★この出会いが、もしも偶然じゃなくて必然だったとしたら、貴方はどうする?
花冷えのする季節。
ところどころに植えられた桜の木は、薄花色の小さな花を咲かせ、はらはらと散っていく。
解け合うかのように重ねた肌は、触れ合うたびに、汗でじっとりと濡れていく。
上気した体温が、半開きになっている窓の外から入ってくる外の夜気に包まれ、心地いい。
ホテルの一室に、ふたりはいた。
数分前はたしかに、自分は狂おしく彼を求め、彼も自分を求めていた。
それなのに……。
「好きな人ができた。俺、こういうことすんの、もう、やめるわ……」
煙草を咥えていた薄い唇が開き、ベッドの上で余韻を楽しんでいる小松 理央に向けて、残酷な言葉が放たれた。
その仕草は、理央など簡単に捨て去ることができるということを物語っている。
体を求め合う本来の関係ならば、理央は当然、『なぜ』と訊ねることができる筈なのだが、けれど理央にはできない。
彼にとって、理央は恋愛対象ではなかった。
彼と理央は、大学の法学部で、同じ学年だ。ほんの数ヶ月前まで、接点はそれしかなかった。
そして理央と体の関係になる直前まで、彼には恋人がいて、彼は、別れた彼女との恋をまだ引きずっていると思っていた。
だが、理央は思い違いをしていたようだ。
実際は、彼は以前の恋を引きずっておらず、次の恋をしているのだから……。
「……そっか、わかった。さよならっ!」
彼はまだ何かを言いかけていたが、理央はたたみ掛けるようにそう言うと、体を隠せる服だけを着て、飛び出すようにしてそこから逃げた。
実は、理央は彼――如月 和真に恋をしていた。
和真は、理央のことをただのセックスフレンドのように思っているが、理央は違う。
理央は、普段、にこりとも笑わない和真が、彼女といる時にだけに見せる、優しい笑顔に心奪われていた。
彼女に別れを切り出され、ダメージを受けている隙をつけ込み、近づいた。
振られた和真に偶然の出会いを装い、和真と会う時だけ、淫らな自分を偽っていた。
あわよくば、彼女といた時のように、自分に笑顔を向けてくれないかと願って……。
しかし、所詮、自分はセックスフレンドにすぎない。
もともと自分がそいういうふうに接していたのが悪い。恋人同士になれる筈がない。
「……っひ、っふ……」
ホテルから少し離れた駐車場まで走ると、それ以上、動けず、桜の木の下で崩れ落ちた。
見上げれば、先ほどまで和真と体を重ねたホテルの一室が見えるだろう。
しかし、理央にはもう、見上げる勇気すらなかった。
想うのは、いつだって自分ばかりで、和真はそうではない。
ひょっとすると、自分を抱いていた時も、自分とは違う、想っている相手のことを考えていたのかもしれない。
思い知らされれば、胸が張り裂けそうに痛む。
頬を伝う涙は、止まりそうにない。
数分前まではあった和真の体温は、もうすでに消えている。
……寒い。
身も心も。
仮にもし、素直に、『好き』だと告げていれば、何かが変わっただろうか。
――否。彼はおそらく、相手にもしなかっただろう。
そうなれば、自分は和真の体温を知ることはなかったし、こんなに苦しい思いもしなかったかもしれない。
重ねたことのない体の痛みを耐え忍び、そしていつの間にか、男を覚えている。
なんて愚かなことをしでかしたのだろうか。
「馬鹿だな、俺。ほんと……ばかだ……」
「ねぇ、君ひとり? どう? 俺と愉しまない?」
目の前には、一人の青年が立っていた。
年齢は理央と同じくらいだろうか。身長もあまり変わらない。
「君、セフレでしょ? 毎日ここで男と出入りしてるじゃん? 一度、同性とやってみたかったんだよね」
にたにた笑いながら、そう言う男の雰囲気が生理的に受け付けない。
男は理央をセフレだと想っているようだが、理央は演じているだけで、そうではない。和真が初めてだ。他の男と肉体関係を持つなんて、後にも先にも考えられない。
「他、あたって」
言うだけ言って立ち上がれば、すぐに腕を掴まれた。
「離せよっ!」
「そう言うなって。きっと愉しめるからさ」
男を知らない奴が、なぜそうも言い切れるのだろう。
体を捩り男から逃れようとするものの、男の力は思いのほか強く、苦戦する。
「その子、俺のだから離してくれない?」
理央と男が争っていると、突然背後から見知った声が聞こえた。
振り向けば、すらりとしたモデル体型に、長い手足。自分よりも背の高い、整った双眸の彼――和真がいた。
研ぎ澄まされた鋭利な目が、男を射貫く。
男は和真に恐怖を感じたのか、すぐに去ってしまった。
残された理央は、ただただ突っ立っていた。
和真は先ほど、『俺の』とそう言った。けれど彼は、『好きな人がいる』とも言ったのだ。
理央はもう、いったい何がどうしたのか理解できない。
「……逃げるなよな」
髪を掻き上げ、ぼそりと呟く和真の額からは、一筋の汗が流れている。
そうまでして自分を追いかけてきた理由がわからない。
鋭い目が、理央を捕らえ、離さない。
「あのな、そもそも好きじゃなかったら、ここまで追いかけねぇし。……話は最後まで聞こうよ」
だって自分は振られた。聞ける筈がない。
逃げたいのに、彼の目から逃げることができない。
「お前、セフレだし。誰とも関係持っているし……。それで、お前は誰とでも体をひらくんだと思えば、焼きもち妬いちまうし! あ~っ、つまりだな。くったくのない、理央に惚れたんだ。俺と、最初からやり直してほしい。ちゃんと恋人同士として……ってのは、やっぱり、ダメ?」
ポリポリと頬を掻き、不安そうに言う彼の、意外な一面。
和真はいつだって冷静で沈着だった。こんな彼の表情は今までに見たことがない。
和真の一面に魅せられた理央の心臓は、大きく跳ねる。
「俺、セフレじゃない。和真が好きで……そういうふうにしてたんだ。出会ったのは偶然じゃなくて、傷心している和真につけ込んだんだ。初めから、和真だけが好きだったから……」
真実を告げる緊張と、和真と両想いなのかもしれないという高鳴る胸。
震える声で、ゆっくりと真実を告げていけば、和真が倒れ込んできた。
「うわわっ!」
和真の体重を支えきれず、理央の体が一緒に沈む。
「……なんだ、それならそうと、早く言ってくれればよかったのに……」
言えないからこうなったというのに、和真はなんて無茶なことを言う。
理央は苦笑を漏らし、声を出して笑う。
「その笑い声がさ、また好きなんだよな~」
力強い手が、理央を包む。
理央はあたたかな涙を流し、彼に身を委ねた。
薄闇の中で、桜の花びらが舞う。
理央の心もまた、宙を舞う薄花桜のように、軽やかだった。
**END**