第九章 白き巫女 第八話
グローリンドでのアルフリートはその後の外交行事を順調にこなしていた。リサとロベルトが付き従い、元々そういった交渉事の得意な彼は様々な決め事も問題無く決定して行った。
国境に関する条約も変更する事無く延長され、セリアトンネル絡みの通行税問題も無難な線に落ち着いた。軍事同盟を結ぶ迄には至らなかったが不可侵条約を締結し、一層の協力関係を強める事に成功した。ただ、その条約は二十年の期限が設定され、ルークがアルフリートに対して結んだ条約であるという意味合いが強いようであった。
内務大臣カインはそういった外交の諸問題に関してもずば抜けた有能さを発揮し、特に通行税の設定では、主計局長リカルドがあれこれと数字をこねくり回してはじき出したトランセリアサイドの要求額を、初回からずばりと提示して見せ、リサを驚かせる。互いの要求をじりじりと摺り合わせ、双方の思惑をさぐり合うという手法が当り前のこういった交渉にあって、カインのやり方はストレートで現実的だった。分かりきった事に無駄な時間を浪費するのは勿体無いと言わんばかりの彼の実力を、アルフリートは高く評価し、再度(ウチに来ねぇかなぁ…)と思っていた。
シルヴァが居ない為に一時は中止となる筈だった閲兵式も、アルフリートの希望で予定通り執り行なわれる事となった。王宮前に整然と隊列を組み、見事な行進を披露するグローリンドの騎士団を、バルコニーからにこにこと愛想良く眺め、隣に居るヴァレルを褒めちぎるアルフリート。素直に喜びを顔に出す将軍とは対照的に、カインはヒヤヒヤしながら会話する二人を見つめている。
トランセリアの若き国王が、目の前で繰り広げられる騎士団の行動から果たしてどれ程の情報を得ているのか、カインは気が気では無い。命令の伝達方法か、騎士達の馬術や力量そのものか、鎧や兜などの武装の充実度か、はたまた指揮官の能力の高さか。考えれば切りが無く、猜疑心が強くなるばかりであった。
だが、当のアルフリートは、そこ迄細かな目配りなどしてはいなかった。良く訓練され、磨き込まれた高価そうな甲冑姿も見栄えの良い騎士団に単純に感心し、(金のある国はいいなぁ)などと思っていた。シルヴァが見たりすればまた違った意見もあっただろうが、騎士ひとりひとりの細かな力量や、一騎士団の動きだけで全体を予測するのはいささか危険だとも考えていた。彼は軍事の専門家では無かったし、戦の勝敗が軍隊の強さだけで決定する物では無いと言う事を熟知していた。
国王に取って戦争とはあくまでも外交の一手段にすぎない。軍隊とは国政に絡む幾つもの手札の中の一枚であり、戦一つを取ってみても、数々の戦略を内包している物なのである。力と力のぶつかり合いだけが国の命運を決める時代を終らせる事が、アルフリートの就任当初からの目標であった。
ルークはあの夜の会談以来、公の場にはほとんど姿を見せず、重要な調印等の時だけアルフリートの前に現れた。折衝のほぼ全てをカインら閣僚に任せ、時には十九歳の次女クリスを自らの代理として会議に出席させた。
明朗な性格と華やかな外見、そして才媛の誉れも高い頭脳など、全てに恵まれたこの王女はなかなかにやり手の外交官ぶりを発揮し、会議の席上でも時折鋭い指摘を投げ掛けるなど、グローリンドの王族がレオン王子だけで無い事をアピールして見せた。
ルークが既に引退を意識し、国政に関わる様々な場面に、二人の婿を含む子供達を参加させていると言う噂が間違いの無い事を、アルフリートを身を持って体感していた。そして、自国と同じ様に人材不足に悩むグローリンドの実情が、結局トランセリアとは比較にならない程度のものであった事を知るのである。一人で二つ三つの任を掛け持ちし、少ない人数で職務を回している官僚の苦労を思い浮かべ、何人かリクルートして帰ろうかなどとも画策していたが、トランセリアの安月給で彼等が首を縦に振る訳が無いのであった。
アルフリートは夕食を共にしたルークから、本音とも取れる言葉を耳にする。
「…儂はアーロン殿やアンドリュー殿が羨ましかった。アーロン殿は自らの手で物を造る仕事に精を出しておると聞き及ぶし、アンドリュー殿は読書に没頭出来る職に就かれた。儂にはそのような趣味など一つも無くての、今は孫の相手だけが唯一の楽しみじゃ。この歳になってようやく実感するのじゃが、王の責務とは神ならぬ一人の人間には余りにも重い物じゃ。二十年で儂の髪は白髪だらけになってしもうたし、顔は皺が増えて十は老けて見えるとエリスまでもが言うのじゃ。…トランセリアには次代の王を指名して引退出来る法がある。国の成り立ちや歴史が違う故、我が国がそのまま真似など出来もせんのじゃが、上手くやれば王となったレオンを、儂の生きている内になら助けてやる事が出来るじゃろうしの…」
アルフリートはその言葉に同感し、率直に答えた。
「…先だってのハウザー様の葬儀の折でございますが、私は万一の事態を考えまして、後を父に託して彼の国に赴きました。私の身に何かあっても、父が居れば混乱を最小限に抑えてくれるだろうと信じておりましたから。祖父と父が存命である事が、私に掛かる負担を減らしてくれている事は確かですし、この身を守ってくれているとも思っています」
ルークは目を細めて頷き、グラスを手に告げる。
「今ならはっきりと言える。王座など好んで欲しがるほど良い物では無いよ。王位を争って身内で諍いを起こすなど、正気の沙汰では無いわな。そんなに欲しけりゃくれてやると言ってやりたいもんじゃ。…そうは言うても、やたらな者に譲る事が出来るほど軽い物でも無いがの。……二十年じゃ。二十年戦を起こさずに、ひたすら国の安定と民の暮らしの為にやって来たのじゃ。…憶病者と陰口を叩く者もおったし、綺麗な政治ばかりでも無かったがの。…どうにか、手紙一枚で子供の命を救ってやれる所までは、持って来れたという訳じゃな」
少し酒が回ったのか、楽しそうに微笑みながら呟くルークに、アルフリートは思いをぶつけた。その声は、次第に熱を帯びていく。
「陛下、時代は変わります。……私は変えようと思っております。大陸を包括する和平と共存の道を探らなくてはならないと考えます。軍事力だけが国家の関係を決めてしまうような時代はすべからく終らせるべきです。我が国がイグナートに対して叛旗を翻した意味はそこにあります。…この数年、各国の王の代替わりが急速に進んでいます。プロタリアしかり、リグノリアしかり、メッツィーナも、そしてグローリンドや我が国もそうです。私は彼等ともっと話したい。大陸の未来を語り合いたいのです。古い考え方を持たぬ者達が、柔軟な思考で新たな指針を示す事が必要です。対話による外交を、戦に頼らぬ交渉を国際社会に根付かせるべきだと考えています。その為には……。あっ…と、…すいません、つい、声が大きくなってしまって…」
かすかに驚きの表情を浮かべたルークは、すぐに笑顔を取り戻した。優しげな瞳の奥に、底知れぬ意志をはらみ、王は告げる。
「……不可能だとは思わん。…じゃが、困難を極める道であろう。人には欲がある。それは消える事など無く、際限なく膨らんで行くばかりじゃ。…名誉や、富や、権勢を何よりも貪欲に求める者は、未来永劫後を絶たぬじゃろう。……仮に、おぬしがそれを成し遂げたとしても、ほんの一瞬の幻のような平和かも知れぬのじゃぞ。…覚悟はあろうかの」
アルフリートは真直ぐにルークに視線をぶつけ、静かに、しかし微塵の迷いも無く答えた。
「道が険しいからと立ち止まっていては、距離を縮める事など出来ません。いや、ひたすら前に進まなければ、目標は遠ざかるばかりでしょう。たとえそれがただひと時の夢だったとしても、歴史にその事実を刻む事が出来れば、いつか必ず後に続く者が再び道を開いてくれると信じています」
「……おぬしの頭の中にはその為の具体的なプランが恐らくあるのじゃろうな。今この場で儂に言う必要も無いが…、そうじゃの、いつかレオンにでも聞かせてやってくれぬか。…あやつも何やらあれこれと考えてはいるようじゃが、まだまだ青二才じゃ。経験も、思慮も、何もかもが足らぬ。ヴァレルとカインが居らねば、儂もこれ程早くに引退を考える事は出来んかったじゃろう」
少女のように邪気の無い笑みをたたえてアルフリートは言った。
「お暇が出来ましたらば、是非一度我が国においで下さい。父も祖父も大歓迎致しますでしょう。きっと祖母が食べ切れない程の手料理を用意して待ち構えておりますよ」
「それは楽しみじゃな」
声を上げて笑う二人の王を見つめ、カインはアルフリートに対する評価をさらに一段高めていた。二十歳そこそこの若い王は、一体その頭脳でどれ程までの未来に思いを馳せているのか。彼が描く大陸の将来像とは果たして如何なる物なのか。カインは今すぐにでもアルフリートと語り合いたいと心から思った。そして自分が夢見た理想の国家の有り様を聞いてもらいたかった。彼の心中で、新たな希望と目標とが静かに膨らみ始めていた。
アルフリートがグローリンドでの最後の朝を迎える。短い滞在ではあったが彼は様々な行事を精力的にこなし、王族や閣僚のみならず、トランセリアからの留学生達とも会見を行っていた。その中にシルヴァの兄の姿もあった。いかなトランセリアといえど、一般の民が国王と直接顔を会わせる機会などそうそうある事では無く、お茶や菓子を振る舞われながらのくだけた席ではあったが彼等は随分と緊張し、アルフリートの質問にかちこちに固くなって答えていた。彼等が去った後に一人残ったシルヴァの兄、セルジュは、妹と良く似た長く豊かな黒髪を首の後ろでゆったりと一まとめにし、静かに微笑んでアルフリートと言葉を交わす。
「ご無沙汰を致しております陛下。シルヴァはきちんと王妃の務めを果たしておりますでしょうか」
「昔みたいに話してくれていいんだよセルジュ。今だにシルヴァには毎日叱られてるんだから」
子供の頃と変わらぬアルフリートの様子に、セルジュは懐かしげに頷いた。彼はシルヴァの二番目の兄で、幼いアルフリートの遊び相手になってくれた事もあり、今や国王夫妻となってしまった二人とは旧知の間柄であった。しかし、シルヴァはどうやらこの兄を少し苦手に感じているようなのである。
セルジュは子供の頃から絵画に興味があり、暇さえあればクレヨンや色鉛筆を手に熱心に絵を描いていた。片やシルヴァはおむつも取れぬ内からお転婆振りを発揮し、庭を走り回っては木によじ登り、棒を剣に見立てては振り回すやんちゃな少女だった。セルジュはその度に彼女を部屋に連れ戻し、一家の唯一の女の子がそのようにはしたない真似をしてはいけないと、お説教をするのであった。
彼は妹とは正反対の大人しく優しい性格で、シルヴァに対して怒鳴ったりした事は一度も無く、常に柔らかな口調で穏やかに諭すのであるが、それについてシルヴァは後にこう語っている。
「セルジュ兄様のお説教は、なんだかおじいちゃんのお小言聞いてるみたいなのよね…」
男勝りの少女に彼の言葉は余り効果を為さなかったようであり、シルヴァは十二歳で甲冑を纏い、自ら馬の手綱を握って父の従者として戦場に赴くのである。
やがてセルジュは絵の才能を認められ、グローリンドの美術学校へ留学を認められる。軍人として名声を馳せる父親と、全く異なる職を選んだ申し訳無さを感じたのであろうか、彼はアンドリューの治世より行われている奨学金制度を利用して、家計に負担を掛ける事無く隣国で学んだ。
一流の画家となって祖国に戻り、ほとんど人材の居ない芸術分野に貢献しようと志す彼の人生は、一人の女性との恋によって大きくその道を転換する。セルジュの愛した人物は、大貴族の一人娘だったのである。
彼女の父親である伯爵は、当然二人の交際に反対した。妻に先立たれた伯爵には男子がおらず、彼女が婿を迎え、爵位を継いで家門を絶やさぬ様にする他は無かったのである。
何処の馬の骨とも知れぬ平民の若者に、ましてや先の見通しも立たぬ画学生などに娘をやる訳も無く、田舎者ばかりの貧乏国家トランセリアに嫁がせて、みすみす娘に苦労をさせる気も毛頭無かった。諦め切れぬセルジュは、彼女が習い事に向かう途中のわずかな時間に示し合わせて逢瀬を重ね、思いを募らせていった。
毎日の様に伯爵家に説得に訪れては門前払いをされるセルジュに、屋敷の者は次第に心を開き、やがて彼の父親が高名なバーンスタイン将軍であると知る。伯爵の態度は幾らか和らぎ、セルジュと言葉を交わす迄になった。しかし、伯爵の口から出るのは彼の将来に対する不安と、古い血統を絶やしたく無いという思いであった。
こんこんと諭されたセルジュは一度は彼女の事を諦めかけるのであるが、そんな彼の元へチャンスが訪れた。父と妹がグローリンドの式典に出席する為に王宮にやって来る知らせが届く。セルジュは片手に式典への招待状を、もう片方の手で恋人の手を握り、トランセリアの訪問団の元へ向かう。二人は、治外法権であるトランセリアの将軍と大使を頼って駆け落ちをしたのである。
苦虫を噛み潰したような表情の将軍と、驚きと戸惑いを隠せない大使。シルヴァ一人が兄のドラマチックな恋の話にうっとりと聞き入っていた。
バーンスタインは単独で伯爵の元を訪れる。床に手を付いて謝罪する将軍に、伯爵は娘の覚悟のほどを知って肩を落とし、二人の仲を許す事を告げる。バーンスタインの噂以上に高潔で誠実な人となりに触れ、その息子ならばとの思いもあったのだろう。
将軍は二人の結婚に条件を付け、家と娘を思う伯爵の心に報おうとした。セルジュはグローリンドに骨を埋め、二度と祖国の土を踏む事はまかりならんとの父親の言葉に、彼は覚悟を決め、幾度も礼を繰り返した。
セルジュは伯爵家の婿となり、二人の子供が爵位を継ぐ事となった。彼の絵の腕は確かな物であり、伯爵の口添えもあったのだろう、宮廷画家として召し抱えられる様になった。
時が流れ、孫を得た伯爵はすっかり態度を軟化させる。平民出身の成り上がり者の伯爵家の婿に、王宮の貴族達の風当たりは強かったが、妹であるシルヴァが王妃となった事もあり、セルジュはトランセリアの王族に近い存在として、王宮での地位を少しづつ高めていった。
終生国には戻れぬ身のアルフリートの義理の兄は、妹の結婚式にも、そして父親の葬儀にすら出席出来なかったのである。義父である伯爵は何も言わず、自らトランセリアに赴いて将軍の葬列に加わった。迎えたセルジュの二人の兄弟とシルヴァは、伯爵の思いやりに心からの礼を告げるのであった。
アルフリートとの面会の間、セルジュは義弟の顔をスケッチしていた。伯爵家の婿となると決まった時に、祖国の宮廷に、画家として仕官する条件で支払われた奨学金を、彼は国に返済しなければならなくなった。亡父バーンスタインはそれを全て肩代わりしてやり、やがて収入を得られるようになったセルジュは毎年母親に仕送りを欠かさなかった。国に対する申し訳なさもあったのだろう。せめてもの償いに、彼は新たな国王夫妻に肖像画を贈る事を約束した。
「今さら何を言っても仕方の無い事ですけれど、…私は、二人の結婚式の肖像画を描きたかったのです。シルヴァにも、次の機会に絵を贈ろうと考えています」
アルフリートは悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「じゃあなるべく早く、グローリンドにまた来させなきゃ。シルヴァは自分が歳上に見える事をすごく気にしてるんだよ」
三歳歳上のシルヴァは、年齢よりも若く見える夫と並んだ時に、姉と弟のようにしか見えない事を密かに気に病んでいた。先にアルフリートの肖像画を描いてしまえば、さらにシルヴァにとっては不利になってしまうだろう。
国王の言葉に静かに微笑み、シルヴァに会えなかった事を残念だと告げ、セルジュは去って行った。
同じ頃、メッツィーナの繁華街へとシンは買い物に出掛けていた。国に残して来た息子ウィルフィーや、面倒を見てもらっているマリー達に土産を用意していたのである。
白にあげようと靴を物色したり、ウィルのおもちゃを見繕ったりと忙しいシンは、ふとアルフリートの事を思い出す。
(……陛下は、うまく買い物が出来ただろうか)
メッツィーナへと出発する数日前、彼は執務中のアルフリートから突然意外な相談事を持ち掛けられた。シンは既に国王の側近として、護衛だけで無く書類の整理や仕事の段取り、職務をスムーズに運ぶ為の前もっての文官達との打ち合わせなど、多忙な国王の補佐役を務めていた。もちろん日々の鍛練も怠る事は無く、アイリーンの身の回りの世話も変わらずに行っていたし、仕事の合間を見ては庭の手入れにまで手を出していた。夜になれば自室で妻や息子に本を読んでやり、二人が眠った後は自分の勉強に精を出した。
かつての祖国、イグナートの離宮で老人達に代わり、あらゆる力仕事を一手に引き受けていた彼は、元々休暇を取るという習慣が無く、忙しい事を苦にしなかった。仕事があって働け、衣食住の心配が無い暮らしを、有難いものだと思っていた。
子供を産んだアイリーンには育児の時間も必要であり、彼女には各国の王侯貴族達の接待といった新たな職務も増えた。トランセリアの閣僚達も皆忙しく駆け回っており、最もアルフリートと長く行動を共にするのは今やシンになっていたのである。
執務室に人が居なくなったと見たアルフリートは、何やら小声でこそこそとシンを呼ぶと、どういう訳か机の陰で話を始める。大きな身体をかがめ、いぶかしく思いつつもそれに付き合うシンに、国王はこう言った。
「…女の人ってさ、何もらうと嬉しいのかな?」
「……それは、王妃殿下にで…ございますか?」
うんうんと頷くアルフリートは、近付くシルヴァの誕生日のプレゼントを悩んでいたのである。彼等は三歳の年齢差があったが、アルフリートの生まれ月がシルヴァの数カ月前である為に、一年の内その間だけは二歳差になる。自分が姉さん女房である事をどうやらシルヴァは少し気にしているようであり、歳の差がわずかではあるが縮まった数カ月が、彼女の誕生日と共に再び元の三歳の違いに戻るのである。
また一つ歳を取ったとため息をつきつつ迎えるその日に、妻を慰めようと何かしら贈り物をしたいとアルフリートは考えていた。結婚して初めての事でもあり、いつもとは違う(例年彼はシルヴァと二人で食事に出掛けては、その時に彼女の気に入った物を買い求めていた)自分で選んだ形に残る物をと思っていた。しかし彼は女性のファッションや流行など全く無縁であり、思い立ったはいいが何を探せばいいかも分からず、身近に居るシンに相談をしたのだった。一つ上で歳の近いシンに対し、友人の様な親しみを持っていた事も理由であっただろう。
「グローリンドに行った時に探そうと思ってるんだけど、見当も付かなくって……。アイリーンは何か欲しがったりしないの?」
シンはしどろもどろで答える。
「ひ…姫様は、…失礼、妻は盲目ですので、元々服やアクセサリーなどに注文は付けませんし、今は侍女達が綺麗に身支度を整えてくれますので、何の不満も無いようです。……私が贈った物と言えば指輪だけでございますし、…しいて言えば、あの仕込み杖が唯一せがまれたものでしょうか」
「剣を贈ろうかとも思ったんだけど、シルヴァは武具には目が肥えてるからなぁ…。俺の見立てじゃ的外れもいいとこだろうし…」
「その…、私などでは無くヴィンセント様に相談なさった方が宜しいかと存じますが」
「でもヴィンセントは今回グローリンドには行かないし…。あ、シンもそうか。……そうか~」
「それでしたらリサ様なら如何でしょう」
「………う~ん、リサは確かにグローリンドに詳しいんだけど、女の人に相談するのもなんかちょっと恥ずかしくってさぁ…。あの国なら流行の物が沢山揃ってるからいいと思ったんだけどなぁ」
「…ではロベルト様はどうでしょう、恋愛経験が豊富との噂を耳にした事がございますが……」
「それは事実。…でも今めちゃくちゃ忙しそうだから、とても話し掛けられる余裕が無いんだよ」
シルヴァの副官であり、幕僚の中心人物であるロベルトは、同時期に重なってしまった二つの訪問団の護衛準備に大わらわであった。アルフリートは口にしなかったが、ロベルトに相談するとシルヴァやセリカに話が漏れてしまいそうな気もしていた。妻を驚かせたいと企んでいる彼にとって、現地に付くまではなるべく秘密の内に事を進めたかったのである。
執務室の大きな机の陰にしゃがみ込んでぼそぼそと話し込む、見るからに怪しい行動を取る二人。ユーストの耳に入ろう物なら、さぞかしからかわれるであろう事を分かっているアルフリートは、こそこそと隠れる様なやり方を選んだのであった。その時、一人の騎士が彼の元を訪れた。
「失礼致します。……シン、何をやってるん……陛下?…な、何かお探しですか?」
宮廷騎士団で最も若い騎士オールズが、目を丸くしてデスクの後ろを覗き込んでいる。大柄のシンの頭だけが机の上からはみ出していた為に、そこに国王までもがいるとは思わなかった彼は、驚いて二の句が告げないようだ。
均整の取れた体格となかなかにハンサムなオールズは、侍女達にも人気が高いようであり、有り体に言えばおじさんばかりの宮廷騎士団の中にあって、例外的に若い彼に思いを寄せる女性も少なくないだろうと思われた。
アルフリートは丁度いいと考えたのだろう、手招きをして彼にも相談を持ち掛けた。しゃがみ込む怪しい男が三人に増えた。
「オールズ、今誰か付き合ってる人居る?」
「………そ、それは何か問題になるのでございましょうか。いや、今交際している女性はおりませんが、やはり騎士としては不謹慎なのでしょうか」
真面目な彼は国王が王宮の風紀を気にしているとでも思ったのだろう、見当外れの問い掛けをする。シンがやれやれと説明する。
「そうじゃないよオールズ、陛下は女性への贈り物で悩んでいらっしゃるので、参考になる意見をお聞きになりたいのだ」
「なんだそうか、びっくりした。…シルヴァ様にでございますよね、……そうですね、何がいいでしょうか…」
そう言って考え込むオールズはシンと同じ歳であり、文官にも武官にも従者としての態度を崩さないシンが、敬語を使わない数少ない人物である。当初は年齢に関わらず、新参者であるシンは誰にでも腰を低く丁重に応対をしていたのだが、オールズは彼が自分と同年齢であると知ると、それ以来友人の様に話す事を半ば強制して来たのであった。シンは慣れる迄に随分と時間が掛かったようではあったが、口調がくだけると気心も知れるのだろう、仕事以外の話なども良くするようになっていた。
士官学校を優秀な成績で卒業し、数年で王宮勤めを許されたオールズは、ベテランの古参兵揃いの宮廷騎士団の中では、なかなか親しい友人も作れなかったのだろう。シルヴァなどにも良く騎馬や剣の指導を受けているようであったし、同僚とはいえどの騎士とも師弟の様な関係に近かった。余談ではあるが、彼は先年のハウザー皇帝の葬式に同行しており、賊の襲撃を受けた折に、壁を突き破って逃げ込んだ先で侍女達にキス攻めにされた人物である。からかいの的にもされている事は間違い無かった。
「……あえてそう言われると思い付かない物ですね。…シルヴァ様が普段アクセサリーなど身に着けていらっしゃる所は見た事がございませんし、軍装以外のお姿も御結婚の時に拝見した限りですので…。う~ん……」
「オールズはグローリンド行きが決まっていたよね、その時に買おうと思ってるんだけど…。やっぱり流行りの品かなぁ?…って言っても良く知らないんだけどね」
オールズはシンやアルフリートと違い、少ないながらも複数の恋愛経験があった。普通の女性になら、流行りの宝飾品やら靴やら鞄やらを、花束と一緒に贈ればまず間違いの無い事は分かっていたが、相手がシルヴァとなるとどれも違う様に思えた。
さらに彼は若干の勘違いをしていた。国王が王妃に贈る物なのだから、相当の高級品でなければいけないだろうと思い込んでいたのである。王宮勤めの短い彼は、アルフリートが下町のごく普通の店で買い物をしようと考えているとは思いも寄らず、プロタリアの市街で買い物をした時には、彼はその場には居らずに忙しく仕事に追われていたのだった。
「…その、確かグローリンドにはリサ様が同行されますので、やはりこういった事は女性の方が……。お役に立てなくて申し訳ございません」
真面目に謝るオールズに、顔を見合わせるシンとアルフリート。三人は机の陰で背中を丸めたまま、小さくため息を付くのであった。
出発前日、アルフリートは最後の打ち合わせに訪れたリサに贈り物の件を打ち明けた。彼女は小さく吹き出しながら嬉しそうな笑顔でこう答えた。
「陛下、三人目ですわ。その御相談」
シンもオールズもそれぞれリサに話を持ち掛けていたのである。歳の近いアルフリートに二人は男の友情を感じ取ったのか、彼の手助けをしてやろうと考えたようである。トランセリアの王宮でそういった外国の最新流行などに詳しいのは、外務庁勤めのリサか、情報通のユースト宰相の副官、シンクレア姉妹ぐらいな物だった。リサは照れ笑いを浮かべるアルフリートに告げる。
「もちろん喜んでお手伝いさせて頂きますけれど、やはり愛しい殿方が御自分で選ばれた物が、女性は一番嬉しい物でございますからね。頑張りましょう」
何やら浮き浮きとし始めたリサを眺め、アルフリートは何をどう頑張るのかも良く分からずに、取り敢えず頷いていた。
いざ当日、正直に言ってアルフリートは全くうまくやれていなかった。一同で大通りに買い物に出たはいいのだが、トランセリアとは比べ物にならぬ店の多さと品揃えの豊富さに、彼は手も足も出ない様子であった。グローリンドに留学経験のあるリサに案内され、最新の流行の品が取り揃えられていると評判の店にやって来ても、アルフリートが手にする品物はことごとく的外れな物ばかりであった。
「……陛下、それは男性用です」
「……陛下、そのデザインは年輩の方向けかと…」
付き添うリサとロベルトからその都度物言いが付き、時間ばかりが過ぎて行く。結局アルフリートは半ば彼等の言いなりになって、二人の選んだ中から幾つかの品物をシルヴァに買い求めた。部屋着や小物など、私室で普段使える物をと選んだそれらは、トランセリアではなかなか手に入らない流行の品ではあったが、王族が使うような高価な物ではもちろん無く、ごく普通に庶民が手に入れられる程度の値段であった。現にその店には王都で暮らす若い女性達が数多く買い物に訪れ、あれやこれやと品定めをしては華やかに笑いさざめいていた。
グローリンドの官僚達は、市街に買い物に出掛けると言い出した国王に驚き、御用達の商人を王宮に呼び出す事を奨めたのだが、そんな事をすれば予算を遥かにオーバーして、何一つ買う事が出来なかっただろう。アルフリートが用意した私費はささやかな額であり、彼は「王都の庶民達の生活も見てみたい」などと今さらな言い訳をして誤魔化していた。同行したオールズもアルフリート同様、結局何の役にも立たず、後ろから国王を見守る事しか出来なかった。
出発に先立ち、アルフリートは暇の挨拶をする為にルークの元を訪れた。にこやかに微笑み、握手を交わそうと手を差し出したルークは、何を思ったか意外な事を言い出した。
「アルフリート殿、いきなりですまぬがちと手を見せてもらえぬか」
さしものアルフリートも意表を突かれ、言われるままに手を出そうとして一瞬ためらい、行儀悪くズボンの横で手の平をごしごしと拭うと、おずおずと右手を前に差し出した。やんちゃな悪童の様なその仕種にルークは笑みを浮かべ、両手でその手を持つとじっと若き王の手に見入った。
アルフリートは以前レオン王子と握手を交わした時に、その手が傷一つ無い白く優しげな物である事に驚いた事があった。王族ともなれば、たとえ男子であっても手に傷や汚れの付く仕事なぞしないのだと妙に感心し、つくづくトランセリアは他国と違うと感じたものであった。
彼の手は、幼い頃の悪戯や遊びの傷があちこちに残り、体術の修練の為に拳はごつごつと固くなっていた。日頃の職務で染み付いて取れなくなってしまったインクの染みや、ペンダコなどもあり、お世辞にも高貴な王族の手とは言えぬ、どちらかと言えば労働者の手だった。
恥ずかしそうにルークに手を差し出すアルフリートは、その時初めて気付いた。彼の手を取るルークのその皺深い手も、傷や汚れが染み付いた、節々の固いごつく大きな物だったのである。王は顔を上げて言った。
「……インクの染みも消えぬ程忙しいようじゃの。…おぬしは武人では無かった筈じゃが、何か武術を嗜んでおるのか」
「はい、体術を少し。…けれど、この傷は子供の頃の遊びで付いた物がほとんです。訓練の時にはグローブを着けますので」
「…そうか、トランセリアは。…そうであったの。……沢山遊んだか」
孫に対する祖父の様に、ルークは穏やかに問い掛けた。照れ臭そうにアルフリートは答える。
「はい、我が国は王と王妃以外は王族として扱われませんので、いつも友達と野山で遊んでばかりいました。小さい子の面倒も見なければいけませんでしたし、毎日服を汚したり破いたりして、その度に祖母に叱られました。私の服はどれも継ぎ当てだらけでしたよ」
うんうんと頷いたルークは、しっかりと両手でその手を握り返した。
貧乏なトランセリアではどの家庭も衣服を大事にし、破れては直し、小さくなった物は下の子や知り合いに譲り、長く使う事が当り前であった。アルフリートも例外では無く、彼のズボンには常に膝や尻に継ぎ当てが有り、時にはシルヴァのお古を着る事もあった。友人は皆一人残らず同様の格好をしており、逆に新しい綺麗な服を着ている子供の方が珍しかった。将軍家のお嬢様であるシルヴァはそれなりに可愛らしい服をあてがわれていたのだが、並外れたお転婆であった彼女はアルフリート以上のやんちゃ振りを見せ、高価な服をあっという間にぼろぼろにしてしまい、結局丈夫なだけが取り柄の兄のお下がりを着せられてしまうのであった。
国王となった今でもアルフリートの平服は質素な物であり、夫妻が若さの割には流行のファッションに詳しく無いのは、子供の頃のそういった事情も影響しているのかもしれない。
トランセリアの子供達は、忙しく働く父母に代わり幼い兄弟の子守りをしながら遊ぶのが常だった。肉親の様に気心の知れた幼馴染み達は、平服でいる時の国王には「アルフ」と声を掛け、わざと王として接しない優しさを見せてくれるのである。忙しい職務の合い間を縫って下町に出掛けては、彼等と昔と変わらぬ軽口を叩き合うのが、アルフリートの楽しみでもあった。
ルークはその手に何かしら感じ入る物があったのだろう、長い間握手をし、やがて小さな声で短く言った。その囁きはアルフリート一人にしか聞こえぬ程の、ごく抑えられた物だった。
「………大陸を、…頼む」
答えの代りに大きく頷いたトランセリアの王を、ルークは静かに見送った。