第九章 白き巫女 第三話
隣国グローリンドへ向う馬車の中で、王妃シルヴァは退屈を持て余していた。
侍女達が気を利かせ、数ヵ月前に結婚式を上げたばかりの夫、アルフリートと二人きりにしてくれたのはいいのだが、彼は数日間王宮を離れる為の圧縮されたスケジュールをこなし、相当の睡眠不足であった。最初は無理をして妻の話相手をしていたアルフリートも、馬車の揺れにやがてうつらうつらとし始め、気の毒に思ったシルヴァは自分から夫を膝枕して寝かせてあげた。
寝息を立てるアルフリートの柔らかな金色の髪をそっと撫で、新婚の幸福に浸っていたのもわずか三十分、元々行動派の彼女は馬車の狭い空間にすっかり嫌気が差してしまっていた。
長旅のアイリーンに国王用の馬車を貸し与えた為に、二人は王宮にあるごく普通の馬車でグローリンドに向かっていた。隣国であるから旅程も大した距離では無く、街道も比較的整備の行き届いた道が続く事から、さほど問題が起きるとも思えなかったのであるが、新婚の二人を祝福する沿道の住民に手を振ったり、途中で幾つかの大きな集落に立ち寄っては歓迎を受けたりといったのんびりとした旅は、普段騎馬で移動するシルヴァにとっては随分とストレスが溜る物であるようだ。
これが馬上で国王を護衛する職務を帯びた旅ならば、シルヴァの緊張は微塵も揺らぎはしなかっただろうが、今回の訪問は彼女が王妃として初めて行う外交であった為に、常に国王と並んでいる仲睦まじい姿をアピールする必要があった。アルフリートに合わせて身に着けた着慣れぬドレスも、彼女の不機嫌に拍車を掛けていた。
シルヴァのストレスはかなりの物であったらしく、途中立ち寄った村から出発する際、彼女は御者を務める騎士に席を替われと迄言い出す始末で、同行した副官のセリカは仕方なく馬を降り、馬車に乗り込んでシルヴァの話し相手をする羽目となった。
アルフリートも幾らか眠って少しは気分も良くなったらしく、二人はまるで駄々をこねる子供をあやすがごとく、窓の外の景色を説明したり、お菓子や飲み物を与えたりと、宿泊地に到着する迄シルヴァをなだめすかすのであった。
一泊した宿の寝室で、アルフリートとセリカに懇願するシルヴァ。
「アルフアルフぅ、お願いだから馬で行かせて。ちゃんと手も振るし、もしなんならドレスを着てもいいわ。…もちろんアルフと一緒に居たくないって訳じゃないのよ、でもでも…とにかく馬車は苦手なのよぉ…」
「俺はどっちでも構わないけど、ドレスはやめた方がいいんじゃ……」
二人は仲良くセリカの顔色をちらりと伺う。しばらくの沈黙の後、セリカは渋々といった様子で頷いた。
「…致し方ありません。馬上でドレスは危険ですし、汚してはいけませんので甲冑を着けて下さいませ。…はなはだ異例とは存じますが…」
「あ~ん、ありがとうセリカお義母様っ」
「……や…やめて下さい」
ふざけて抱き着いて来るシルヴァに戸惑うセリカ。アルフリートと正式に夫婦となったシルヴァは、義父であるアンドリューの事実上の妻セリカとは確かに義理の母娘となる。
元々シルヴァはセリカの前でだけは、このように年相応の女性のように振る舞う事があったのだが、身内となった事により輪を掛けて甘えた態度を取るようになった。男ばかりの兄弟に育った彼女が、セリカを姉のように慕っている現れであるのだが、セリカの方はどう反応していいのか分からず、ただひたすら困惑しているばかりであった。
よくよく考えてみれば、シルヴァが馬車で旅をするなど、幼い頃に亡父の供で外国に赴いて以来の事であり、実に十年以上のブランクがある。その後ずっと騎士として馬上にあった彼女に、狭い馬車での旅を強いるのは無理があるとアルフリートは思い、翌日からはシルヴァだけが騎馬で旅をする事となった。
シルヴァは愛用の甲冑と双刀をしっかりと持参しており、鼻唄混じりで馬の手綱を握る。沿道の住人達は国王が手を振る馬車の横で、にこにこと嬉しそうに手を振っている馬上の騎士が王妃であると気付く迄、随分と不思議そうな表情を隠せず、セリカはせっかくの晴れ舞台を結局いつもの軍装で過ごしてしまう自らの主に、思わず小さなため息を付いてしまうのであった。
グローリンドの王都に到着した一行をまず出迎えたのは、第一王女の夫でもある若き軍務大臣のヴァレル将軍と外務官僚達であった。彼等は馬車から降りて来たアルフリートをにこやかに出迎えながら、続いて現れるであろう王妃を待って数秒間まぬけなポーズで硬直してしまう。彼等の背後で馬から降りた、古びた甲冑と砂埃に汚れたマントを纏い、髪を後頭部で一括りにまとめただけの化粧っ気の無い女騎士が、王妃シルヴァであると気付く迄かなりの時間を要した。彼等とてシルヴァが軍人である事は承知しており、その風貌も見知ってはいたのだが、まさか王妃となっても馬で旅をしてくるとは思っておらず、ましてや他の宮廷騎士達と同じ、いやそれ以上に使い込まれた甲冑姿で現れるとは想像だにしていなかったようだ。
面食らったヴァレルであったが直ぐに体勢を立て直し、逞しい手を差し出してなかなかの応対を見せた。
「これは嬉しい誤算です王妃殿下。まさか馬上でのお姿を拝見出来るとは光栄の至り。軍務大臣を拝命つかまつるヴァレル・メルテンスと申します、お見知り置きを」
「初めましてヴァレル大臣。軍務ちょ……失礼、トランセリア王妃シルヴァ・リーベンバーグです。驚かせてしまいましたか?こちらの方が慣れてしまっているものですから」
握手を交わし、悪びれずにそう答えるシルヴァに対し、貴族でありながら叩き上げの軍人であるヴァレルは好感を持った。シルヴァの亡父バーンスタインには敵将ではあったが敬意を抱いていたし、ちゃらちゃらとドレスの裾を引き摺って、あれやこれやと文句ばかり並べ立てる他国の姫君にはうんざりしていたのだ。
彼の名誉の為に付け加えるなら、ヴァレルの妻である第一王女のアリスは大変におしとやかで何事にも控え目な人物である。彼が妻の事をそのように思っているのでは無い事は明言しておこう。シルヴァは挨拶もそこそこに部下達の元へと向かう。
「馬に随分と汗を掻かせた、すぐに鞍を外してしっかり拭いてやれ。ロベルト、大使との連絡は着いているか。陛下に最新情報が入り用だろう。セリカ、後で交替シフトの一覧を見せろ。私の護衛が多すぎないか?オールズ、貴様はもう少し馬をいたわって走ってやらんとな、お前の馬だけ余計に汗を掻いておるぞ。馬に鞍上を気遣わせてはいかんといつも言っておるだろう。…ブローウッド、自分の水は後にしろ」
てきぱきと部下に指示を与え、新人らしき騎士に指導まで始めるシルヴァを、唖然と見つめるグローリンドの官僚達。新たな若き王妃の為に、冷たい飲み物やら高級な菓子、新鮮な果物など女性の喜びそうな物を用意して準備万端で待っていた彼等は、男勝りな王妃に拍子抜けしているようだ。アルフリートは笑いを噛み殺しながら、ヴァレルに話し掛ける。
「あれがウチの王妃です。他所の国とはちょっとばかり毛色が変わっているけれどね、…いかがですか?」
ヴァレルはにこにこと嬉しそうに笑みを浮かべ、大きな身体を屈めて答える。
「素晴らしいの一言に尽きますな。陛下は誠に人を見る目がお有りだと感服致しました。…ささ陛下、お疲れでございましょう、歓迎の用意が出来ております。エリス姫など朝から首を長くしてお待ちでございますので」
ヴァレルに促されて歩き出すアルフリートにリサが大きな荷物を抱えて付き従う。珍しく単独行動をしている彼女はグローリンドに留学した経験を持ち、今回の訪問の首席官僚として同行していた。シルヴァはまだ細々とした指示を与えつつそれを追う。
「馬に塩をやるのを忘れるな。……セリカ、リサにも騎士を付けてやれ、書類の山で倒れそうだぞ。私の護衛を回せばいい」
それを耳にしたロベルトが遠慮なく告げる。
「お言葉ですが王妃殿下の護衛は減らせません、こちらでシフトを調整しますのでお任せを」
「…セリカが一人居ればいい」
「いいえお任せを。……ガスト、ルーベン」
有無を言わせぬロベルトの言葉にかすかに頬を膨らませるシルヴァ。大柄な二人の古参騎士がするりと王妃の背後を固める。ルーベンはリサの荷物を軽々と片手で取り上げ、身軽になったリサはようやくアルフリートに追い付いた。
侍従など国王の為にしか同行していないトランセリアは、一人で複数の任を掛け持ちするのが当り前になっていた。会議になればアルフリートの補佐官にリサが付き、シルヴァにはセリカが付く。護衛が必要なのは当然であるし、セリカは先代国王の内縁の妻という立場もあるので、他国なら彼女に護衛がついてもおかしくはなかった。どうやらシルヴァは自分が守られる側に回る事に慣れていないようなのである。
巨大な柱がいくつも立ち並ぶ、豪華で壮大な広間で、内務大臣カインと彼の妻、第三王女エリスが国王夫妻を出迎える。大勢の侍女と侍従が王族の為に控え、後方には衛兵が隙き間なく列を作る。あちこちに幾つも飾られた彫刻や複雑な意匠を施された扉と窓。壁には絵画が掛けられ、天井からは巨大なシャンデリアがぶら下がる。
大陸第二の大国グローリンドの実力のほんの一端を垣間見たアルフリートは、一瞬だけかすかに表情を消してその国力を推し量り、シルヴァは切り裂くような鋭い視線で、広間の隅々まで素早く警戒の目を光らせた。正面に立つカインだけが、二人のそのささいな変化を見抜き、背筋に冷や汗の流れる思いをしていた。
(……やれやれ、いったいどんな経験を積めば、若い身空でこんなに抜け目の無い剣呑な夫婦が出来上がるんだ。アルフリート様の油断のなら無さは相変わらずだし、シルヴァ様のあの目付きはなんだ。戦争をしに来たんじゃ無かろうに…。まったく『魔女』とは良く言ったもんだ、くわばらくわばら…)
表情にはにこやかに笑みを浮かべながらカインは思う。アルフリートには何を見せてもその裏を見抜かれてしまいそうであり、もう一度歓迎行事をチェックし直す必要があると考え、初めて目にする武人としてのシルヴァの気魄には、自分が軍隊に入らなくて良かったと心底思っていた。
さすがにシルヴァもエリスの前ではそのような『魔女』ぶりを見せずににこやかに挨拶を交わし、甲冑姿を初めて見たエリスは例のごとく『ステキ!』を連発していた。トランセリア以外の国では、女性騎士という物はまだまだ珍しい存在であった。
国王夫妻に用意された広大な客間の一室に落ち着き、シルヴァの着替えを待ちながら、テーブルの上に並べられた果物をつまみ食いしていたアルフリートの元へ、トランセリアの大使がようやく現れた。汗を拭いながら、本来なら出迎えるべき所に間に合わなかった理由を、彼は声を潜めて伝えた。
「ヴィンセント閣下より緊急のご連絡です」
差し出された封筒は王室や外務庁の使用するトランセリアの紋の入った物では無く、宰相ユーストの間諜が使う極秘文書用のありふれた目立たぬ物だった。手紙を受け取って中味を確かめながらアルフリートは短く尋ねる。
「誰がこれを?」
壮年の大使はさらに声を潜めて答える。
「顔は存じ上げませんでしたが……宰相閣下の……です。…書式と……はこちらで確認を」
「分かった」
短かな手紙を読み終えたアルフリートはしばらく天井を見上げて何か考え事をしていた。リサは文官の頭数が揃った事でひと安心していたが、ユーストからでなくヴィンセントから来たと言うその連絡に、メッツィーナで何事か起きたのかと国王の反応を待った。アルフリートは手紙をひょいとリサに差し出し、テーブルの上のグラスを手に愉快そうに言った。
「……アイリーン、面白い物拾っちゃったなぁ」
「拝見します」
手紙に目を通すリサの横で、大使は低く告げる。
「陛下、外務庁の官僚として申し上げれば、……渡すべきです。我が国の国益を損ねる可能性がございます」
リサが顔を上げ、静かに言う。
「大使と同意見です。私見は……申し上げる立場にありません」
アルフリートは二人に小さく笑い掛け、口を開く。
「うん、公人としての君達の判断はそれで正解だと思う。個人的にはまた別だろうけどね。…ただ、これが俺の元に届いたって事は、ヴィンセントもユーストもそうは考えてないんだろうな。許可を求めている訳だからね、…そうとは書いてないけど。……これ、もう一度コンタクト取れる?…よね?」
「明朝、お返事をとの事です」
大使のその返事に頷いたアルフリートは、いたずら小僧のように目を輝かせて呟いた。
「今回の訪問は顔見せだから退屈かなとも思ったけど、…なんか面白くなって来たなぁ」
グラスを口に運ぶアルフリートの元へ、甲冑を着替えたシルヴァが戻って来た。
宮内局が王妃用に試作した幾つかの宮廷騎士団の礼装の中から、シルヴァは最もシンプルで足さばきのいい物を選び、さらにマントの止め具を片手ですぐ外せる物にと付け替えさせた。黒と銀を基調に金の房飾りなどを施したそれは、シルヴァに大変良く似合い精悍ではあったが、王妃としての華やかさには今一つ欠ける物であった。腰の双刀は式典用の装飾の付いた鞘に納められてはいたが実剣であり、彼女が騎士としての職務を十二分に意識している事が伺えた。
礼装とはいえ軍服で晩餐会に現れた王妃に、グローリンドの閣僚達は皆目を丸くしていたが、噂通りのシルヴァの行動には好感を持つ人物がほとんどであったようだ。彼等が一番驚いたのはトランセリア国王の若々しいルックスであり、様々に聞き及ぶアルフリートの評判と、少年にしか見えない見た目のギャップに戸惑っているようであった。上座にルーク王と並んで座ったアルフリートは、グローリンド国王が実年齢より老けて見える事もあるのか、一層その若さが際立っていた。
グローリンド側はレオン王子がメッツィーナの式典に赴いた為に不在であり、十人存在するロイヤルファミリーの内、幼児を除く七人の王族が揃っていた。ルークはわざわざ食事が始まる前に、長女夫妻の二人の子供をトランセリア側に紹介する。孫を抱き上げにこにこと嬉しくてたまらぬ様子で顔を崩す国王に、両国の人々は口々に褒め言葉を並べたてながらも一人残らず(……じじバカ)と心に思い浮かべる。アルフリートはウィルフィーを残して旅立ったアイリーンの不憫を再び思い出し、ちくりと胸に罪悪感を感じるのであった。
贅を尽くした豪華で美味この上ない食事が次々と運び込まれ、晩餐会は和やかに進む。アルフリートは例のごとく見事な美辞麗句を並べ立ててルークをおだて上げ、シルヴァもどうにかぼろを出さずに、隣に座るグローリンド王妃フィリスと会話を繋げる事が出来た。
晩餐会を終え、ルークは瀟洒な客室へとトランセリア一行を招き入れた。アルフリートとシルヴァに、リサとセリカが同席し、グローリンド側は国王ルークと軍務大臣ヴァレル、内務大臣カインが座に落ち着いた。二人は共に国王の娘を娶った王位継承権を持つ閣僚であり、アルフリートは早速踏み込んだ話が出来ると思ってか、何やら浮き浮きとした表情を浮かべている。
ヴィンセントが知ればさぞかし羨ましがるであろう高級なワインがグラスに注がれ(もちろんシルヴァは自分から断わったが)両国の繁栄を祈った乾杯が交わされると、ルークが口火を切った。
「アルフリート殿、隣国でありながらこうして膝を交えて話をするのは初めてであるのぉ。アンドリュー殿はお元気でおられるか」
「くれぐれも陛下によろしくと申し遣っております。本の山に囲まれて読書三昧の日々を送っておりまして、父の人生で今が一番幸福な時ではないでしょうか」
その返答にルークは声を上げて笑う。グローリンド国王ルーク・アシュレイ・グローリスは、四十をいくらか越えたばかりであったが、父王の急逝によって若くして王位を継いだ苦労が顔に深い皺を刻み込み、十は老け込んで見えた。頭髪はふさふさと豊かではあったが、髪にもヒゲにも白い物がちらほらと見え、二十年に渡る国王の責務の過酷さが伺われた。
中肉中背の体躯にさして美形とも言い難い風貌の中、その両眼だけは一国を治める王の威厳を十二分に感じさせる鋭さを秘めていた。白髪混じりの口ひげを指先でしごき、ルークは目を細めて呟く。
「うむ、誠に胆が座っておられる。レオンとは…四つ違いになるのか。果たして四年後にあやつがここまでの人物になるかどうか…」
「レオン殿と初めてお目に掛かった時は、王子はまだ十六歳でございました。陛下の名代をご立派に勤め上げていらっしゃいまして、感服致しました。私があの歳の頃には、セリアノートの下町で遊び呆けておりましたよ」
「だが今やおぬしは大陸にその名を轟かせる王となった。…プロタリアの一件は我が国でも相当評判になったぞ、ハウザー殿の全面的信頼を得ていたとな」
「人の噂というものは尾ひれが付く物でございましょう陛下。あの事件はほとんどレイナード・バッカスが片付けたも同然でございますよ」
「お二人の結婚式には渦中のエリザベート殿が出席なさったと聞き及ぶぞ。レオンめはなにやら随分と誉めちぎっておったがの。…よければおぬしの意見を聞いてみたいと思っておるが」
ここまでの会話の流れでアルフリートはルークの思惑が読めて来ていた。現在の所二国間に取り立てて問題となる懸案は無く、シルヴァの顔見せと共に両国の友好関係を再確認出来れば会見は成功と言えた。ルークはどうやら、レオンとエリザベートの仲の進展を気にしているようなのである。
結婚式に同行したカインは恋愛関係は最も苦手とする分野であったし、一緒に居たはずの第二王女クリスは、踊ってばかりいてあまりレオンを気に掛けていなかったようである。アルフリートは少し間を置いて答える。
「……そうでございますね、エリザベート様はなかなかの人物であると私は思っておりますが。かのハウザー皇帝陛下が国法を曲げてまで次代の王にと指名した訳でございますから、私ごときの判断よりそれが全てを物語っているのではないでしょうか」
距離を取ったトランセリア国王の口調に、ルークは少し物足りなさを感じ始めていた。互いに同格である一国の王ではあったが、二十一歳のアルフリートにとって、ほとんどどの国の王も自分より倍以上の年長者になる。目上の者への礼儀を失せず、彼は必ず最初の内は自分を下に置いた物言いをした。しかし、代々のトランセリア国王のべらんめぇ振りは、直接踏み込んだ会話を交わす王族に取って周知の事実であり、ルークもそれを望んでいるようであった。
「…アルフリート殿、奥方が居られる前では何かと言いにくい事もあるとは思うが、どうだ、もちっとその、腹を割って話をしてくれぬかの」
二人の国王の視線が同時にシルヴァを伺う。軍装の王妃は一瞬俯いてごく小さくため息を付くと、頷いてにこやかに告げる。
「わたくしに御遠慮など為さらぬよう、両陛下」
その言葉に嬉しそうな表情を浮かべるルークとなんとなく後が怖いと思うアルフリート。ルークはにこにことシルヴァを誉め称える。
「うむ、誠に良く出来た奥方じゃ。才色兼備で剣の腕も立つ王妃など、大陸中探しても見つけられぬぞアルフリート殿」
曖昧に微笑むアルフリートは(年寄りは『腹を割る』のが好きだなぁ…)と思いつつ、酒も入ったせいかたちまちいつもの口調に戻って言った。
「お誉めの言葉恐縮です。それでは陛下遠慮なく。…ぶっちゃけあの女は天然です。意識せずに自然と皇帝に必要な行動を取れる人物だと思います。才覚なのか偶然なのか、平時で無ければ果たしてどうなのか。色々分からない部分もありますが、並以上の王には達すると考えています。確実に言えるのは、相当のじゃじゃ馬姫でして、まぁ後は連れ合いの男次第でしょう」
「じゃがエリザベートは在位中は結婚を禁じられておるのだろう?…じゃじゃ馬なのはまぁその通りだが」
「どうやらかなり惚れっぽいようなんで、恋人ぐらいはすぐ出来るんじゃないでしょうか。子供さえ作らなきゃいいわけですからねぇ…。そうですね、例えば……遠距離恋愛とか」
「おとととっ…」
カインが危うくグラスを取り落としそうになった。二人の王にちらりと視線を向けられて、小さな声で「失礼しました」と彼は呟く。ルークが微笑と共に告げる。
「一番事情に詳しいのがこのカインなのじゃが、なにしろこやつはエリス以外の女は居ないも同然の朴念仁でのぉ…。どうにも要領を得ん」
「浮気の心配が無くて結構な事でしょう。尤も私にせよそんな真似をしよう物なら、次の日には首と胴体が泣き別れになるでしょうが…」
「はっはっは、違い無いのぉ」
さも愉快そうに笑うルークを横目に、ずけずけと目の前で自分を批評されたカインは、顔を赤くして小柄な身体をさらに縮こませ、シルヴァは夫のお尻をつねってやろうかどうしようか悩んでいた。
「陛下ならお分かりだと思いますので、正直に申し上げますが…」
このままルークを笑わせていても仕方が無いと考えたアルフリートは、一気に話の核心を突く。それまで柔和に細められていたグローリンド国王の両の瞳が鋭い光をたたえる。
「…聞かせてくれるか」
「我が国としてもあまり宜しく無い事態と言わざるを得ません。大陸の両大国であるグローリンドとプロタリアの王族が、それも生粋の直系同士な上にそれぞれ王位にある……レオン殿下はまだですが、二人が結婚し姻戚関係が成立するとなれば、周辺諸国のパワーバランスは大きく崩れます。いささか変化が急過ぎる。……お国の政策ともかなり噛み合わないのではありませんか?」
「その通りだ。今さら隠すまでも無いが、我が国は大陸のどの国とも即かず離れずの等距離外交を旨としておる。口幅ったいがグローリンドはそれなりの大国故、不用意に一国に肩入れすれば他国の不審を買う。力の偏りは無用な争いを産むだけじゃからの」
「ましてや相手はあの巨大軍事国家プロタリアです。これ以上力を付けられてはたまったものではありません。……陛下なら、彼の国の対周辺国家政策にも当然何らかの工作は為さっておられるでしょう?」
「それはトランセリアとて同様じゃろうが。アンドリュー殿の手腕はお見事であったぞ。…それにほれおぬしの、先ごろのリグノリア戦役の一件もじゃ。あの時はどうなる事かとなかなか胆を冷やしたがの。……おぬしの所は良い閣僚が揃っておるのぉ、一人ぐらい譲ってくれんか?そら、あの若い外務長官などなかなかのやり手であろう」
「人手不足はお互い様です、こちらがカイン殿を欲しいぐらいですよ。我が国が誕生以来連綿と文人の足りない国なのはご存じでしょう」
「やらんやらん。この二人はレオンの腹心にと頼む両輪じゃ、絶対に手放さん」
駄々っ子のように首を振るルークを苦笑と共に見やるアルフリートであったが、彼の思いは充分共感出来る物であった。
ルークが王位を引き継いだのは大戦が終る寸前の時であり、戦火で多くの優秀な閣僚を失ったグローリンドは、トランセリア以上の人材不足に喘いでいた。元々さして才覚のある男でも無かったルークだったが、自ら文と武の長を兼任し、戦乱に荒れた国土を立て直す為に国中を駆けずり回った。新婚の妻を都に残し、一年の半分近くを旅暮しに明け暮れ、苦労に苦労を重ねて現在の国力を取り戻したのである。
大戦を生き延びた閣僚達は今では皆老齢と言える年齢に差し掛かっており、彼等が手塩に掛けて育て上げた新たな人材が、昨今ようやく国政の中心に昇り詰めるようになった。
アルフリートは実父アンドリューの白髪頭を思い出し、国王の責務の大きさを今さらのように実感していた。
「…陛下のお気持ちは良く分かるつもりです。わたしはまだ子供を授かってはおりませんが、自分の国とは我が子に匹敵する愛着を感じる物です。むろん先達には及びもしないとは存じますが」
「全くもっておぬしの言う通りじゃアルフリート殿。儂にとってグローリンドとは長男と同じかそれ以上の物だ。レオンは差し詰め次男になる訳じゃのぉ……」
感慨深げに頷くルークに、アルフリートはいきなり爆弾を放り投げる。
「いっその事どこかの御令嬢に夜這いでもさせてみたらどうでしょう。お妃候補はいくらでもいるのではないですか?レオン殿の性格なら二股を掛けるような事はないと思いま…いてっ」
シルヴァにお尻をつねられてアルフリートは口をつぐむ。若き国王の突っ込み過ぎの発言に、ルークとカインは何故か同時に俯いて黙りこくる。トランセリア側の人間は(ユーストは例外としても)知る由も無いが、二人はほぼ同じシチュエーションでそれぞれの妻に夜這われた経験を持っており、ついに三人目までもが同じ経緯で妻を娶るのかと複雑な思いにかられたようである。ちなみにヴァレル将軍はごく普通に恋愛からプロポーズを経て結婚に至っている。
何事かとっさに理解出来ずに、下を向く国王と内務大臣をきょとんと見つめ、さしものアルフリートもちょっと言い過ぎたかと不安になったが、実を言えばその案は既に目の前の三人によって検討されていたのである。レオンの結婚相手は両手の指でも収まらぬ程の候補が上がっていたし、誠実で女性を大切に扱う彼が、一度手を付けた相手を無下にするとも思えなかった。しかしルークとカインは前述の理由で今一つその案に乗り気では無く、一時棚上げされていたのである。
グローリンドにとってプロタリアの女帝を次代の王妃に迎える事は、一か八かの丁半博打のような物であった。上手く行けば大陸最大の国家との繋がりで国をかつて無い程の繁栄に導くであろうが、悪くすればプロタリアの血統と階級が複雑に絡む権力争いに巻き込まれ、最悪の場合プロタリア宮廷に国を牛耳られる可能性すらあるのだ。それで無くとも二大国の結び付きは他国の反感や疑念を招く。やがて生まれるであろう両国の王族の血を受継ぐ子供の未来にも、考えれば不安材料は幾らでも上げられる。順調にレオンに国王の職務を委譲して来たルークであったが、ここに来て思わぬトラブルが持ち上がってしまったようである。
片やアルフリートはといえば、口で言う程の心配はしていなかった。確かに両国の結び付きは憂慮すべき事態ではあったが、エリザベートはこの先最低十年は帝位になければならず、グローリンドに嫁ぐにしてもその後の話である。トランセリアにしてみれば手を打つ時間は充分にあった。まさか国王位のまま婚姻は結ばないだろうし、唯一の男子であるレオンが婿に行く可能性は皆無と言っていい。あの惚れっぽいじゃじゃ馬娘が色恋事無しで我慢出来るとも思えず、レオンは大陸中の淑女のアイドルであるから相手は掃いて捨てる程いるだろう。十年の間文通などしてもらって清い関係を保ってもらうもよし、どちらかが身近にいる他の人物と関係を持ち子供でも作ってしまうもよしと、アルフリートは腹黒い事を考えていた。最も都合が悪いのは、婚約と言う名目で二国間が早々に結び付いてしまう事であったが、今のグローリンド国王の顔色を見る限りその心配は無さそうであった。
ルークはグラスを手にワインをぐっとあおり、一息ついて言った。
「やれやれ、頭の痛い事じゃ。……つまらぬ話を持ち掛けてしまったかのぉ、出来れば好いた女と一緒にしてやりたいとは儂も思うてはおるのだが、相手が相手じゃから…。あやつは今メッツィーナの式典に向かっておって留守にしておる故、ちょうどいいタイミングじゃと思ったのだが。……そうそう、イグナートの王女アイリーン殿が行っておると聞き及ぶぞ」
「はい、ご存じの通り我が国は貴族階級がおりませんので、貧乏性とは思いましたが彼女の血筋を利用させてもらう事に致しました。彼の国はなかなか頭の固い国でありますので」
カインを振り返りつつルークは微笑んで答える。
「貴族だろうと平民だろうと優秀な人物を放っておくなど勿体なかろう。そのような家柄だの血筋だのだけで政治が行える程、国際社会は甘くないであろうにの…。王になって初めて分かる事かも知れぬが」
「おっしゃる通りです、全身全霊をもってしてもまだ届かぬ思いを常に感じています。いかな人物であれ、一国を率いる重責に容易に耐えうる物ではないのでしょうね」
それはアルフリートの偽らざる本心だった。切れ者と名高い彼とて、努力と忍耐を無くして王位を保てる事など無かったのである。ルークは若い王の真摯な吐露に感じ入ったように静かに頷いていた。
「おっと、ぐちをこぼしていても仕方がありませんね。…陛下、こちらからも少々お願いしたい事があるのですが」
突然身を乗り出してそう告げるアルフリートに対し、ルークは悪戯っぽく口の端を曲げて答える。
「カインならやらぬぞ」
「ではヴァレル殿を。……そうではございません、これをご覧になって頂けますか」
胸元から折畳んだ紙を取り出して差し出すアルフリート。それは昼間ヴィンセントから届いた手紙であった。オリジナルではなく、大使とリサの手によって普通の文面に書き直された物である。ユーストの間諜が使う極秘文書独自の書式や暗号を、そのまま見せる訳にはいかなかったからだ。シルヴァが怪訝そうな表情を浮かべ、小声で夫に話し掛ける。
「なに?聞いてないわよわたし」
「ごめん、時間無くて」
ひそひそと小さく囁き合う二人を横目に、ルークは手紙を読み終えるとそれをカインに手渡した。アルフリートが口を開く。
「アイリーンが旅先で妙な物を拾ってしまったようで、いささか対応に苦慮しております。お知恵を拝借出来ればと存じますが…」
ルークはすぐには返答をせず、家臣の二人が文面を読み終えるのを悠然と待ち、手紙をアルフリートではなくシルヴァに戻した。先程の二人の会話が聞こえていたのだろう。
「どうじゃヴァレル、カイン。おぬしらはどう判断する」
国王に問い掛けられた二人は一瞬顔を見合わせ、まずヴァレルから答えた。彼の言葉に迷いは無かった。
「内政干渉になる怖れがあります、国家としての判断は一つでございましょうな。…誰も望まぬ結果にはなりまするが」
続いてカインが答える。
「ヴァレル殿と同じ意見でございますが、……ただ、アルフリート様が望まれる結果を実現する手立てもあると考えます。障害となるのは時間でございましょう…、この文がいつ差し出され、いつ届いたのかが重要かと存じ上げますが、教えては頂けないでしょう…ね」
返事の代わりにアルフリートは片目をつぶって見せた。シルヴァが居る手前、そこまでの機密をぺらぺらしゃべる訳にはいかないのだろう。ルークは一つ頷いてゆっくりと言葉を発する。目の奥に凄みのある光がかすかに感じ取れた。
「儂ならばヴァレルの意見を採用する、子供一人の命と国政とを天秤に掛けるような真似は出来ぬし、害ばかりあって利が無い。カインはちとお節介が過ぎるが、こやつは苦労性での」
アルフリートは柔らかな微笑みを浮かべたまま答えた。
「御教授かたじけなく存じます。私はまだまだ甘いと思い知らされました」
手紙を手に何か言いたそうなシルヴァをちらりと見やると、ルークは言った。
「奥方は何か違う意見がありそうだがの。……正直に申せアルフリート殿。おぬしの言葉通りなら、この場で儂らに相談を持ち掛けたりなぞすまい。…何が欲しい」
「………陛下の正式な助命嘆願書を。もちろんサイン入りで」
けろりと言い放つアルフリート。ルークは面白そうに畳み掛ける。
「今からでは式典に間に合わぬだろう」
「シルヴァが走ります。必ず間に合わせるでしょう」
「我が国に何の利益ももたらさぬように思えるが」
「対イグナート戦略において、重要な一手が打てます。あのような火種をいつまでも燻らせておくのは賢明ではありません」
「トランセリアと我が国との繋がりが深いものと、諸外国に妙な勘繰りをされるのぉ」
「巫女王の儀式は秘中の秘です。ましてや人間の贄を捧げるなど、おいそれと口外出来る物ではないでしょう」
「儀式が中止となって混乱を招くかも知れぬぞ」
「既に各国の訪問団が到着しているのですから、その可能性は極めて低いでしょう。新たな王の格さえ落とさなければ問題はありません」
質問を投げ掛けそれに答える教師と生徒のように、二人は問答を交わす。その表情は楽しげにも見え、カインは国王の問いにすらすらと澱み無く答えるアルフリートに舌を巻く。突然名指しされたシルヴァは幾分驚いてはいたが、怒るどころか嬉しそうな笑みを浮かべている。
ルークは口を閉じ、ソファに深く沈み込んで暫く何かを考えていた。手にしたワインのグラスを見つめ、彼は最後の一問を投げ掛ける。
「……おぬしの答えは見事な物じゃった。迷いも無く論理的で説得力もある。…じゃが、何かが足りぬ。儂の心中の最後の鍵が一つ外れぬ。……儂にもはっきりとは分からぬが、最も大切な部分がそこにあるような気がする」
漠然としたグローリンド国王の言葉に、アルフリートも戸惑いを覚え、言葉を失った。長い沈黙の時が流れ、ようやく彼が何か言おうとしたその時、それ迄自分からは話さなかったシルヴァが口を開いた。
「…陛下、お耳汚しとは存じますが、少しお話をさせて下さいませ」
その場の全ての人物が意外な思いで彼女を見つめた。ルークは身を起こしシルヴァを促す。
「ありがとうございます。アルフが…、失礼、いつもそう呼んでおりますものですから。夫が王位に就く少し前の事でございます。次期国王にと指名された夫は元老院の審問会に出席致しまして、その時に最後の質問として『国王として一番大切にしなければならないと考える物は何か』という問い掛けをされました。夫は一言こう答えました。それは『普通の毎日』であると」
いつの間にかルークは身を乗り出してシルヴァの話に聞き入っていた。アルフリートは少し俯き気味に黙って妻の話に耳を傾けている。
「当時わたくしは将軍としてその場に同席しておりましたが、最初は夫の言う意味が良く理解できませんでした。けれど元老院のご老人方は随分と満足されたようで、審問会はそこで終りとなりました。後で直接夫から話を聞いて、その言葉の真の意味が分かったのです。……それ以来わたくしは一人の騎士として夫に仕えようと決意致しました。今も、こうして女だてらに軍装を身に着け、剣を携えておりますのがその現れでございます。只の自己満足なのかもしれないのですが…」
シルヴァはそこで口を閉じ、アルフリートに向き直ると夫を目で促した。彼は少し恥ずかしそうに頬の辺りをぽりぽりと掻き、妻の言葉を引継いだ。照れ隠しなのか、口調はすっかりくだけていた。
「……シルヴァはすごく感心してくれたけれど、あれは子供の頃にじいちゃんや親父に言われたことなんだよ。…朝起きて、おいしくごはんを食べて、働いて、夜になれば眠る。天気が良ければ喜んで、雨が振れば傘を差して。泣いて、笑って、怒って、また楽しんで。…そうやって毎日を暮らしていく事が、人の一番根っこの大事な部分だって。…何の変哲も無い当り前の暮らしを、特別で無い普通の人達の日々の暮らしを、それを守ってやる事が王の最も大切な仕事だって…言われて。ああそうだなぁって…ホントだなって、…思ったから……。ウチはほとんどが貧乏人の平民ばかりの国だから、一生懸命やらないとなって…、そう思って……」
それまでの滑らかな受け答えが嘘のように、アルフリートは幼い少年の様にぽつぽつと語った。涙脆いカインの目はすっかり潤み、ハンカチで目頭をしきりと押さえている。それは彼が王立学問所を卒業して宮廷に仕官する時に、心に誓った思いと同じ物であった。
田舎町の靴屋の孫として育ち、早くに父母を山賊に殺されたカインは、身を守る術を持たぬ弱い民が安心して暮らせる国造りを志してこの職を選んだ。彼の生い立ちを良く知るルークとヴァレルは、優しげな笑みを浮かべてカインを見つめ、シルヴァはそっとアルフリートの手にその手を添えた。彼女は常日頃から、夫が理詰めで物事を考え、筋道を立てて人に当たる事にかすかな危惧を感じていた。冷静な判断力を持った王であると賞讃されるべき一面であるのだが、同時に冷酷な印象を与えはしまいかと一抹の不安を覚えていた。普段の口調がくだけている為に、今の所そのような噂を耳にした事は無かったが、時には情に訴えかける必要もあるだろうと考えていた。亡父バーンスタイン将軍やシュバルカの近くで長く彼等を見てきたシルヴァは、人の脆い部分を汲んでやる懐の深い人物が、どれ程部下から信頼を得るかを身に染みて分かっていた。そしてそれこそが、グローリンド国王の心を開かせる鍵であると信じていた。
ルークは静かにアルフリートに語り掛ける。その言葉は、我が子に向けられるような暖かな物だった。
「……良い伴侶を得られたの、アルフリート殿。…アーロン殿やアンドリュー殿の教えが、そなたをここまでの人物に育て上げたのだろうのぉ。人はひとりで人になるのではないのだな…。今なら、儂の求めていた最後の鍵の意味が分かるであろう」
アルフリートは顔を上げ、ルークの皺深い顔を真直ぐに見つめ、答えた。
「何の罪も無い幼い子供が命を奪われるなど、決して許されない事です。王として、人として、見過ごしてはならないと思います。…どうか、お力をお貸し下さい」
「カイン!今すぐに書面の準備を。ヴァレル!馬じゃ。王宮で一番の馬をシルヴァ殿に用意せい」
「御意!」
慌ただしく飛び出していく二人の大臣をあっけに取られて見送り、事情を知らぬセリカは驚いて国王に問い掛ける。
「へ、陛下、シルヴァ様を使者に向かわせるのですか?…今からでは夜駆けになります、私が参ります故に。残りのスケジュールもございますから…」
シルヴァがその言葉をさえぎった。
「セリカ、私が行くからこそ意味があるのだ。グローリンドを訪問中のトランセリア王妃が、直々に持ち込む事がこの書状の信憑性を決めるのだから。…分かるだろう?」
「……おっしゃる事は分かりますが、…いずれにせよ私は同行致します。もちろん護衛も付けさせて頂きます。ロベルトが残れば後の職務に差し障りはございませんので」
「五人もいれば充分だぞ」
そう言ってにやりと笑うシルヴァの双眸は、先程迄アルフリートに向けられていた穏やかな優しさから、鋭く光る騎士の物に取って変わっていた。彼女にしてみれば、宮廷で社交行事をこなすよりも、どれ程厳しい任務であろうと、馬に跨がって野を駆け抜ける方が遥かに性に合っていたのだから。
じっとそのやり取りを見つめていたルークの元に、戻って来たカインから書面が手渡され、彼は手早く書状を作成する。遅れて現れたヴァレルに促され、シルヴァとセリカは急ぎ足で馬房へと向かう。それ迄口を閉ざしていたリサが、アルフリートに封筒を差し出し、震える声で静かに言った。
「こちら側の嘆願書でございます。……陛下、ルーク王陛下を動かされるなど、わたくしは今でも信じられません。…ヴィンセント閣下に代わり、御礼を申し上げます。本当に…ありがとございました…」
事態の経緯を知るリサであったが、外交に慎重なグローリンドを説き伏せるのは恐らく無理だろうと考えていた。アルフリートの指示を間諜を通じて届けるのが精一杯で、後はヴィンセントの手腕に任せるより他は無いだろうと予想していた。少女を助けられるかどうかは五分五分といった所であり、そしてそういった悲劇は今に始まった事では無く、これからも無くなりはしないのだと自分に言い聞かせていた。他国の権力闘争にまつわる惨劇など、外務庁に務めていれば否応なく耳に入る。その度にいちいち嘆き悲しんでいては身が持たない事を彼女は良く分かっていた。けれど、決して納得など出来はしないのだという事も、自分が心の奥底でそれを許す事が出来ずにいる事も、同時にリサは気付いていた。アルフリートとシルヴァに仕える事が出来た自分の人生に、彼女は心から感謝を繰り返していた。
「大丈夫、これがあればヴィンセントは必ずやってくれるから」
深々と頭を下げるリサに優しくそう告げるアルフリート。二人の元に、カインが書き上がった書状を持って歩み寄る。
「ご確認をお願い致します」
文面を読み下し、頷いてそれをカインの手に戻したアルフリートは、真剣な眼差しをルークに向け言った。
「陛下、突然のお願いを快諾して頂き、感謝の念に絶えません。トランセリア国王として、心より御礼申し上げます。……あと一つだけ伺わせて下さい。この判断は、……自分は…甘いでしょうか?」
巨大なデスクの豪華な椅子から立ち上がったルークは、ゆっくりと若き王の前に立ち、静かに告げる。
「そうじゃな、おそらく…甘いのであろう。…じゃがな、そういった情を持ち合わせぬ王に治められる国など、決して住み良い物では無かろうよ。杓子定規に動くだけが政治では無いと思うがの」
「ありがとうございます。今日程勉強になった夜はございません」
にっこりと笑ってそう答えるアルフリートに、ルークは小さく口の端を持ち上げて言った。
「……おぬし、儂が孫に夢中な様子を見てこの話を持ち掛けたのと違うか?九歳の幼子が贄にされるなど、じじばかの儂が放っておけるはず無かろうと読んだのであろう。どうじゃ」
アルフリートは一瞬目線を天井に向け、誤魔化そうかどうしようかと迷ったが、大袈裟に一礼して正直にこう告げた。
「えーと、……御明察。仰せの通りでございます国王陛下」
ルークは破顔し、嬉しそうに言った。
「まったくなんと抜け目の無い男だ。レオンが苦労せぬように、おぬしとはこれからもうまくやっていかねばならんのぉ」
「申し訳ございません、お急ぎを」
封鑞を施した書状を手に、カインがアルフリートを急かした。部屋を出掛けた彼は、何を思ったか振り返ってこう言った。
「いっその事エリザベートをかっ攫って来て、嫁にしてしまってはいかがでしょう。縁組みとしては申し分ない訳ですし、残ったプロタリアの三人の姉君は喜んで帝位争いを再開するでしょうから、文句も言われずに案外丸く収まるかも知れませんよ。あの国は変にまとまられても扱いづらい気も致しますし…」
この発言にルークはあっけに取られ、カインは目を丸くする。
「……前言撤回じゃ。おぬしの何処が甘いものか。なんつう悪辣な事を考えよるのじゃまったく…。そんな真似をしてみろ、下手すれば戦になるではないか。さぁ行った行った、奥方が待っておるぞ。…いっこも油断ならん男じゃ」
げらげらと笑うグローリンド国王の声に送られて、アルフリートは二通の封筒を手にシルヴァの元へと走るのであった。
馬房は集まったトランセリアの騎士達で大騒ぎになっていた。シルヴァがメッツィーナへ出立するとの知らせに、驚きと戸惑いを露わにしていた彼等であったが、セリカから事情を聞かされた途端に我も我もと同行を願い出る。
ロベルトは急なスケジュール変更に頭を抱えながらも、馬の扱いに長けた古参の騎士を五人選び抜き、シルヴァの護衛を命じる。馬装を施し、身支度を整える彼等の元へ、ヴァレル将軍が愛馬と共に現れた。街道筋まで送ると告げる彼に、今度はグローリンド側の人間が慌てふためく。ヴァレルは既に夜駆けの準備を万全に整え、一行の為に通行手形やランプ、馬上で食べられるような携帯の糧食、馬を替えられる集落の載った地図など、短時間でぬかりなく用意を済ませていた。
自分より頭一つ近く背の高い見事な体躯をしたヴァレルを見上げ、シルヴァは短く言った。
「かたじけない、ヴァレル殿」
「なに、ちょっと遠駆けに行きたくなっただけでございますよ」
ヴァレルはにこりと微笑んでそう答え、すぐに騎士達と最も短時間で行けるルートの選定に掛かる。そこにアルフリートが駆け込んで来た。書状を手渡しながら彼はシルヴァに告げる。
「ごめん、シルヴァ。ちょっときつい仕事だけど…間に合わせて欲しいんだ」
「分かってるわ。それに、言い方が違うわよアルフ」
にやりと笑い小さく言うシルヴァ。アルフリートは一つ息を付いて皆を見渡し、命令を下した。
「親愛なる我が騎士よ、国王より勅命を下す。明後日正午迄にメッツィーナ王都へ赴き、巫女王陛下に直接書状を手渡す旨申し付ける。時間厳守であること、並びに書状内容は極秘であることを特に言い渡す」
「御意にございます。シルヴァ・リーベンバーグ以下七名、陛下の御下命必ずや成し遂げてご覧に入れます」
うやうやしく一礼し封筒を受け取ったシルヴァに、ロベルトの声が重なる。
「国王陛下に敬礼!」
その場に居る全員が、ヴァレルまでもがアルフリートに敬礼を返した。支度を終えたシルヴァが命令を下す。
「騎乗!」
馬がいななき、騎士達が次々と馬上の人となる。アルフリートは馬に跨がろうとするシルヴァを引き止め、一瞬唇を重ねて囁いた。
「間に合いさえすれば、後はヴィンセントがやってくれるから。……気を付けて」
「大丈夫、私が行くのよ。必ず勝ち戦にしてみせるわ」
手綱を引き絞り、馬の腹を蹴って一行が駆け出して行く。ヴァレルの随伴に間に合った二人のグローリンド騎士を合わせ、十頭の騎馬は瞬く間に闇夜に去り、残された者達は長い間その行く先を見つめていた。
グローリンドの閣僚でその見送りに加わったのはカインただ一人であり、事情を知らぬ者達が翌朝また一騒動起こすのではあったが、この一件でグローリンドの人々は、王妃シルヴァの豪傑振りを甘く考えていた事を思い知るのである。




