第九章 白き巫女 第一話
暗い森の樹々の上に月が昇る。真円に近いその月の、青い光に照らされて少女は独り思う。
(てがみはとどいただろうか)
なんの飾り気も無い、薄汚れた質素な服をただ重ねただけの襟元を引き寄せ、粗末なあばら家の入口に少女は佇み、良く晴れた星空を見上げる。
月明かりを受け、十にもならぬであろう少女の小さな姿は宝石のようにまばゆく闇夜に浮かび上がる。少女の髪はかかと近くまで長く伸び、透き通っているのではないかと目を疑う程白いそれは、清流の水を纏っているかのように痩せた身体にまとわりつく。血の気を透かす肌は紅色に輝き、眠たげな瞳は夜の森に潜む獣の双眼のごとく真紅に煌めく。
少女はアルビノ(白子)として生まれた。
色素のごく薄い肌と真っ白な髪、そして赤い瞳とを持って生を受けた赤児に、両親も、村人も困惑し、幼子を抱えて山を降り、近隣の大きな集落へと医者を訪ねた。
太陽の光に弱く、視力も低い少女を見、医者は長くは生きられぬだろうと告げる。集落にある寺院の神官は、少女の姿を目にするとひどく驚き、神の子として崇めたてた。都の本院へと使いが走り、程なく、首都から高位の尼僧が村を訪れる。この日、少女の運命が決定付けられた。
少女は神に捧げられる贄となった。次代の巫女王が位に付くその時、少女の生命は神への供物として捧げられる。年老いた尼僧は神罰をほのめかし、村人に固く口止めをすると、両親と村に多額の礼金を与える。山間いの小さな村からさらに奥へと離れた小屋に、人目に付かぬよう少女は隔離された。
都では次の王を巡って諍いが起き始めていた。少女が必要となる時まで、このまま村に隠しておいた方が安全であろうと尼僧は考えた。生命力に乏しいアルビノの少女が、そこまで生き長らえる保証も無かった。
少女の両親は半年を待たず村を出て行った。振って湧いたように突然手にした収入は村人との齟齬を生み、実子を売り渡したという後ろめたさもあったのだろう、彼等は逃げるように村を後にした。残された乳飲み子の世話を、身寄りの無い老婆が引き受けたが、やがて彼女が亡くなると、少女はたった一人で暮らすようになった。
月に二度、満月と新月の夜に、食べ物や服などが村人の手によって届けられる。村人達はぼんやりとした畏怖の感情を少女に抱き、生活に必要な物を機械的に運ぶだけで、人間らしい接触を極力避けるようになった。尼僧の残した神罰の言葉が、奇妙にねじ曲がって村人の心を縛っていた。名前すら付けられなかった少女を、彼等は怖れと共に『白様』と呼んだ。
数年後、その尼僧が再び村に現れた。一人で小屋を訪ねた彼女を出迎えた少女は、おどおどと尼僧を見上げる片言しか話せぬ子供だった。亡くなった老婆以外には、少女と言葉を交わす者などもう居なかったのである。
都に戻った尼僧は、少女の為に読み書きの本と紙とペンを送り、二人の間にささやかな手紙のやり取りが始まる。少女の存在を確認する事が目的であったが、彼女の判断で一人の少女の人生を狂わせた事に対する、忸怩たる思いがあったのもまた確かだった。
殴り書きのような手紙は次第に形を整え、少女が熱心に勉強をしている事が伺えた。日々の暮らしや、他愛のない季節の出来事を少女は綴って寄越した。たどたどしい文面からも、少女がこのやり取りを心から楽しんでいる事が伝わり、尼僧はいつしか少女に対して肉親のような情愛を覚え始めていた。だが同時に、罪悪感と後悔とが彼女の心を蝕み、尼僧の精神のバランスは少しずつ崩れていった。
月を見つめ、少女は再び思う。
(へんじは、はいっているだろうか)
明日には荷が昇って来る。月に一度程度のその手紙のやりとりが、人と関わりを許されぬ少女の、ただ一つの外界との繋がりだった。
読み書きの本は擦り切れる程読み、言葉を忘れぬよう、何度も声に出して覚えた。紙やインクを無駄に出来ず、平らにならした土間に木の枝で文字を書いて練習をした。目の悪い少女には文字の読み書きも苦労を伴う物だったが、手紙の返事を欠かした事は一度も無かった。少女は尼僧の手紙に記された事を忠実に守り、それは獣に近かった少女を人間として留まらせる唯一の足掛かりとなった。
色素の少ない少女の肌は日光に弱く、迂闊に陽の光を浴びると火傷のように赤くひりひりと痛み、時には水膨れを起こした。天気の良い昼間出歩く時、少女は頭からすっぽり布をかぶり、注意深く木の影を選んで歩いた。住処の周囲は鬱蒼と生い茂る樹々に囲まれ、昼でも薄暗いその森の中と、狭い小屋が少女の世界の全てだった。
日光をあまり気にせずに過ごせる、陽の陰る曇りの日を少女は好んだ。自由に動ける昼間の時間を使い、森の湧き水を汲んで来ては洗濯などもする事が出来た。しかし雨の日になると別の苦労があった。少女の暮らすあばら家は雨漏りがひどく、放っておけば部屋中が水浸しになってしまう。手紙を濡らさぬよう気を付けながら、ぽたぽたと落ちて来る水を受け止める為にあちこちに鍋や食器などを置いて回った。木の皮や泥などを使って修理の真似事もしてはみたが、あまり効果は上がらなかった。
一度だけ、村の幼い少年が、少女の暮らす小屋近くに迷い込んだ事があった。現われた少女の姿形に少年は驚きはしたが、好奇心からか逃げ出す事はせず、わずかな時間であったが会話を交わした。少女はその時始めて、村人が自分の事を『白様』と呼んでいる事を知った。
やがて大人の呼び声に少年は足早に立ち去った。少女はその体験を貴重な紙を使ってわざわざ書き留めた。それは少女のそれまでの人生で、計り知れない重大な出来事だったのだ。だが、少女はその事を手紙には記さなかった。その少年が大人達にこっぴどく叱られている声を耳にし、自分と話をする事が禁じられているのだと悟ったからである。
山間いの畑からかすかに聞こえてくる、村人の歌う農作業の唄を少しずつ覚え、同じ節をぐるぐると繰り返し歌った。老婆から教わった以外の生活の手段を少女は知らず、食事もいつも同じ物ばかり食べていた。森で手に入るわずかな木の実や果物が、たまの御馳走だった。時折目に入る鳥や虫の姿と、夜を明るく照らす月が少女の慰みになった。
満月の夜、両手に荷を抱えた少女が暗い森を抜けてよろよろと小屋に戻って来る。村人達は森の中の決められた場所に荷を置くと、さっさと来た道を引き返して行ってしまう。痩せ細った少女が一度で運べる量では無く、いつも何度か往復をしてそれらを小屋の中に運び入れていた。
乱雑に土間に置かれた荷物の中から手紙を見つけ出すと、かまどの炎の光に照らしてむさぼるように読んだ。急いで一度読み、ゆっくりと二度目を読む。小屋の隅の小さな箱に大切にしまわれた今迄の手紙を取り出し、何枚かを読み返し、再び今届いた手紙を読み直す。
次の荷が届く新月の夜まで、少女はあれこれと思いを巡らし、幾度も幾度も手紙を読み返しては土間に返事を書き留めていく。折り目が破れ、手垢で汚れた手紙の束は、少女のたった一つの宝物だった。
少女にとって九度目の夏を迎えるある夜、粗末な小屋を激しい雨と風とが揺らしていた。不安でなかなか寝つけない少女の耳に、突然聞いた事も無い大きな音が響く。巨大な獣が唸っているようなような低く、鈍いそれはゆさゆさと地面を震わせ、窓や戸をがたがたと揺さぶった。怯えた少女は毛布を被ったまま部屋の隅にうずくまり、大切な手紙を胸に抱き締め、固く目を閉じて身を縮める。その音が聞こえたのはわずかな時間だけだったが、少女は眠る事もできずただひたすら夜が明けるのを待った。
翌朝、嵐の過ぎ去った空は良く晴れ、森はいつもと変わらぬ光景を見せていた。しかし、少女は辺りの様子に小さな違和感を覚え、粗末な布で顔を覆い、おそるおそる森の中を村の方角へと進んだ。いつもの鳥や虫の声が聞こえぬ事に気付いた少女の胸中に、訳の分からぬ不安が高まる。森の外れまで歩き、村が見通せる場所に辿り着いた少女は自分の目を疑った。かつて村があった場所は茶色い泥に覆い尽くされ、人も家も、家畜や畑も何も残ってはいなかった。村は昨夜の嵐で地滑りに見舞われ、大量の土砂がそこにあった何もかもを押し流してしまっていた。森を切り開いて畑にしていた事が仇になった。深い森に囲まれた少女の住処だけは、難を逃れたのである。
粘つく泥濘に足をとられ、何度か転んで泥だらけになりながらも、少女はその場を歩き回った。記憶に残る光景は何処にも見つからず、動いている物は何も無かった。涙が溢れ、叫び出しそうになりながら、沸き上がる恐怖に抗えず、転がるように走って小屋へ逃げ帰った。毛布を被り、部屋の隅で手紙を抱き締め、何も考える事も出来ずに少女はただ震えていた。食事も取らず、そのまま一昼夜が過ぎた。いつの間にか眠っていた少女は目を覚ますと、勇気を振り絞って再び村の跡へと向かった。
二日が過ぎ、三日が経った。晴れた日が続いて泥はすっかり乾き、歩く事は楽になったが状況は何も変わってはいなかった。四日目に少女は心を決めた。大きな袋を用意し、残っていた食料とわずかな着替えを詰め込んだ。革の袋に水を満たし、きつく口を縛って水筒代わりにする。読み書きの本を丁寧に布でくるんで入れ、手紙の束は小さな袋に入れて首から下げた。日焼けを防ぐ為、顔や手足にかまどのススを塗り付け、頭に布をぐるぐると巻く。荷を背負い、少女は住み慣れた小屋を後にした。
このままここに居ても飢えて死ぬだけだということは、幼い少女にも分かっていたし、この惨状を誰かに伝えなければならないという使命感も、うっすらと感じていた。途中で何度も振り返りながら、森を離れ、村のあった場所まで降りた。流れた土砂の跡を下ろうかとも考えたが、得体の知れぬ恐怖が少女の足をそちらへ向かわせなかった。細くくねる山道を見つけると、それを辿ってゆっくりと歩き出す。閉ざされた世界で、人目に触れぬように生きてきた少女は、初めて自分の足で外の世界へと踏み出した。
◆
トランセリアの王宮の一室で、アイリーンは幸福に酔いしれていた。生まれて間も無い我が子を抱きかかえ、柔らかな頬に口付ける。ぷくぷくとした小さな手が彼女の顔を撫で、乳臭い匂いが鼻をくすぐった。
「ん~。うーちゃんはご機嫌でちゅね~」
すっかり幼児言葉になって、何度もキスを繰り返すアイリーンに、シンの目尻も下がり、侍女達も口元をほころばせる。日毎に夏の暑さを感じさせる初夏の王宮は、イグナートの元王女が無事に元気な男子を出産した事で、明るい雰囲気が満ち満ちていた。首都セリアノートには瞬く間にその知らせが伝わり、人々は祝杯を上げる。王立工匠が国王夫妻の結婚式で使わなかった残りの花火を打ち上げ、街は小さな祭のような騒ぎとなった。
数ヵ月前の式典で見事なホスト役を勤め上げたアイリーンは、既にトランセリアの外交の『顔』の一翼を担う迄になっていた。出産ぎりぎりまで様々な使節との面談をこなし、貴族階級の受けも良い彼女は外務庁スタッフからも重宝されていた。
アイリーンが「うーちゃん」と呼んでいるその男子の名は、トランセリアの若き国王によって命名された。名付け親を頼まれたアルフリートは、国政の時の決断力が嘘のように十も二十も候補を並べ、悩みに悩んだ挙げ句に結局自分一人では決められず、こういった事には一番頼りになるのだが閣僚中最も多忙な内務長官フランクを呼び出して相談するという傍迷惑な行為に及び、どうにか二つ迄絞り込んだが選び切れずに今度はシュバルカ将軍に意見を求め、悪戦苦闘の末にセリア山脈の高峰の一つ『ウィルフィー』を夫妻の長男の名として与えた。アイリーンとシンは大変に喜び、ウィルフィー・クレメントは生涯アルフリートの家臣であると、剣の誓いの真似事までさせる。生後一週間の赤児にまたもやうっかり剣を与えてしまったアルフリートは、苦笑いをしつつ『次は国王夫妻の世継ぎを』という宮廷中からの無言の圧力をひしひしと感じていた。
シンは産まれた息子にクレメントの姓を引継がせた。アイリーン自身は、彼女の母親の姓にそれ程固執してはいなかったし、三人になった家族で『ロウ』の姓を名乗る事にも異論など無かった。しかしシンはクレメントの名が消えてしまう事に躊躇した。生後すぐに母親を亡くしたアイリーンが、血を分けた肉親から受継いだ物はごくわずかであり、シンは少しでもそれを残してやりたいと考えていた。その一つが彼女の名前であった。
妻がいつまでも旧姓を名乗っている事や、息子までもがそれを継ぐ事で、シンを悪く言う者が現れはしまいかとアイリーンは心配していたが、彼自身はそういった面子など気にも止めなかったし、そもそもトランセリアにはそこ迄家系や血筋にこだわる風習が無かった。シンが彼の人生で最も優先したのはアイリーンを守る事であり、それはかつての祖国イグナートからの逃亡の夜に、彼の養父クムが告げた『姫様を守ってやれ』の言葉そのものであった。頑固で昔気質の職人であったクムの顔を懐かしく思い浮かべ、シンは二人の間に子供が産まれた事を、何とか養父に伝えてやりたいと思っていた。
アイリーンの黒いアイマスクに、ウィルフィーがしきりと小さな指で触れる。片手でそれを外したアイリーンは、目を開けてじっと我が子の顔を見つめる。彼女はわずかではあったが視力を回復していた。元々アイリーンの目は明るさや暗さを感じる事が出来たが、それは昼か夜かを判断する程度であり、物を見分ける所までは到底及ばなかった。宮廷医師は専門の医者を招き、アイリーンの目の診断を行った結果、視力が回復する可能性が低いながらもある事を示唆した。危険を伴う手術は無理であったが、慎重に眼球への投薬を続ける事により、彼女の視界がほんの少しクリアになった。
妊娠中のアイリーンを心配し、治療に反対する声も多く、夫であるシンもその一人だったが、彼女自身が頑にそれを望んだ。たとえ一瞬の間でも、見える目を手に入れ、産まれて来る我が子をひと目見たいとアイリーンは切望していた。そして、その賭けに彼女は勝ったのである。
生まれて初めてアイリーンが手にした視力は、日常生活ではほとんど役に立たない程度の物だった。明るい場所で目を凝らして見ても、ぼんやりとした色の固まりが見えるだけであり、動かなければ人間なのかどうかも判別出来なかった。これ迄彼女が頼りにしていた聴力や嗅覚の方が、遥かに多くの情報をアイリーンにもたらした。それでも彼女は涙を流して喜び、アルフリートの前でひざまづいて礼を繰り返し、周囲の人々に幾度も感謝の言葉を告げた。シンと共に教会へ赴き、神に供物を捧げ、無事の出産を祈った。
夫シンの姿も初めて見る事が出来た。いつも指先で確かめていた良人の顔に、唇が触れる程近付いてアイリーンは目を凝らす。シンは随分と緊張していたが、彼の容貌はアイリーンの想像していた通りだったようであり、感極まった彼女はそのままキスの雨をシンに浴びせる。感謝の言葉と愛の言葉が繰り返され、アイリーンは幸福に酔った。
ウィルフィーのなめらかな頬に口付けながら、ぼんやりと目に映るつぶらな瞳を見つめるアイリーン。シンに似た金色の髪と、アイリーンの白い肌と深い茶色の瞳を受継いだ我が子をその手に抱く迄、彼女の一番の気掛かりは産まれた子供の目が見えぬのではないかという不安だった。幸い、ウィルフィーに何処にも異常は無く、大きな声で元気良く泣くその泣き声にすら、アイリーンは例えようも無い愛しさを覚えるのだった。
アイリーンは自らが剣を捧げた主、アルフリートの顔を見てみたいとも思っていたが、それを口に出す事は無かった。夫以外の男に触れる程顔を近付けるなど、おしとやかな彼女に出来ようはずも無く、結婚式を上げたばかりの王妃シルヴァにも申し訳ないと感じる気持ちがあった。只、自分が指先で感じ取った顔の輪郭が、かなり実際に近かった事をシンの顔で立証した彼女は、一度アルフリートの顔に触れさせてもらおうとは思っているようである。
結局アイリーンが回復した視力を役立てるのは、シンとウィルフィーの二人の家族を見る事だけであった。それ迄の二十年近くを薄闇の中で生きてきたアイリーンにとって、物を見ると言う事は大変な労力を伴う作業であり、少しでも無理をすればたちまちひどい頭痛や肩凝りに見舞われた。瞼を閉じていても感じる光の動きにすら煩わしさを覚えるアイリーンの為に、侍女達は黒い布を使って目を覆うマスクを作った。仮面舞踏会のようなそれを身に着けたアイリーンが宮廷を歩けば、始めの内こそ人々はぎょっとして思わずたじろぐが、見慣れて来るとなかなかの艶やかさもあると好評を得るようになった。評判に気を良くした侍女達は、マスクに金糸銀糸を使った刺繍をあしらい、主をさらに美しく飾り立てた。
出産を終え、体型も戻り、幸福の絶頂にあるアイリーンの内から溢れ出る美貌は、トランセリア王宮の新たな象徴の一つに数えられるようになっていた。
アイリーンもすっかり体調を取り戻し、御前会議にいつものメンバーが揃う。一つ目の議題は近付くグローリンドとの会合に赴く人選であった。国王ルークとの正式な面談が決定したのは良かったが、もう一つの外交行事とスケジュールが重なってしまった。どちらも日をずらせる類いの物では無く、アルフリートは自分の名代としてアイリーンを特使とする意向を示した。ルークとの初めての対面となるこの訪問に、国王が行かぬわけにはいかなかったし、シルヴァの王妃としての最初の外交であるから、アルフリートは出来れば同行したいと考えていた。
もう一つの行事は、西方の宗教国家メッツィーナの次期女王のお披露目の式典であり、遠方という事もあってそれ程国策に密接に関わる事では無かった。大陸の十人に一人が教徒になるメリル教の総本山であるその王国は、頑なで古い慣習や意識の残る国であり、平民ばかりの閣僚が揃うトランセリアを見下す傾向があった。外務長官ヴィンセント以下の外務官僚はあれこれと考えあぐねた末、アイリーンの元王族としての格を利用させてもらおうと結論を出した。『使える物は使う』一流半と言われるまで国力を伸ばしたトランセリアであったが、染み付いた貧乏性はそうそう消える物では無かったのである。
出産を終えたばかりのアイリーンに長旅をさせる心配や、産まれたばかりの我が子と半月近く離れる彼女の淋しさも承知していたアルフリートは、命令で無く依頼として彼女に告げた。
「色々とタイミングが悪くて人選を動かす余裕が無いんだ。アイリーンとシンに行ってもらいたい、どうだろう?もちろんウィルフィーは王宮が責任を持って預からせてもらうから」
アイリーンは迷わなかった。アルフリートが言い出さなければ自分から立候補しようとさえ思っていた。彼女は自らに数々の幸福を与えてくれたトランセリアに、生涯を捧げる覚悟を決めていたのだから。
「わたくし個人の事情などお気になさる必要はございません陛下。お望みとあらば地の果てまでも向う所存でございます。如何様にも御命令下さいませ」
典雅な一礼と共にそう告げるアイリーン。訪問団には外交に慣れたヴィンセントとメレディス将軍も同行し、西方諸国の事情に詳しい外交官も複数参加する。実務的な交渉は全て彼等の仕事であり、アイリーンは自分が格付けの上での人選だと言う事も良く理解していた。国も身分も捨て、もう王族ではないと心に決めていたアイリーンであったが、トランセリアのやり方にすっかり染まった彼女も(使える物は使おう)と、思っていたのである。
シュバルカ将軍は留守の間の乳母代わりに、妻マリーを王宮に上らせる事を提案した。愛娘のフランソワはまだ一歳に届かず、マリーは授乳をする事が出来る。歳の近い彼女はアイリーンとも親しく、彼女が留守を預かる事を双方とも大変に喜んだ。マリーは大荷物を抱えて出発前から泊まり込み、はりきってウィルフィーの世話にいそしんだ。フランソワとウィルフィーは短い間ながらも乳兄弟となり、シュバルカはその間淋しい独身暮しを味わう事になる。
二つ目の議題は主計局長リカルドによる会計報告であった。前年度はイグナートとの戦や国王の結婚式などで、かなり出費を強いられたトランセリア財政であったが、リグノリアとの共同開発が進む金鉱脈からは良質の金が産出され、既に試験的に金貨を鋳造しつつある。二国間の街道を整備し関税を引き下げた事により、貿易も活発に行われ、支出が嵩んだものの税収は随分と上向きになった。報告を続けるリカルドが今年度の予測を発表する。
「……以上のように税収は順調に右肩上がりを続けております。今年度はセリアトンネルも開通予定でございますので、東方諸国との貿易による税収のアップ、新たに発生するトンネルの通行税による収益、トンネルの工事費の削減などにより、一層の増収が期待出来ると予想致します。リグノリアの鉱脈及び貿易による収入を合わせて鑑みますれば……」
ここでリカルドは一旦言葉を切り、手にした書類から顔を上げて閣僚一同を見渡す。年に一度の彼の晴れ舞台とも言える場面であり、いくらか芝居掛かったとしても許されるであろう。アルフリート以下の閣僚は静かに彼の次の言葉を待った。
「……今年度は対前年比二割五分増益、状況によっては三割アップが予測出来るかと存じ上げます」
会議室に居るほぼ全ての人間が感嘆の声を上げた。拳を握って小さくガッツポーズを取る者も居れば、天井を見上げてうっとりと手を組み合わせる者、腕組みをしてうんうんと感慨深げに頷く者など、皆様々に喜びを表現している。ヴィンセントとフランク内務長官は思わず握手を交わし、報告を終えたリカルドは満足げな表情で一礼し、腰を下ろした。アルフリートは派手なアクションで拳を振り上げ、つい「よっしゃあっ!」と叫んでしまい、机の下でシルヴァに足を蹴飛ばされた。
貧乏王国トランセリアにとって、三割近くもの増収など歴史上初めての事であり、リーベンバーグ家四代に渡る悲願が達成したと言っても過言では無かった。ざわめく一同を見渡し、一人冷静な表情を崩さなかった宰相ユーストが、静かに声を掛ける。
「……皆様、喜ぶお気持ちは私とて大変良く理解出来ますが、まだ予測の段階でございますので。ぬか喜びにならぬよう、気を引き締めて職務に励んで下さいませ」
水を差された格好の閣僚であったが、確かに宰相の言う通りである事から、口々に同意を示し、気持ちを新たにしていた。当のユーストにしてももちろん喜ばしい事ではあった。彼は在職中にトランセリアを大陸諸国に引けを取らぬ国家にするという彼なりの目標があり、その夜に二人の副官ディアナとエレノアを相手にこっそりと祝杯を上げるのである。
順調に国力を高め、一流半と言われる迄に評価を得るようになったトランセリアではあったが、実際の内情はまだまだ他国に及ぶような物では無かった。百年に満たぬ歴史の国では、古い王室に付き物の隠し財産やいざという時の貯えなど無く、いにしえの国宝やいわくのある武器なぞ全く無縁であり、価値の有る美術品や宝石もほとんど有していなかった。王宮には建国王アルザスの愛用していた敷物とか煙草道具などが保管されていたり、アーロンの使用した鎧兜や剣なども飾られてはいるのだが、それらはどれも一般の民や騎士が使用している物となんら変わりは無かった。アーロンは王位を退く時に自分の武具をほいほいと気軽に部下にくれてやり、現在王宮にある物はシュバルカが大切に保管していた物である。歴代の王や王妃が高価な絵画や宝石などの美術品に興味を示さなかった事もあり、それ以上にそんな余裕も無かったのだから仕方が無い事ではあるのだが。アルフリートは悔し紛れなのか王室財政についてこう語っている。
「他の大国だって内情はそんなに余裕があるもんじゃ無いだろうさ。外づらは取り繕っていても中味は火の車かも知れないじゃないか」
確かに彼の言い様にも一理は有る。各国の財務担当官は予算の配分に常に頭を痛めていたし、借金で首が回らない国も無いわけでは無い。しかし、いずれの国の財務官も自国の財政をぼやいた後に必ずこう付け加えるのである。
「まぁトランセリアよりはマシだけどな」
話の『落ち』にまで使われる程、トランセリアの貧乏は有名なのであった。
出発の日の朝、ウィルフィーを抱き締めて頬ずりし、何度も口付けを繰り返すアイリーン。涙ぐんで離れ難い様子の彼女をシンが促し、馬車に乗り込む。アルフリートは心の中で(すまん)と思いつつ、自らウィルフィーを抱き上げて馬車を見送った。剣の主に不器用に抱えられた幼児は、案の定びっくりして泣き出してしまうのであった。
馬車に揺られるアイリーンはしばらくめそめそと涙を拭っていた。第三軍の精鋭が守りを固める一行が、国境いまでの道のりの中程に差し掛かる頃、ようやく気持ちを切り換え、同乗する侍女につぶやいた。
「……泣かずに出発しようと思っていたのに、陛下にいらぬ御心配を掛けてしまったかもしれません。…お役目なのですからもっとしっかりしなければ」
慰めの言葉を口にする侍女達に励まされ、アイリーンは顔を上げて窓の外に声を掛けた。すぐ隣を並走していたシンが馬を寄せる。
「シン、そろそろ国境ではありませんか?……なんだか随分とゆっくり走っているような気がしますけれど」
「今ちょうど半分位だと思いますが。…国境を越えてから速度を上げるのでしょうか?」
シンも一行のスピードに疑問を感じていたらしく、首を傾げて答える。それを耳にした侍女の一人クララがアイリーンに告げた。
「アイリーン様、馬車のスピードは普通これぐらいでございます。…その、陛下の馬車が速過ぎるのではないかと存じ上げますが」
もう一人の侍女フローネも同様に頷いた。彼女達の言う通り、長旅をする馬車はそれ程スピードを出す物では無い。街道は道が荒れている箇所も多く、無闇に飛ばせば車軸を痛めたりする恐れがあったし、揺れがひどくなってユーストでなくとも酔ってしまうだろう。アルフリートの馬車は特別製だったのである。
王宮で使われる馬車には、王立工匠の手により改造を施された物が三台存在する。一台は国王専用であり、残りの二台は主に外務庁で使用されている。特にアルフリートが他国に赴く際に使う大型のそれは、車軸や車輪を強化しバネの数を増やし、あちらこちらに職人の手が入ったフルチューン仕様である。王立工匠は今でも時折何やら新しいパーツを取り付けたりと好き放題に馬車を改造し、国王の乗る馬車でありながら実験めいた事までしている有り様であった。本来ならそのような勝手な真似は許される筈も無いのだが、陣頭指揮を取っているのが先々代国王アーロンとあっては、面と向って文句を言える人物も居ないのであろう。メカマニアの祖父を持ったアルフリートの不運とも言えるが、彼自身は結構その馬車を気に入っているようであった。メレディスと二人で「一度どれ位までスピードが出せるか挑戦してみたい」などと言い合い、他の閣僚に(特にユーストに)冷ややかに嗜められるのである。国王の警護の為に、外装も鉄板で防護された重量級の馬車を、前後から六頭、急ぐ時は八頭の馬で飛ばしに飛ばす。『大陸一のスピードキング』などとふざけた事を言い出すのは、もちろんアルフリートである。
今回のメッツィーナ行きにアルフリートは自らの馬車をアイリーンに使わせた。往復するだけで十日はかかる長旅であり、産後間も無いアイリーンの身体を気遣って、揺れが少なく内部も広い物をと考えたのだ。
初めて国王の馬車に乗った二人の侍女は、幾分興奮気味で嬉しそうにきょろきょろとあちこちを見回しているが、アイリーンはなにやら少々物足りなさそうであった。アルフリートの外交に同行する事の多い彼女は、国王の馬車の速度にすっかり慣れてしまい、せっかくの彼女の体調を考えた旅に少し退屈さを感じてしまっていた。
アイリーンはこれでなかなかのスピード狂であったのかもしれないが、本来王族や貴族の旅行などのんびりとした物であり、トランセリアが異常なのである。隣国リグノリアの首都へも一日で到着していたし、今からアイリーンが向うメッツィーナであっても、アルフリートだけが行くのなら半分の日程でスケジュールを組んだであろう。日程が縮まれば宿泊費用も安く上がり、多忙な国王が国元を離れる期間も減る。余計な飾りも無いシンプルなトランセリア国王の馬車は、他国なら間違い無く御者の首が飛ぶであろうスピードで、大陸を西に東に疾走する。街道を駆け抜けるその馬車を見掛けた旅人や付近の住人は、何か緊急の事態が起こったのかと勘ぐるのだが、それがトランセリアのいつものやり方であった。そしてそれでも同行する第三軍の騎士達は口を揃えて「あくびが出る」と言ってのけるのである。
一日目の旅を終え、宿泊地へと到着したアイリーンは、なにやらもじもじと恥ずかしそうにヴィンセントやメレディスに告げる。
「あの……馬車はもう少し速くてもわたくしは構いませんので」
ヴィンセントやメレディスにとってもスケジュールに余裕が出来るのは有難い事であったが、彼等は口々にアイリーンの体調を気にする。
「速度を上げるのは全く問題ありませんが、お身体が辛くはありませんか?」
「我々騎士の事でしたらお気になさらぬよう、アイリーン様は今回の訪問団の代表なのですから」
そうは言いながらもメレディスはもう少し速く走りたいと思ってはいた。退屈極まりない馬車への随行は、眠気を誘うのに十分であったし、特に目の細いメレディスは寝ているのかと誤解され、何度も部下に顔を覗き込まれていたのだった。アイリーンは頬を染めて小さな声で言った。
「その……あまり遅いと退屈で眠たくなってしまって。…い、いつも陛下の馬車はもっと速かったものですから…」
おしとやかに育てられた彼女にとって、『つまらないからもっと飛ばせ』などといった意味合いの事を告げるのは、どうやら大変に恥ずかしい事であるようだ。アルフリートなら、思ったそのままを口に出したであろうし、シルヴァなら自ら御者台に座ったかも知れない。
「それでは明日から様子を見て、お疲れにならぬ程度に少しずつスピードを上げる事に致しましょう」と、メレディスは嬉しそうに答えるのであった。
その後もトラブルは発生せず、一行は余裕を持ってメッツィーナ領内に入国し、最後の宿泊地へと到着する。