舞踏会から戻ったヴィンセントとメレディスに相談を持ち掛けた。恐らく白はこの国に残るだろうと告げる彼女の言葉に、メレディスは驚いたが、ヴィンセントは予想していた事であり、既に幾つかの方法を思い付いていた。白が心を決めた場合、少女の身の安全を確保する手段を皆で話し合った。
方策を決め、必要な書類を用意し、手筈を整えてアイリーンがベッドに入ったのは、夜半も大分過ぎた頃であった。広いベッドで小さく身体を丸めて眠る白のかすかな寝息を聞きながら、アイリーンは少女と別れなければならない淋しさと、白の願いを叶えてやれる助けが出来た安堵感との、相反する思いになかなか眠りに就く事が出来なかった。
トランセリア一行が出発の為に、王宮の正面広場に集まっていた。既に王女ミリアムは見送りの為にその場で一同を待っており、白の姿を見つけると足早に歩み寄って来る。王女の目は少し赤く腫れ、先程まで泣いていた事が分かった。アイリーンは優雅に一礼して笑顔と共に礼を告げる。
「王女殿下直々のお見送り、一同を代表致しまして御礼を申し上げます。大変お世話になりました」
「アイリーン殿も御苦労であった、道中お気を付けて行かれよ。……白の事、くれぐれもよろしくお願い致す」
しっかりと挨拶を交わすミリアムにアイリーンは優しく頷き掛けると、白の肩に手を掛けて前に押し出し、言った。
「その事でございますが、…しろちゃんからミリアム様にお伝えしたい事がございますので」
王女の目の前に立った白は、大勢の尼僧や侍女達に幾分おどおどとしながらもはっきりと告げる。ミリアムは別れの挨拶だと思っているのだろう、もう瞳を潤ませている。
「…みりあむさま、……わたしは、みりあむさまと、いっしょにいたいです。…このくにに、のこりたいです。…いいですか?」
先程からずっと口の中で何度も練習していた言葉を、白は間違える事無く伝える事が出来た。ミリアムはぽかんと口を開け、何事か理解出来ないでいる。アイリーンが言葉を添えた。
「しろちゃんはミリアム様をお助けしたいと、この国に残る事を決心しました。王女殿下のお許しを頂きとうございますが…」
「……じゃが、…じゃが、…アイリーン殿は…それで良いのか?……あんなに、…あんなにまでして」
「しろちゃんの決めた事です。わたくしはこの子の命を守れた事で、この子に出会えた事で、充分に大切な物を頂きました」
ミリアムの声が震える。少女は白の手を取って問い掛ける。
「…そなたは、そなたは良いのか?…本当に良いのか?……妾と…いっしょに……いてくれるのか?」
「はい、みりあむさま」
大きく頷いてそう答えた白に、ミリアムは涙と共に喜びを爆発させた。勢いよく白に抱き着き、声を上げて泣きながら何度も「ありがとう」と繰り返す。白はおずおずとそのオレンジ色の髪を撫で、ミリアムを慰めている。王女の取り乱し様におろおろと戸惑う侍女達の後ろから、女王ミレーヌが姿を現わし、声を発する。
「……ミリアムや、王女たる者が人前でそのように泣きわめいたりなどしてはなりませぬぞ。…白や、このようにミリアムはまだまだ子供故、そなたがしっかりと手助けをしてやっておくれや」
突然声を掛けられた白はびっくりしながらも、何度も首を縦に振って大きく頷く。一同が深々と女王に頭を下げる中、ヴィンセントが書類を手に静かに歩み寄る。
「女王陛下、直々のお見送り恐悦至極でございます。……こちらが、お伝えした書面でございます。ご確認をお願い申し上げます」
ミレーヌの手に昨夜ヴィンセントが作り上げた数枚の書類が手渡された。彼はこの国で白を保護する方策として、二つの手段を取った。一つは予定通り、白をアイリーンとシンの養子として縁組みを結び、トランセリアの国民として登録する事。もう一つは、白の身分をトランセリア大使館員とし、メッツィーナ宮廷に行儀見習いとして出仕させる事、であった。こうしておけば、何か事が起きた時にも、トランセリアには白の身柄を保護する大義名分が有る事になる。書面を確認するミレーヌに、ヴィンセントは小さく言った。
「それらに女王陛下のサインが頂けるのでございましたならば、私は例の手紙の御心配を解決して差し上げられるのですが…」
じろりとヴィンセントをひと睨みすると、女王は侍従からペンを受け取り、手早くサインを書き込む。もちろんそれは真名の物では無く、通常の職務に使用されるサインではあったが。
メッツィーナに残る事が決まったとはいえ、白はトランセリアの国民である。ましてや政府の高官であるアイリーンの娘となった少女の、唯一の財産と言ってもいいその手紙になど、おいそれと手を出す事は出来なくなってしまった。
書類を受け取ったヴィンセントは大きく頷き、ようやく泣き止んでじっとその様子を見つめていたミリアムの傍らに膝を付いた。白の手を固く握り締めた王女に向かって彼は小さく言った。
「ミリアム様、白の手紙の隅にある物でございますが。全部で数枚でございましょう。その部分だけ切り取って女王陛下にお渡しなさいませ。きっとお喜びになられますよ。白もそれなら同意してくれるでしょうから」
頷いたミリアムは小声で白に説明を始めた。やがて白も大きく頷き、ヴィンセントは立ち上がると丁重にミレーヌに一礼し、大仰に言った。
「女王陛下の寛大な御心に、我がトランセリア一同感謝の念に絶えません。お国の末長い御繁栄と、我が国との友好を心よりお祈り申し上げます」
つい先程まで騎士達にこまごまと何やら指示を与えていたシルヴァも加わり、トランセリアの一行は深々と女王に頭を垂れる。ミレーヌが口を開く。
「トランセリアの方々に置かれては、式典への参加誠にかたじけなく、感謝の意を評します。…アイリーン殿、白の身は全てミリアムに一任する故、今後とも何かと気に掛けてやってたもれ」
「陛下の御厚情、身に余る光栄でございます。御前にてあさましき振る舞いを致しました儀、重ねてお詫び申し上げます」
「うむ、道中気を付けて行かれよ。…シルヴァ殿、………その格好で行かれるのかえ?」
昨日となんら変わらぬ甲冑姿の王妃に、ミレーヌは思わず尋ねる。シルヴァはにっこりと微笑んで答えた。
「左様でございます。馬車は狭苦しくてどうにも性に合いませぬものですから」
「今度見えられる時はきちんと歓迎の支度をしておく故、前もって先触れをお願い致す。……アルフリート陛下にくれぐれもよしなにお伝え下され」
「承りましてございます。昨日は御無礼を致しました、なりは変わらぬと存じますが、いつもはもう少し大人しくはしております故」
苦笑いを浮かべて頷き、振り返った女王は、ミリアムの前に膝を付いてその頬に残る涙の跡を拭ってやると、優しげな声でそっと告げた。
「…ミリアムや、白の身柄はそなたが責任を持って預かるのですよ。年上のそなたがきちんと面倒を見て、教え導いてやらねばなりませんからね。…分かりましたね」
普段と違う雰囲気の母親の言葉に、ミリアムは真剣な表情で聞き入り、元気良く返事をした。
「はい、母上。…妾の妹と思って、立派な大人に育てます」
いささか先走り気味の一人娘の言葉に、笑顔を浮かべたミレーヌは、二人のオレンジと純白の髪を撫でてやりながら立ち上がる。彼女は昨夜から白に対する認識を幾らか改めていた。白をミリアムの傍に仕えさせる事で、世間知らずの一人娘に、人ひとりの責任を負うと言う事を実際に経験させてやる良い機会になると考えていた。他人の世話などされる事はあってもした事の無い王女が、教育や躾をほとんど受けずに育った白に、果たしてどのように接するのか。ミレーヌは二人のこれからの暮らしを興味深く思っていた。
一同に優雅な一礼をすると、女王は悠然とその場から立ち去る。頭を垂れてそれを見送ったトランセリアの人々は、用意した贈り物を少女に差し出す。国元への土産を買い求めに出掛けた折り、彼等は皆それぞれに白にもプレゼントを選んでいたのであった。
身一つでこの国に残る白の為に、二人の侍女は髪飾りを、騎士達はフードの付いた服と腕を覆う手袋を、ヴィンセントとメレディスは便箋とペンを贈る。シンは買い求めた靴を手渡し、アイリーンは侍女達に見立ててもらった木箱を贈った。可愛らしい彫刻が施された小さなそれは、白が大切にしているミリアムからの手紙がぴったりと収まる物であった。シルヴァら宮廷騎士達には品物を用意する時間など無く、彼等からは何も渡されはしなかったが、昼夜を分かたずに街道を駆け抜けて届けられた二人の王の親書こそが、白に取って最大のプレゼントである事を人々は良く理解していた。
沢山の贈り物を両手いっぱいに抱え、頬を紅潮させて白は感謝の言葉を繰り返す。ミリアムは早速白の世話を焼き、それらを自ら引き受けてやる。尤もすぐにそれは侍女達の手によって引き取られてしまってはいたが。
アイリーンが白の前にひざまづき、今朝少女が読み上げた手紙を差し出して言った。その声はもう涙声に震えている。
「……しろちゃん、一つお願いがあるの。…あなたの髪を、ここに少しいただけないかしら」
「はい、あいりーん」
そう言って後ろを向く白の髪を、仕込み杖を使ってアイリーンは一房切り取った。白く煌めくそれを、少女の書いた文字が綴られる紙に大切にくるみ、しっかりと両手で包み込む。振り返った白は何事を思ったか、胸に下げた袋を首から外すと、先程もらった木箱に中の手紙を移し替え始めた。少女の意図を察したミリアムがそれを手伝い、空になった袋を白はアイリーンにと差し出す。
「あいりーん、……ふくろ、あげます。……これ、つかって、ください、…です」
初めて出会った時から少女の首にぶら下がっていたその粗末な袋を、震える手で受け取ったアイリーンは、シンの手を借りると髪の束をそっとその中に仕舞い込み、首から下げる。胸元の袋に愛しげに手を添え、彼女は込み上げる思いを抑え切れずに言う。
「…ありがとう、しろちゃん。……大切に…するわ……ね」
出発の時が迫る。しっかりと抱き合い、その白い髪を撫でて別れを惜しむアイリーンの瞳から、涙が止めど無く溢れ出す。昨夜のミリアムと立場の入れ替わったアイリーンは、同じ様に幾つもの言葉を少女に告げる。
「……しろちゃん、元気で、…しっかりお勉強するのですよ。…ミリアム様のおっしゃる事を良く聞いて、王女殿下をお助けするのですよ。……お腹を冷やさぬ様に、…風邪などひかぬ様に。……日の光には特に気を付けて、……ごはんは良く噛んで食べるのですよ。……必ず手紙を送りますから、…お返事を待っていますから。……それから、……どんなに、…どんなに離れていても、…あなたはわたくしの娘ですからね。……忘れないで、…大切な…我が子ですから…ね……」
その言葉一つ一つに頷き、「…はい。…はい」と返事を繰り返す白の瞳からも涙がこぼれ落ちた。アイリーンの耳に少女は生まれて初めて口にする言葉を送り込んだ。
「……あいりーん、…ありがとう。…ごめん、なさい。……あいりーん、………おかあさん」
「…ああ、……しろ…ちゃん」
それきりアイリーンはもう一言も話す事が出来なかった。ぼろぼろと涙を流し、堪え切れずに嗚咽を漏らして白をきつく抱き締める。このまま少女の身体を抱え上げて馬車に飛び乗ってしまいたかった。何もかもを御破算にしてもトランセリアに連れて帰りたかった。
白にすがりつき、肩を震わせて泣くアイリーンに、シンが静かに歩み寄る。この役目だけは自分にしか出来ない事を彼は分かっていた。妻の細い両肩に手を掛け、促すと、アイリーンは幼子がいやいやをする様に小さく首を振ってわずかに抵抗する。けれどシンがそっと告げた言葉が彼女の理性を呼び覚ます。
「アイリーン、…ウィルが待っています」
ようやく意を決して立ち上がり、涙を拭うアイリーンを、白が見上げて呟く。
「…あいりーん、…おかあさん。……しん、…おとうさん」
シンの大きな腕がすっぽりと少女を包み込み、その頭をごしごしと撫でて言う。
「元気でな、…俺も手紙を書くから。……きっとまたすぐに会えるからな。…大丈夫だ」
すっかりもらい泣きしている二人の侍女と共に、シンに抱えられる様に馬車に乗り込んだアイリーンは、すぐに窓から顔を出して声を振り絞る。
「…しろちゃん、元気で。…ミリアム様、どうかこの子を、…どうか」
片手で白の手を握り、もう片方の手でしっかりとその肩を抱き、ミリアムは顔を上げて答えた。
「妾の命に代えても白を守る、ここに居る皆が証人じゃ。…アイリーン殿、安心なされよ」
「…ありがとう…ございます。…しろちゃん、元気で。……げん…き……で」
頼もしい王女の言葉に何度も頷き、再び瞳を潤ませるアイリーン。
「出発!」
頃合と見た馬上のシルヴァが号令を発し、ゆっくりと馬車が動き出す。
「しろちゃん。…しろちゃん!」
「…あいりーん。……あいりーん!」
大きく手を振る白とミリアムに見送られ、次第に遠ざかる馬車の窓から身を乗り出し、アイリーンは自分の名を呼ぶ少女のその声を耳に刻み付けた。首から下がる白の髪の入った袋を片手で胸に押し当て、もう片方で彼女を気遣って馬車に乗り込んだシンの手を握り締める。騎士一人一人が少女に敬礼を送り、トランセリア一行は王宮を後にした。
残された白は長い間小さくなっていく一行を見つめていたが、やがてその頬を拭ってやっていたミリアムに向き合うと言った。その声はまだ涙で震えていた。
「……みりあむ…さま。……よろしく、…おねがい、します。……です」
「様、など付けなくてもいいのじゃ。……そなたは妾の妹も同じなのじゃから、何も心配する事などないのじゃぞ。……さあ、行こう」
「はい、…みりあむ」
ミリアムに手を引かれ、王宮への階段を昇る白。かけがえの無い友と出会えた二人の少女が、新たな人生を歩き出すその一歩だった。
アイリーンは馬車の中でシンの胸に顔を埋めて泣きじゃくっていた。覚悟を決めて臨んだ別れであった筈なのに、彼女には感情を抑える事など出来なかった。
その日の宿泊地は白と出会ったあの村であり、アイリーンは少女と巡り会ったその場所に立っては泣き、白と入った風呂を思い出してはまた涙にくれた。食事も喉を通らず、終始ぼおっとして心ここに在らずの彼女が、ようやく立ち直って笑顔を浮かべられる様になるには、翌日の朝を待たねばならなかった。
帰国途中の馬車の中、アイリーンは二人の侍女にその決意を語る。
「いつまでもめそめと泣いてばかりいてはいけませんね。…思えばこの旅は涙で始まっていたのでした。あの時しっかりしなければと誓ったのに…。しろちゃんも慣れない王宮できっと苦労をしている事でしょう、わたくしが励ましてやらなければ。…国に戻ったらすぐに手紙を出してあげましょう」
そう言いながらもアイリーンは、宮廷で暮らす白を思い浮かべてはもう目頭を熱くしてしまう。残してきたウィルフィーの事を考えて、どうにか涙を堪えるアイリーンであった。
馬車と騎馬の一団がトランセリア王宮に到着する。帰って来たシルヴァとアイリーンを閣僚らが出迎えた。馬車から降りたアイリーンは、侍女の手に抱かれたウィルフィーへと、挨拶もそこそこに駆け寄った。
「ウィル!…ああウィル」
やっとその手に抱く事の出来た我が子の滑らかな頬に、アイリーンは泣きながら頬ずりをし、何度も口付ける。大勢の見知らぬ大人達に囲まれて幾分むずかっていた赤児は、小さな手で母親の髪や頬に触れ、ようやく機嫌を直したようであった。
アルフリートはその場に迎えに出ては居なかった。自分が居ればきっとアイリーンは国王への礼儀を優先するだろうと考えた彼は、ウィルフィーとの再会の時を邪魔しない様にと、わざと出迎えに現れなかったのである。マリーやシュバルカらに礼を繰り返すアイリーンに、フランクが優しげに告げる。
「アイリーン様、お疲れではございましょうが、執務室で陛下がお待ちでございます。…御子息と一緒で構わないとの事でございますので」
ウィルフィーを侍女の手に戻そうとしたアイリーンは、その言葉に迷いを見せた。久し振りの王宮でウィルフィーを抱いたまま歩いたら、転びでもしないかと心配になったのだ。その様子を見たシンが、すかさず片手で息子を抱き上げた。母親よりも遥かに高い位置に持ち上げられたウィルフィーは、見晴しの良いその場所に尚一層機嫌を良くし、きゃあきゃあと笑顔を振りまいた。シルヴァやヴィンセント、メレディスは、慌ただしく集まって来た部下達へと早速指示を繰り返し、一同はアルフリートの待つ国王執務室へと向かった。
コーヒーを片手に執務室のデスクに座るアルフリートは、先に届けられていたヴィンセントの報告書に目を通していた。貴重な外交カードを使う事無く、大使館も再開の見通しが立ち、次期女王とのパイプも作る事が出来た。同盟国リグノリアにも利益がもたらされ、グローリンドとも顔繋ぎに成功し、思わぬアクシデントを二つの外交行事どちらにも良い方向へ向ける事が出来たのである。万々歳と言っていい結果であったが、アルフリートは一つだけ気掛かりな点があった。考えをまとめていると、一行が賑やかに姿を現わした。ユーストが穏やかに彼等を出迎える。
「お帰りなさいませ王妃殿下。アイリーン様、お役目御苦労様でございます。ヴィンセント殿もメレディス将軍もお疲れ様でございました」
何一ついつもと変わらぬ様子の宰相と、静かに立ち上がって笑顔を向ける国王に、一同はようやく国に帰って来た事を実感する。アルフリートは皆を見渡して口を開いた。彼にしては珍しく、言葉はあらたまった物だった
「皆訪問団の役目御苦労であった、まずは無事の帰還を喜ぶとしよう。…シルヴァ、急ぎの使いを良く間に合わせてくれた。ヴィンセント、訪問が成功に終ったのはそなたの功績だ、礼を言う。メレディス、何かと気を使わせた事だろう、御苦労であった」
一人一人に言葉を掛けるアルフリートに、皆うやうやしく頭を垂れる。普段はくだけ過ぎた口調の国王が、こういった言葉遣いをするからにはそこに必ず意味がある事を閣僚は知っていた。最後にアルフリートはアイリーンを見つめて告げる。
「アイリーン、慣れぬ外交行事の代表として良く大役をこなしてくれた。生まれたばかりのウィルフィーと引き離してしまった事を申し訳なく思う」
優雅な一礼の後、アイリーンは答える。
「御心遣い恐悦至極にございます。わたくしの我が儘で陛下のお手を煩わせてしまった事を深くお詫び致します。陛下のお力と、皆様の支えでどうにか国に損害を与える事無く済みました」
「……アイリーン、だが余はそなたに一つだけ罰を与えねばならん。…ヴィンセントの報告書に寄れば、女王陛下の御前で剣を抜いたとあるが、これは事実か?」
その言葉に、一同の表情に陰が差した。何か言おうと顔を上げたシルヴァを、ユーストが小さく首を振って制する。ヴィンセントは今回の一件で唯一とも言える欠点を、予想通りアルフリートが見逃さず突いて来た事に、少しだけ安心していた。報告書に嘘を書く訳にはいかないし、アルフリートが言い出さなければ、自分から上申しなければならないからだ。シルヴァの登場でうやむやになってはいたが、謁見の儀で抜刀するなど、本来なら国際問題になる大罪であった。アイリーンは迷い無く静かに言った。
「間違いはございません陛下。事実でございます」
「如何なる事情があろうと、他国の王との謁見中に剣を抜いたとあらば、これを見過ごす訳にはいかぬ。然るべき罰を与え、それをもってメッツィーナへ謝罪せねばならん。異論は無いな」
「ございません陛下。如何様にもお裁きくださいませ」
床に膝を付き、固い表情でアルフリートの言葉を待つアイリーン。静寂の中、シンに抱かれたウィルフィーだけが小さな声で父親にじゃれつく。一瞬シンと目が合ったアルフリートは、彼に小さく片目をつぶって見せた。若き王は言った。
「アイリーン・クレメントに一か月の蟄居を申し付ける。王宮に出仕する事まかりならん。そなたの身柄は…シュバルカ」
「は、はい陛下」
「将軍に預ける故、抜かり無く監督をお願いする。世話を掛けるがウィルフィーは引き続き奥方に頼みたい。以上である」
「……かしこまりました。それがしが責任を持ってお預かり致します」
最初は何の事か分からなかったシュバルカは、アルフリートの考えを知って嬉しそうにそう答えた。アイリーンはしばらく呆然とした後に、真面目に国王に訴えた。
「へ、陛下。…それでは罰になりませぬ。…わ、わたくしはあんなにご迷惑を。…陛下、お笑いになっている場合ではございません」
面白そうに笑顔を浮かべたアルフリートは、すっかりいつもの口調に戻って言った。閣僚にも安堵の表情が浮かぶが、シルヴァ一人が何やら不満そうな顔をしている。
「アイリーン、いくらなんでも目をくり抜くなんて言い出すのはやり過ぎだよ。シルヴァが間に合ったから良かったような物の、せっかくウィルの顔を見られる様になったんだから。……ヴィンセント」
「はい陛下」
「俺はいざとなったら全部放り出してもいいから、その少女を抱えて逃げて来いって伝えたよね。アイリーンをそこまで追い込んじゃダメじゃないか」
「仰せの通りでございますが、なかなかそうはいかない状況でしたので……、はいそうですかとは言えませんよ。いやいや私の不徳の致す所で」
罰の悪そうな苦笑いと共に答える外務長官に、アルフリートはにやにやと告げた。
「ヴィンセントにも罰を与えようかな。…巫女王に親書を送るから、何か品物を見繕って。そうだな、ワインなんかどう?…それと王女宛にも何か贈っておいた方がいいだろうな」
「御意にございます。心当たりがございますのでお任せを」
執務室の隅に立つリサが小さく吹き出した。アルフリートは、ヴィンセントがリサにグローリンド産のワインを土産として買って来てもらうよう頼んである事を知っていたのである。その内の一本がミレーヌの元へ贈られるであろう事は間違い無かった。アイリーンはまだ納得出来ないのか、アルフリートに言う。
「陛下、ヴィンセント様に落ち度はございません。わたくしに厳罰をお与えください。…これでは不公平でございましょう」
アルフリートは小さな子供を慰める様に、優しくアイリーンの頭を撫でて言った。
「アイリーン、いい子だから良く聞いて。ウチの閣僚はこの程度のトラブルぐらい、鼻唄歌いながら片付けられるんだよ。どいつもこいつも嫌味なぐらい優秀なんだから。正直に言えばアイリーンはまだまだ経験不足なんだ。本当の責任は、十九歳のあなたにこんな大役を任せた俺にあるんだよ」
「けれど、陛下……、でも…」
普段は誰からも大人の女性として扱われるアイリーンは、ふいに子供のように接して来たアルフリートの態度に戸惑い、言い淀む。実際の所今回の一件は、とても鼻唄混じりではいかない事態だったのだが、アルフリートはわざと軽く言ってみせた。
トランセリアの閣僚は皆十年以上のキャリアを持ち、様々な教育を受け公正な競争を勝ち抜いて来た人物ばかりである。王族として育ち躾られて来たアイリーンとはいえ、とても実際の政治の場で太刀打ち出来る力は無いのである。待望の子供を授かったばかりのアイリーンに、困難な仕事を任せてしまった事に対する、それはアルフリートの思いやりであった。
「落ち着いたら俺も遊びに行くからさ、その女の子の話を聞かせてくれよ。……さぁ、仕事だ。みんな出払っちゃってたから、書類がわんさかたまってるんだ。しばらく忙しいぞ」
顔を上げて大きく一同にそう告げる国王に、閣僚が笑顔と共に口々に返事をし、いつもの持ち場へと散って行く。アイリーンは王の気遣いを素直に受け入れ、何度も礼を繰り返し、シュバルカに連れられて出て行った。シンは休暇を取れと言うアルフリートに首を縦に振らず、すぐに戻りますと告げてアイリーンに続いた。部屋を出掛けたヴィンセントとリサに、アルフリートは短く言う。
「ワイン代は王宮から出すから」
深々と一礼して去って行くヴィンセントを見送り、最後に残ったシルヴァが言った。
「あんな言い方しなくっても、普通に休暇をあげればいいのに。…こんな時だけ王様ぶるんだから」
シルヴァの台詞にアルフリートは真面目な表情になって答えた。
「…まぁ、ちょっと考えがあってさ。……シルヴァ、近い内にもう一度グローリンドに行ってもらう事になると思う。今回の礼をしなきゃいけないし、セルジュも会いたがってたから」
「それは私も考えていたわ。兄様はともかく、約束をキャンセルした事に違いは無いもの。……向こうは上手くいったの」
「かなりいい線いったと思うけど、ヴィンセントにも一緒に行ってもらって、細かい所を詰めて来て欲しいんだよ。ルーク王の引退も予想より早いみたいだ。…時代が動くよ、シルヴァ」
「これでイグナートに手が打てるわね。…それでアイリーンを?」
「それもあるよ。…ちょっと彼女に頼り過ぎちゃった気もしたし。今度シンにそれとなく言っておこうと思ってる」
「最短でも五年は掛かると思ってたけど、以外と早くなりそうね」
「ああ、一旦動き出した流れはなかなか止まるもんじゃ無いからなぁ」
ムードの無い会話にも拘らず、そっと口付けを交わす二人。書類を抱えて戻って来たユーストは、タイミングの悪さに戸惑いもせず、遠慮無く言い放つ。
「二人ともいちゃついてる暇は無いぞ。シルヴァ、宮廷騎士団もかなり仕事がたまってる筈だろう」
「もぉ、ちょっとぐらい気を使いなさいよ。……ユーストも一緒にグローリンドに行く?」
意地悪そうに微笑んで告げるシルヴァに、宰相は眉を潜めて答える。
「御免被るよ。セルジュにはよろしく言っといてくれ」
「は~い。…じゃあねアルフ」
もう一度夫に小さくキスをすると、シルヴァは足早に執務室を出て行く。ユーストは机の上に書類をどさりと置いて言った。
「対イグナート戦略も大事だが、まずは目の前の仕事をやっつけてくれよ。…つくづく文官が足りないな、ウチは」
「カイン来ねぇかな……。一人で三人分仕事するって噂だったぜ」
「居ない者をああだこうだ言っても始まらん。さぁ手を動かせ」
「はいはい」
「『はい』は一回」
「………」
溜りに溜った仕事はなかなか片付く事は無く、アルフリートとシルヴァが自室に戻った時には、日付けも変わる深夜になってしまっていた。旅の疲れもあってか会話もそこそこに二人はベッドに潜り込む。アルフリートが、苦労して買い求めたプレゼントを妻に手渡したのは、翌日の夜になってのことであった。
土産の品々をシルヴァは大層喜び、早速私室でそれらを愛用し、侍女達にアルフリートが選んでくれた物だと嬉しそうに語る。実際にはほとんど他人任せだったアルフリートは、複雑な心境で取り敢えず妻に微笑みかけるのであった。
アイリーンは一家揃ってシュバルカ邸の客人となった。彼女以外には誰一人それを罰などとは思っておらず、出迎えたマリーは飛び上がって喜んでは早速あれこれともてなしを始める。シンは毎朝シュバルカと共に王宮に出仕し、休暇中の(表向きは謹慎であるのだが)妻の分も働こうと、いつも以上に仕事に精を出した。
アイリーンとマリーにそれぞれの幼子が居るシュバルカ邸は、賑やかで笑い声が絶えず、将軍は忙しい職務をきっちりと定時に終らせ、いそいそと嬉しそうに自宅に戻るのである。シンがグローリンドからの土産として贈った、お揃いのよだれ掛けを身に着けた二人の赤児を両手に抱きかかえ、小さな手でヒゲを引っ張られながらもこれ以上無いほどの笑みに頬を弛めるシュバルカ。とても部下には見せられぬその様子をうっかり目撃してしまった副官は、苦笑いと共にディクスンやメレディスに言うのである。
「親父はもう丸っきりのじじ馬鹿です。今なら後ろから頭を張り倒しても笑ってるんじゃ無いでしょうか」
メレディスは手を叩いて大笑いし、ディクスンはやれやれと肩をすくめる。ひと月後に一家が王宮に戻る時に、筆頭将軍は果たして涙を堪えきれるのかどうか、第二軍では今からこっそりと賭けの対象になっているのである。
落ち着いたアイリーンは白への手紙をシンに書き留めてもらっていた。こちらの様子や王宮での暮らしのアドバイスなど、伝えたい事はいくらでもあったが、白の事情を考えれば、難しい言葉を使わずに文章を綴らねばならない。あまり長い手紙を送るのもメッツィーナ側に不振に思われるかも知れず、初めての文は簡潔に必要最低限の事だけを書き連ねた物になった。
「これからいくらでもやり取り出来るのですから」そう言ってアイリーンを慰め、封をするシンの手には、もう一通の手紙があった。彼はイグナートに住む養父、クム宛に手紙を用意していたのである。
白への手紙は一旦トランセリアの大使館に送られ、そこからミリアムの元へと届けられる。もちろん中味は検閲されるであろうが、元々アイリーンに政治や宗教の話題に触れる気など無く、子供に宛てた他愛も無い話題ばかりが記されていた。
シンは自分の手紙をメッツィーナから投函してもらうよう、大使館員に言付けたのである。イグナートにとっては敵国であるトランセリアから手紙を送っても、おそらく養父の元へは届かぬだろうし、仮にクムの手に渡ったとしても、要らぬ嫌疑を掛けられるかも知れない。そう考えたシンが思い付いた手段であった。
差出人を記さず、文中でも名前は一切明かさなかったが、シンはきっと分かってくれるだろうと信じていた。男の子を授かった事を伝え、親子三人で何不自由無く幸福に暮らしている事を記した。礼の言葉と共に、シンは最後にこう書き添えた。『これからもずっと、妻を守っていきます』無事に届く事を彼の信ずる神に小さく祈り、シンは手紙を外務庁へと託した。
◆
午前の職務を終えて足早に自室に戻ったミリアムが、部屋に入るなり白を呼ぶ。
「白、どこじゃ。戻ったぞ」
「はい、ミリアムさま。おかえりなさい…ませ」
「様など付けずともよいと言うのに…」
「だめです、こうむ…ちゅう、ですから」
王女を出迎えた白はにっこりと笑ってそう答えた。その小さな頭を両手で撫でながら、ミリアムは言う。
「夕方迄少し時間がある故、食事をしたら一緒に庭を散歩しようぞ。今日は曇っておるしの」
「はい」
ソファーに腰を下ろしたミリアムの傍らに立ち、白は早速櫛を片手にその髪を梳き始める。それは白が一番最初に覚えた王宮での仕事だった。ミリアムは毎日朝晩と白の長い髪に自ら櫛を入れ、編んでやっていた。白はそれを覚えて真似をし、同じ様に王女の髪の手入れをし始めたのである。ミリアムにせよ白にせよ、二人とも人の髪を触った事など無く、上手な編み方など出来はしないのであるが、二人にとってそれはとても楽しい仕事であるようだった。
次期女王として、徐々に公務の時間を持つ様になったミリアムであったが、可能な限り白と共に行動していた。食事も三食必ず同席し、家庭教師による授業も二人並んで勉強に励んだ。
白の私室はミリアムの寝室の隣にある控え室に設けられており、朝侍女が起こしに来ると王女のベッドは空で、白の部屋で仲良く眠っている事が良くあった。夜中にミリアムが枕を手にやって来ては、あれこれと話をしている内に寝てしまうのだと白は言う。
尼僧シャローンは病身を押して白の教育係を引き受けた。当初は取り乱した彼女であったが、少女に対する悔悟の念と、責任とを感じていたのであろう。シャローンは自らの人生の最後の仕事と、熱心に白を教え導いた。尼として生涯独身を貫く彼女に取って、我が子にも似た感情があったのかも知れない。
白にとってみれば、シャローンこそ少女を生け贄にと画策した人物であったのだが、白自身に詳しい事情やいきさつなど理解出来ず、王宮で唯一の顔見知りであり、文字を学ぶきっかけを与えてくれたシャローンに親しみを持っていたのか、真面目に勉強に取り組み、言葉を少しずつ覚えていった。すっかりおしゃべりになったミリアムの相手をする事で会話にも随分と慣れ、始めの頃のようなたどたどしさは次第に無くなっていった。
礼儀作法や食事のマナーなども覚え、素直でわがままを言わぬ白は侍女達にも受けが良く、ミリアムの側近として次第に認められる様になっていった。何よりも、王女は白の言う事ならなんでもはいはいと素直に聞くのである。朝寝起きの悪いミリアムを起こすのも、夜にはなかなか寝ようとしない彼女をベッドに入らせるのも、白の手を借りなければなかなか進まないのである。『妹も同じ』と白に告げたミリアムであったが、どちらかと言えば世話を焼くのは白の方であったかも知れない。白が王宮に暮らす様になってひと月も経たぬ内に、ミリアムにとって白の居ない暮らしはもう考えられない物になっていた。
毎朝日の出と共に白は目覚め、自分で身支度を整えるとミリアムの寝室へと向かう。まだ半分眠っている王女を、よろよろとその小さな身体で支えて洗面所に連れて行き、侍女と共にあれこれと手を貸しては支度をさせる。朝食を取り、授業を受け、ミリアムの公務に同行する。もちろん白が政治に関わるなどという事は全く無かったが、控えの間で王女を待つ間にも白は本を片手に熱心に勉強に勤しんだ。
初めて届いたアイリーンの手紙を常に持ち歩き、そこに記された王宮での生活のアドバイスを少女は忠実に守った。決してでしゃばらず控え目に振舞い、常に王女から一歩下がって後ろを歩く。宮廷の決まり事や習慣に異を唱えず、早くそれらに慣れようと努力した。ミリアムの身の回りの世話を出来る限り覚え、自分からその仕事を引き受けた。
少女の毎日はそれなりに忙しい物になっていった。自分以外の人間の世話なども初めての経験であり、慣れぬ仕事には骨が折れる事もあったが、それでも白にとっては夢のように贅沢な暮らしだった。
座っているだけで豪華な食事が並べられ、毎日の様に湯が使え、柔らかで大きなベッドで眠る事が出来る。常に新しい清潔な服が用意され、雨や風や、獣の声に怯える事も無い。そして何よりも白が嬉しく思っていたのは、人々が自分と話をしてくれるという事だった。
最初の内こそ、突然現れた出も卑しい少女が王女と共に暮らす事に、侍女や尼僧達は反感を持ち、さげすみの視線を浴びせ掛けた。しかし、たった一人で生活の何もかもをこなして来た白は彼女達の手を煩わせる事も無く、言う事も素直に聞き、真面目に勉強や仕事に精を出す様子に、次第に人々は少女に打ち解ける様になった。白のそれまでの暮らし振りを聞いた侍女などは大層その話に同情し、ミリアムの居ない時間でも、一人で過ごす事は少なくなりつつあった。
ミリアムと白はグローリンドのルーク王にも感謝の手紙を送っていた。二人の書いた手紙は、文章こそ側近の添削が為されたとおぼしきしっかりとした物であったが、その文字はいかにも子供の手によるおぼつかなさを見せ、受け取ったルークは目を細めて喜び、いそいそと返事を書き始めるのである。
白の事情や現在の王宮での様子などは、トランセリアの言い分の裏を取る必要もある為に、グローリンドの大使館より報告が逐一寄せられていた。手紙には、王宮で仲良く楽しく暮らしている様子がしたためられていたが、恐らく口に出せぬ苦労や悩みも色々とあるだろうとルークはおもんぱかり、親身なアドバイスを書き送った。
ルークから届いた手紙を二人は大層喜んだ。長く二人で文のやり取りをしていたミリアムと白は、遠く離れた国に住む人との交流にすっかり楽しさを見い出してしまい、アイリーンはもちろん、ルークとも文通めいた事を始めるのである。親子以上に歳の離れた彼等のやり取りは、やがて『文通外交』とまで呼ばれる程長く、親しく続くのであった。
トランセリアの高官の親族である上に、グローリンドの国王とも親交があると知れた白の評判は、日を追う事に高まっていき、幼いながらも王女の側近として認められる様になっていった。
真面目に勉強や仕事に励む白はメッツィーナでの暮らしに馴染んだ様に見えたが、ミリアムには一つだけ気掛かりな点があった。時折白が手紙を手に、ぼおっと宙を見つめて物思いに沈んでいる事があったのである。手にしたそれがアイリーンからの文である事に気付いたミリアムは、思い切って尋ねてみた。
「……白、…本当はアイリーン殿に会いたいのじゃろう?……そなたが、妾の為に無理をしてこの国に残ってくれたことは、分かっておるのじゃ…。済まぬと思っておる」
白は驚いてミリアムを見つめ、しばらく言葉を探していたが、やがて微笑んでこう告げた。
「……アイリーンには会いたいです。…でも、ここでくらすのも好きです。…ミリアムさまも、みんなも、とてもやさしくしてくれます。…わたしとはなしをしてくれます。たべるものも、きるものもいっぱいあります。…まいにち、ゆめみたいです」
白の手を取ったミリアムは、かすかに淋しげな笑顔を浮かべて言う。
「…じゃが、そなたは時々悲しそうな顔をしておる。…辛い事や悩み事があったら、なんでも言うてほしいのじゃ。妾に遠慮などしなくていいのじゃぞ」
アイリーンに会いたいという気持ちは確かに白の心の内を大きく占めていた。会いたくてたまらぬ夜を幾度も過ごして来た。離れて暮らしてみて尚更、わずか数日を共に過ごしただけのアイリーンが、どれほど自分に愛情を注ぎ込んでくれていたかがはっきりと感じられた。白がほとんど知る事も出来ずに生きて来た母親の無償の愛を、アイリーンは惜しみ無く少女に捧げてくれたのである。
抱き締められた安らぎと柔らかなぬくもりが、切ない思いと共に甦る。別れの日の情景を思い出す度に、涙がこぼれ落ちそうになった。ミリアムの手紙を支えに、たった一人で人生を歩んで来た孤独な少女の、全てを包み込んで甘えさせてくれた初めての存在がアイリーンだった。けれど、白はそれを口には出さなかった。いくらミリアムが遠慮をするなと言っても、決して言葉にしてはいけない事だと少女には思えたのだ。白が告げたのは、もう一つ別に感じていた気掛かりであった。
「…アイリーンには、いつか会えるとしんじています。…そのときは、ミリアムもいっしょに行きましょう。ルークさまにも会ってみたいです。ふたりで、いろいろなくにに行きたいです」
うんうんと頷くミリアムに白は続けて言った。
「……ひとつだけ、おねがいがあります。いいですか?」
「もちろんじゃ。そなたの願いならなんでも叶えてやるぞ」
安請け合いをするミリアムに白は小さく微笑む。
「わたしの、生まれたむらに行きたいです。…おいのりを、したいです。たくさん、人がしんでしまったから…」
メリル教の教義も少しづつ学んでいる白は、いつか村人の為に祈りを捧げたいと感じていた。白は村を出たあの日の光景を決して忘れる事は無かった。泥や石に埋め尽くされた、変わり果てた村の姿を思い出すと胸が締め付けられた。村人達との交流はほとんど無かったとはいえ、自分がこうして生き延びて、アイリーンやミリアムに出会えたのは彼等のお陰だと思っていた。
赤ん坊だった白の面倒を見てくれた老婆の墓も、村にあった筈だった。かすかに記憶に残る年老いたその顔が、身寄りの無い白にとって唯一の肉親の思い出といってもよかった。
行方知れずの両親の居所を探させようかとミリアムは白に提案した事があったが、少女は首を横に振ってそれを断わった。何一つ覚えていない両親に会ったとしてもどうしてよいか分からず、彼等にしても色々と事情があったのだろうとおぼろげに察していた。
毎日の勉強によって様々な知恵が白にもたらされ、何も知らなかった少女にも世間という物が理解出来つつあったのである。
ミリアムは感じ入った様に大きく頷いて答えた。
「そうじゃ、そうじゃな。村人は一人も助からなかったと聞き及ぶ。約束する、妾も一緒に行って祈ろうと思うぞ。なるべく早う行けるよう手筈を整えねばならんな。…白はえらいのぉ。良く気付く、思いやりのあるいい子じゃ。…えらいのぉ」
手放しで褒めちぎる王女に、白は恥ずかしそうに頬を染めて微笑み掛けた。
それからひと月ほどの後、多くの馬車を連ねた一行が細い山道を昇り、白はミリアムと共に生まれた村に立った。夏も盛りを過ぎ、土砂が流れた跡は雑草で覆い尽くされ、そこに村があった事など皆目分からぬ程であった。
森へ分け入り、かつて自分が暮らした小屋を訪ねてみた。生い茂る草木に埋まる、今にも崩れ落ちそうな粗末なあばら家を見つめ、流れ出す涙に言葉も無く立ちすくむ白の手を、ミリアムがしっかりと握りしめる。
太陽の光を避け、二人は少しの間森を散策した。ミリアムは初めて触れる人の手の入らぬ自然に、珍しげにきょろきょろと周囲を見回してはあれこれと白に話し掛ける。その問い掛けに答えながら、白は長く住んだその場所にかすかな違和感を覚えていた。かつて世界の全てだと思い暮らしていたその森が、今こうして歩いてみれば、実際は狭く小さな空間であったのだと感じていたのである。白の体験したこの数カ月の出来事が、少女の世界を大きく広げていたのであった。
森の外れにささやかな祠を祀り、供物を供えてミリアムと二人祈りを捧げた。
この日の為に覚えた鎮魂の聖句が、白の口からおごそかに流れ出る。やがて国中から、尊敬と崇拝を持って崇められる事となる『名を持たぬ白き巫女』の、それが最初の祈りであった。
了
ここで一旦区切りとさせていただきます。
一時更新が止まりますが、また再開いたしますので、その際はよろしくお願いいたします。