第九章 白き巫女 第七話
ヴィンセントがミレーヌの指定した客室へと向かう。手にはなにやら重そうな荷物を抱え、侍従に案内されて通されたそのこじんまりとした部屋には、既に女王が待っていた。
この後は舞踏会が控えている。女王が主催した物ではないらしいが、彼女が顔を出さぬわけにはいかぬだろう。会談は時間の余裕のある物では無かった。ヴィンセントは丁重に一礼して声を掛けた。
「お待たせをしてしまいましたようで申し訳なく存じ上げます。女王陛下におかれましてはご機嫌麗しゅう、まずはミリアム様の次期女王認定をお慶び申し上げます」
「良く来てくれたヴィンセント殿。早速ですまぬが時間が余り無い故、本題に入らせてもらう。さ、座ってたもれ」
話が早いのは結構だと思いながら、年代物の椅子に腰を落ち着けるヴィンセント。ミレーヌは言葉通り率直に話を切り出した。
「トランセリアはグローリンドとあれ程迄に繋がりが深いのか、妾は腰が抜けるかと思うたぞ。アルフリート殿は切れ者と聞き及ぶが…、一体どうやったのじゃ」
謁見の間での失意は既に女王から感じられなかった。彼女は素早く頭を切り替え、この局面を少しでも自分に有利に運べるようヴィンセントとの会談に臨んでいた。一国を率いる王としても、ミレーヌは決して凡庸な人物では無かったのだ。
「我が君はなかなか口が達者でございまして、そこはそれ色々とやりようがあるのでございましょう。私ごとき一閣僚では、とてもとても国王同士のお話など考え及びもつきませんので…」
はぐらかすヴィンセントにミレーヌは眉をひそめて言い返す。
「あの石橋を叩いても渡らぬルーク殿を説き伏せるなど、大したやり手よの。グローリンドに利があるとも思えぬし。…まあよい、過ぎた事だ。問題はこれからじゃ。こうなった以上トランセリアには、何かしら我が国に貢献してもらわねばと思うておるがのぉ…」
探るように怪しげな流し目を送る女王に、ヴィンセントは最上級の笑顔を見せて話を始める。もちろんミレーヌがこう出てくるであろう事は予測済みである。その為に彼はこの場にやって来たのだから。
「お話が早くて光栄の極み。…ご提案がございます。既に閣僚の方々とは内々にお話をさせて頂いておるのですが、我が国とリグノリアの共同大使館の再開を希望致しております」
それは今回の訪問で最も重要な交渉課題だった。元々トランセリアはメッツィーナに大使館を持っていなかった。リグノリアは一昨年まで所有していたのだが、戦役による資金不足で現在は売却してしまっている。同盟国である両国で資金を出し合い、共通の大使館を再開する事はそれぞれの国にメリットがあった。予算が安く上がる事もあるが、何よりもリグノリアにとって、敵国であるイグナートの後背に拠点を持つ事は大変に重要な戦略だったのである。
リグノリアからは女王クレアこそ来てはいなかったが、貴族階級の国政委員三人を送り込んでおり、その意気込みが伝わって来た。ミレーヌは大袈裟に片手を振ってそれをいなす。
「その件は聞き及んでおる。しかしそれではそちらの利があるばかりじゃ、交渉にならぬ」
「まぁまぁお待ちを、まだ続きがございます。確かに我が国とリグノリアだけでしたならば、手を結んでもあまり効果は期待出来ませんでしょう。しかし、それはこの間までの話でございます。…プロタリアの女帝のお噂はお耳に入っておりますでしょう?」
「当り前じゃ、知らぬ訳が無かろう。我が国はそなたの所と違うて、きちんと各国に大使館を備えておる。情報はその都度報告を受けておる」
「御無礼を。ではあの一件に、我がアルフリート国王陛下が深く関わっている事も、当然ご存じでいらっしゃる訳です。そしてつい先程、トランセリア王妃がグローリンド国王の親書を持って現れた。……と、言う事は、とある兄弟喧嘩の好きな国の三方を囲む国家が、我が国と強い繋がりを持っていると、お考え下さいませ。さて、残るは……」
芝居掛かったヴィンセントの台詞にも関わらず、ミレーヌは真剣な眼差しで赤毛の外務長官の堀りの深い顔を見つめる。メッツィーナといえども、十数年続くイグナートのお家騒動の泥沼振りには、いいかげん辟易していたのだ。
彼の国と何か事を決める段になると、必ずと言っていい程王弟派からの横槍が入る。慎重に国王派に根回しをして進めた条約が、御破算にされる事もしばしばだった。かといっていきなり王弟に話を持ち掛けるのは筋が違うし、双方にいい顔をしながら話を進めるしか手は無かったのである。結局一つの国でありながら二倍の資金と労力とを使わねば、イグナートとまともな話は出来ぬようになってしまっていたのだ。
ヴィンセントの言う事は彼女にも魅力的な提案だったが、ミレーヌはすぐには同意を示さなかった。
「そのように曖昧な繋がりなど頼るのは愚か者のする事であろう。口約束など信用出来ぬし、裏切りは良くある事じゃしのぉ。グローリンドはともかく、プロタリアはついこないだまでイグナートと随分宜しくやっていたと思うたが…」
なかなか手強いミレーヌに、ヴィンセントは次の手玉を取り出して見せる。彼に取って、このような駆け引きの場こそまさしくホームグラウンドであった。面白くて堪らぬといった笑顔を浮かべ、ヴィンセントは言った。
「女王陛下の御慎重なお考えには感服つかまつりました。されど陛下、時代は動きつつあるのです。……プロタリアのエリザベート陛下は未だ独身であらせられます。グローリンドのレオン王子も、大陸中の淑女から数え切れない程のラブコールを送られているのも関わらず、浮いた噂一つございません。…さて、我が国の国王夫妻の結婚式が先頃ございまして、噂のご両人がお出でになりました。舞踏会でお二人の踊られたダンスはお見事な物で、大層見物でございましたよ」
人の悪そうな笑顔と共に含みのある言葉を投げ掛けるヴィンセントに、女王は切り返す。
「じゃがエリザベートは在位中は独り身を通さねばならぬ決まりでは無かったか?いくら大国の王子といえど、国法に逆らってまで惚れた腫れたを通しはせんじゃろう」
「どうでございましょうねぇ…。エリザベート様と踊った後もずっと二人で話し込んでいて、もう一切他の女性の手を取らなかったと聞き及んでおりますが…。何が起こるか分からないのが国際政治でございます故。……ここだけの話、我が陛下がこの時期にルーク様と会見の機会を設けたのも、プロタリアとグローリンドの接近の度合いを探る目的もございまして…」
ヴィンセントは嘘はつかなかったが事実を最大限に誇張して伝えている。その上少しぐらいの嘘なら構わないとすら思っていた。実はアルフリートが仲人をするのでその打ち合わせに向かったのだ、ぐらいは言ってやろうとまで考えていた。その程度なら、後でどうにでも言い訳が出来るからだ。
だが、ミレーヌはそこから戦法を変えた。目の前のこの若い外務長官は、このままかわしていても後から後からいくらでも説得材料を持ち出して来るだろうと感じたからだ。現に先程からの笑顔には楽しんでいる雰囲気までも伝わってくる。実力第一主義のトランセリアの閣僚が、ことごとく優秀である事は分かっていたし、軍人であるシルヴァやメレディス将軍までも、平均点以上の外交手腕を持つとの噂を耳にしてもいたのだ。どの道彼女には時間が限られていた。
「分かった分かった、もう良い。…そなたと話していると論点がずれるばかりじゃ。余り時間が無い故にもうはっきりさせようぞ。……我が娘、ミリアムの後ろ楯が欲しいのじゃ。トランセリアだけで無く、リグノリア、グローリンド、そしてプロタリアが付いてくれればなお良いが贅沢は言わぬ。書面になどせずとも構わぬ。あの子が成人する迄の数年、ミリアムは列強と太いパイプを持っていると匂わせる事が出来れば…」
いきなり本音をぶちまけたミレーヌに、ヴィンセントは拍子抜けする。彼の知る女王は高みから見下ろす態度でのらりくらりと話をかわし、しびれを切らせた相手が最大の手札を出すのを網を広げて待っている、さながら『蜘蛛女』とでも例えられるような交渉を得意としていた筈だった。時間が限られているとはいえ随分と先を急ぐミレーヌの変貌に、ヴィンセントはアイリーンの直感を思い出し、カマを掛けた。
「陛下の御威光がございますれば何も御心配する事はございませんでしょうに。まだまだミレーヌ様はお若くそして美しくていらっしゃる。もちろんミリアム様の治世に貢献する事にやぶさかではございませんが」
ランプの灯りの下、ミレーヌの顔がかすかに歪んだように見えた。これ迄の謁見で最も女王の近くに接近したヴィンセントであったが、彼女の顔色から病の具合を判断する事は出来ずにいた。少しの間沈黙したミレーヌは、話題をずらして対抗した。
「…他国の者には分からぬであろうが、儀式に捧げる贄というのは大きな意味を持つのじゃ。小牛など何十頭屠っても足らぬわ、並の王以下の格じゃ。今さら言うても詮無き事じゃが、つくづくあの夜の嵐が恨めしいわいな…」
女王は事態のほとんどを把握していた。白の村で地滑りさえ起きなければ、迎えに行った僧侶が少女の身柄を都に送り届ける手筈になっていたのだ。村の惨状を目の当たりにした使いの僧侶は、被害の大きさと自分の責任問題の両面に取り乱しながらも、白の住処だけが無事な事に気付き、引き返して少女の後を追った。しかし、白の肌が日の光に弱い事が少女には幸いし、僧侶には不運となった。森の中を隠れるように歩く白の小さな姿を、道を行く馬車からでは見つける事が出来なかったのである。偶然が生んだすれ違いが、白の運命をアイリーンの旅路に重ね合わせたのであった。ミレーヌは続ける。
「何が起こるか分からぬのが政治じゃ。儀式をやり直す事など出来ぬ以上、最初につまずいたミリアムの支えが是非とも必要なのじゃ。母親の妾が言うても親バカと思われるやも知れぬが、あの子は賢い子じゃ。今はまだ世間を良く知らぬだけなのじゃ。あと数年、あらゆる外敵から守ってやりたい。分かってくれるか」
ヴィンセントの顔からはそれ迄の笑みが消え、真面目な面持ちに変わっていた。彼はもう駆け引きを切り上げる事に決めた。女王の病状を探るのも止めにした。悲痛とも取れるミレーヌの言葉に、ヴィンセントは静かに頷く。彼は言葉を飾る事も無く、率直に話を始めた。
「……お気持ち良く分かります。……陛下、二つお願いがございます。一つは先程申し上げた大使館の件です。お許し頂ければ、少なくとも我が国とリグノリアの二国の協力は確約出来ます。今都におられる委員には既にその意志を伝え、快諾を得ております。彼の国にも確かな利がございます故。…我が国はグローリンドやプロタリアとも良好な関係を維持しております。アルフリート様は両国の王族と深い信頼関係を築いていますので、この点もご安心出来るかと存じます。……二つ目は、…あの少女、白の生命と身分の保証でございます」
じっと話に耳を傾けていたミレーヌは、不思議そうに問い掛けた。
「何を言っておるのじゃ?あれはアイリーンがトランセリアに連れ帰るのであろう。養女にするとか言うておったではないか。…だいたいもう贄の用など無いのじゃから、連れていってもらった方が食い扶持が減って助かるぐらいじゃ」
「まだ決まった訳ではございません。白の意志が全てです。あの子がここに残ると言えば、無理強いなど誰にも出来ませんでしょう。……ミリアム様との手紙の件はお聞きになりましたか?」
「シャローンより聞いた。……妾の気も知らずと勝手な真似ばかりしおって、全くどいつもこいつも…」
ヴィンセントは小さく笑って言った。
「つい先程、ミリアム様が白に会いにお出でになりました。白からもらった手紙を持って、大層感動的な一幕でございましたよ。…おっと、茶化しているのではありませんよ」
じろりと睨むミレーヌの視線に、ヴィンセントは慌てて言い繕う。彼はついこう言ったふざけた物言いをしてしまう癖があるようだ。常日頃うるさく言う副官のリサが同行していない事で、幾分ブレーキが甘くなっているのかも知れない。ヴィンセントは続けた。
「これはご存じありませんでしょう。白の持っている手紙の隅にミリアム様のサインが入っている、しかも真の名の…」
それを聞いたミレーヌの顔から血の気が失せる。ぱくぱくと口を開け閉めし、彼女はようやく言葉を絞り出した。
「……な、…なんじゃと!……そそそそなた見やったのか。…申せ、早う申せ!」
「御心配無く。アイリーン様が指先で確認しただけでございます。見ても分からぬようにペン先で紙を引っ掻いてへこませただけのようです。確かに賢くていらっしゃいますね、ミリアム様は」
ほっと息を付く女王を眺め、ヴィンセントはこの国の王の真名と言う物が、如何に重要なのかを再確認していた。彼といえど詳しい内情迄は知らず、試しに言ってみただけだったのだが、ミレーヌの反応は予想を遥かに上回る物であった。国王のそのサインを真似する事が出来れば、それはすなわち神の意向としての命令を発する事になるのだろうと彼は推測していた。そしてそのサインが今トランセリアの手の内にある事が、貴重な交渉材料になると考えていた。ミレーヌは恨めしげに上目遣いで告げる。
「その手紙……こちらに渡してはくれぬかのぉ…」
「無理でございます」
きっぱりと答えるヴィンセント。小さく微笑みながら彼は言った。
「こうお考えになっては如何でしょう。白が手紙を何よりも大切にしている事は誰の目にも明らかです。恐らくあの少女に取って、これ迄の人生の支えになって来た物なのでしょう。ミリアム様も白の手紙をそれはそれは大事になさっておいでのようでした。お二人の結び付きは我々の思っているより遥かに強い、親友と言っても過言では無いように感じました」
一旦言葉を切ったヴィンセントはお茶を一口啜り、話を再開する。女王は辛抱強く彼の話を待った。
「それはそうとあの少女は大層絵になる。見た目もなかなか可愛らしい上に珍しい白子ときています。大きくなればかなりの美女になるでしょうなぁ…、勿体無いと思いませんか?」
一瞬きょとんとした顔でミレーヌはヴィンセントを見つめる。そしてすぐに不機嫌そうな表情に変わって言った。
「何をふざけておるのやら…、そなたの女の好みなど知った事では無いわ。そうなったらなったで手でも出せば良いであろう、いつもの様に」
「私の趣味の話ではありませんし、いつもそのような事を致しておるのでもございません。……お考え下さい、何故、白が贄に選ばれたのかを」
ミレーヌの視線とヴィンセントの眼が真直ぐにぶつかった。女王は呟くように言う。
「………あの子供自身に価値があると、そう言っておるのか?……なる程、…その手も。………そうか」
「お分かり頂けましたか。白は村人からずっと『神の子』として怖れられていた子です。見た目も常人と違う独特の美しさを持っています。十分なカリスマ性を持った少女がミリアム様に仕える、いや、新たな女王が神より与えられた『白い巫女』を常に伴っていれば、王の威光はいや増すに違い無いと考えますが。…日の光に弱いと言う欠点がございますが、それはそれで神秘性を高める手段に使えるでしょう。要は今後のイメージ戦略次第で如何様にも…」
「……じゃが白がこの国には残らぬ場合は?アイリーンが手放さぬかも知れぬ。…そちらの確率の方が高いように思うぞ」
「今すぐにで無くとも良いでしょう。いずれにせよ白には真っ当な教育が必要です。ミリアム様との文通もこれから尚一層頻繁に行われるでしょうし、お二人の絆が強まる事はあっても、弱まるとは思えません。彼女自身の意志で、ミリアム様に仕える未来を選ぶ可能性は高いと考えます。…そうならなくとも、私は将来的に白をトランセリアの大使館員として派遣する意向を持っております。……正直に申しまして、この国のあの香の香りは我々にはなかなか馴染めませんので。白なら気にならぬようでしたし…」
ミレーヌは俯いて小さくため息をつく。彼女の中で何かしらの決意が成されたようであった。やがて顔を上げ、静かに言った。
「……あの子らは、それ程迄に互いを思っているのか。……妾はあの子に何もしてやれなかったのであろうか。時々顔を見に行くだけで、シャローンに任せきりであったし…。淋しい思いを…させてしまっていたのか……」
「……ミリアム様は大変にお強い方でいらっしゃいますね。本当は、せっかく巡り合えた初めての友人と離れたくなどないでしょうに、そのような事は一言もおっしゃらなかったそうです。…別れ際の泣き声が、隣の部屋にいた私の耳にも聞こえました。……白は恐らくこの国に残ると、私は思います。…アイリーン様も、何か感じ取っていらっしゃるようでしたし……」
ミレーヌの瞳にかすかに光る物が見えたようにヴィンセントは思った。だが口を開いた女王の言葉に淀みは無かった。
「…分かった。そなたの言った二つの願い聞き届けよう。大使館の件はもちろんすぐに閣僚に伝えよう。どのような結果になろうと、白の身を脅かすような事はせぬ。国王の名において約束する。…如何か、もうあまり時間が残っておらぬ」
「トランセリア外務長官ヴィンセント・ペルジーニ。女王陛下のお言葉しかと承りました。感謝の極みに存じ上げます」
床に膝を付いて深々と一礼し、ヴィンセントはほっと息をついた。顔を上げた彼はそこでようやく持参した荷物を広げる。それは巫女王への貢ぎ物として用意した、トランセリア特産のチーズと、彼が選び抜いたワイン数本であった。ミレーヌは呆れて言った。
「………そういう物は一番先に出すものじゃ。勿体を付けおって、妾がそのチーズに目が無い事は知っておるであろう」
ヴィンセントは片目をつぶって答える。
「今年は大変に出来が良いと評判でございますよ、ご堪能下さいませ。ワインの方は神前への捧げ物でございます。………表向きは」
神に仕える巫女にとって酒は御法度なのであるが、かといって捧げられた酒が勝手に減る訳など無く、誰かが飲まねばならない。チーズを肴にワインを嗜むのが、職務に追われる女王にとってささやかな楽しみであった。
トランセリアが唯一他国に誇れる食材が乳製品であり、特にチーズは輸出品として盛んに生産されていた。中でも名産品である中味のとろりと柔らかな白いチーズは、セリア山脈の地下に有る限られた岩室でしか作る事が出来ず、大変に高価な品物であった。生産料を増やそうと室を広げたりすれば立ち所に味が変わってしまい、わずかな気候の変化やその年の乳の出来にも左右される為に、国王アルフリートですら年に二、三度口に出来るかどうかという高級品だった。各国の王侯貴族に多数のファンを持ち、ほとんどが彼等の元へ輸出されている。
年に一度、その年の出来栄えを確かめてもらう為に、王宮に届けられたそれを閣僚と共に試食するのが国王の役目だった。しかし、アルフリートは与えられたものは何でもうまいうまいと言って平らげる、食通とは程遠い味覚の持ち主であり、的確な感想を述べるのはユーストやヴィンセント達であった。今年からはアイリーンもそこに加わり、彼女はその味に太鼓判を押したのである。一番の好物が屋台の串焼きという国王では、試食役にならぬと常々思っていた閣僚達は、確かな舌の持ち主の到来にほっと胸を撫で下ろしていた。
貢ぎ物を直接女王に手渡す事の出来る最も効果的な機会を伺っていたヴィンセントは、結局ぎりぎり迄それらを留め置く事になってしまった。もしも渡す事が出来なかったら、やけ酒として自分で飲み食いしてやろうかとの考えも頭をよぎったが、苦労して予算をやり繰りし、絞り出した経費を無駄になど出来る訳も無かった。
貧乏なトランセリアではあったが、神前に捧げる供え物は到着したその日に神官の手に届けられ、面談を行った閣僚にもそれぞれきちんと土産の品を用意していた。そうは言っても他国の様に豪華な品物など揃えられる余裕も無く、それをネタに陰口など叩かれるのは分かっていたが、やらなければ面と向かって皮肉を言われるだろうことは明らかだった。どちらにせよ文句を言われる非常にばかばかしい結果を招くのだが、アルフリートはそう言ったある種の賄賂に対しても柔軟な考えを示し、予算申請にも嫌な顔は見せなかった。
最大の障壁は言う迄も無く主計局長のリカルドである。立場的に下に位置するにも関わらず、申請書を持って行けばたとえ相手が長官であろうと将軍であろうとあからさまに渋い表情を浮かべ、きちきちと隅々迄書類をチェックし、不備などあれば臆する事無く再提出を要求し、銅貨一枚であろうと不明瞭な出費は許さない。嫌われる事この上なく、はなはだ敵を作りやすい人物ではあるのだが、トランセリアが曲りなりにも国家としての体裁を保っていられるのは、偏に彼の奇跡の会計手腕と、内務長官フランクの人徳に寄る所が大きかった。宰相ユーストはリカルドを評してこう言った。
「たとえ如何に資金に窮する国家であっても、彼に財布の紐を握らせれば五年で財政を立ち直らせて見せるでしょう。但し、国王の下着の枚数や品質に迄口を出すでしょうが」
(そんな国はちょっとイヤだな…)とアルフリートは思うのであったが、事実、彼に支給される服は年間の上限がリカルドによってチェックされているのであった。
会談を終え、部屋を出ようとしたヴィンセントに、後ろからミレーヌの声が掛かる。
「ヴィンセント殿、そなたなら分かっておられると思うが、くれぐれも贄の件は内密にお願いする。特にお国の宰相閣下にはなるべくぼかして告げてもらいたいのじゃ。出来れば言わないで欲しいぐらいじゃが…」
「私が何も言わなくとも、あの御仁はもう全て承知していらっしゃるとは思いますが…。しかと承りました。謁見の儀に出席した者にも釘を刺しておきますのでご安心を」
何もかも自分の思惑通りに事が運んだヴィンセントは満面の笑みでそう答えた。女王は立ち上がって不満げに言った。
「そもそも我が国の謁見式は、あのように殺風景でみすぼらしい物では無いのじゃからな。自国の者と言えどやたらに教えられぬ秘密の儀式に関わる場であったのだから、仕方なくああなったのじゃぞ。本来ならずらりと官僚や高官が並ぶ壮大な式なのじゃ。許可も無く発言などもちろん許されぬし、たとえ一国の王妃であろうと断わりも無く入室など出来ぬ物じゃったのに……」
ぶつぶつと文句を言い続けるミレーヌは、どうやらシルヴァの乱暴な登場が相当にお気に召さなかったらしく、今だにそれを根に持っているようであった。
これ以上愚痴を聞かされるのは叶わないと思ったヴィンセントは、早々に女王の前から退散する。客室に向かう彼は鼻唄混じりで足取りも軽く、すれ違う若い侍女にウインクまでする上機嫌振りであった。リサがその場に居なかったのは彼にとって幸いであったろう。
女性問題はともかく、彼女がこの訪問に同行していたら、今回のような一発逆転を狙う博打のごとき危うい交渉手段を選ばせなかったかもしれない。慎重派で実際的な副官と、達者な弁説と直感を武器とする外務長官は、ある意味絶妙なパートナーであったのだろう。現在の所、ドワイト前外務長官の人選は成功を収めているようであった。
ミリアムが去って行った後の白は口数も少なく、物思いに沈み込んでいるように見えた。食も細く、寝室に戻ってからは一人でずっと手紙を読み返し、宙を見つめては何か考え込んでいた。
舞踏会に顔を出していたアイリーンであったが、白が心配になったのか早々に部屋に取って返した。白は帰って来たアイリーンに歩み寄ると何か告げたい事が有るように、彼女の顔と手に持った手紙に交互に目をやるのだが、うまく言葉にする事が出来ないようであった。アイリーンはそっとその白く長い髪を撫で、膝を付いて少女の華奢な身体を抱き締めると、幾度も言い淀んだ後にこう囁いた。
「……しろちゃん、…もし、何か決められずに悩んでいるのなら、…あなたが一番したい事を選びなさい。……わたくしや、他の人など気にする事はないのですよ。……あなたが心から願う道を選びなさい。…決して後悔しないように、……ね?」
「……でも、…あいりーん。……でも…でも」
少女が何を悩んでいるのかはアイリーンにもはっきりと感じ取れた。彼女も、ミリアムが去ってからずっとその事を考えていた。そして、白の思いを叶えてやる為に、幾つかの不安を取り除いてやらなければならないと思っていた。アイリーンは優しく声を掛けて、寝室から出て行く。
「…しろちゃんが自分で選ばなくてはいけない事なのですよ。…あなたの、人生なのですからね。……あまり遅くまで起きていてはだめよ、おやすみなさい」
「…おやすみ、…なさい、……です」
白は立ちすくんだまま、長い間そのままの姿勢でアイリーンの去った扉を見つめていた。