第九章 白き巫女 第二話
街道沿いの小さな集落の外れに、木の枝を杖にした子供がよろよろと現れた。大きな木の根元の影にぺたりと座り込み、はぁはぁと息を荒げ、ぐったりと力無く幹にもたれ掛かった。あちこちが破れたぼろぼろの服は汗と泥で汚れ、手には幾つもの擦り傷が出来、ぐるぐると足に巻かれた布には血が滲んでいる。すっぽりと被った布からわずかに覗く顔はススで黒く汚れていたが、うつろに開くその瞳は宝玉のように真紅に輝いている。村を出て近隣の集落に辿り着いた少女『白』だった。日の光を避け、街道沿いに森の中を隠れるように歩いて来た為に、出発してから十日近くが経っていた。
白はのろのろと粗末な袋から革袋を取り出し、口に当てて上を向くが、水筒代わりにと持って来たその袋の中には、もう一滴の水も残ってはいなかった。食料もほとんどを食べ尽くし、慣れぬ旅の疲労と空腹とで、もはや立ち上がる事も出来なかった。
一人の村人がその姿を見つけ、驚いて声を掛けようと駆け寄る。近付いたその農夫は、破れた布の隙き間からはみ出す白く長い髪を目に止め、さらに顔を隠す布の奥からこちらを見る少女の目が真っ赤な色である事に気付き、思わず立ち止まる。白は知る由も無かったが、そこは産まれたばかりの彼女が両親によって連れて来られた集落であった。九年前のその赤児が成長した姿だと悟った農夫は、くるりと回れ右をして一目散に村の中へと走り去った。白の育った村同様に、この地でも少女の存在は畏怖と禁忌の対象として、人々の口から口へ密やかに伝えられていたのである。
やがて村長を先頭に十数名程の村人達が恐る恐る少女に近付いて来た。かつて白を診た医者は既に他界しており、寺院の神官は式典に出席する為に都へと上ってしまっている。残された村長が意を決して、かなり離れた場所から少女に声を掛けようとしたその時、複数の馬の蹄の音が彼等の耳に届いた。驚いて再び村へ引き返そうとする彼等の元へ、数頭の馬に跨がった騎士達が見事な手綱さばきで現れる。アイリーン一行の先乗りとして村を訪れた、タウンゼント率いるトランセリア第三軍であった。
快適な速度で馬を飛ばして来たメレディスの副官タウンゼントは、上機嫌で馬を降りると大きく村人に声を掛けた。
「自分はトランセリア第三軍所属の騎士タウンゼントと申す。村長はおられる…か……?」
そう言いながら、村人達が妙に怯えた様子を見せている事に彼は気付き、重ねて問い掛ける。
「どうした?今日我らが訪れる事は連絡が行っている筈だが?……何か不都合でも起きたのか?」
「………あっ!…も、申し訳ございませぬ。…もももちろん承っておりますです、ようこそおいで下さいました」
硬直していた村長が慌てて進み出ると深々とタウンゼントに頭を下げる。もちろん歓迎の準備は進んでおり、彼等も一行の到着を心待ちにしていたのだが、白の出現は村人を相当に狼狽させていた。訪れた数人の騎士達の中の、一人の女性騎士が、木陰にぐったりと横たわる少女に気付き、近付いて声を掛けた。
「……?どうしたの?…怪我をしているの?……あら、この子目が赤いわね。…大丈夫?」
優しく声を掛けられた白はようやく口を開く。
「……は…い、…あ、あの、…みず、……ください、…です」
何事かと集まって来た同僚から水筒を受け取ると、彼女は少女を抱えるように水を飲ませてやった。疲れ果てた白の両手は、重い水筒を上手く持つ事も出来なかったのである。ごくごくと喉を鳴らして水を飲むと、白は息をついて小さく言った。
「……ありがとう、…です」
「どういたしまして。…日射病か何かかしら?…よいしょ」
そう呟きながら女性騎士は白を軽々と抱え上げ、すたすたと村に入っていく。被った布がぱさりとはだけ、少女の白く長い髪が重たげにこぼれ落ちた。その色と量に騎士達は目を引かれたが、たいして気にもせずに、一人村長と話をしていたタウンゼントの元に集まった。振り返った彼は白に目を留めて言った。
「さぁ仕事だぞ…ってなんだその子供は。おい村長、この子…は……」
向き直った彼の目の前には誰も居なかった。村長も村人も蜘蛛の子を散らすように逃げて行く所であった。騎士達は何が起こったのかも分からず、村の入口に取り残され、呆然と立ちすくむ。タウンゼントは再び振り返ると白を指差して言う。
「?……なんだ?…おい、ひょっとしてその子供を怖がってるんじゃないのか」
「どういうことでしょう?……あなた、この村の子?」
女性騎士の問い掛けに、白は身を固くしながらおずおずと答える。少女にとって、他人に抱きかかえられるなど記憶に残っていない程昔の事であり、甲冑を身に着けた騎士を目にするのも初めてだった。
「……あ、…ちがい、ます。……ここ、はじめて、です」
「お前一人か?お父っつぁんやおっ母さんはどうしたんだ」
田舎者丸出しでタウンゼントが尋ねる。
「……わからない、…いない、です。…ずっと、ひとり、です」
今一つ要領を得ない少女の返答に、騎士達は互いに顔を見合わせる。白はようやく自分が此処に来た目的を思い出し、たどたどしく説明を始めた。
「あの…あの、……むら、あめ…たくさん、…どろ、たくさん。むら、なくなった、です。……みんな、なくなった、です。…はたけ、なくなった。…みんな、なく…なった、……で……す………」
白は涙ぐみながらも懸命に村に起こった悲劇を伝えようとしていた。変わり果てたその光景を思い出し、あの日の恐怖が少女の胸に沸き上がる。しゃくりあげる白の背中を、女性騎士がぽんぽんと優しく叩く。タウンゼントはおぼろげに事情を察し、呟くように言った。
「…雨?…泥?……こないだの嵐か。…地滑りか鉄砲水にやられたんだ。…なんてこった。……おい、あれは何日ぐらい前だ?」
「もうかれこれ…二週間近く経つと思いますが」
騎士の一人の答えにタウンゼントは驚いて言う。
「じゃあこいつは十日以上も一人で歩いて来たって事だぞ。…なんてこった、まだウチの下のチビぐらいだってぇのに。…なんてこった」
二人の子の父親であるタウンゼントは、自らの娘を思い浮かべ、あまりの不憫さに顔をくしゃくしゃに歪めて少女を見つめる。見れば確かに白の両足に巻かれた布には、泥や樹液がこびりついて引きちぎれ、少女が長い距離を歩いて来た事を物語っていた。
少女の境遇は取り敢えず理解できたものの、村人達が彼女を恐れる理由は皆目分からなかった。一行が到着する前に様々な確認もしなければならない。タウンゼントはひとまず白をもと居た木陰に休ませ、慌ただしく騎士達と村へ向った。
女性騎士は白に水と持ち合わせていた乾果をいくつか与え、自分のタオルを水に濡らして手渡してやった。少女の顔がススとほこりで真っ黒に汚れていたからだ。彼女は村人の怯えが伝染病の類いではないかと疑い、白の熱を計り、脈をとってみたりしたが、少女に異常は感じられなかった。念の為に本隊に同行する軍医に診断を頼もうと考え、白の頭をひと撫でして仕事へと向った。
騎士達が村長や村人に少女の事を尋ねても、誰も彼も知らぬ存ぜぬの一点張りで、疑問はほとんど解決しなかった。ただ、少女の村が土砂に埋まったらしいというタウンゼントの言葉には彼等も驚き、村の者を幾人か向わせると約束してくれた。宿泊の準備や食事の支度はきちんと整えられて、馬に与える飼い葉なども十分に用意されていたし、いずれにせよ彼等にも仕事がある。白の事で時間を無駄にするわけにもいかず、騎士達もあまり追求する事が出来なかった。タウンゼントは早々に疑問を棚上げする事に決め、こう呟いた。
「こういうややこしい事は赤毛の閣下に任せるに限る。後でいっくらでも話を聞き出してくれるだろうよ」
その言葉に騎士達は大いに同意して頷いていた。
仕事をあらかた終えた騎士達が再び村の入口へと戻って来た。女性騎士が木陰に近付くと、白は木にもたれたまま眠っていた。乾果は残さず平らげていたが、手渡したタオルはほとんど使われてはいなかった。少女を起こさぬようにそっと歩み寄る彼女の耳に、多くの騎馬の蹄の音が聞こえて来た。本隊が到着したのだ。その音で白はびくりと身体を震わせて目を覚ます。女性騎士は優しく声を掛けた。
「大丈夫、お医者様が来たから少し診てもらいましょうね。…心配しないで」
数十頭の馬に跨がる大勢の騎士達と、大きな馬車とを目の当たりにした白は慌てて木の陰に隠れた。胸元にぶら下げた手紙の束を服の上からぎゅっと握り締め、怯えるように様子を伺う。そんなにたくさんの人間を一度に目にした事など、少女は一度も経験した事が無かった。
馬車の扉が開き、背の高い男に手を支えられて中から降りて来た女性に、白の視線は釘付けになった。目を黒い布で覆い、見た事も無いような綺麗な服を身に纏った美しい女性は、辺りを見回すような仕種をすると小さく首を傾げて言った。動く度に、黒い髪がさらさらと流れ、つややかに陽の光に煌めいた。
「……?どなたか怪我をされた方がおられますか?かすかに血の匂いが致しますけれど」
馬車から降りたアイリーンはたちどころに白の怪我を察した。タウンゼントが駆け寄り、簡単に事情を説明すると、彼女は大層心を痛めたようであり、木の陰に隠れる白の方へ歩き出そうとする。軍医を呼びに行っていた女性騎士が慌ててアイリーンを押し止める。
「アイリーン様、お待ち下さい。流行り病などではいけませんので、あまりお近づきになっては…。軍医殿!こちらです!」
「…そのような心配は無いと思います。病の気が感じられません故に。……まだ小さい女の子なのですね」
シンがすかさず妻の手を取り、二人の侍女も荷物を抱えて走り寄る。アイリーンの様々な鋭敏さに慣れた彼等は、アイリーンが大丈夫と言うのならその通りであると全幅の信頼を寄せていた。幼い頃からアイリーンは離宮の老人達の持病などをことごとく言い当て、特にシンが体調を崩したりするとすぐさま察して注意を促した。王宮の侍女達の身体を気遣い、生理中の者などにはさりげなく心を配っていた。普段と違う身体の動きや体臭、声色のささいな変化を感じ取り、また病人の持つ独特の雰囲気といった物が分かるのだと彼女は言う。
怯える少女にそっと近付き、アイマスクを外してにっこりと微笑むと、腰をかがめて柔らかな口調で声を掛けた。
「こんにちは。…わたくしはトランセリアという国から来たアイリーンといいます。…お名前を教えて下さる?」
木の陰からおずおずと姿を現わした白は、胸元をぎゅっと抱き締めるような仕種をすると、小さく答えた。
「…こ…こんにち…は。…なまえは、……なまえは。……しろ…です」
「白?…そう。しろちゃん、って呼んでもいいかしら。わたくしのことはアイリーンと呼んでね。……座りましょうか」
ゆっくりと伸ばした手でそっと白の頭を撫で、アイリーンは少女を木の根元に座らせた。白は言われた言葉を繰り返す。
「しろ…ちゃん。……あい…りーん……さま。…しろちゃん。……あいりーん、さま……」
「様、なんて付けなくていいのよ。お医者様に怪我の具合を診ていただきますからね、ちょっとだけじっとしていてね」
壮年の軍医が白の横に膝を付く。彼も騎士であり、甲冑を着けていた為に白は少し身を固くする。アイリーンは少女の気を紛らわそうと、小さなその手を取って話し掛ける。
「しろちゃんは何歳かしら」
白は自分の年齢はきちんと把握していた。手紙のやりとりで毎年教えてもらっていたからだ。はっきりと分かる事を聞かれて嬉しかったのか、白はかすかに笑って答えた。
「は…はい。……九さい…です」
「そうなの。…お腹は減っていない?何か食べる物があったかしら」
「あ、……たべました。……みずも、のみまし…あっ!」
白は急にアイリーンの手を振り解いた。自分の手が泥やススで汚れている事を思い出したからだ。アイリーンの白い手や綺麗な服を汚してはいけないと少女は思った。アイリーンは少し驚いたが、決して表情を崩さずに、変わらぬ穏やかさで問い掛ける。
「どうしたの?手を触られるのはいやだったかしら」
「あ、…だめです。ちがいます。……きたない…から。…あいりーん…きれい…だから、です」
やり取りを見ていた女性騎士は、何故白が手渡したタオルを使わなかったのかが理解できた。少女は綺麗に洗濯されたタオルを汚してしまう事をためらったのだろう。嗅覚の敏感なアイリーンにしてみても、何日も身体を洗ってなどいない白のすえたような匂いは相当に堪えるのだろうが、彼女は少女を思いやり、一言もそのような事を口に出さなかった。アイリーンは小さく笑って言った。
「そんな事気にしなくていいのに。しろちゃんはたくさん歩いたのだから仕方がないのよ。…そうだわ、後で一緒にお風呂に入りましょう。傷口もきれいにしなくてはいけませんからね。それならわたくしが手を握っていてもいいでしょう?……痛くはない?」
再び白の手を取ったアイリーンは、その手を自分の頬に擦り寄せた。アイリーンの白い頬がススで黒く汚れたが、今度は白は手を解かなかった。少女は口の中で呟く。
「おふろ…あいりーん、と。……おふろ…きれいに……おふろ…」
手足の傷の具合を診ていた軍医が、白の顔を覗き込んで言う。
「ちょっと口を開けてくれるかな、あーん」
言われるままに口を開く白。目の前の軍医のたくわえられた立派なヒゲを、少女は目を丸くして見つめている。大人の男性にこんなに顔を近付けられたのも、もちろん初めてだった。ふいに手を伸ばして白はそのヒゲに触れる。意表を突かれた軍医は少し驚いて言った。
「お?…ヒゲが珍しいか」
「あ、…ご、ごめん…なさい…です」
慌てて手を引っ込め、小さく謝る白に、彼は笑って答えた。
「はっはっは。…いやいや、構わんよ」
白のその行為で、周囲の人々に笑顔が溢れた。軍医は一通り診察を終え、アイリーンに告げる。
「おっしゃる通り特にこれといった病気ではありません。疲労と睡眠不足だと思われます。怪我も擦り傷や切り傷で、それ程深い物はありません。そうですね、傷を洗って消毒をすれば問題無いでしょう。…ただ」
軍医は白に向き直り、少しためらって言った。
「この少女は白子だと思います。極端に色素の薄い子がごく稀に産まれると言う話を聞いた事があります。瞳が赤いのもその為でしょう。自分も人間の例を見るのは初めてですが…、動物などでは時々見かける事がございますね。……これは灰かススだね、自分で塗ったのかい?」
少女の手に残る黒いススを指差して、軍医は尋ねる。白はこくこくと頷いて答えた。
「…はい。…ぬりました、です。……おひさま…いたくなる…から、です」
「ふむ……。日の光に弱いようですね、あまり長くここに居るのも良くないかもしれませんが……メレディス閣下」
軍医は立ち上がって将軍の元へと向った。入れ替わりに女性騎士が白の横に膝を付き、少女の頭をそっと撫でながらアイリーンに告げる。
「アイリーン様、自分が宿に連れていきましょう。どうやらあまり外に居ては良くないようです」
「そうですね、大分疲れているようですし、食事も食べさせてあげなくてはいけませんね」
騎士が白を抱え上げてアイリーンと歩き出す。その元へ軍医が駆け寄って来る。
「将軍の許可を得ましたので、部屋の中に入れてやって下さい。肌を陽に当てないように」
後を追おうとしたシンが白の荷物とおぼしき袋を見つけ、拾い上げてアイリーンの傍らに並ぶ。成り行きを見守っていたメレディスも村へと向かい、一行は用意された宿へと案内された。村人達は遠巻きにアイリーンと白とを見つめる。メッツィーナはイグナートの西方に位置し、アイリーンの祖国とは国境を接する隣国になる。トランセリアに駆け落ちした王女の噂はもちろんこの田舎町にも知れ渡っており、村人達は一目彼女を見てみたいと待ちわびていたのであるが、同時に現れた白への畏怖とが相反し、なかなか思い切った行動に出れぬようであった。
報告を受けたヴィンセントはタウンゼントらと共に、即座に村長の元へ向った。宿泊の準備に全く問題は無く、スケジュールにも随分と余裕があり、慌てる必要など無かったのだが、彼は白の事情にかすかに引っ掛かる物を感じたのだ。
てきぱきと動く騎士達を避け、ヴィンセントは村長を人気の無い村の外れ迄引っ張り出すと、あらゆる手練手管を使って話を聞き出しにかかる。口の重い村長をおだて、なだめ、やんわりと恫喝し、幾らかの金まで握らせて話を引き摺り出した。やがて彼が手に入れた真実は、どうやらトランセリアにとって有利な材料とは言えない物であった。
宿に落ち着いたアイリーンはさっそく白を風呂へ連れて行く。質素な浴室で侍女の手を借り、服とも言えぬような粗末な少女の衣服を脱がせる。脱いだ服から乾いた泥がぽろぽろとこぼれおち、痩せ細った手足が現れると、侍女達は不憫さに目元を潤ませた。首から下げた手紙の袋を握り締める白に、クララが尋ねる。
「その袋はなぁに?」
「これ、てがみ…です。……だいじ…だから……」
それを聞いたアイリーンが言う。
「手紙?まぁ、しろちゃんはどなたかとお手紙のやり取りをしていたの?」
「はい。……えらい、おぼうさま…です。……だいじ…です」
「そうなの。…そんなに大事なお手紙なのね」
「はい。…いちばん…だいじ、です」
「しろちゃんの宝物ね」
「あ、…はい。……たから…もの、です」
白は嬉しそうに微笑んだ。アイリーンはにこにこと優しげな表情を崩さずに言った。
「でも手紙と一緒にお風呂には入れないわよ。濡れてしまったら読めなくなってしまうもの」
「あ……はい。…でも…でも。……たから…もの、…だから」
「そうねぇ……。じゃあしろちゃんから見える所に置いておけばどう?何処かいい場所はないかしら?」
「ここならどうでしょうか」
浴室の片隅に取り付けられた棚の上に、花を活けた小さな花瓶が置かれている。フローネはそれをそっと床に下ろし、乾いたタオルを敷くと、不安そうな表情の白によく見えるように手紙の袋を立て掛けた。白はようやく少し安心し、裸になったアイリーンと一緒に湯に浸かった。
傷が染みるのか、痛そうに顔を歪めるが、少女は我慢して声を上げなかった。アイリーンは白の気を紛らわそうと、優しく肩を撫でてあげたり唄を口ずさんだりと、少女を気遣った。アイリーンの透き通った歌声に、白は心を奪われたように聞き入り、侍女達にされるままに身体を洗われていた。汚れをすっかり落とし、髪も洗い流した白の身体に、侍女達は口々に驚きの言葉を告げる。
「アイリーン様、この子、本当に真っ白です。…すごくきれい」
「髪なんか透き通ってるみたい。まるで絵本に出て来る妖精のようです」
アイリーンはそれまで閉じていた目を開き、顔を近付けて少女の瞳を覗き込んだ。くっつきそうな程近付いたアイリーンの顔に、白は落ち着かずに何度もまばたきを繰り返す。アイリーンの目にぼんやりと映った真紅の瞳に、彼女は小さくため息をついて呟く。
「……わたくしは普通の人間の目という物が良く分からないのですけれど、しろちゃんの目は確かにとても綺麗だと感じます。こんなに、痩せて。こんなに小さな子供が…一人で……。よく、頑張ったわね。…えらかったわね」
そっと白のか細い身体を抱き寄せ、濡れた髪を撫でるアイリーン。柔らかな感触といい香りに、白は我知らずうっとりと目を閉じ、アイリーンにもたれ掛かった。心に染み入るその安らぎは、少女が初めて体験する肉親の情愛に近い物であった。
アイリーンが白を風呂に入れている間に、シンは少女の荷物を調べていた。万が一危険な物が入っていたら取り上げておこうと考えていた。彼自身も少女の境遇を気の毒に思ってはいたが、アイリーンの護衛としての職務をシンは常に最優先する。
薄汚れた袋の中から、破れた衣服と粗末な履物がくしゃくしゃに丸められて出て来た。木の皮を編んだ履物はどちらも紐が切れて使い物にならなくなっており、少女が服を破って足に巻いていた理由が伺えた。もう一つ、古びた布でしっかりと巻かれた四角い包みがあり、それ以外には底の方に幾つかの木の実が転がっているのみであった。
包みを開いて中味を確認したシンは、胸を締め付けられる思いにしばらくの間動く事が出来なかった。現れた一冊の本を彼は良く知っていた。それはかつてシンが読み書きを勉強した時に、教科書として使った物の中の一つだった。擦り切れた表紙と手垢に汚れたページ、今にもばらばらに千切れてしまいそうなそれは、少女が繰り返しこの本を読み直し、勉強した事を物語る。シンは涙を堪えて丁寧に本を元通りに包み、そっと袋の中に戻した。
もう一つの空の革袋は中が湿っており、おそらく水を貯えて来たのだろうと考えた。旅支度と呼ぶにはあまりにもお粗末なそれらを手に、白が歩いて来た道のりの苦難を思い、シンは長い間じっと物思いに沈み込んでいた。
シンは履物を手に外に出ると村人に声を掛け、道具を借り受けてそれを直し始めた。緒が切れた小さなその草履には、良く見れば白が不器用に直した跡がいくつもあり、シンはその部分にも手を加えた。都に着けば履物などいくらでも手に入るだろうが、足を怪我した少女を裸足で歩かせるのは、いささか可哀想に思えた。
大きな手で器用に草履を修理をするシンの姿を、いつの間にか数人の村人がじっと見つめていた。一行の中で一人だけ西国の容貌をしているシンに、村人も少しは親近感を覚えたのだろう。彼等はお茶を振る舞ってくれたり、皮の紐を見つけ出してくれたりと彼に親切に接し、短くはあったが会話も交わした。
大男であるシンは文官用の官給品ではサイズが合わず、常に軍装を身に着けていた為に、村人は彼を騎士だと思って丁重に接した。シンは自分が従者である事を正直に告げ、その言葉に打ち解けてくれた彼等から、その率直な思いも少しは知る事が出来た。ただ、シンがアイリーンの夫であるということが分かると、途端に態度があらたまってしまい、彼を苦笑させるのだった。
アイリーンの夜着を着せられ、食堂に現れた白に、居合わせた一同は皆息を飲んだ。大き過ぎる服の袖を捲り、ずり落ちぬように腰の部分を細い帯で止め、手足の包帯は痛々しかったが大層愛らしく、アイリーンと手を繋いでおずおずと歩くその姿は、仲の良い親子のようにも感じられた。伸ばし放題だった白く長い髪は、侍女達の手によって毛先を切り揃えて整えられ、ゆったりと三つ編みにまとめたそれが歩く度に右に左にと小さく揺れて輝く。ランプの光を受けて眩く煌めく白の肌と、きょろきょろと動く真紅の瞳が見る者の目を奪った。常人とは違う少女のその外見の、見慣れぬ違和感を凌駕して余りある美しさにあって、首からぶら下げられた手紙の袋だけが妙に古びて不釣り合いだった。
椅子にちょこんと座った白は、テーブルに並べられた食事と、アイリーンや周囲の人間の顔とをきょときょとと落ち着かなく見比べる。隣に座ったアイリーンが優しく声を掛ける。
「どうぞ召し上がれ。……たくさん人が居て落ち着かないかしら」
白はスプーンでスープをすくおうとしてふと手を止め、アイリーンを見て小さく言った。
「…いただきます、です」
最初は恐る恐る少しづつスープを口に運んでいた白だったが、久し振りに口にする暖かな食事に空腹を思い出したのか、あっという間にそれを平らげた。お世辞にも行儀がいいとは言えない白の食べっぷりに、アイリーンはにこにこと微笑み、頻繁に声を掛けた。
「慌てないでいいのよ、ゆっくりお上がりなさい」
「パンやミルクもありますからね。おかわりはどう?」
二人の侍女も白の口の回りを拭いてあげたり、パンをちぎってあげたりと何くれと世話を焼く。アイリーンの護衛にと同行した数人の女性騎士達も、同僚から事情を聞いていたく少女に同情し、トランセリアの女性陣の心はすっかり白に傾いていた。
十分な食事を得て満腹になった白は、周囲を見回してぺこぺこと頭を下げて礼を言う。
「…ごちそうさま、です。…ありがとう、です。……あ…ふわぁ……」
腹がくちると次は眠気が差してきたようであり、大きなあくびが出てしまった。一同から笑いがこぼれ、アイリーンは満足げに微笑んで言った。
「お腹がいっぱいになったからおねむになったのね、もう休みましょうね」
侍女達と共に自分に用意された寝室へと白を連れて行くアイリーン。すると入れ替わりに村長が現れる。料理の用意が出来た事を告げ、多くの皿が次々と運び込まれて来た。どうやら彼は白が居なくなるのを待っていたようであり、ヴィンセントは(そこまで避けなくてもいいだろうによ…)と一人思っていた。
旅の間、まともに眠る事も出来なかった少女は、ベッドに横になると瞬く間に眠りに落ちた。陽が落ちると周囲がほとんど見えなくなる白は、木の根元や草の間にうずくまり、身体を小さく丸めて夜を過ごした。うとうととしては、風の音や遠くから聞こえる獣の声にびくりと目を覚まし、胸元の手紙を抱き締めて朝が来るのをひたすらに待った。
辺りが明るくなるととぼとぼと歩き出し、疲れては休み、固いパンや木の実を齧る。一息つくとまた立ち上がって歩き出す。その繰り返しに、少女の小さな身体は蓄積した疲労で鉛のように重くなっていた。
質素だが柔らかな寝台の上で眠る少女の小さな寝息に、アイリーンは国に残して来た幼い息子ウィルフィーを思い出し、かすかに涙を滲ませた。
「お待たせを致しました」
アイリーンは白を寝かし付けるとすぐに戻って来た。主だった者が食堂に揃い、夕食が振る舞われる。アイリーンの席には他の者の倍以上の数の皿が並べられ、それを聞かされた彼女を閉口させた。村人は王族であるアイリーンを特別扱いするのは当然だと考えているようであり、事実他国であればその通りなのだが、トランセリアでは国王アルフリートにせよ王妃シルヴァにせよ、皆とまったく同じ献立を口にしている。
アイリーンはとても一人でこんなには食べられないと言い、料理の半分以上をシンや若い騎士達に分けてしまった。彼等は喜んでそれらを受け取り、村人を驚かせる。もちろん小柄な女性であるアイリーンが出された物を全部平らげるなどとは誰も思っておらず、少し手を付けて残してしまうのが当り前なのだが、そんな勿体無い事をトランセリアの人間が出来る訳は無かったのである。
トランセリアは他国への訪問の際に、良くこうして小さな集落を利用した。もっと大きな町に行けばそれなりに立派な宿やレストランなどがあるのだが、当たり前であるがその分値も張った。数十人分の旅費を節約する為と、ろくに臨時収入も無い村へまとまった金を落とす事が目的だったが、アルフリートは分かりやすくこう本音を口にしている。
「金の有る所に金を払うのはなんだか癪じゃないか。無い所に出すから感謝も倍増で、お互い気持ち良く泊れるってもんだろ」
いくら貧乏王国の国王としても余りに情けない発言ではあった。
村長とも当り障りの無い世間話などを交え、食事は和やかに進んだ。ただ、こういった場で最も発言の多いヴィンセントが珍しく口数が少なく、メレディスを不審がらせた。将軍としても大方察しは付いていたのだが。
食事を終え、酒が行き渡り、村長が退席すると、ヴィンセントはおもむろに口を開いた。
「アイリーン様、お疲れ様でした。あの少女…白の事ですが、何かお分かりになった事が有りますでしょうか」
ワインのグラスを上品に口へと運んでいたアイリーンは、静かに話し始める。
「はい、いくつか話をしてくれました。まず名前は白、と言っておりますけれど、どうやらそう呼ばれていたというだけで、本当の名前は知らないようでした。年齢は九歳。かなり小さな頃から一人で暮らしていたようで、両親や家族の事も覚えていないとのことです。村の人ともほとんど交流は無かったらしく、男の人を少し怖がる所があります。森の中にずっと隔離されていたのだと思われます。……軍医様にお伺いしたいのですが、侍女達は年齢よりも小さく、とても幼く見えると言っているのですけれど、わたくしでは良く分からなくて」
白を診た軍医が頷きつつその問いに答えた。
「私も今年齢を聞いてそう感じました。歳を間違って覚えているという可能性もありますが、九つになるにしては背が足りないように思えます。恐らくですが、あまり満足に食事を取れないような暮らしをしてきたのではないのでしょうか。もしくは、同じような物ばかり食べて来た為に、栄養が片よってしまったのかもしれません。いずれにせよ、白子という事もありますし、身体が丈夫だとは言えないでしょう。この先も病気や怪我には気を付ける必要があると存じます」
「そうですか、良く分かりました。滋養のある物をたくさん食べさせてあげなくてはいけませんね。それと……」
アイリーンは少し迷ってから言葉を繋いだ。
「どなたかと文のやり取りをしていたようです。しろちゃんが胸にぶら下げている袋に、今迄にいただいたお返事が入っているらしいのですが、中味を確かめた訳ではございません。とても大事にしているらしく、片時も離そうと致しませんので、お風呂に入れる時も随分と手間取りました。それに、人様の文を盗み見るというのもはばかられますし……」
メレディスが驚いて口を挟む。
「あの子は字が書けるという事ですか?しゃべる言葉は何やらたどたどしく感じられましたが…」
シンが真面目に手を上げて発言を求めた。ヴィンセントが微笑んで彼を促す。
「申し訳ないとは思いましたが、先程彼女の荷物を調べました。中に読み書きの本が一冊入っておりましたので、恐らくそれで勉強をしたのではないかと存じます。…その、自分が使っていたのと同じ本でありまして、かなり擦り切れて痛んでおりましたし、きっと苦労をしたのではないかと…」
恥ずかしそうにそう言うシンの手に、テーブルの下でアイリーンがそっと触れた。ヴィンセントはしばらく何かを考え込んでいたが、再びアイリーンに問い掛ける。
「その…手紙の相手というのは?」
「しろちゃんは『えらいおぼうさま』とだけ言っていました。ひょっとしたら、あの子も名前を聞かされていないのかもしれませんが…」
「おぼうさま……。なるほど、繋がったかな」
頷いたヴィンセントは一同を見渡して語り始める。そうする彼はなにやら彼の主君に仕種が似て来ているようだった。
「事態が大方読めて来ました。この訪問にもいささか関係の有る事のようですので、ここで皆様にご説明を致したいと思います。少々お時間を拝借致します」
物思いに沈み込んでいたと思われたヴィンセントは、楽しげとも思える口調になって立ち上がる。トランセリアのこの外交に、トラブルを持ち込んだと言える白の存在であったが、『障害はあればあっただけ燃える』という彼の(リサの言によればかつての)恋愛理論に通じるのか、すっかり調子を取り戻したようだ。メレディスは(やれやれ、あんまり調子に乗るようなら俺が手綱を引き締めにゃならんのか…)と、この場に居ないリサの役目まで引き受ける気で居た。大変に有能だがどうにも軽い所がある外務長官は、誰かが常に重しになってやらねばならないのかも知れない。
「まず村長から聞き出した話をお伝えします。白は産まれて間も無い頃に、一度この村に連れて来られた事があるそうです。当時村には医者が居りまして、両親が白子として産まれた白を診せる為にやってきたようです。村の奥に寺院があるでしょう。今はもう坊さんは都に向かっちまってますが、当時、そこの僧も白を目撃しておりまして、彼から都に連絡が行ったのでしょう、すぐにメリル教本院の高僧が現れたと言う事です。文の相手は恐らくこの人物…尼僧だったそうですが、だと思われます。白の村から戻って来た彼女はこの村にも固く口止めをして、無闇に少女の事を口にすると神罰が下ると、…まぁ体のいい脅しですね、言って帰って行ったそうです。この口止めはなかなか効果があったようで、今に至る迄人々は少女に対してかなりの畏怖の感情を持っている。現に、白の村を襲った土砂崩れを、白が村を逃げ出した為に落とされた天罰だと考えている者もいるようです」
それを聞いたタウンゼントが憤慨して思わず口を開いた。
「そんな馬鹿な。あの子は村が全滅したから、それを知らせにたった一人でここまで歩いて来たんじゃないか。全く逆だし、矛盾している」
ヴィンセントが手を振ってなだめる。
「まぁまぁ落ち着いて。皆が皆そう思っているのでは無いようですし、少女を不憫だと思う人間ももちろん存在します。…白の村とこの村は古くから付き合いがあるそうでして、大体人の噂なんて物を封じ込めようってのが最初から無理ですから、神の贄と決まった少女の話はあらかたこの村にも届いていたようですね…」
ふいにアイリーンが彼女にしては大きな声を上げる。ヴィンセントの口にした単語に反応したのだ。
「ヴィ…ヴィンセント様。今…『贄』と、おっしゃいましたか」
それ迄軽快に話をしていたヴィンセントの顔が厳しく引き締まり、彼はじっとアイリーンを見つめて言った。
「そうです。…白は産まれた時から、神前に捧げられる生け贄として育てられた子供なんです。おそらく、今回の式典で次の巫女王が正式に神からの御託宣を授かる時に、少女をその捧げ物として使うのだと思われます」
握り締めた両の拳をわなわなと震わせ、アイリーンは呟きのような声を漏らす。
「なんという……なんという事でしょう。…あのような幼い子供を、これまで放っておいて生け贄にするなど。…なんと無慈悲な、…なんて野蛮な行為を。…なんて…なんて……」
ヴィンセントは静かに椅子に腰を下ろし、話を続けた。口調は随分と大人しくなっていた。
「確証がある訳ではありませんが、過去にもそういった例はあったようです。尤も王宮のさらに奥深くの神殿で人知れず行われる儀式ですし、多分に政治的な意味合いもございますので、外務庁内でも噂の域を出ませんが…。我が宰相殿の情報によりますと、確かに『あった』という事です。まったくあの御仁はどこからそんな…、失礼」
メレディスが疑問を口にする。
「しかし肝腎の少女は今我々の保護下にあるのだぞ。本来ならもうとっくに都に連れて行かなければならない頃だろう。式典まで数日しか無いのだからな」
「不幸中の幸いで、土砂崩れがイレギュラーに働いたのでしょうね。都では白は死んだものと思われているかも知れない。その方がこちらには好都合だが、ここの村の連中には姿を見られてしまったし、トランセリアが関与している事もばれている。……メレディス閣下が村人を皆殺しにするのなら話は別ですが」
その台詞に一同はぎくりとして思わず外務長官を見つめる。メレディスはふんとせせら笑って答えた。
「ふざけるなよヴィンセント、部下にそんな真似はさせん。…真面目な話、手はあるか?その話が本当なら事はメッツィーナの中枢に、いや国王そのものに関わる事態だ。子供一人の行く末どうこうじゃ無くなってくるぞ」
がたんと椅子の音がしてアイリーンが急に立ち上がる。杖も持たずにヴィンセントに走り寄る彼女を、シンが慌てて支える。アイリーンは深々と頭を下げてヴィンセントに訴えた。
「ヴィンセント様、どうかあの子を、しろちゃんを助けてあげて下さい。わたくしに出来る事ならなんでも致します。どうか、あの子を…。あんなに可哀相な子供をこれ以上の苦難に晒すなど、絶対にあってはならない事です。…どうか、…どうか、お願い致します」
懇願しながら床に土下座せんばかりに頭を下げるアイリーンに、ヴィンセントは泡を食って立ち上がり、必死で手を上げさせる。
「うわぁっ!あ、アイリーン様、どうか顔をお上げ下さい。すいません勿体を付け過ぎました。お願いですから。…こんな事が知れたら陛下に、いやシルヴァ様に殺されちまう。大丈夫ですから、手はありますから。どうか……」
メレディスはシンに手を貸してそっとアイリーンを立たせ、落ち着かせるように優しく静かに語り掛けた。
「アイリーン様、何も御心配になるような事はございません、策はございます。この赤毛男はいつも居る重しが外れて、ちょっとばかし浮かれているだけですので。それに、陛下がこの場にいらしたら間違い無く我々に、今アイリーン様がおっしゃったことを御下命なさったでしょう。御安心下さい、必ずやあの少女の命を救ってご覧に入れます」
立ち上がったアイリーンはアイマスクの隙き間から流れ落ちる程の涙を流し、途切れ途切れに答えた。
「…も…うし訳…ありま…せん。…取り乱して…しまって。…メレディス…様、……どうか、……どうか」
シンに支えられ、椅子に腰を下ろしたアイリーンは、侍女の差し出すハンカチで涙を拭う。おいしい所を全てメレディスに持って行かれたヴィンセントは、一つため息をついて話を再開させた。
「ふう……、失礼。申し訳ない、反省しています。えー、具体案を申し上げます。我々は旅の途中で偶然に助けた少女を伴ってメッツィーナ入りをし、詳しい事情は何も知らない事にします。村長には幾らか握らせてありますので時間を稼げるでしょう。後でばれても知ったこっちゃありません。トランセリアの意向としては白を国元に連れ帰り、然るべき施設に預けるという方向で行きます。我が国は福祉行政だけは充実していますので。場合によってはアイリーン様と養子縁組を組むという荒技を使う手もありますが…、これは最後の手段だと考えています。現地ではなるべく自然に振る舞うようにお願いを致します。下手に隠すと却って不自然だと思われますので。陛下よりいくつか外交カードを使う許可を頂いておりますので、それを使って話をこちらに有利に運びます。到着次第陛下には連絡を入れてご指示を仰ぐつもりではおりますので。……以上です」
「陛下はグローリンド入りされていらっしゃるだろう。連絡が着くかな?」
メレディスの問いにヴィンセントはやや得意げに答える。
「宰相閣下の情報網を使わせて頂こうと考えています。…自分が動きますので」
アイリーンはようやく落ち着いてヴィンセントに告げる。
「ありがとうございますヴィンセント様。お話の途中で取り乱してしまって申し訳ございませんでした。…先程の養子縁組のお話ですけれど、今ここで書面を作ってしまう事は可能でしょうか?…それが叶わぬのなら、しろちゃんだけでも先にトランセリアへ連れ帰ってしまうのはいかがでしょうか」
一同は驚いてアイリーンを注視する。彼女が本気で白を自分の娘にしようとしているのだと思えたからだ。ヴィンセントは少しの沈黙の後、答えた。
「……仮の書類でしたらば私が作る事が出来ますし、護衛の人数も余裕がありますので、どちらの案も不可能ではございませんが、…いささか不自然だと考えます。我々は何も知らないという前提ですので、本来なら国に帰ってからすべき事を、あせって進めている印象を持たれるでしょう。お気持ちはお察し致しますが…」
「…そうですね、浅薄でした。…今思えば、もう半日でも早くしろちゃんに出会えていられたら、事を我が国の中だけで収められたかもしれませんね」
「…なんとも言えません。我々としても今日のあのタイミングで白に遭遇していなければ、さほど彼女の存在に目を向けなかったかも知れませんし…。仮にこの村に白を残していったとしても、見つかって都に連れて行かれる可能性が大です。村長の話では何度か捜索の手があったようですし、事情を知っている村人が国に逆らってまで少女をかばうとは思えません。我々と共に居る事が、最も白にとって安全だと言えるでしょう」
ヴィンセントの意見は尤もであり、アイリーンは笑顔を取り戻して彼に告げる。
「閣下のおっしゃる通りです。今はあの子を我々の手元に保護できた事実を、神に感謝するべきでしょうね。……他に何かわたくしに出来る事はありますでしょうか」
その問い掛けにヴィンセントはにっこりと微笑んで言った。
「アイリーン様は最高の笑顔で、堂々と、優雅に、かつ美しく巫女王陛下の前にお立ち下さいませ。トランセリア最強の外交官のお姿で、神の威光をも眩ませて、目に物言わせてやりましょう」
田舎者の平民国家と蔑まれて来た積年の恨みがあるのか、そんな事を言い放つヴィンセントに、アイリーンはうっすらと頬を染めて笑顔を浮かべた。それは、最強の外交官の名に相応しい、見る者の心を溶かす笑顔だった。
シンと共に寝室に戻ったアイリーンは、ベッドの上で眠る白の静かな吐息に愛しげに耳を傾ける。その様子をじっと見ていたシンは、音を立てぬようにゆっくりと自分の寝台に腰を下ろし、アイリーンの手をそっと引き寄せて遠慮がちに囁いた。
「……アイリーン、冷たい事を言うと思われるかもしれませんが、……あまり情を移されませぬように。…まだ何も決まっておらぬのですから」
シンの言葉に少し驚いた様子のアイリーンは、暫くじっと何かを考え込んでいた。やがて顔を上げた彼女は、夫の頬を白い指でそっとなぞって言った。
「シンの言っている意味は分かります。わたくしの事を思って言ってくれているのだということも。……わたくし、少し浮かれ過ぎていたかしら」
「この子の命が奪われることなど決してあってはなりませんし、出来れば一緒に国に連れ帰ってやるのが良い事だとは思うのですが…。何分にも他国の事情が絡んでおりますので」
「そうですね、はっきりとした事はまだほとんど何も分からないのでしたね。……しろちゃんと居ると、ウィルの居ない淋しさが少し紛れるものですから、いけませんねこんな事では。…この子を誰かの代わりにと考えるなど、失礼な事でしょうね。……わたくし、ちょっと悪い母親になっていたみたいです」
シンの両腕が音も立てずにふわりとアイリーンを膝に抱え上げる。優しく胸に抱き締められたアイリーンは、少しだけ彼の胸で泣いた。
自分に課せられた役目を全うしようと決意を新たにしたアイリーンではあったが、旅の途中や食事の合間になども頻繁によぎる我が子の面影に、やはりいつもの笑顔が保てずにいた。寝室でシンと二人きりになると夫の胸で涙を流し、ウィルに会いたいとぐちをこぼした。白と会ってからのわずか数時間の間だけは、彼女は心からの笑顔を浮かべていたのであった。
国王アルフリートが同行しない他国への訪問も初めてであり、それがかつての祖国イグナートの隣国であるという事もまた、彼女のプレッシャーになっていた。トランセリア王宮のほとんどの人は忘れがちなのであるが、アイリーンはまだ十代であり、いくら外見や態度が落ち着いて大人びているとはいえ、うら若い女性である事に変わりは無い。シン以外にその事を常に意識しているのは、アイリーンを娘のように気に掛けるシュバルカ将軍ぐらいなものであったろう。事実、将軍は出発の前日アイリーンの為に、道中の慰みとなる菓子やら酔い止めの薬などをこっそりとシンに手渡していたのである。
翌朝、目を覚ました白は自分が何処に居るのか思い出せずにいた。夢も見ずにぐっすりと眠ったのはひどく久しぶりの事であり、ぼぉっとした頭のまま寝返りを打つと、目の前にアイリーンの白い寝顔があった。白はようやく状況を理解し、口の中で小さく呟いた。
「あい…りーん」
アイリーンはその声で瞼を閉じたまま目を覚まし、両手でゆっくりと少女を抱き寄せて囁く。
「…おはよう、しろちゃん」
「……おはよう、です。…あいりーん」
柔らかな胸の膨らみと暖かな体温に包まれて、白はもじもじとしながらも目を閉じてアイリーンに身を任せた。髪を撫でる手の感触が心地良く、再び眠りに落ちていきそうだった。
身体を起こしたアイリーンの膝に抱え上げられ、目を開けると向かいのベッドでシンが目を覚ました所だった。白は自分から挨拶をした。
「…おはよう、です。………えと……」
「おはよう」
白はまだ彼の名を覚えていなかった。シンは白の頭をぽんぽんと軽く撫で、アイリーンと小さくキスを交わして部屋を出ていった。アイリーンが嬉しそうに白に告げる。
「シン、よ。わたくしのだんな様」
「……しん。……だんな、さま?」
「とっても大事な人。わたくしの一番大事な人」
「だいじ…、いちばん。…しん。……だんな、さま…。…しん」
口の中で繰り返す白の頬にそっと口付けると、アイリーンは少女の耳元に囁いた。
「たからもの、…ですよ」
ノックの音に続いて既に身支度を整えたクララとフローネが入って来る。今日の昼過ぎにはメッツィーナの王都に到着するだろう。アイリーンの闘いが始まる朝であった。