☆捨てないで。
ここは、吉原遊郭のひとつ、『花街』。
僕は、この遊郭でお世話になっている、売れない色子だ。
「今日は、春一番が吹いてるねぇ~、強い風やなぁ」
「……そう、ですね」
一階中央にある簡素な食堂。
そこで朝食を摂っている僕の前に座った、僕よりもひとつ年上の、年の頃なら十六歳くらいの青年は、赤い唇を開き、そう言った。
彼は、いつも親しくしていただいている、この花街で一番人気の色子。揚羽さんだ。
揚羽さんは僕のひょろっこいモヤシみたいな体ではないものの、ほっそりとした体つきをしている。
象牙色にも似た、陶器のような柔肌は、赤の長襦袢がよく似合っている。
僕と同じで、腰まである黒髪なのに、色香をまとった、僕よりもずっと綺麗な人。
僕は、独り言とも取れる揚羽さんの言葉にコクンと頷き返し、箸を置いた。
ふと、縁側に続く障子の方を見ると、南向きの強い風が、障子を叩き、ガタゴトと音を立てていた。
この分だと、明日は一気に冷え込むだろう。
きっと、彼は今夜、来ない。
だって、彼は大がつくほど、寒いのが嫌いだから……。
名前は、数人様……。
彼が僕の元に通わない今日は、きっと、金を稼げと、この郭の主人の楼主に命じられ、昼見世に出される。
時期に、僕は彼じゃない人に抱かれる。
なんたって数人さんは将軍家御用達の、呉服問屋の嫡男だ。
その彼が遊郭に通う理由は、けっして僕が目当て、というのではなく、色恋沙汰に興味を持たなかったから、両親に無理矢理連れて来られたんだそうだ。
そしてたまたま、昼見世に出ていた売れない色子の僕を目に止めた。
ただ、それだけ……。
彼は僕のことを、ただの商品としか思っていない。
僕だけが、彼を想っている……。
はじめは、一目惚れだった。
だけど、彼と会い、話をしてみると、とても身分が高い方なのに、気さくで、色子の僕を自分と同じように扱ってくれたんだ。
改めて恋心を自覚すれば、胸が締めつけられる。
苦しくて、息ができない。
――昼九つ時(現代の十二時)見世がはじまる頃。案の定、僕は楼主から、昼見世に出るよう言いつけられた。
行き交う人が、強い風から身を守るようにして、目の前を通り過ぎて行く。
僕はまるで空気になったような気分で、赤い格子から、外を見つめていた。
すると、ふいに僕の視界が麻でできた紺色の着物に塞がれた。
見上げると、スッと通った鼻筋に、一重の細い眼の――健康的な肌をした、優男。
うそっ、数人さん?
「どうして? 今日は、てっきりお見えにならないとばかり……」
二階にある、とある一室に彼を通し、二人だけになった僕は訊ねると、すぐさま夜具の上に倒された。
両腕に僕を閉じ込め、彼は静かに薄い唇を開いた。
「俺ね~、けっこう面倒くさがりなんだ」
「……はい」
「ついでに将軍家御用達の、呉服問屋の嫡男だし、遊郭に通いすぎるのも世間体に問題があるでしょう?」
「……っつ」
僕と彼との身分が違いすぎる。
『だからもう、ここには来ない』
数人さんはきっと、そう言いたいに違いない。
だったら、律儀にここへ来なくても良かったのに。
このまま、僕のこともいなかったふりをして、放って置けば良かったのに……。
そうすれば、彼はいつの日か、僕がいたことも忘れる。
数人さんに見合う立派な家柄の素敵な女性と所帯を持ち、幸せに暮らすのだろう。
数人さんは優しすぎる。
それがかえって仇になることを、彼は知らない。
面と向かって、「君はいらない」と、告げられるのは残酷だ。
それならば、数人さんはいつか来るとそう信じ、一縷の望みをもって見世で働き続け、好いた男性ではないお客に体をひらき、生き続ける方がよっぽどいい。
数人さんはけっして来ないと思っても、もしかしたらと、望みを捨てず、生きることもできる。
……それなのに……。
彼はわざわざ僕の前に姿を現した。
さようならを、告げるために……。
こんなの、苦しいだけだ。
僕は唇を噛みしめ、泣くのを堪える。
泣けば、「捨てないで」と縋ってしまいそうだったから……。
ズキズキと、胸が痛む。
だけど、ああ、だめだ。
どんなに泣くのを堪えようとしても、今日でお別れなんだと分かれば、視界が滲んでくる。
僕は目をつむり、端正な顔立ちをしている彼から顔を背けた。
「だからさ、君を身請けする」
「えっ!?」
どういうことかと、顔を元に戻してみても、ああやっぱり視界が滲んで何も見えない。
だけどその代わりに、にっこり微笑む気配があった。
「いいね?」
彼は念を押すと、僕の目尻に浮かんだ涙を拭い取った。
「あの、でも! 僕は色子で、数人様とはご身分が……」
「親がここへ連れてきたんだ。文句は言わせないさ」
彼は躊躇うことなくそう告げた。
クリアになった視界の先には、数人様の真っ直ぐな目があった。
迷いのない、決意がこもった表情だ。
……ああ、どうしよう。
せっかく数人様が涙を拭ってくださったけれど、嬉しくて、涙が止まらない。
「今日は明日の明六つ時(現代の翌朝五時)まで君と共に過ごし、楼主に掛け合うつもりだ」
「……っつ!」
何か言わなければと思うのに、声も出せず、ただ唇を震わせるばかりだ。
だから、僕はコクンと頷いて見せた。
数人さんの手が、僕の顎を掬い上げる。
薄い唇が、僕の口を優しく塞いだ。
僕も負けじと、彼の広い背中に両腕を回し、深い口づけを強請った。
――長い冬が終わる。
僕の中でも、春一番が吹いたんだと、理解した……。
**END**